OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

116.愛はデリケートなアート

<OSHOの講話より> 

質問:私の恋愛には、何かが取り逃がされているように感じます。何かが調和していません。それについて何が出来るのでしょう? 

全ての恋人は、何かが欠けていると感じている。というのも愛は過程であって、物ではないからだ。愛はちょうど常に流れている川のようだ。いったん止まれば川はよどんでしまう。それはもはや川ではない。 

だから何かが欠けていると考えないようにしなさい。それは愛の過程の一部だ。愛は決して完結されるものではない。しかし、それが素晴らしい。というのはその時、初めて愛はいつまでも生き生きとしているからだ。 

愛において何かが調和していない、とあなたはいつも感じる。2人が出会う時、2人の異なった世界が出会っている。完全な合致を期待することは、不可能を期待することに等しい。何かいつも調子が狂っているだろう。もし完全に合っていれば、その関係は停滞してしまうだろう。 

全てが融合しているのは、よくてもほんのひと時だ。そんな時でさえ、あなたには捉(とら)えられない。それはとても素早く、とても稀(まれ)だ。それは留まらず、すでに過ぎ去っている・・・ほんの一瞥に過ぎない。 

そしてその一瞥が、あなたをもっと欲求不満にさせるだろう。なぜなら事態が不調和なことが、よりいっそう分かってしまうからだ。 

だからこうすること。調和の為にあらゆる努力をしなさい。しかし、もし完全に起こらなくとも心配しなくていい。さもなければ、ますます上手く合わなくなっていくだろう。 

それは心配していない時だけやって来るからだ。あなたが緊張していない時、あなたが期待さえしていない時に初めて起こる・・・それは突然やって来る。それは存在の贈り物だ。 

他のことをすることで、愛は起こるだろう。あなたに出来るささやかなことがある・・・共に座ったり、月を眺めたり、音楽を聴いたり・・・愛と直接には何の関係もない。 

愛はとても微妙で、壊れやすい。直接に凝視すれば消えてしまうだろう。直接に矢のように向かうことは出来ない。愛は標的ではない。それはとても微妙な現象だ・・・それはとても恥ずかしがり屋だ。もし直接に何かをすれば、きっと取り逃がす。それは隠れてしまうだろう。 

世界は愛に関して、とても愚かになってしまった。人々はそれをすぐさま望んでいる。まるでインスタントコーヒーのように欲しがる・・・欲しい時はいつでも、注文すればそこにある。 

愛はデリケートなアートだ。それはあなたが、実際にどうこうするようなものではない。時々、こうした稀な至福の時が訪れる・・・その時、未知の何かが降りて来る。あなたはもはや地上にいない、あなたは楽園にいる。 

恋人と本を読んでいる時、2人はあまりにも深く夢中になっていたので、突然異なった実存が2人の周りに起こったことに気づく。2人は何かオーラのようなものに包まれ、あらゆるものが穏やかだ。 

強い風を受けながら、手をつないで長い間散歩していた・・・突然それがそこにある。それはいつも知らない内にあなたを捉える。だから何かを一緒にするようにしなさい。 

人はすっかり忘れてしまった・・・ものごとを一緒にしたり、ただ一緒に在ることの言語を。もし何もすることがなければ性行為をする。何も起こらないので、徐々に愛そのものに不満になる。そうすると生全体の意味が失われる。というのは、もし愛が意味を失えば、生は意味を失うからだ。 
男性と女性は正反対だ。しかし、それが素晴らしい・・・もし彼らが共に合致すればそれは奇跡だし、魔法の瞬間だ。さもなければ2人は争い、戦う。それは自然だ。 

なぜなら、互いに異なったマインドを持っているからだ。外見も極端に正反対だ。どんなことにも同意出来ない。というのも、お互いのやり方が異なり、論理も異なっているからだ。 

深い融合の中に落ちることは、ほとんど奇跡的だ。それはインドの最高のダイヤモンド、コイヌールのようなものだ。決してそれを決まり事の一部として毎日求めてはいけない。

ただ待つことだ。そうすると突然、それはそこにある。しかし、それはいつも理由もなく突然やって来る。 

愛の探求者になってはいけない。さもなければ、完全に取り逃がしてしまうだろう。 

OSHO:Above All Don’t Wobble より   (日本語版、OSHOタイムズ、vol.9)