OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

118.薬と瞑想

<OSHOの講話より> 

薬と瞑想は同じ語源から来ている。癒すという意味だ。薬は体を癒し、瞑想は魂を癒す。薬は外向きで、瞑想は内向きだ。薬と瞑想が深い調和のもとに一緒になる時に、初めて人は全一(トータル)になる。深い統合が求められる。真のヒーラー(癒し手)は、いつも組織的な統合を考えるだろう。身体と魂の、物質と精神の、見えるものと見えざるものとの。 

薬は瞑想がなければ、不完全なままだろう。薬が不完全だというのは、あまりにも明らかだ。あなたは誰かを治療出来る。しかし、もしその人が生きようとしなかったら、治療は役に立たないだろう。薬は癒せない。ただ助けることが出来るだけだ。もし奥深いところで人が生きたがっていたら、薬は計り知れない助けとなるだろう。薬それ自体は無能だ。

瞑想は生きる意志を解き放つだけでなく、あなたの永遠の生の経験をも解き放つだろう。瞑想は死を存在しないものとする。もし薬が瞑想により支えられるのなら、もし全ての病院や診療所、精神医学や精神分析の病院、診療所が瞑想の助けを受けたら、とても多くのことが実に容易に実現するだろう。 

マインドが病んでいても、あなたの意識は決して病まない。あなたのマインドが発狂したとしても、あなたはただそれを観察しているだけだ。瞑想とはその体験だ。「私は体ではなく、マインドではない。私はそれら全ての観照者だ」この形而上の体験は全体の状況を計り知れないほどに変える。 

あなたを狂わせる多くのものが、ただ落ちていく。あなたはもう同一化しない。あなたは丘陵の上の観照者だ。あなたは脇へ座って全てを眺める観客であり、目撃者となる。スクリーンに映ったフィルムを観るように、判断する必要もない。なぜなら判断した瞬間、あなたは同化してしまう。その途端にあなたは良いものを持ち、悪いものを捨てようとする。あなたが完璧な目撃者なら判断しない。何が起こるにせよ、あなたは反射する単なる鏡だ。 

瞑想を少しでも学んだら、誰でもあらゆるマインドの病気から脱け出すことが出来る。何年間も精神分析をする必要はない。それは全く馬鹿げている。精神分析を15年間も精神分析医を変えながら受けて来た人がいる。しかし問題は同じまま残っている。誰の夢も分析する必要はない。必要なことは、夢を止める為に目を覚まさせることだ。しかし、それは全ての商売に反することになる。 

瞑想が普及すると、精神分析医や他の亜流は・・・部分的には違っていても、基本は変わらない・・・消滅することになる。マインドの健康は、マインドそのものの中には探し出せない。マインドそのものが病気だ。 

病気の程度はある。誰かが中程度の病気なら、精神の問題があるとは考えない。誰かがもうちょっと重い病気だったら、あなたは彼がちょっと風変わりだと考える。誰かがもうちょっと重病だったら、あなたは恐れ始める。彼は危険で予測出来ない。その人も自分自身を恐れ始める。唯一の道は精神分析や分析的心理学、心理統合だ。そうした全てに出来ることと言えば、最善でも中程度の病気に戻すことくらいだ。もしそれらの療法が上手くいくとしても、彼を他の人と同じところまで戻せるだけだ。 

しかし、もしあなたが精神的疾患ではない人達を観察したら、彼らもまた同じ症状だと知って驚くだろう。例えば、喫煙が精神的疾患の一部だと思う人はいない。喫煙は、単純にその人が母親のおっぱいに満足しないままでいることを示している。それは体に害がある。彼は知っている。多分喫煙はガンを引き起こすだろう・・・しかし、おかしなことだ。 

喫煙は彼をリラックスさせる。それが分かっているので神経質になったり、緊張したり、負担を感じたりしたら、彼はすぐにタバコを探し始める。タバコを口にした途端、彼は穏やかになり、気持ちが静まり、冷静で、神経質ではなくなる。何が起こったのだろう?それは経験の繰り返しだ。 

子供が飢えて緊張したり、死を恐れたりしたら・・・「お母さんはどこにいるの?」母親が戻って来なかったらどうするだろう?母親が帰って来ておっぱいと温かいお乳があれば、子供は母親の胸の中でリラックスする。悩みもなく緊張も問題もなく、熟睡するだろう。このような状況を、タバコは繰り返し繰り返し作り出している。 

あなたがタバコを吸っていても、誰も気が違ったとは思わない。しかし、その心理を見ると処置が必要だ。平均的な人が病んでいることを示す多くの事実がある。しかしそれはありふれている為、誰も記録を取らない。 

過去の絵画を見てごらん。なぜ画家達は女性の乳房に取り憑かれているのだろう。偉大な彫刻全てが、現実には存在しない美しい乳房を描くのがお決まりだ。しかし、人は空想する・・・乳房は分泌腺組織に過ぎない・・・そこに何があるのだろう?あなたは牛の乳房には取り憑かれない。全ての文学、詩、絵画が、平均的な病気のマインドから生まれている。誰もその記録を取らない。 

世界中の何百万もの人々が神を崇拝している。これは病気であり、単に無力な子供が父の姿を投影したものだということを、誰かが記録して来なかったのだろうか?神はいない。決していたことはなかった。神は人間が自分のイメージに基づいて作り出したものだ。神とは病気のマインドに必要とされるからだ。 

いつの日か人類がもっと成熟したら、人は何と愚かだったことかと、あらゆる物語を笑いとばすだろう。例え何か、絶対に気が変だと見えることでも、もしある集団の宗教的修行として受け入れられていれば、誰も反対しない。 

全ての宗教が断食を説く。それは自然に反している。あなたは飢えて自分を虐待している。だが断食ゆえに尊敬され、あなたのエゴは満たされる。これは健康とは呼べない。喉が渇くと水が必要になり、空腹になると食べ物が必要になる。体の要求を妨げることは、自分の中に精神分裂を作り出す。あなたは人格を2つに分けてしまっている。体は敵であり、打ち砕き、破壊され、責め苦を与えることになる。 

周囲を見渡すと、あなたはどこにでも同じ類(たぐい)のものを見つける・・・違った現れ方だが、ある程度の精神疾患だ。だから私は「いわゆる健康な大衆」と「精神病院の狂った人々」との間に区別を見つけられない。違いは度合いだけだ。 

精神分析家の果たしている機能と言えば、その違いをどんどん小さくしていき、狂人を平均的な気狂いにすることだ。その人があまりにも遠くに行ってしまって、独創的になってしまう。それは許されない。あなたの狂気は平凡であるべきだ。それならOKだ。それ以上のことを精神分析家は出来ない。瞑想なしには遂げられない。 

無傷なまま正気を保つのが不可能な社会の中で、全ての人が育てられる。それゆえ心理学や他の治療法が各個人に出来ることがある。それは患者を扱うというだけの問題ではない。社会全体が患者だ。 

私のアイデアはこうだ。患者を治療しなさい。しかし全ての大学、専門大学、全ての学校が、誰もが参加可能な、より健康で全一になれるような課程を設置すべきだ。そして瞑想を基礎とする。そうすれば、基本的に健康な社会を創り出すことが出来る。 

OSHO:The Last Testament より 

人は、肉体とマインドが一緒になったものだ。肉体はマインドが外に表現されたもの以外の何ものでもない。そしてあなたの存在の深い源においては、マインドは表現されていない肉体そのものだ。2つは1つのエネルギーの両極だ。 

1つのエネルギーが振動し、脈動するなら、両方に影響がある。だから心理学はパブロフ派にもスキナー派にも、行動心理学にも、フロイト派やユング派にもなれない。それらは半々だ。西洋の心理療法の半分は体にとらえられており、半分はマインドに関わっている。 

人間のあらゆる二分法、あらゆる区別、あらゆる分断は危険だ。なぜなら人は、一体となった組織的な構成物として存在するからだ。全てが相互に結びついている。何ものも分裂していない。だから全てのシステムが治療される必要がある。そして全ての患者が看護されるべきだ。部分的な治療、部分的な瞑想、部分的な心理療法は何の手助けにもならない。そのアイデアそのものが危険だ。しかしそれこそ、西洋の科学的マインドが300年もの間、機能し続けているやり方だ。 

人を部分として扱わないことだ。それはとても失礼なやり方だ。人を全体として扱い、全体として敬いなさい。医学に関する限り、それに心理療法に関する限り、これは真実だ。

最も基本的なことで欠けているのは、瞑想だ。内奥の源泉、人の内面の空(くう)は、いまだに貫かれていない。それは科学的な方法によっては貫けない。それは問題だ。もしあらかじめ科学的な方法が唯一真実だと決めつけるなら、内なる空に入る可能性はない。あなたの方法論そのものがそれを拒んでしまう。 

科学的方法論は、物体が関わる場合に意味がある。その性質そのものからして、あなたの内奥の核は貫くことが出来ない。それは表面に触れているだけだ。だから、もし方法論が変えられないと考えるなら・・・これだけが唯一の科学的方法論であるとするなら・・・西洋の心理療法の未来は決まったようなものだ。 

覚えておきなさい。私は目的論的なアプローチが間違っているとは言っていない。それが使える限り、全くよいことだ。しかし、それは充分遠くまでは使えない。そして内奥の核には至れない。瞑想が起こらない限り魂は見つけられず、西洋の心理療法はただ死体のまま、骸(むくろ)に留まるだろう。それは呼吸をしない。 

OSHO:Zen:The Path of Paradox より      (日本語版OSHOタイムズ、vol.18)