OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

119.混乱は病、瞑想は薬

<OSHOの講話より> 

混乱は病で、瞑想は薬だ。混乱なく見られるなら、その時は必要がない。だが瞑想は下準備をする。何もする必要がないことを、あなたが理解するよう仕向けてくれる。それが出来るものは、唯一瞑想しかない。 

混乱していると思ったら、瞑想を続けなさい。瞑想は光明を得る為のものではない。瞑想は混乱している人達の為にある。瞑想は光明には導かない。混乱していることにうんざりさせるに過ぎない。瞑想は否定的に働く。あなたから事柄を奪い去る。何も与えず、ただ奪い続ける。 

怒りが消え去る、貪欲が消え去る、欲望が消え去る。あなたは持っているもの全てを失っていく。ゆっくりとあなたの実存が切り開かれていき、ある日突然「無」しかなくなる。まさにその時、光が貫く。貪欲、怒り、情念、渇望、憎しみ、野心、自我・・・そうした全てのものが道を塞(ふさ)いでいた。光があなたを貫かないようにしていた。 

あなたは静かに坐ることが出来ない。何か考えるもの、何かするものが必要だ。あなたは目標を欲しがる。私がそれを取り去れば、あなたは「目標が必要ないというのなら、どうして瞑想しなければならないのですか」と尋ねる。それでも瞑想は必要だ。光明を得る為ではなく、マインドのこの絶えざるせわしなさを破壊する為に。 

たった今あなたが坐れば、混乱しながら坐ることになる。その混乱はだんだん大きくなる。あなたはそれをかき集めるが、ほとんど耐え難いものになるだろう。そうなったら映画を見に出かけたり、テレビを見たり、クラブやどこかに出かけざるを得ない。 

瞑想には浄化作用がある。瞑想は、あなたが内に抱え込んでいる全てのガラクタを投げ捨てる。あなたをすっかり綺麗にする。扉を開け、目を開かせる。太陽はそこにある。あなたに準備が出来れば、それはあなたを貫き始める。 

OSHO:Take it Easy より 

瞑想はマインドの状態ではなく、明晰という状態だ。マインドは混乱だ。マインドは決して明晰にはならない。なり得ない。思考はあなたの周りに雲を作り出す。それらは微妙な雲だ。靄(もや)は思考によって作られ、明晰さは失われる。 

思考が消える時、あなたを取り囲む雲がなくなる時、ただ実存の中にある時、明晰さが起こる。その時、あなたは遠くを見渡せる。存在のまさに終点を見ることが出来る。その時、見つめるあなたの目は実存の中核そのものを貫くことが出来る。 

瞑想とは、完璧なまでに明晰に見ることだ。それを考えることは出来ない。考えることを落とさなくてはならない。考えることを落とせというのは、ただ単に何もせず坐りなさいということだ。思考がひとりで落ち着くように、マインドがひとりでに落ちるようにするということだ。 

あなたは何もせず、静かな一角で壁を見つめながらただ坐る・・・くつろいで解き放たれて何の努力もせず、どこへも行かず。あたかも眠りながら覚めているように・・・覚めているがくつろいでおり、体全体は眠りに落ちている。内部では油断なく覚めているが、体全体が深いくつろぎの中にある。 

思考を制しようとして思考の中に飛び込む必要はない。それは川の流れが濁ってしまうようなものだ。あなたはどうする?流れに飛び込み、綺麗になるよう手を加えるだろうか。もっと濁らせてしまうだろう。ただ土手に坐る、あなたは待つ。なすべきことは何もない。何をしても、流れを一層濁らせてしまうからだ。 

誰かが流れを渡ったせいで、腐った葉が表面に浮いたり泥で濁ったりしたら、必要なのはまさに忍耐だ。あなたはただ土手に坐って無関心に見つめる。川が流れ続けるに従って、腐った葉は流され泥は沈み始める。永遠に留まることは出来ないからだ。しばらくすると突然、流れが水晶のように再び綺麗になっていることに気がつくだろう。 

欲望がマインドを通り過ぎるたびに、流れは濁る。だからただ坐りなさい。何もしようとしてはいけない。何もせずただ坐っていること、日本ではこれを「坐禅」という。ある日、瞑想が起こる。あなたが瞑想を引き入れるのではなく、瞑想の方があなたのところへやって来る。瞑想がやって来た時、あなたはすぐにそれだと分かる。 

瞑想はいつもそこにあった。だが、あなたは正しい方向を見ていなかった。宝物はずっとあなたと共にあった。だが、あなたは何か他のことに心を奪われていた・・・思考、欲望、ありとあらゆることに。あなたには、たったひとつだけ関心のないことがあった。あなた自身の実存だ。 

エネルギーが入って来る時、つまりエネルギーが源泉へ戻る時、突然あなたは明晰になる。その時、雲は何千マイルも先に見える。松の木から古代の音楽が聞こえる。その時、全てが手に入る。 

OSHO:Ancient Music in the Pines より 

混乱・・・大いなる機会 

自分を明晰だと信じている人達は、実は大きな問題を抱えている。その明晰さはとても表面的だ。実のところ明晰さについては何も知らない。彼らの言う明晰さは愚かさに過ぎない。混乱は知性のある人しか覚えないものだ。 

凡人は微笑みながら、笑いながらお金を貯め、さらなる力と名声を求めて、闘いながら生を送り続ける。彼らを見れば、あなたは少しばかり嫉妬するだろう。とても自信に満ちているし、幸せそうに見えるからだ。あなたはとても混乱しているのに、彼らは自分達の生に確信を持っている。進むべき方向、ゴールを持ち合わせている。そこに達する方法を知っているし、梯子を登りすでに到達しつつある。 

だがあなたは、何をすべきかすべきでないかも分からず、何が正しく何が間違っているのかも分からず、ただそこに立っているばかりだ。だが、これはいつものこと。凡人は常に確信している。より知性のある人しか、混乱や混沌を覚えないものだ。 

混乱は大いなる機会だ。混乱とはすなわち、マインドではどうにもならないということだ。あなたが本当に混乱しているなら、途方もなく価値あることが可能となる。全くもって混乱しているなら、だんだんあなたはマインドの死に近づいていく。そして、それは生において起こり得る、最も偉大なことだ。 

マインドが混乱の中にあり、マインドではどうにもならないということを一度理解すれば、どれくらいマインドにしがみついていられることだろう。たとえ落とさなくとも、遅かれ早かれマインドはひとりでに落ちるだろう。混乱は大変大きく重いものになり、その大変な重さゆえにマインドは落ちる。そしてマインドが落ちた時、混乱は消える。 

混乱がある時には、そこに確かさがある。混乱が消えると確かさも消える。あなたはただ単に明快になる。明晰なるもの、透明なるものとなる。その透明性には美しさ、優雅さがある。それはこの上なく素晴らしい。それは人間の生の中で、最も素晴らしい瞬間だ。人はその有様を映す、まさに鏡だ。それは映し出す・・・方向も、何かをしようという考えも未来もなく、十全に途方もなく瞬間の中にあるその姿を。 

無心(ノーマインド)である時、全存在はこの瞬間という一点に集中し始める。その瞬間は途方もなく意義深いものとなる。それには深さが、高みがある。神秘が、強烈さがある。火が、即時性がある。それはあなたを掴(つか)み、所有し、変容させる。もしマインドを落とせば、物事をありのままに見られるようになる。あなたは混乱してもいなければ、確かでもない。 

世界は素晴らしい瞬間の中にある。自分が誰であるかを知らなければ、常に過去はしがみつく手を失い、人は伝統から引き離される・・・大きなアイデンティティ(自己同一性)の危機が生じる。私達は誰なのだろう?私達はどうなってしまうのだろう? 

いまだ伝統に根付いている人達は、お決まりの活気のない死んだ生を送り続ける。踏み固められた道を歩く時には、確かさを覚える。とても多くの人がその道を歩いているからだ。見知らぬものの中へ動いて行く時には、ハイウェーも踏み固められた道もない。あなたは歩いて、自分で道を作らなければならない。出来合いの道は見つからない。 

OSHO:The Book of Wisdom より   (日本語版OSHOタイムズ、vol.10)