OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

126.人生を祝祭に変容する

<OSHOの講話より> 

瞑想以外に救済はない。あなたの惨めさ、無知、束縛を救うことはあなたにしか出来ない。あなただけが自分自身を救うことが出来る。 

しかし、人々はいつも誰か他の人に施しをしてもらいたいと思っている。だから彼らは救世主がやって来るのを待っている。だが、それは不可能だ。 

キリスト教徒はイエスが救済してくれると考えている。イエスが救えるのは自分自身だけだ。イエスが手助け出来るのは、瞑想に向かおうとする人だ。彼が苦悩や限界や惨めさから人間を救うというのは、別に同情からではない。 

そして愚かな者達は、もう一度キリストがやって来るのを再び待っている。イエスは三千年もの間待ち続けられている。そして、ヒンドゥ教も事情は同じだ。彼らも神の生まれ変わりを待っている。過去の生まれ変わりは役に立たない、という単純なことが彼らには分からない。 

人類の歴史上、真実を正確にあるがままに話したのは仏陀だけだ。彼は言った。「あなた自身の光になりなさい、あなたの為には誰も何も出来ない」もちろん仏陀は道を指し示すことは出来る。しかし、後は全てあなたがすべきだ。 

惨めでいるか、祝福に満ちているか、無知なままで生きるか、光に満たされているかは、あなた次第だ。そして光に満たされる方法とは、瞑想以外にない。あなたの全エネルギーを瞑想に注ぎ込みなさい。 

生を愛しなさい。生の小さな事柄を愛しなさい。とても些細なこと、食べたり歩いたり眠ったり、人生の単なる日常的活動は、歓喜へと変容されるべきだ。全てがダンスとなるほど、喜びをもってすることだ。 

その時、真実はそう遠くにはない。まさにこの瞬間、あなたの至福はトータルだ。真実があなたにもたらされる。その時、一瞬ごとにそれは近く、近くなる。そして真実が解放される。 

瞑想は喜びに満ちた活動だし、歌だ。義務にしてはならない。それを楽しみ、喜びとするのだ。あなたが瞑想を義務的にするなら、核心をすっかり取り逃がすことになる。その時、瞑想は決して起こらない。 

とても軽い、全然深刻でないムードで行った時にのみ、瞑想は起こる。深刻さは重い、そして重いものは全てあなたを下降させる。 

小さな子供が浜辺を貝殻や綺麗な色の石を集め、そこら中を走り、ほとんど風や海、そして砂や日光と一体になっているのが分かるだろうか。あなたもそれくらい軽々となることだ。 

軽さがある時、あなたには翼がある。あなたは上に飛び立つことが出来る。そして瞑想は、あなたのエネルギーを上昇させる動きを意味する。 

物体が下に引き寄せられる力、重力を発見したのは科学だ。重力の発見のはるか前に、宗教は全く異なった法則を発見した。私はそれを恩寵の法則と呼ぶ。科学用語的に言うと、揚力の法則と呼ぶことが出来るだろう。 

それはあなたを持ち上げ上昇させる。しかしその為に必要なのは、重さを減らすことだ。深刻なマインドには重さを減らすことは出来ない。 

だからこそ私は言うのだ。あなたが聖者だという類(たぐい)の人は、瞑想を経験したことがないと。彼らはそういう振りをしているに過ぎない。聖者と呼ばれている何百の人の99%は、振りをしているだけだ。 

そして覚えておきなさい。それ以外の者だけが、この法則を証明出来る。その者達は深刻な振りをしているだろう。それが全てだ。奥深くでは、彼らは笑い楽しんでいるに違いない。彼らは単に深刻な振りをしている。時には、そうならなくてはならない。 

偉大なドイツの神秘家、マイスター・エックハルトはそうだったに違いない。くだらないクリスチャン聖職者達、法王、教会の為だ。マイスター・エックハルトは偉大な享楽家だった。しかし彼は外側では、単なる凡庸な型通りの聖者を装っていた。 

彼が死んだ後、やっと彼の著書が見つかった。彼の著書は途方もなく美しい。もし彼が死ぬ前にそれらの著書が見つかっていたら、殺されていただろう。キリスト教徒に磔の刑に処せられていただろう。 

同じように聖フランシスにおいても、本当は同じだった。彼はとても軽々としたハートの人だった。ちょっと考えてごらん。彼はかつて木々や魚や、彼のロバにまで話しかけていた。彼はよく言ったものだ。「兄弟ロバよ、調子はどうだい?」 

彼が死ぬ時、弟子達に感謝していた。そしてロバにさえ感謝していた。彼は言った。「おまえは私にそのような愛でもって仕えてくれた。私はおまえに感謝しきれないほどだよ」

さて、このような人物は深刻ではあり得ない。しかし、彼は深刻な振りをしなければいけなかった。そうしなければ愚かども達に殺され、誰一人救うことは出来なかっただろう。本当の聖者は、常に愛と笑いに溢れた者だ。 

そしてその喜びの中で、あなたは瞑想が何であるかを知るだろう。なぜならば、あなたが本当に楽しい時はマインドは消えている。そのマインドの消失こそが瞑想だ。あなたは突然、ノーマインドの状態に落ちる。 

祝祭ほど瞑想的なものはない。そもそも宗教というものは、いかにあなたを永続的で終わることのない祝祭に誘(いざな)うことが出来るかにある。 

全てを祝いなさい。そうすれば瞑想は、それ自身でやって来る。あなたは陰のごとく従うだけでいい。 

OSHO:The Imprisoned Splendor より 

存在はただ、あなたに他の者ではなくあなた自身であって欲しい。あなたは必要とされている。そのことを感じなさい。この魂の呼びかけを聞きなさい。 

深みに進めば進むほど、それはあなたの実存の、瞑想の色彩を帯びて来る。あなたのまさにその実存が、春の歌、ダンス、祝祭の世界に入り込まなければいけない。 

しかし、ひとつのことを覚えておきなさい。あなたが祝えるのは他の誰かではなく、自分自身のみだということを。これが必要とされることだ。 

私はあなたに教えたい。あなた自身であることを。 

OSHO:Snap Your Fingers,Slap Your Face and Wake Up! より 

人生を祝祭に変容することは、唯一真正な宗教の科学だ。私は自分を祝福する。そして私はあなたに自分自身を祝福するアートを学んで欲しい。 

何の理由も目的もなく、ただ在ることで充分だ、それで充分だ。全体の一部であることは、逆らうことなど出来ないとても偉大な変容だ。 

あなたは踊り、歌い、その喜びを、祝福を表現しなくてはいけない。それを分かち合う必要がある。恩寵を分かち合うことは、唯一の施しだ。喜びを分かち合うことは、唯一の感謝だ。 

存在は、あなたに有り余るものを与えてくれる。それを分かち合いなさい。分かち合えば分かち合うほど、それを得るだろう。 

あまり分かち合わなければ、それだけのものしか手に入れることは出来ない。もし分かち合わなければ、存在を手にすることはない。私はあなたに祝祭以外の何も教えない。 

宗教性は、誤った手の内に落ちている。そして、それらは全世界を悲しく惨めにしている。 

私は、世界が笑いと祝祭に満ちることを願う。全人生を、瞬間から瞬間を祝祭として生きる必要がある。それが唯一、宗教的な人生だ。あなたは全ての潜在性、全ての機会を手にしている。 

ただ少しリラックスして、努力なしでいなさい。あなたの周りを取り巻く大海に溶けていきなさい。そしてダンスが始まる、その舞踏には終わりがない。 

OSHO:I Celebrate Myself:God Is Nowhere,Life Is Now Here より 
(日本語版、OSHOタイムズ vol.17)