OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

120.精神的な健康

<OSHOの講話より> 

ある意味では、精神的に健康な人はいない。誰もが病気だ・・・違いは常に程度の問題だ。私達は正常に病んでおり、他の誰かは異常に病んでいる・・・それが唯一の違いだ。

精神的な病の根本的な原因は、気づきがないことだ。というのも気づきのなさは、マインドに矛盾した方向を生み出すからだ。マインドが矛盾すればするほど、マインドはさらに緊張する。精神的に健康であるとは、精神的に調和していることを意味する。 

健康とはハーモニー(調和)のことだ。その時マインドは、自分自身や自分の一部に対して分裂していない。マインドは断片化していない。マインドは分裂した家でなく、ひとつのまとまりだ。その全体性が健康だ。 

精神的に病んでいる人は、精神的に分裂していて、互いに矛盾した断片が束(たば)ねられた人だ。もっと正確に言うなら、彼はひとつのマインドではなく複数のマインドだ。 

ひとつの自己ではなく、多くの自己が存在している。それぞれの自己が、他の自己の意に反するところへと駆り立てている。この葛藤が病気になる。これが健康を欠いた状態だ。

3つのことをすることだ。まず自分の断片化、矛盾した自己に気づく。断片に分裂していることに気づくようになれば、このまさに気づきが新しい自己、新しい核心、新しい原子の統合を創り出す。 

しかし、どうやって病人に気づかせたらいいだろう?気づきが不可能になっているほど、病気は重いかもしれない。 

精神的に病んでいる人は、その病気を誇張するといい。そうして初めて気づくことが出来る。彼は何かを抑圧して来た・・・抑圧が存在するのは明らかだ。さもなければ病気はあり得ないだろう。 

その抑圧を解き放つことだ。もし怒りを抑圧して来たら、トータルに怒りを表しなさい。全面的に表現されたら、それに気づくことが出来る。 

抑圧されているものを、気づきの対象には出来ない。私達の社会全体が抑圧的だ。だから社会全体が病気になってしまった。社会全体、文化全体は異常だ。私達は、全ての人を狂気に追いやっている。 

全てを許すグループが必要だ・・・何らかの治療上のグループ、許しのグループ、どんな抑圧も強制しないグループが。もしあなたが泣きたければ、それを許す・・・唯一の条件は、トータル(全面的)に泣くことだ。 

その中にいなさい。そしてそれを表現しなさい。抑圧されていることが何であれ、もしそれが解放されたら、とても大きな活力と生命力が伴う。だから誰もがそれに気づくことが出来る。 

何の非難も、何の抑圧もあってはならない。要はその人が感じることだ・・・グループ全体がありのままの自分を許してくれている、どんな自分でも表現出来ると。ただ許されるだけでなく、それを表現したという理由で、彼は愛され感謝される。 

精神的な病気は、基本的には社会によって生み出されたものだ。病気になったのは人間ではない。社会が人間を病気に追いやったのだ。だから精神病は、共同体やグループを通して初めて克服出来る。 

個人的な治療はどれも不可能だ。個人的に出来ることは、以前のようにもう一度自分を正常にさせ、もう一度同じ社会に自分を送り返すだけだ。それは必然的に、同じ結果を繰り返すだろう。 

グループ・セラピーが必要だ。それはとても簡単に出来る。グループ内では、とても短期間で健康になる。もしそのグループが全面的に許せば、2,3週間で充分だ。何でも好きなことが出来て、そのことで非難されることはないと気楽に思うなら、抑圧されていたものが全て表現されるだろう。 

そして患者は、カタルシス(浄化作用)を体験する。カタルシスは必要だ。なぜならカタルシスを通して初めて、自分の抑圧、自分の無意識、自分の分裂に気づかされるのだから。 

第2に、患者が自分の分裂や、自分の断片化したマインドに気づくようになり、その断片を表現し、その表現によって解放されたとしても、まだ充分ではない・・・これは否定的なものに過ぎない。 

誰もが特別な次元に成長する潜在能力を持っている。それが起こらず、人があるべきものにならないなら病気が生じる。彼は、自分でも気づいていないものを渇望している。 

また彼の潜在性に至る可能性は、全くないように思われる。明らかにすべき2点目は、肯定的で創造的な成長の次元だ。 

精神病の者はみな、創造性に向かう道を失っている。彼は生まれていない人間だ。どこかで潜在的な道を取り逃がした・・・彼の開花は阻害されている。自分の中にある種子に到達し成長しなければ、人は決して安心出来ない。 

緊張を解放するだけでは不充分だ。というのも、これが永遠の健康ではあり得ないからだ。創造的な次元を発見することだ。そして成長出来る地点まで辿り着くことだ。 

私達は創造的である瞬間にこそ、生きている。創造されるものは重要ではない。何かを創造したという感覚がもっとも大切だ。 

創造者になったと感じる瞬間・・・おそらくちょっとした玩具や絵画、ささやかな一遍の詩、あるいは他の何かに過ぎないかもしれないが・・・あなたの中の何かが満たされ、何かが開花し始める。 

病気が生まれるのは、創造性を失ったからだ・・・誰も何ひとつ創造しない。昔はみなよく踊ったものだ。今では誰かが踊るのを眺めている。ただの傍観者であるなら、生に満足出来るはずがない・・・参加することだ。 

全世界が傍観者の世界になっている。参加せず受動的だ。受け身は精神を殺す。創造者でないなら、人は決して自分にいかなる価値も感じられない。 

そして3番目に、私達はリラックスの仕方をすっかり忘れてしまった。緊張させる状況など全くないのに、それでもあなたは緊張している。 

私達は、リラックスやレット・ゴー(解き放つ術)を忘れてしまった。リラックスは教えられる・・・それはアート(技術)であり、それほど難しいことではない。 

遊びはリラックスだ、仕事ではない。そこから達成すべきものは何もない。それ自体が目的だ。でも遊ぶのは子供だけだ。私達は決して遊ばない。たとえ遊んでも、それはゲームになってしまう。 

ゲームは仕事だ・・・行う必要があり、勝つ必要がある。すると再び緊張が生まれる。誰かが負けなければならない。だから事は深刻になる。遊びとは、負ける者は誰もいないということだ。深刻なものではない。 

深刻でない雰囲気を創りなさい・・・それは可能だ。ちょうど子供のように、何の目的も考えず・・・全く深刻でないグループ。 

あなたは直接リラックスに取り組むことは出来ない。積極的に求めることは出来ない。それは副産物だ。それは間接的に結果として、影のようにやって来る。それは他の何かの後に続く。 

リラックスは、指図をしないマインドに付随して訪れる。私達は新しい遊びを発明出来る・・・何のルールも規則もない。ルールや規則は、再び深刻さの病の中へ引き込むだろう。 

あるいは全員で、何か馬鹿げた演技をする芝居を演じ始める。誰かが踊り始める。誰かが泣き始める。すると深刻さはなくなる。あるいはグループで集まり、ただ他人の目をのぞき始める。すると笑いが生まれるだろう。 

そしてもっと多くのことが起こり、誰もがリラックスする。深刻でないことは、指図もなく規則もないグループの雰囲気の中で起こるだろう。 

誰もセラピストではない。グループが癒しの集まりだ。誰も病気ではないし、誰も他人を助けようとしてはいないが、グループ全体がある状況を創り出している。 

OSHO:Early Talks より 

生への私のアプローチというのは、笑いのアプローチだ。笑いは愛を含んでいるし、笑いは喜びも含んでいるし、笑いは感謝も含んでいる。笑いは存在への多大な感謝を含んでいる。 

真に腹の底から深く笑っている時、エゴは消える。それ以外のことをしていて、エゴが消えるのは極めて稀(まれ)だが、笑っているとそれは必然的に起こる。 

笑いが完全だと、エゴは存在出来ない。笑いのようにエゴを止められるものはない。 

OSHO:(日本語版OSHOタイムズ、vol.10)より