OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

117.本当の思いやりとは?

<OSHOの講話より> 

他人を思いやる時、最も基本的で必要とされることは自分自身を思いやることだ。私は自己奉仕を教える。そうすればその結果として、全面的に違ったヴィジョンが姿を現わす。

自分に奉仕し、自分を楽しみ、自分を愛し、自分に敬意を払う人は、必ずや他人にも敬意を払う。なぜならそのような人はだんだんと、他人の中にも自分と同じ生命が宿っていることに気づくからだ。自分を愛すれば愛するほどに、あなたは他と分離してはいないことに気づく。 

融合が体感出来るのは、愛をおいて他にはない。自分自身を愛すれば愛するほどに、あなたはあらゆる定義が誤りであり、あらゆる境界が恣意的であることを知るようになる。自己の実存と交わり溶け合うほどに、自己の内面世界に酔いしれるほどに。自分が他と分離した存在ではなく、宇宙はひとつであることを知るようになる。 

だから私達はそれを宇宙(universe)と呼ぶ。uniとは、ひとつという意味だ。Multiuniverse(複数の宇宙)とは呼ばない。それはひとつだ。ひとつの全体性だ。私達は互いに部分を担っている。孤立した人間は1人としていない。目には見えないが無限のひとつの大陸に、私達は属している。無限性が私達の存在だ。 

しかしその体験が起こるのは、自己を実現し始めた者達だけだ。自分を愛するあまりただ1人、目を閉じるだけで至福の絶頂を感じることが出来る者達だけに。それが瞑想の何たるかだ。 

瞑想とは、独りであることに無上の幸福を感じることだ。だが独りであることに無上の幸福を感じると、人はやがてその恍惚感があまりに大きくて、独りでは支え切れなくなる。それはあなたから溢れ始める。そしてそれが溢れ始める時、愛に姿を変える。 

瞑想は、愛が起こることを可能にする。瞑想を知らない人々は決して愛を知ることはない。知っている振りをするかも知れないが、それは不可能だ。そういう人々は知っている振りをしているに過ぎない。なぜなら、彼らには何一つ与えるものがないからだ。溢れ出すものがないからだ。愛とは分かち合いだ。だが分かち合う前に、まずそれを手にしていなくてはならない! 

まず初めに、瞑想ありきだ。瞑想こそが中心であり、愛はその周辺だ。瞑想こそが炎であり、愛はその放射熱だ。瞑想こそが花であり、愛はその芳香だ。私は瞑想を教える。なぜなら、あなたの実存に愛が起こることを可能にするのは瞑想だけだからだ。溢れ出すものがある時、あたかも瞑想から起こる影のごとく、あなたは他者と関係を持ち始め、他者を思いやり始め、生の中に奉仕というものが湧き上がる。 

それは強要されるべきものではない。それは義務であってはならない。「義務」とは卑劣な言葉だ。何かを義務として行う時、それは強要され、作為的で、本物ではない。それは偽りだから、あなたを偽善者に仕立て上げる。 

自分ひとりでは支え切れずにあなたが溢れ出す時、全く異なった質があなたの実存から姿を現わす。あなたは愛さずにはいられず、分かち合わずにはいられない。そして分かち合いの素晴らしさは、与えれば与えるほどに自分も得るということだ。愛の中に自分を空っぽにするほど、人は満たされていると感じる。 

OSHO:Come,Come,Yet Again Come より 

他者への思いやりは、どこで干渉に変わってしまうのだろう?イデオロギーが入り込んだ瞬間に思いやりは干渉へと変わり、愛は苦く、憎悪と言えるほどまでに姿を変える。そして保護は牢獄へ姿を変える。イデオロギーが違いをもたらすのだ。 

たとえば、あなたが母親なら子供の世話をするだろう。子供にはあなたが必要だ。あなたがいなければ子供は生きていくことが出来ない。あなたは絶対に必要不可欠だ。子供には食べ物が必要であり、愛や世話が必要だ。だがあなたのイデオロギーは必要ない。あなたの理想は必要ない。あなたの聖典は必要ない。信仰も必要ない。子供がどうあるべきかなどというあなたの理想も必要ない。 

イデオロギーや理想、ゴールや目的さえ持ち込まなければ、思いやりは美しいし思いやりに罪はない。でなければ思いやりというのはずる賢いものだ。思いやりの中にイデオロギーを持ち込まなければ・・・子供に対してキリスト教徒になりなさいと望まず、これになりなさい、あれになりなさい・・・共産主義者、独裁主義者にしようとせず・・・。またビジネスマンになりなさいだとか、医者になりなさいだとか、エンジニアになりなさいだとか望まず・・・自分の子供にいかなる理想も抱かないことだ。 

子供に言いなさい。「お前のことを愛しているよ。だから大人になったら自分で選びなさい。何でもありのままの自分でいられるものになりなさい。祝福するよ。お前がどうあろうとも私はそれを祝福する。お前が何になろうとも、私はそれを受け入れ歓迎する。大統領になった時だけお前を愛し、ただの大工になったら忌み嫌い恥ずかしい思いをするなどということはない。大学で主席になった時だけ歓迎し、落第したらお前を恥だと思うこともない。お前がいい事や正しい事や、道徳にならったあれこれをした時だけ私の子供で、そうでない時は親でも子でもない、などということもない」 

いかなる意見であれあなたが持ち込んだ瞬間に、あなたは関係性を毒する。思いやりは美しい。だが思いやりが何かしら見解を持つ時、それはずる賢さとなり、ひとつの取り引きとなり、前提条件を持つようになる。実際、私達の愛は全てずる賢い。それゆえ世界はこんなにも不幸であり、まさに地獄という有様だ。 

思いやりがない、というのではない。思いやりはある。だがあまりにもずる賢さがつきまとっているのだ。母は思いやり、父も思いやり、夫も思いやり、妻も思いやり、兄弟も姉妹も、誰もが思いやっている。私は誰も思いやりがないとは言わない。人々は充分過ぎるほど思いやっている。だが、それでもこの世は地獄なのだ。 

一体、何がおかしいのだろう?思いやりには条件が付きものだ。「これをしなさい!あれになりなさい!」といった具合に。いかなる条件もなしに誰かを愛したことがあるだろうか?男であれ女であれ、その人をあるがままに愛したことがあるだろうか?どんな改善も望まず、変化も要求せず、全面的に、完全に受け入れてごらん。そうすれば、思いやりの意味が分かるだろう。 

あなたは思いやりを通して満たされるだろうし、相手はとても大きな助けを得るだろう。愛は無償の贈り物でなくてはならない。そこに値札が貼り付いた瞬間、それはもう愛ではない。 

OSHO:The Diamond Sutra より 

あなた方は、新しい価値観を学ばなくてはならない。新たな魂を吹き込むことによってしか、人類を苦しみから救うことは出来ない。あなた方は価値のない価値観を教えられて来た。あなた方は基本的には、有害な事ばかり教えられて来た。 

たとえば、あなたは自分を愛さないようにと教えられて来た。しかも数えきれないほど繰り返し聞かされて来た。それゆえに、それは一見単純な事実で真実のように思える。しかし自分自身を愛せない人は、他人を愛することなど出来はしない。自分を愛せない人は、愛すること自体が無理なのだ。 

あなた方は「利他的(altruistic)でありなさい、決して利己的になってはいけない」と言われ続けて来た。そして、それはとてもよいことのように思える。だが、それはただ思えるというだけに過ぎない。それはあなたの本質そのものを破壊してしまう。真に利己的な人だけが、利他的になることが出来る。 

なぜなら自己に根付いてもおらず、利己的でもない人が、他人の事を気にかけるはずなどないからだ。自分自身の面倒を見ることが出来ない者が、どうして他人の面倒を見ることなど出来よう。そういう人は自虐的であり、当然の結果として他虐的になる。 

あなた方は、新しい価値観を学ばなくてはならない。新たな魂を吹き込むことによってしか、人類を苦しみから救うことは出来ない。 

OSHO:The Book of Wisdom より

 

ある日、誰かが老子の弟子の1人に木の葉を何枚か取って来るように頼んだ。弟子が枝ごと切り取って持って行こうとすると、老子は弟子を引き止めて言った。 

「この愚か者めが。この木の一部を切り取れば、お前もまた同じ分だけ切り取られるのだということが分からぬか。この木が我々の前で完全に生い茂っていた時、我々もまたある意味完全に生い茂っていた。今日、その傷は我々の中にも傷跡を残した。我々は分離した存在ではない。我々はひとつなのだ」 

だが私達は、素知らぬ顔で多くの木を切り倒している!老子は1本の枝を折るなと言うが、私達はジャングルを丸ごと破壊しているのだ!私達はそれがとんでもない過ちであったことに気づきつつある。ジャングルを破壊して来たのは、自分達の敵だと思って来たからだ。人間はジャングルに潜む野生動物を恐れるがあまり、木々を破壊し居住区を建設して来た。ジャングルがなければ大地に降り注ぐ雨や、地表を駆け抜け地面を冷やしてくれる微風もあり得ない。それが分からなかった。ジャングルを破壊すれば、私達の町も消えてなくなってしまう。 

エコロジー・ムーブメント(環境運動)は、有機体の相互関係が環境に左右されると信じている。人は自分が破壊したもののせいで苦しむことになる。ジャングルに響き渡る鳥の鳴き声は、等しく私達の一部だ。ジャングルから鳥の声が消えたとしたら、大自然の音楽を妨げる何かを私達が生み出したということだ。だとすれば、私達は鳥達の鳴き声を通して起こる心の安らぎや喜びを、決して知ることはないだろう。 

私達はその事実を知らない。なぜなら人間とは、家の中のほんの片隅で一生を終える、ちっぽけな生き物のようなものだからだ。家の外にどこまでも広がる世界のことなど知りもしない。空を渡る雲も、木々に咲き誇る花も、泉に響く鳥の鳴き声さえも、人間の意識には全く届かない。 

かなり前にイギリスで『沈黙の春』という本が出版された。何の前触れもなしに劇的な変化が起こってしまった。何千という鳥が、突然木から落ちて死んだのだ。あたり一面の春の風景が、一変して物音ひとつしない静寂に包まれた。原子力エネルギー研究実験の手違いで、この惨事が引き起こされた。イギリスではたくさんの鳥の鳴き声が消えてしまった。そしてそれを取り戻すのは難しい。イギリスの春は、決して以前と同じではあり得ない。 

そして人はこう思う・・・春が以前と違ったからといって、それで私達の生活がどうなろうかと。鳥達が泣くのを止めたからといって、道路や繁華街が影響を受けることなどあろうかと。生が互いにかけ離れ、別々なものであればよかったろうに!だが実際はそうではない。生においては全てが繋がり、相互に連動している。もし1つの星が滅びたとしたら、たとえ何百万光年離れていようとも、それは地球に影響を与える。 

OSHO:The Way of Tao より 

ここに滞在していたあるキリスト教聖職者が言った。「何もかもが気に入っています。ダイナミック瞑想とクンダリーニ瞑想を4ヶ月半やり、緊張とストレスを落とすのに大変役立っています。ところが、急に何かが物足りないと感じるようになったのです・・・」 
一体何が物足りないというのだろう。 

それは奉仕だ。貧しい人達に対する奉仕だ。さて、これが彼の受けて来た教育であり、キリスト教の絶え間ない教えだ。それが障害になっているのだ。ここで瞑想して来たにもかかわらず、彼は私の言う事を聞いていなかったようだ。 

自分自身を見出さない限り、誰に対しても奉仕することなど出来ない。奉仕するあなたは何様だろう。その奉仕は危険なことになるだろう。あなたは完全な闇の中にいて、無意識なのだから。無意識から出る行動は、それがどんなものであろうと有害だ。 

この奉仕という言葉について、もう少し深く考えてみよう。あらゆる宗教が数千年にも渡って貧しい人々に奉仕し続けているにもかかわらず、貧困はその数を増やし続けている。これが本当の奉仕と言えるだろうか。もしそうなら、この数千年の間に貧困は撲滅されていたはずだ。だが実際には、あなた方は貧しさを助長しているのだ。 

本当の奉仕とは、貧しい人々にこう言ってやることだ。「あなた達は搾取されて来た。だから既得権益に対して反乱を起こすべきだ」と。貧しい人々は理解する必要がある・・・貧しさの原因は自分達を搾取し、血を吸い取ろうとする少数の人達にあることを。過去生が原因でもなければ、悪業のせいでもない。それは搾取に基盤を置く社会システムのせいなのだ。 

宗教がこの奉仕を何世紀にも渡ってやって来たことに、気づかなくてはならない。その結果はどうだろう。というのも、木というものは果実を見れば分かるからだ。もし果実が腐っていたなら、その木にさしたる価値はない。奉仕とは、搾取という社会システムを隠す為の美しい言葉であるように思われる。それはとても良いことのように見える。貧しい人々に奉仕する・・・それは大変な美徳に思える。 

本当に貧しさを撲滅することに興味があるならば、問題の根本を見てごらん。あなた方は症状に対して処置しているに過ぎない。貧しい人々に食事を与え、衣服を与える・・・それらがどんな助けになるだろう。それはただ、彼らをどうにか生きていくだけのレベルに留めておくに過ぎない。そして既得権益が、貧しい人々を搾取し続けることに目をつぶっていることになる。この悪循環が分かるだろうか。 

だから、それは非常に狡猾なゲームだ。私はこんな卑劣なゲームに参加するつもりはない。私が望むのは、貧しさをこの世からすっかり消し去ることだ。奉仕が必要な人自体をなくしたい。奉仕が必要な社会は病んでいる。だがその奉仕に対する偏見から、人々は私の言うことに耳を傾けようとしない。 

私も奉仕はしている。だが、その奉仕はとても微妙なものだ。私の奉仕というのは、人々を内奥の存在に目覚めさせることだ。それこそ私が価値を認める唯一の奇跡だ。それに私は「神の王国を受け継ぐのはあなた方だ」と嘘を言って、貧しい人々に奉仕している訳ではない。 

私が世界に向かって絶えず言い続けているのは、貧しさは私達が作り出したものだということだ。教会に施しをしている人達は、搾取を止めるべきだ。施しは役に立たない。一体何を施しているというのか?人々を搾取することによって、彼らは天国の預金通帳を膨(ふく)らませているのだ。それは彼らの金ではない。誰一人自分の金を差し出す者はいない。実のところ、世界中の大金持ちは、独自の慈善基金を持っているのだ。 

OSHO:Christianity :The Deadliest Poison より 

あなた方には、真の自己へと導いてくれる一定の過程が必要だ。そうすれば二元性を落とし、初めて自分が誰であるのかを知ることが出来るだろう。あなた方の一般道徳や、いわゆる既存の宗教は、どれもみなある種の二元性について教え、あなた方を偽へと導く。 

それらは真実について語るが、ただ口先だけに過ぎない。彼らはあなた方を真実には導かない。ただ洗練されて、礼儀正しく、教養ある人に仕立て上げるだけだ。彼らはどうしたら外見上良いのかを教える。彼らは上辺だけの美しさは与えてくれるだろう。だが真の自己であるあなたの内なる実存には、全く何の注意も払わない。そして人は、真の自己を忘れてしまう傾向にある。 

エンライトメント(光明)とは、真の実存を見ることだ。そしてあなた方はあまりに偽物に慣れ親しみ、偽物にしがみつき過ぎている。あなたを現実に引きずり戻さなくてはならない。 

ダイナミック瞑想で混沌とした方法を私が編み出したのも、社会によって汚されず、毒されず、条件付けされていない純粋な幼年期を、再びあなた方に垣間見せんが為だ・・・生まれたままのあなた、自然なあなたを。社会は人々をある特定の型にはめ、あなたの自由を奪う。社会は他のあらゆる選択肢を奪い、ある特定の選択肢を強要するだけだ。多くの微妙なやり方で選択を強要し、圧力をかける。もちろんそれは、あなたが選択しているという印象を与える。 
あなた方を現実に引き戻さなくてはならない。そして、時には残酷な方法論さえもが必要とされる。弟子を打つ禅師・・・。それを慈愛に満ちた方法と呼ぶことは出来ない。それは残酷な方法だ。しかし、それは偉大な慈愛から生まれる。そして時には弟子の頬を叩く事で、教えることの出来ない何かが喚起されるのだ。 

OSHO:The Dhammapada :The Way of the Buddha より 
(日本語版OSHOタイムズ、vol.16)