OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

121.身体の英知

<OSHOの講話より> 

西洋医学の考えによると、人間は独立したユニット(単位)・・・自然とは別個のものだ。これほど重大な過ちも他にないだろう。人間は自然の一部だ。人間の健康とは、他でもなく自然と共にくつろいでいることだ。 

西洋の医療は、人間を機械的に捉(とら)えている・・・構造に支障がないところは問題ないというように。だが人間は機械ではない。人間は有機的なユニットであり、病んだ部分だけを治療すればいいというようなものではない。病んだ部分とは、他でもなく有機体全体が困難に陥っているということだ。病んだ部分は、そこが一番弱いから目につくだけのことだ。 

病んだ部分を治療すると、効き目があったように見える。だが今度は別の場所から病気が現れる。あなたは病んだ部分から病気が現れるのを防いだに過ぎない・・・あなたはそこを強化した。でもあなたは、人間がひとつのまとまりであることを理解していない・・・人間は病気か健康かのどちらかであり、その中間はない。人間は、ひとまとまりの有機体として捉えるべきだ。 

理解すべき重要な点は、身体は常にあなたに耳を傾ける用意があるということだ・・・でも、あなたは身体と語り合ったことも、コミュニケーションを取ったことも全くない。あなたは身体の中にいて身体を用いて来たが、全く身体に感謝したことがない。身体は可能な限り聡明に、あなたに仕え続けている。 

自然はよく承知している・・・身体があなたよりも聡明であることを。なぜなら、身体の重要な事柄は何ひとつあなたに任されておらず、身体にゆだねられているからだ。例えば呼吸、心臓の鼓動、血液の流れ、食べ物の消化・・・それらは、あなたにゆだねられていない。さもなければ、あなたはとっくの昔に混乱していただろう。 

もしあなたに呼吸がゆだねられたら、あなたは死ぬだろう。生き続ける見込みはない。というのも、しょっちゅう呼吸を忘れてしまうからだ。喧嘩をすれば呼吸を忘れてしまう。夜、眠る時は、心臓を鼓動させるのを忘れてしまう。一体どうやって覚えておくつもりかね?また消化システムがどれほどの働きをしているか、あなたは知っているだろうか?あなたは物を飲み込み続け、自分は大層働いていると思っているが、飲み込むことなら誰でも出来る。 

第二次世界大戦中、ある男が喉を貫通する銃弾を受けたことがあった。彼は死ななかったが、喉を通して飲み食い出来なくなってしまった。管全体を閉じなければならなかったのだ。そこで医師達は、彼の胃の脇にパイプ付きの小さな管を作った。彼はパイプに食べ物を入れることになった。しかし、そこには何の喜びもなかった。アイスクリームを入れている時でさえ・・・彼はとても憤慨していた。彼は言った。「これでは・・・味が分からないじゃありませんか」 

そこである医師が提案した。「こんな風にやってみなさい。まず食べ物を味わい、それからパイプに入れるのだ」そして彼は40年間そのようにした。彼はまず噛んで楽しんでから、食べ物をパイプに入れた。パイプは実にお誂(あつら)え向きだった。なぜなら、あなたの体内にもまさにパイプがあるからだ。それは皮膚の下に隠れているに過ぎない。この不運な男のパイプは外に出ていた。掃除でも何でも出来たから、それはあなたのパイプよりも優れていたと言える。 

消化の全システムは奇跡を行っている。小さな消化のシステムが行っていることを、全て私達が行うことになったら・・・食物を血液に変え、あらゆる成分を分別し、その成分を必要とされる場所へ送るには、大きな工場が必要になるだろうと科学者は言う。ある成分は脳に必要で、血液で脳に運ばなければならない。他のものは別の場所・・・眼、耳、骨、皮膚で必要とされる。身体はその全てを完璧に70,80,90年にもわたって行う。でも、あなたはその英知を理解していない。 

聞いたことがあるかもしれないが、卑金属を黄金に変容させようと試みた錬金術師達がいた。あなたの身体はもっと優れたことをしている・・・あなたが絶えず体内に放り込んでいるあらゆる種類のがらくたを、身体は血液に変容させ、骨に変容させているのだ。しかも血や骨だけでなく、そのがらくたを脳の栄養にも変えている。身体はアイスクリームやコカコーラから脳を創り、その脳はラザフォードやアルバート・アインシュタイン仏陀ツァラトゥストラ老子のような人を生み出す。 

ちょっとその奇跡を見てごらん!脳は、小さな頭蓋骨に収まっている非常に小さなものだ・・・脳は、たったひとつでも世界のあらゆる図書館を収容出来る。その容量はほとんど無限だ。脳はもっとも優れた記憶装置だ。同じ容量のコンピューターを作りたかったら、そのコンピューターを機能させる為に何マイルものスペースが必要だろう。 

そして科学はこれまで発展して来たが、アイスクリームを血液に変容させることは出来ていない。科学者達は試みて来たが、アイスクリームを血液に変容させるのに必要な手掛かりを見つけられずにいる・・・アイスクリームから脳を創る!多分、そんなことは起こらないだろう。もしくは例え起こったとしても、それは脳を通じて起こるだろう。それもまた脳の奇跡だ。 

ひとたび自分の身体とコミュニケーションを取り始めたら、事はとても容易になる。身体に無理強いする必要はない。身体を説得するといい。身体と闘う必要はない・・・それは醜く、暴力的で、攻撃的だ。そしてあらゆる種類の葛藤は、ますます緊張を生み出す。だからどんな葛藤の中にも留まらないこと・・・安らぎを心がけなさい。 

また身体は神からのとても素晴らしい贈り物だから、それと闘うことは神を否定することになる。身体は神殿だ・・・私達はその中に収まっている。身体は寺院だ。私達はその中で生きており、トータルに手入れをする必要がある・・・それは私達の責任だ。 

初めのうちは少し馬鹿々々しく思うかもしれない。というのも自分の身体に語りかけるだなんて、私達は教わったこともないのだから・・・だが、それを通して奇跡が起こる。私達が知らないうちに、奇跡はすでに起こっている。私が話す時、話すにつれて私の手はジェスチャー(仕草)をする。私はあなたに話している・・・何かを伝達しているのは私のマインドだ。私の身体はそれに従う。身体はマインドと協調関係にある。 

手を挙げたい時、何かをする必要はない・・・ただ単純に手を挙げるだけだ。手を挙げたいと思うだけで身体は従う・・・それは奇跡だ。ところが実のところ生物学も生理学も、それがどんな風に起こるのか未だに説明出来ていない。なぜなら思いは思いだからだ。手を挙げたいと思う・・・これは思いだ。この思いはどんな風に手への物理的なメッセージに変容されるのだろう?しかも全く時間がかからない・・・ほんのわずかな間合いか、時には全くギャップ(時間差)がない。 

例えば私が話すと、私の手は一緒に動き続ける・・・時間差がない。身体はまるでマインドと平行して動いているかのようだ。それはとても繊細なことだ・・・いかに自分の身体に語りかけるかを学ぶといい。すると多くのことが起こるだろう。 

身体に従いなさい。どんなやり方にしろ、決して身体を支配しようとしてはいけない。身体はあなたの礎(いしずえ)だ。ひとたび自分の身体を理解し始めたら、苦悩の99%はあっさり消えてしまう。 

でもあなたは耳を傾けない・・・これまでのところ。身体は言う。「やめて!食べないで!」あなたは食べ続ける。あなたはマインドの言うことを聞いている。マインドは言う。「これはとても味わい深くて美味しい。もうちょっといこう」あなたは身体の言うことを聞かない。身体は吐き気をもよおし「やめて!もう充分だよ!疲れちゃうよ!」と胃が言う。しかしマインドは「味見してみよう・・・もうちょっとだけ」と言う。 

あなたはマインドの言うことを聞き続ける。もし身体の言うことを聞けば、あなたの問題の99%は楽に解消されるだろう。残りの1%は単なるアクシデントであり、真の問題ではない。しかしごく幼いころから、私達は身体から注意をそらされ、身体から引き離されて来た。 

子供は空腹で泣いているが、母親は時計を見る。医者は3時間後にしか子供にミルクを与えてはいけないと言ったからだ。彼女は子供を見ていない。子供こそ見るべき本当の時計なのに、彼女は壁時計ばかり見ている。彼女は医者の言うことを聞くが、子供は泣いていて食べ物を求めている。子供は今すぐ食べ物を必要としている。今すぐ食べ物を与えないなら、あなたは子供の注意を身体からそらす。あなたは子供に食べ物を与える代わりに、おしゃぶりを与える。 

さあ、あなたは騙(だま)し欺(あざむ)ている。あなたは偽物、プラスチックを与え、身体への子供の感受性を惑わし殺そうとしている。身体の英知は発言を許されていない。代わりにマインドが介入している。子供はおしゃぶりになだめられ眠り始める。時計が3時間経過したことを告げると、今度は子供にミルクをあげなくてはならない。しかし今、子供はぐっすり眠っている。子供の身体は眠っているのに、医者が今ミルクをあげなさいと言ったからあなたは子供を起こす。またしても、あなたは子供のリズムを壊してしまう。 

あなたはゆっくりゆっくり子供の存在全体を掻(か)き乱す。やがて子供は、自分の身体の経路を全て失ってしまう。自分の身体が何を欲しているのか、子供は分からなくなっている・・・自分の身体が食べることを望んでいるのか否かも分からないし、身体が愛を交わしたがっているかどうかも分からない。全ては外側から、何かに操作されている。彼は『プレイボーイ』誌を見て、愛を交わしているような気分になる。 

さて馬鹿げたことだ・・・これはマインドであり、マインドが信号を送っているに過ぎない。その愛は本物にはならない・・・ただのくしゃみ、重荷を降ろすこと以外の何ものでもない。それは全く愛などではない。どうして愛がマインドを通して起こるだろう?マインドは愛について何も知らない。それは義務になる。あなたは妻を持ち夫を持ち、愛を交わさねばならない。生真面目に、規則的に、毎晩あなたは愛を交わす。そこにはもはや自発性はない。 

そしてあなたは心配する。なぜなら、自分はそれに満足していないと感じるようになるからだ。そして別の女性を探し始める。「多分この女性は自分にふさわしい女性ではないのだ。多分ソウルメイト(魂の伴侶)ではない。彼女は私の為に創られたのではない。私も彼女の為に創られたのではない。彼女には気がそそられないのだから」と理屈をつけ始める。 

女性が問題なのではないし、男性が問題なのでもない。問題はあなたも身体の中にいないし、彼女も身体の中にいないということだ。身体の中にいるのなら、オーガズムと呼ばれる美しさに気づかぬ人はいないだろう。身体の中にいれば オーガズミックな体験を通して、神の最初の一瞥を知るだろう。 

身体に耳を傾け、身体に従いなさい。マインドは愚かだが、身体は賢い。そしてもし身体に深く入っていったら、まさにその深みの中で、自分の魂を見出すだろう。魂は、身体の深みの中にひそんでいる。 

OSHO:「こころでからだの声を聴く」(市民出版社)より