OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

125.レット・ゴー(ゆだね)の道

<OSHOの講話より> 

生き方、在り方、知り方には、二通りある・・・ひとつは努力、意志、エゴによるもの。もうひとつは無努力、無抵抗、存在へのレット・ゴー(ゆだね)によるものだ。世界の宗教は全て最初の方法、すなわち闘うことを教えて来た・・・自然と闘い、世界と闘い、自分自身の身体と闘い、マインドと闘う。そうして初めてあなたは真実なるもの、究極なるもの、永遠なるものを成就出来る。 

しかしこの力への志向、このエゴの道、この闘いや争いが完全に失敗だったことは、充分証明されている。何百万年もの間、生の究極の体験を成就した者はほとんどいない。あまりに少ない為、彼らは例外に過ぎず、成就の法則を実証するものではない。 

私は2番目の方法を教える・・・存在の流れに逆らうのではなく、それと共に進むのだ。それはあなたの敵ではない。河と闘って上流へ進もうとする人もいるが、すぐに疲れてしまい、どこにも辿り着かないだろう。河は広大で、彼はちっぽけな部分だ。この広大な存在の中で、あなたは原子よりも小さい。どうして全体を相手に闘うことが出来るだろう?そうした考え自体、聡明さを欠いている。しかもあなたは全体によって創られた。どうしてそれが、あなたの敵になるだろう? 

自然はあなたの母親だ・・・あなたと敵対など出来ない。身体はまさにあなたの命であり、あなたと対立することはあり得ない。あなたは絶えず身体と闘っているにもかかわらず、身体はあなたに仕えている。あなたが起きている時もあなたに仕え、あなたが寝ている時でさえあなたに仕えている。 

呼吸を続けているのは誰だろう?あなたはぐっすり眠りいびきをかいている。あなたの身体には、独自の英知がある。身体は呼吸を続け、心臓は鼓動を続け、あなたなしでも身体は機能し続ける。むしろあなたがいない時の方が、より良く機能する。あなたの存在は常に障害だ。それは身体に逆らえと教えて来た人によって、あなたのマインドが条件付けられている為だ。 
私はあなたに、存在と友達になりなさいと教える。私は、あなたが世間を放棄することを望まない。なぜなら世間はあなたのものであり、私達のものだからだ。存在するものは、何ひとつあなたと対立していない。必要なのは、生きるアート(術)を学ぶことだ・・・放棄のアートではなく、歓喜のアートを。 

要点は、アートを学ぶということに他ならない。するとあなたは、毒をネクター(甘露)に変えることが出来る。様々な薬には毒という言葉が記されているが、科学の専門家の手にかかると毒は薬となる。それはあなたを殺すのではなく、救ってくれる。 

自分の身体や自然や世間が、どこか自分と対立していると気づいたら、ひとつ思い出しなさい・・・それは自分の無知に違いない、それは何か間違った態度に違いないと。あなたは、生きるアートを知らないに違いない。あなたは、存在が自分に対立することなどあり得ないということに気づいていない。あなたはそこから生まれ、その中で生き、それは全てをあなたに与えて来た。なのに、あなたは感謝すらしていない。逆にあらゆる宗教はそれを非難せよと、まさに始まりからあなたに教えて来た。 

生を非難することを説く宗教は有毒だ。それは生に否定的だ・・・それは死の僕(しもべ)であり、あなたの僕でも、存在の僕でもない。しかし、なぜそのような問題が生まれるのだろうか?こうした宗教は自然に逆らっていた。彼らはこちらの世界に背を向けなければ、もうひとつの世界、より高次の世界は決して成就出来ないという論理を作り上げた。なぜだろう?こちらの世界とあちらの世界の間に、なぜそんな区別を作ったのか?それには理由がある。 

この世界が放棄されることなくトータルに生きられるなら、聖職者はお払い箱だ。この世界と闘いこの世界を放棄すべきなら、あなたは自然の本能を抑圧しなければならない。すると当然、あなたは病んだ状態になる。自然に逆らえば決して健康にも、ひとつのまとまりにもなれない。あなたは常に分割され、精神分裂症的になるだろう。当然ながら、あなたは導き助けてくれる人を求める・・・聖職者を必要とする。 

罪の意識がある時、あなたは自然と教会やモスクやシナゴーグへ足を運ぶ・・・あなたは聖職者や牧師やラビに助けを求める。あなたは深い闇の中にいるからだ・・・その闇が創られたのは彼らのせいなのだが、あなたはあまりにも無力な為、庇護してくれる人、手助けしてくれる人、光を示してくれる人を必要とする。あなたは懸命に求めるあまり、聖職者があなたよりも物事をよく弁(わきま)えているかどうか、あるいは彼がただの雇い人であるかどうかなど、考えてもみない。 

あなたの問題は基本的に、自分のいる場所で自分自身の内側を見ることだ。そしてもしあなたが苦しみ、悩み、心配し、苦悩しているとしたら、何かが人生に欠けていると思うのなら、もし満たされていないとしたら、どこにも何の意味も見出せなくて、ただ死に向かってだらだら進んでいるとしたら・・・。闇はますます濃くなり、死は日毎に近づいて来る・・・今は深遠な神学的問題について語り始める時だろうか?今はあなたの在り方を変える時だ。あなたには時間があまりない。 

あらゆる宗教が説いて来た手法は、闘う手法だ・・・それらはどこにも導かない。生の歓びを損なうばかりだ。この生における楽しいこと全てに毒を注ぐ。それらは悲しげな人類を生み出して来た。私は愛に溢れ、歌に溢れ、ダンスに溢れる人類を望む。 

だから私の手法は、第2の手法であることをよく理解して欲しい。第2の手法とは、流れに逆らって上流へ向かってはいけないということ・・・それは愚かだ。闘うことは出来ない。なぜなら自然の流れはあまりにも大きく、あまりにも強いのだから。最良の方法は、死体から学ぶといい。死んでいる人々は、生きている人々が知らない秘密をいくつか知っている。 

泳ぎ方を知らないと、生きている人は溺れる。これは奇妙なことだ。なぜなら死んでしまうと、再び水面に浮き上がって来るからだ。生きていた時は下降し、死ぬと上昇する。確かに死人は、生きている人間が知らないことを知っている。何が起こったのだろう?なぜ川と海は、死人に異なる作用をするのか?死人は完全なレット・ゴー(ゆだね)の状態にある。泳いですらいない。死人は何もしていない。 

最も優れた泳ぎ手はただ浮かんでいる。死体のような究極の泳ぎ手は、ただ流れと共に進む。川が導くところへどこへでも進む・・・川は常に海へと注ぐ。どの川も海に注ぐ。だから自分が聖なる川にいるかどうか、心配する必要はない。神聖であってもなくても、全ての川はやがて海に辿り着くことになっている。あなたはただ、川と共に浮遊し続ける。

そして、私はこれを信頼と呼ぶ・・・それがどこへ導こうともそれは正しい道に導いてくれるし、正しい目的地に導いてくれると存在を信頼すること。存在はあなたの敵ではない。自然を信頼しなさい・・・それがどこへあなたを連れて行こうと、そこにはホーム(我が家)があると。 

全人類が闘うことではなくリラックスすることを学んだら、困難な努力よりもレット・ゴーを学んだら、意識の質は大きく変化するだろう。リラックスした人々は、川の流れと共にただ静かに進む。自分自身の目的地を持たず、エゴを持たずに。そのようにくつろいで浮かんでいたらエゴは持てない。 

エゴは努力を要する・・・あなたは何かをしないといけない。エゴは行為者だ。浮くことで、あなたは無為の人になる。この無為の中であなたは驚くだろう。いかに心配事や苦悩が次第に薄れていくか、そしていかに存在が与えてくれるものに満たされていくかに。 

スーフィーの神秘家の話をしよう。彼は旅をしていた。彼は毎晩のように存在に感謝していた・・・「あなたはとても多くのものを与えて下さったのに、私はそれに報いることが出来ませんでした。この先も報いることは出来ないでしょう」彼の弟子は少しばかり反感を抱いた。なぜなら、生は時に困難を伴ったからだ。 

スーフィーの神秘家は、反逆的な人物だった。今回は3日間、食べ物にありつけなかった。というのも彼らが正統派のイスラム教徒でないという理由で、通りかかった村々はどこも彼らを拒んだからだ。彼らはスーフィーの革新的なグループの一員だった。人々は彼らに一夜ですら宿を提供しようとしなかった。そこで彼らは砂漠で眠った。腹は空き、喉も渇いて早や3日が過ぎた。 

夜の祈りの時、神秘家はまたしても存在に言った。「私はとても感謝しています。あなたはとても多くのことをして下さったのに、私達は全くお返しすることも出来ないのです」
弟子の1人が言った。「酷すぎますよ。もう3日です。存在が私達の為に何をしてくれたか、お聞かせ願いたいものですね。あなたは存在に何を感謝しているのです?」老人は笑った。彼は言った。 

「存在が私達の為に何をしてくれたか、お前はまだ気づいていないのかね。この3日間は、私にとって実に意義深かった。腹は空き、喉は渇き、宿もなかった。私達は拒まれ非難された。石も投げつけられたが、私は自分の内側を見つめていた・・・怒りは生じなかった。私は存在に感謝している。その贈り物は計り知れない。それらに報いることは決して出来ない。3日間の餓え、3日間の渇き、3日間の不眠、石を投げる人々・・・それでも私は、敵意も怒りも憎しみも失意も抱かなかった。それはあなたの慈悲に違いない、存在が私を支えて下さっているに違いない」 

「この3日間で、実に様々なことが明らかになった。もし食事が与えられ、もてなしを受け、宿をあてがわれ、石を投げられなかったとしたら、それは明らかにならなかっただろう・・・なのにお前は、私が何を存在に感謝しているのかと尋ねる。たとえ自分が死につつある時でも、私は存在に感謝するだろう。なぜなら私は知っているからだ・・・たとえ死においても、生においてそうだったように、存在は私に神秘を明かすだろうと。死は終わりではなく、まさに生のクライマックスなのだから」 

存在と共に流れることを学びなさい。そうすれば罪悪感も精神的な痛手もないだろう。自分の身体、自然、そして何ものとも闘ってはならない。するとあなたは安らぎ、くつろぎ、穏やかになり、落ち着くだろう。これはあなたが注意深くなり、より気づき、より意識的になることを助ける。それは最終的に究極の覚醒・・・解脱という大海へと続く。 

OSHO:「こころで身体の声を聴く」(市民出版社)より