OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

129.身体の美醜について

<OSHOの講話より> 

質問:私は自分のことが好きではありません。特に自分の身体が。 

身体について、こうあるべきという一定の観念を持っているなら、あなたは苦しむだろう。身体は、あるべきようにある。この身体こそ、あなたの持ち物であり、神があなたに授けたものだ。身体を使い、楽しんでごらん! 

身体に好意を抱き始めたら、身体が変化するのに気づくだろう。なぜなら、自分の身体に好意を抱けば、自分で身体を気づかい、その気づかいは、すみずみに行き渡るからだ。 

気づかえば、不必要に食物を詰め込まなくなる。気づかえば、身体を飢えさせたりしない。身体の要求に耳を傾け、その気配に耳を傾ける・・・身体は何を望んでいるのか、いつそれを望んでいるのか。 

気づかい、愛する時、あなたは身体と調和する。するとあなたの身体の問題は、自動的に解消する。 

自分の身体を好きでないとしたら、問題が生じる。なぜなら次第にあなたは自分の身体に無関心になり、無頓着になるからだ。誰が敵に構うだろう? 

あなたは身体を見ようとしなくなり、避けるようになる。身体のメッセージに耳を傾けるのをやめ、身体をさらに毛嫌いするようになる。 

だが問題全体を作っているのは、あなたなのだ。身体は、決して問題を作らない。問題を作るのは、マインドだ。 

さあ、これはマインドの観念だ。自分の身体のイメージに問題を抱える動物はいない。そんな動物はいない。たとえカバであっても! 

彼らは、完全に幸福だ。それは、否定的な考えを生み出すマインドがないからだ。そうでないなら、カバは思うかもしれない。「なぜ私はこんな姿なのか?」と。動物には、そのような問題はない。 

ただ、理想を捨てなさい。自分の身体を愛しなさい・・・これがあなたの身体であり、これが神からの贈り物だ。身体を楽しみ、気づかうといい。 

気づかうと、あなたは運動をしたり、食べたり、眠ったりする。あなたは、ありとあらゆる気づかいをする。身体は自分の道具だからだ。 

ちょうど、あなたの車のようなものだ。あなたは車を掃除し、車に耳を傾け、その唸(うな)りを聞き漏らさない。こうして、調子の悪い箇所があるかどうかが分かる。車体が小さな傷を負っても、あなたは気づかうだろう。 

ちょっと身体を気づかってごらん。すると、身体は完全に美しくなる・・・それは美しい! 

身体は、実に美しいメカニズムであり、しかも非常に複雑だ。身体はたいそう効率よく働くので、70年も機能し続ける。あなたが眠っていても起きていても、気づいていてもいなくても、身体は機能し続ける。 

しかも、その機能する様は、とても静かだ。あなたが気づかわなくても、身体は機能し続ける。あなたの為に仕え続ける。人は、身体に感謝した方がいい。 

ちょっと、あなたの態度を変えてごらん。すると6ヶ月もしないうちに、身体の形が変わるのに気づくだろう。それは、恋愛の時とよく似ている・・・あなたは、彼女が突然、美しくなるのが分かるだろう。 

それまで彼女は、自分の身体を気づかって来なかったかもしれない。しかし恋愛が始まると、彼女は気づかうようになる。彼女は、何時間も鏡の前に立つ・・・誰かが、彼女を愛しているのだから! 

あなたが自分の身体を愛する時、同じことが起こる。自分の身体が変わり始めるのが分かるだろう。身体は愛され、気づかわれ、必要とされている。 

それは、とても繊細なメカニズムだ・・・人々は身体を粗野に、乱暴に扱っている。ちょっと態度を変えて、違いを見てごらん! 


質問:私は自分が、とても醜いという感じを抱き続けています。どうも私は、友人や出会う人達に、私に目を向けるのはイヤだ、という催眠術をかけているようです。 

マインドは、不必要な問題を作り続ける。しかしながら、根拠のない問題を作ることが、マインドの機能の全てだ。 

そして、ひとたびマインドが問題を作り出すと、あなたはそれにとらわれ、解決しようとする。解決しようとしてはいけない。ただ、それらに根拠がないことを理解しなさい。 

完全に、的外れなのを理解する・・・それだけのことだ。何かし始めたら、あなたは問題を容認してしまう。ただ、それが的外れであることを理解しなさい。 

全ての顔が美しい。全ての顔が、それぞれに美しい。全ての顔は異なり、どの顔もユニークだ。実のところ比較も、比較の可能性もない。 

あなたがこのことを認めたら、あなたは美しくなるだろう。受容を通して、美しさが芽生える。 

あなた自身が否定し拒絶したら、あなたは不具になり醜くなるだろう。さあ、そこには悪循環がある。 

まず、あなたは拒絶する。あなたは受容しない・・・すると、あなたは醜くなる。すぐに他人も、その醜さを感じ始め、あなたは「その通り、それは本当だ。私の考えは、筋が通っている」と言う。 

こうしてあなたは、自分自身をさらに拒絶する。これこそ、マインドが自己満足を続けるからくりだ。 

そしてひとたび、あなたが最初のステップを踏み外すと、全てマインドが予言した通りになる。最初のステップとは、自分は自分である、ということだ。 

美に基準はない。実のところ、ほぼ5千年にわたって、哲学者達は、美を定義しようとして来た。そして、いまだ定義出来ていない。なぜなら、基準がないからだ。 

ある人は、誰かにとっては美しいが、別の人にとっては美しくない。もっとも美しい女性ですら、ある人にとっては醜く見える。それは、完全に個人の選択だ。 

だから基準はない・・・そして、服の流行のように基準は変わる。たとえばインドでは、大きな胸と大きな尻をしていない女性は、美しいと思われない。 

今日の西洋では、大きな尻は消え失せ、胸もどんどん小さくなって来ている。異なる美の概念が生まれている。そしてどんな概念であれ、身体はそれを実現する。 

理解しておくといい。ある国で大きな胸が美しいとみなされると、女性は大きな胸を創り出す。一般に、小説や詩や文学は社会を反映する、と言われている。しかし、それは逆向きにも作用する。 

小説や詩や文学が、社会を創ることもあるのだ。ひとたび、あなたがある種の想念を抱き、それが人々のマインドに入り込むと、それは作用する。 

この人は美しく、この人は美しくない、といった基準はない。それは個人の好みであり、実のところ気まぐれなものだ。 

しかし、そもそも自分自身を受け容れないとしたら、あなたは、誰もあなたのことを受け容れない状況を創り出している。なぜなら、自分が受け容れないとしたら、他人にも受け容れさせないからだ。 

あなたが女性で、ある男性があなたに恋をしたら、あなたは、その愛を壊そうとするだろう。あなたは言う。「よくこんな醜い婆さんに、恋が出来るわね?」と。 

あるいは、その男性の美意識はかなり奇妙だ、と思うだろう。自分自身を愛さないなら、他人もあなたを愛せない。 

だからまず、誰もが自分自身に恋をするといい。 

エスは言う。「神を愛しなさい。隣人を、自分のように愛しなさい」 
それが、基本的な教えだ。 

もし自分自身を愛するなら、あなたは隣人を愛することが出来るし、神を愛することが出来る。ただし基準となる戒律は、自分自身を愛せよ、ということだ。 

自分自身を愛し、自分自身に満足していられるなら、あなたは、多くの人々を惹きつけるだろう。 

自分自身を愛する女性は、美しいに違いない。美しいはずだ。彼女は、自分自身への愛の中から、美を生み出す。彼女は優美で、気品のある人になる。 


質問:美しさとは、何でしょうか? 

内面の美こそ、存在する唯一の美しさだ。他の美しさは全て、皮相なものにすぎない。 

しばらくは自分を騙(だま)せるが、遅かれ早かれ他の美しさは擦り減り、人は、完全な醜さの中に取り残される。それは、真の美しさを磨かなかったからだ。 

真の美しさとは、顔立ちとは関係のない、内面から来る輝きだ。 

それは、目の形とは関係ない。むしろ、目を通して輝き出す光だ。それは、身体とは関係ない。むしろ、身体を通して波打つ内側の臨在だ。 

真の美しさは、あなたの実存の核で芽生え、身体に向かって外側へ広がって行く。 

偽の美しさは、表面にあるだけだ。それは、あなたの中に根を持たず、根づいていない。

覚えておきなさい。人は真の美しさを求め、探求していかねばならない。そして真なるものは永遠であり、持続する。ひとたびそれを見つけたら、あなたは永遠に、それを発見したということだ。 
一時的なものは、時間の浪費にすぎない・・・一種の夢だ。しばらくは夢に夢中でいられるが、目覚めればたちまち、それは全て、馬鹿げて愚かなものであることが分かるだろう。 


質問:助けてください! 私は歳を取っていきます! 

自分自身の身体に好感を抱くことは、途方もなく人生の助けになる。 
それは、あなたをより健康的に、より全体的にするだろう。 

多くの人が、自分の身体を忘れてしまっている。 

彼らは身体に無関心になり、身体は服の下に隠し、常に覆(おお)いをかけられるべきもので、人目に触れてはならぬもの、卑猥で不純なものだと考える。 

全く馬鹿げた考えであり、神経症的な考えだ。 
身体は美しい。身体は、老いも若きも問わず美しい。 

もちろん若者には若者なりの美しさがあり、年配者には年配者なりの美しさがある。若い身体は、より活力に満ちている。年老いた身体は、より知恵がある。 

それぞれの年代に、独自の美しさがある。それらを比較する必要はない。 

特に西洋では、老いた身体は実におぞましい、という概念が出来てしまっている。どういう訳か、生は若さと同じ意味だ、と考えられているからだ。それは、馬鹿げた話だ。 

その点、東洋の方が優れている。東洋では、生は老いと同じ意味だと考えられている。なぜなら老人はより長く生き、より多くの経験を積み、より多くの愛を注いで来たからだ。

老人は、人生の様々な季節を、浮き沈みを知っている。老人は、青年期を生きたことがある。若者は、まだ老境を生きてはいない。 

年老いた身体は、あらゆる体験、心の傷、精神的痛手、円熟した体験を通して訪れる、品格を備えている。 

そしてどの年代であれ、ひとたび自分の身体にくつろぎ、慈しみ始めるなら、あなたは突然、身体が再び美しくなるのを感じる。 

そして、それは内側の様々なものを解き放つ。 

OSHO:「こころでからだの声を聴く」(市民出版社)より