OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

122.身体の神秘

<OSHOの講話より> 

身体は途方もなく美しく、また途方もなく複雑だ。身体ほど複雑で精妙なものはない。あなたは身体について何も知らない。ただ、それを鏡の中で見たことがあるだけだ。内側から見たことは一度もない。もし見たことがあれば、それ自体ひとつの宇宙だ。 

それこそ神秘家達がいつも言って来たこと・・・身体とは小宇宙だ。内側から見ると身体は実に広大だ・・・無数の細胞があり、ひとつひとつの細胞は独自の生を営んでいる。各細胞は実に巧みに機能しており、それはほとんど驚異的で、不可能で、信じ難く思えるほどだ。 

私達が食物を食べると、身体はそれを血液や骨や骨髄に変える。私達が食物を食べると、身体はそれを意識や思考に変える。あらゆる瞬間に奇跡が起こっている。またひとつひとつの細胞は実に体系的に、秩序を保ち、内なる規律をもって機能している。それはほとんど不可能なことのように見える・・・無数の細胞があるのだ。あなた1人の身体には、60兆の細胞がある・・・60兆の魂が。 

ひとつひとつの細胞は、それ自身の魂を宿している。そして何と適切に機能していることか!それらは統一性とリズムとハーモニー(調和)の内に機能している。また同じ細胞が眼となり、同じ細胞が皮膚となり、同じ細胞が肝臓や心臓や骨髄やマインドや脳になっている。同じ細胞が変化する・・・そして特定の目的の為の細胞となる。だが、それらは同じ細胞だ。しかも何と順調に動き、精妙かつ静かに働いていることだろう。 

その中に分け入り、その神秘の中に深く入っていきなさい。なぜなら、あなたはそこに根を張っているからだ。身体はあなたの大地であり、あなたは身体に根づいている。身体において、あなたの意識は樹のようなものだ。あなたの思考は果実のようなものだ。あなたの瞑想は花のようなものだ。だがあなたは身体に根を張っており、身体がそれを支えている。 

身体は、あなたの行為の全てを支えている。あなたが愛すると、身体はあなたを支える。あなたが憎むと、身体はあなたを支える。あなたが誰かを殺したいと思うと、身体はあなたを支える。あなたが誰かを守りたいと思うと、身体はあなたを支える。慈悲、愛、怒り、憎しみ・・・あらゆる場面において、身体はあなたを支えている。あなたは身体に根を張り、あなたは身体に育まれている。あなたが自分とは何者かを悟り始める時でさえ、身体はあなたを支えている。 
身体はあなたの友人であり、敵ではない。その言語に耳を傾け、その言語を読み解き、そして少しずつ身体という書物の中に入り、そのページを繰っていくにつれ、あなたは生の神秘そのものに気づくようになるだろう。それは凝縮した形で、あなたの身体の中に存在している。それは何百万倍にも拡大され、世界にあまねく存在している。 

身体の中には、あらゆる神秘・・・全宇宙にある、あらゆる神秘が宿っている。身体は小宇宙だ。身体と宇宙の違いは量的なものに過ぎない。ひとつの原子が物質のあらゆる秘密を備えているように、身体は宇宙のあらゆる秘密を備えている。秘密を探し求めて外側へ行く必要はない。内側に向かえばいい。 

それから身体を大切にすること。身体に敵対すべきではないし、身体を非難すべきでもない。身体を非難するなら、すでに神を非難したということだ。なぜなら身体の最も深い奥底には、神が住んでいるのだから。神は住処(すみか)として、この身体という家を選んだ。身体を尊び、身体を愛し、あなたの身体を大切にしなさい。 

いわゆる宗教は、人間と身体の間に様々な対立を作り出して来た。あなたは身体ではないということは真実だが、身体に対抗すべきだという意味ではない。身体はあなたの友人だ。身体はあなたを地獄へ連れて行くこともあるが、天国へも連れて行く。身体は乗り物に過ぎない。身体は中立だ・・・あなたがどこへ行きたいと思っても、身体には用意がある。 

身体は途方もない複雑さ、美しさ、秩序を備えたメカニズムだ。自分の身体を理解すればするほど、畏怖(いふ)の念は深まるだろう。では宇宙全体についてはどうだろう?この小さな身体にさえ、実に多くの奇跡が存在する。だから私は、身体を神聖なるものの寺院と呼ぶ。 

ひとたび身体に対するあなたの態度が変われば、内側へ向かうのはもっと容易になる。身体があなたに開かれるからだ。身体はあなたが入って来るのを許し、その秘密を明かし始める。そもそもヨーガの秘密は、全てこうして知られた。そもそもタオの秘密は、全てこうして知られた。ヨーガは、死体を解剖することで生まれたのではない。現代医学は、死体とその解剖に基づいている。それは基本的に誤りだ。 

現代医学は、未だに生きている身体を理解出来ていない。死体を解剖するのと、死体について何かを理解するのは全く別だ。まして生きている身体について理解することは、完全に別物だ。現代医学には、生きている身体を理解する術(すべ)がない。理解する手立ては身体をぶつ切りにし、切り開くことだけだ。しかし切った瞬間、それはもはや同じ現象ではなくなっている。茎や木に付いている花を理解するのと、花を切って解剖するのとは、完全に別のことだ。それはもはや同じ現象ではなく、その質は異なっている。 

アルバート・アインシュタインという存在は、死体に何かを付け加えて出来るものでは決してない。ある詩人が死ぬ・・・身体はそこにあるが、詩はどこにあるだろう?ある天才が死ぬ・・・身体はそこにあるが、天賦の才はどこにあるだろう?白痴の身体も、天才の身体も違いはない。身体を解剖しても、その身体が天才のものか白痴のものか理解出来ないだろう。それが神秘家のものか、もしくは生において何の神秘にも気づかなかった人のものか、理解出来ないだろう。それは不可能だ。 

なぜなら、あなたは家を調べているだけで、そこに住んでいた存在はもういないからだ。あなたは、鳥のいなくなった鳥籠(とりかご)を研究しているに過ぎない。そして鳥籠の研究は鳥の研究ではない。それでもなお、身体はその中に神聖なるものを含んでいる。 

確実な方法は自分の内側に入り、そこから・・・自分の実存の最も中心部に近いところから、自分の身体を見つめることだ。すると、それは途方もない歓びだ・・・身体が機能しているのを、動いているのを見るだけのことが。それは宇宙の出来事の中で、最も偉大な奇跡だ。 

OSHO:「こころでからだの声を聴く」(市民出版社)より