OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

124.なぜ私達は不幸を選んでしまうのか?

<OSHOの講話より> 

あなたの唯一の義務は、幸せになることだ。幸せになることを信条としなさい。幸せでないとしたら、あなたのしていることは全て、どこか間違っていて根本的な変革が必要だ。幸福を選びなさい。 

私は快楽主義者だ。そして、幸福こそ人間が手にすべき唯一の基準だ。だから何かをする時は、常に起こることを見つめていなさい。家にいるように安らいで、心穏やかで、くつろいでいるなら、それは正しい。これが基準だ・・・それ以外のものは基準ではない。 

あなたにとって正しいことが、他人にとっては正しくないかもしれない。そのことも覚えておきなさい。なぜならあなたにとって簡単なことが、他人にとっては簡単でないかもしれないからだ。その人にとっては、別のことが簡単かもしれない。だから、それに関する普遍的な法則はあり得ない。それぞれが自分で理解するといい。あなたにとっては何が簡単だろう? 

これは人間の最も複雑な問題のひとつだ。深く考察する必要がある。しかも、それは机上の問題ではない・・・あなたに関わる問題だ。常に間違った道を選び、常に悲しみ、落胆し、苦しむことを選んでしまう・・・これが全ての人の行動様式だ。それには深い理由があるに違いない。そして確かにある。 

第1に、育てられ方が明らかに影響を及ぼしている。不幸だと、あなたはそこから何かを得る・・・必ず得る。幸福だと必ず失う。ごく初期の頃から、鋭敏な子供は区別を感じ取る。悲しげな時はいつも皆が同情してくれ、子供は同情を得る。誰もが優しくしてくれ、彼は愛を得る。そしてさらに素晴らしいことに、悲しげな時はいつも皆が親切にしてくれ、注目される。 

注目は、エゴにとって食べ物のような働きをする。実に酒のような刺激物だ。それはエネルギーを与えてくれ、自分がひとかどの人物になったような気分にさせる。だから人は、注目されることに大きな欲求、大きな欲望を抱くのだ。誰もがあなたを見ていれば、あなたは重要になる。誰もあなたを見ていなかったら、あなたはまるで自分がそこにいないかのように、もはや自分は消え、存在しない者であるかのように感じる。人々があなたを見てくれていること、気づかってくれることが、あなたにエネルギーを与える。 

エゴは関係性の中で存在する。人々があなたに注意を向ければ向けるほど、あなたはさらにエゴを得る。誰もあなたを見なかったらエゴは消滅する。もし皆があなたのことを完全に忘れてしまったとしたら、どうしてエゴが存在出来るだろう?どうやって自分の存在を感じられるだろう?だから結社や団体やクラブが必要なのだ。クラブは全世界にある・・・ロータリー、ライオン、フリーメーソン支部・・・クラブや結社は無数にある。これらの結社やクラブが存在するのは、他の方法では注目を得られない人々に、注目を与える為に他ならない。 

ごく初期の頃から、子供は政治を学ぶ。その政治とは、惨めに見えれば同情を受け、誰もが親切にしてくれるというものだ。具合が悪そうだとあなたは重要になる。病気の子供は横暴になる。家族全員が彼に従わなければならない・・・彼の言うことが全てのルールだ。彼が幸せな時、耳を傾ける人は誰もいない。彼が健康な時は、誰も彼のことを気遣わない。彼がご機嫌な時、注意を向ける者は1人もいない。ごく初期の頃から、私達は苦悩や悲しみや悲観や、生の暗い側面を選び取り始める。それがひとつの現実だ。 

第2点は、こんなことに関わっている・・・あなたが幸せで喜びに満ち、歓喜と至福を感じていると、必ず誰もがあなたに嫉妬する。嫉妬とは誰もが敵意を抱き、親しげな人は1人もいないということだ。その時、全員が敵だ。そこであなたは皆が自分に敵対しないよう、あまり歓喜に溢れずにいることを身につけて来た・・・至福を見せぬように、笑わぬように。 

笑っている時の人を見てごらん。実に計算して笑っている。それは腹の底からの笑いではないし、まさに実存の深みからやって来る笑いではない。彼らはまずあなたを見て、そして判断する・・・それから笑う。彼らは一定の範囲内で笑う・・・あなたが許容する範囲、場違いだと受け取られない範囲、誰も嫉妬しない範囲で。 

微笑ですら政治的だ。笑いは消えてしまった。至福は完全に知られぬところのものとなった。歓喜に至っては、ほとんど不可能だ。なぜなら、それは許されないものだからだ。あなたが苦悩していたら、誰もあなたのことを気違いだとは思わない。あなたが歓喜に溢れ、踊っていたら、誰もがあなたのことを気違いだと思うだろう。ダンスは追いやられ、歌うことは許されない。至福に満ちた人・・・そんな人を見たら、私達は何かが間違っていると思う。 

これは何という社会だろう?苦悩していれば万事申し分ない・・・社会全体が苦悩しているから、その人は適応している。彼は一員であり、私達に属しているという訳だ。誰かが歓喜に溢れると、私達は彼のことを手に負えなくなった、気が狂ったと考える。彼は私達には属していない・・・そして私達は嫉妬を覚える。 

嫉妬ゆえに、私達は彼を非難する。嫉妬ゆえに、何とか彼を以前の状態に戻そうとする。私達は以前の状態を正常と呼ぶ。精神分析医や精神病医は、人を正常な苦悩の状態にするのを助ける。社会は歓喜を容認出来ない。歓喜は最も威力のある革命だ。私は繰り返す・・・歓喜は最も威力のある革命だ。人々が歓喜に溢れるなら、社会全体は変わらねばならないだろう。この社会は、苦悩に基づいているのだから。 

人々が至福に満ちていたら、彼らを戦争へ・・・ベトナムへ、エジプトへ、イスラエルへと連れて行くことは出来ない。それは無理だ。至福に満ちた人は、ただ笑って言うだろう・・・そんなものはナンセンスだ!至福に満ちている人々を、金の亡者にすることは出来ない。彼らは金を貯めることだけに一生を費やしたりしないだろう。死んでいる金と生を交換し、金を貯めて死ぬ・・・そうして生涯を台無しにするなんて、彼らにしてみれば狂気の沙汰に思える。死ぬ時、金はそこにあるだろう。これは全く狂気の沙汰だ。しかしあなたが歓喜に溢れぬうちは、この狂気の沙汰は理解出来ない。 

人々が歓喜に溢れているなら、この社会のパターン全体を変えなければならない。この社会は苦悩の上に存在している。この社会にとって、苦悩は最も大きな投資の対象だ。だから私達は子供を育てるが・・・ごく初期の頃から苦悩を習得するよう仕向けている。だから、子供達は常に苦悩を選ぶのだ。 

朝、全ての人にひとつの選択肢がある。朝だけでなくあらゆる瞬間に、苦悩するか幸せでいるかの選択肢がある。あなたはいつも苦しむ方を選ぶ。なぜなら、それは投資だからだ。あなたはいつも苦しむ方を選ぶ。なぜならそれが習慣であり、パターンだからだ。あなたは常にそうして来た。そうすることに長(た)けている。それは轍(わだち)となってしまった。選ばなければならない瞬間、マインドはすぐさま苦悩へと流れる。 

苦悩は下り坂で、歓喜は上り坂のように見える。歓喜は、非常に到達し難いもののように見える・・・だがそんなことはない。真実は全く逆・・・歓喜は下り坂で、苦悩は上り坂だ。苦悩は非常に達成し難いものなのだが、あなたは達成してしまう。あなたは不可能なことを成し遂げる・・・なぜなら苦悩は自然に反しているからだ。誰もが苦しみたくないのに、誰もが苦しんでいる。 

社会は大層な仕事をやって来た。教育、文化、文化団体、両親、教師・・・彼らは大層な仕事をやって来た。彼らは歓喜に溢れた創造者から、苦悩に満ちた生き物を創って来た。子供は皆、歓喜に溢れて生まれる。どの子供も1人の神として生まれる。そして誰もが狂人として死ぬ。 

これが、あなた方のワーク(課題)の全容だ・・・いかに子供時代を再び手にするか、いかにそれを取り戻すか。再び子供になれるなら、その時、苦悩はない。子供には苦悩の瞬間がないという意味ではない・・・苦悩はある。だが、それでも苦悩はない。この点を努めて理解しなさい。 

子供は苦しむこともあるし、悲しむこともある。ある瞬間、深く悲しむが、その悲しみにとてもトータル(全一)で、その悲しみとひとつだから分裂がない。悲しみから分離している子供はいない。子供は悲しみを自分とは別個なもの、分離されたものとしては見ない。子供は悲しんでいる・・・その中に深く巻き込まれている。そして悲しみとひとつになる時、悲しみは悲しみではない。悲しみとひとつになるなら、それは独自の美しささえ備えている。 

だから子供を見てごらん・・・穢れのない子供を。子供が怒っている時、彼の全エネルギーは怒りになる。何ひとつ残されるものはなく、何ひとつ出し惜しみされるものはない。子供は衝動にかられて怒った・・・怒りを操作し、制御している者はいない。無心だ。子供は怒りになった・・・怒っているのではなく、怒りになった。その美しさを見なさい。怒りの開花を。 

子供は決して醜くは見えない。怒りの中でも子供は美しく見える。より強烈に、よりエネルギッシュに、より生き生きと見える・・・火山は今にも噴火しそうだ。こんな小さな子供だが、実に強大なエネルギーを持ち、まさに原子力に匹敵するような存在だ・・・全宇宙が吹き飛ぶほどだ。 

そしてこの怒りの後、子供は沈黙するだろう。この怒りの後、子供は深い安らぎに満ちるだろう。この怒りの後、子供はリラックスするだろう。私達は、怒りの中にいるのはとても苦しいことだろうと考えるかもしれない。しかし子供は苦しんだりしない・・・子供はそれを楽しんだ。何かとひとつになるなら、あなたは至福に満ちる。何かから自分を分離させると、たとえそれが幸福であったとしても、あなたは苦しむ。 

だから、これが鍵だ。エゴとして分離していることは、あらゆる苦悩の土台だ。生がもたらす全てとひとつになり、それと共に流れる。その中に強烈にトータルに没頭するあまり、もはや自分がなくなり失われてしまっているなら、全ては至福に満ちている。選択肢はそこにあるが、あなたは選択肢に気づきもしなかった。ずっと間違ったものを選択し続け、それが習慣として染み付いてしまった為、あなたはただ自動的にそれを選んでしまう。選択の余地はない。 

注意することだ。自分が苦しむ方を選んでいるたびに思い出しなさい・・・これが自分の選択だと。こうした心がけさえも助けになる。これが自分の選択だ、責任は自分にある、そしてこれは自分が自分に対して行っていることだ、これは自分の行為だという留意。すぐにあなたは違いを感じるだろう。マインドの質が変わってしまうだろう。幸せへと向かう方が簡単になるだろう。 

ひとたびこれは自分の選択だと理解したら、全てはゲームになる。苦しむのが好きなら、苦しむといい。ただし、それが自分の選択であることを覚えておきなさい。そして不平を言ってはいけない。他人のせいではない。これはあなたのドラマだ。こんな感じを好むなら、苦しむ道を好むなら、苦悩の中で人生を送ることを望むなら、それはあなたの選択であり、あなたのゲームだ。あなたはそれを演じている。うまく演じるといい! 

苦しまない方法を、人に尋ねに行ってはいけない。それは馬鹿げている。幸せになる方法を、マスターやグルに尋ねに行ってはいけない。えせグルが存在するのは、あなたが愚かだからだ。あなたは苦悩を生み出し、それを生み出さない方法を人に尋ねに行く。そして苦悩を生み出し続ける。それは自分の行ないに注意を払っていないからだ。まさにこの瞬間から試みなさい。幸せになること、至福に満ちることを試みなさい。 

OSHO:「こころでからだの声を聴く」(市民出版社)より