OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

130.親密さへの恐れ

<OSHOの講話より> 

質問:愛するOSHO。たくさんある自分の恐怖の中で、私がもっとも気づいているのは親密さという恐れです。私は、人々との関係では当て逃げする運転手のようです。親密さという私の恐れについて、何か話していただけますか? 

ラーマ・プレム、あらゆる人が親密さを恐れている。あなたがそれに気づいているかどうかは、別のことがらだ。親密さとは、見知らぬ人の前で自分をさらけ出すことだ。私達はみな見知らぬ人々だ・・・誰かを知っている人は1人もいない。私達は自分に対してすら見知らぬ人々だ。私達は自分が誰だか知らないからだ。 

親密さは、見知らぬ人にあなたを近づける。あなたは自分のあらゆる防御を落とさねばならない。そうして初めて親密さがあり得る。その恐れとは、自分の全ての防御を、自分の全ての仮面を落としたら、見知らぬ人が自分をどうするつもりなのか、誰にも分からないではないか?ということだ。 

私達はみな千とひとつの物事を隠している・・・他人に対してだけではなく、自分に対しても・・・。なぜなら私達は、あらゆる種類の抑圧、禁止、タブー(禁忌)で病気になっている人類に育てられて来たからだ。 

そしてその恐れとは、見知らぬ人である誰かとでは・・・あなたはその人物と30年40年一緒に住んでいるかもしれないが、それは問題ではない。その不可思議さは決して消え去らない・・・。少しの防御を、少しの距離を保つ方が安全な感じがする。なぜなら自分の弱さを、自分のもろさを、自分の傷つきやすさを、誰かが利用することもあり得るからだ。 

あらゆる人が親密さを恐れている。問題はますます複雑になる。なぜなら、あらゆる人が親密さを望むからだ。あらゆる人が親密さを望む。さもなければ、あなたはこの宇宙で独りだからだ・・・友人もなく、恋人もなく、信頼出来る人は誰もいない。自分の全ての傷を開くことの出来る相手は誰もいない。そして傷は開かれない限り、癒されない。あなたが隠せば隠すほど、それらは危険になる。それらは癌のようになる。 

親密さは、一方では欠かすことの出来ない必要だ。だから、あらゆる人がそれに憧れる。だが彼は相手に親密であって欲しい。そうすることで相手が自分の防御を落とし、傷つきやすくなり、自分の全ての傷を開き、自分の全ての仮面と偽りの人格を落とし、あるがままの裸で立つように・・・。そしてもう一方では、あらゆる人が親密さを恐れている・・・相手には親密であって欲しいのに、あなたは自分の防御を落としていない。 

これが友人の間の、恋人の間の争いのひとつだ。誰も自分の防御を落としたくない。まったく裸の、誠実な、隠し事のない立場には誰も入りたくない。そして両者とも親密さを必要とする。あなたが自分のあらゆる抑圧を、禁止を落とさない限り・・・それらはあなた方の宗教、あなた方の文明、あなた方の社会、あなた方の両親、あなた方の教育からの贈り物だ・・・あなたは誰かと親密になることは決して出来ないだろう。 

そして、あなたが主導権を取らなければならない。だがどんな抑圧も、どんな禁止もなければ、傷もあなたにはひとつもない。もしあなたが単純な、自然な生を生きていたら、親密さという恐れはなく、途方もない喜びがある・・・ふたつの炎が、ほとんどひとつの炎になるほど近づき合う、その喜びが。そしてその出会いは、途方もない喜びを、満足を、充足をもたらす。 

だが親密さを試みることが出来る前に、あなたは自分の家を完全に綺麗にしなければならない。親密さが起こるのを許すことが出来るのは、瞑想の人だけだ。彼には隠すものが何もない。彼は、誰かが知ってしまうかもしれないという恐れを抱かせていた、その全てを、自分自身を落とした。彼には沈黙と、愛に溢れたハートしかない。 

あなたは自らの全体性において、自分を受け容れなければならない。もし自らの全体性において自分を受け容れることが出来なければ、他の誰かが自分を受け容れてくれることを、どうして期待することが出来るだろう?しかもあなたはあらゆる人から非難されて、ひとつのこと、自分を非難することしか学んでいない。 

あなたはそれを隠し続ける。それは他人に見せるような、素晴らしい何かではない。あなたは醜い物事が自分の中に隠されているのを知っている。あなたは邪悪な物事が自分の中に隠されているのを知っている。あなたは動物性(アニマリティ)が自分の中に隠されているのを知っている。あなたが自分の態度を変容させて、自分を存在の中の1匹の動物として受け容れない限り・・・。 

「アニマル」という言葉は悪くない。それはただ、活気に満ちているという意味だ。それは「アニマ」に由来している。活気に満ちていれば、誰でもアニマルだ。だが人間は「あなたは動物ではない。動物はあなたよりもはるかに低い。あなたは人間だ」と教えられて来た。あなたは偽りの優越性を与えられて来た。 

存在は優越者も劣等者も信じない、というのが真実だ。存在にとっては、あらゆるものが平等だ・・・木々、鳥達、動物達、人間達。存在の中ではあらゆるものが、そのあるがままで完全に受け容れられている。非難はない。もしあなたがどんな条件もなく自分の性欲を受け容れたら、もしあなたが世界の中にいる人間とあらゆる存在は壊れやすい、ということを受け容れたら・・・。 

生命はどのような瞬間にも崩れ落ちることのあり得る、非常に細い糸だ。一度これが受け容れられて、あなたが偽りの自我・・・アレキサンダー大王、3倍も偉大なモハメッド・アリだという・・その自我を落としたら、もしあなたが、誰もがその人が普通であることで素晴らしいということを、そして誰にも弱さはあるということを理解しさえしたら・・・。それらは人間の本性のひとつだ。あなたは鉄で創られているのではないからだ。 

あなたは非常に壊れやすい肉体で創られている。あなたの生命範囲は、華氏98度から110度の間だ。体温にしてわずか12度が、あなたの生命の全範囲だ。それよりも下がるとあなたは死んでしまう。それを越えてもあなたは死んでしまう。そしてそれと同じことが、あなたの中の千とひとつのことに当てはまる。 

あなたのもっとも基本的な必要のひとつは、必要とされることだ。だが誰もそれを受け容れたくない。「必要とされること、愛されること、受け容れられることが、私の基本的な必要だ」とは。私達はそれほどの自負、それほどの偽善で生きている・・・それが、親密さが恐怖を生み出す理由だ。あなたは、あなたらしくない。あなたの見かけは偽りだ。あなたは聖者のように見えるかもしれないが、奥深くでは依然として弱い人間だ。あらゆる欲望と、あらゆる憧れを持っている。 

最初のステップは、あなたのあらゆる伝統にもかかわらず、自分を全面的に受け容れることだ。その伝統が人類全体を狂気に駆り立てて来た。あるがままの自分を一度受け容れたら、親密さという恐怖は消える。 

あなたは尊敬を失うことは出来ない。あなたは自分の偉大さを失うことは出来ない。あなたは自分の自我を失うことは出来ない。あなたは自分の敬虔さを失うことは出来ない。あなたは自分の聖人らしさを失うことは出来ない・・・。あなたは自分自身である全てを落とした。あなたは完全に無垢で、まさに幼い子供のようだ。あなたは自分自身を開くことが出来る。なぜならあなたは、倒錯になっている醜い抑圧でいっぱいになっていないからだ。 

あなたは自分が真正に、正直に感じることを何でも言うことが出来る。そして親密になる用意があなたにあれば、あなたは相手の人にも親密になるように勇気づける。あなたの開いていることが、相手の人もまた、あなたに対して開くことを助ける。あなたの自負のない単純さが、相手にも単純さを、無垢を、信頼を、愛を、開いていることを楽しませる。

あなたは愚かな概念で身を固めている。そしてその恐怖とは、自分が誰かと非常に親密になったら、その人がそれに気づくだろうということだ。だが、私達はもろい存在だ・・・存在全体の中でもっとももろい。人間の子供は全ての動物の中で、もっとももろい子供だ。他の動物の子供達は、母親がいなくても父親がいなくても、家族がいなくても生き延びることが出来る。だが人間の子供はすぐに死ぬ。 

だから、このもろさは非難を受ける何かではない・・・それは意識の最高の表現だ。薔薇の花は弱くなる。それは石ではない。あなたが石ではなく薔薇の花であっても、そのことで気を悪くする必要はない。ふたりの人物が親密になって初めて、彼等はもはや見知らぬ人ではない。そして、自分だけが弱さでいっぱいになっているのではなく・・相手もまた・・おそらくは誰もが弱さでいっぱいになっていることに気づくのは、素晴らしい体験だ。 

あらゆるものの、そのより高い表現は弱くなる。根は非常に強い。だが、花はそれほど強くはあり得ない。その美があるのは、それが強くはないからだ。朝になると花は太陽を迎え入れ、風の中で、雨の中で、太陽の中で踊る為に、その花びらを開く。そして夕方になると、その花びらは落ち始める。それは去っている。美しく貴重なもの全ては、束の間のものになる。 

だがあなたは、あらゆるものが永遠であって欲しい。あなたは誰かを愛して「私は一生あなたを愛する」と約束する。ところがあなたは、明日ですら自分には確信がないことを完全によく知っている・・・あなたは偽りの約束をしている。あなたに言える全ては「私はこの瞬間には、あなたとの愛の中にいる、私は自分の全体性をあなたに与えよう。次の瞬間については、私は何も知らない。どうして約束出来るだろう?あなたは私を許すしかない」ということだけだ。 

だが恋人達は、果たすことの出来ない、あらゆる種類のものごとを約束し合っている。そうなると欲求不満が入り込む。そうなると隔たりはさらに大きくなる。そして戦い、衝突、争い・・・もっと幸せになるはずだった生は、長く引き伸ばされた惨めさにすぎなくなる。 

 

ラーマ・プレム、あなたが自分の最大の恐怖に気づいているのはいいことだ。それが親密さという恐れだということに。それはあなたへの偉大な啓示、そして革命になり得る。あなたが内側を見て、自分が恥ずかしく感じているあらゆることを落とし始めたら・・・。そして、自分の本性をあるがままに受け容れるがいい。どうあるべきかではなく。私はどのような「べき」も教えない・・・あらゆる「べき」は人間のマインドを病気にする。 

人々は「在ること」の美を、自然の途方もない輝きを教えられるべきだ。これらの木々は、どのような十戒も知らない。鳥達は、どのような聖なる教典も知らない。自分の為に問題を創ってしまったのは人間だけだ。自分の本性を非難することで、あなたは分裂する。あなたは精神分裂症にかかる・・・しかも普通の人々だけではなく、マインドに対する人間の理解に偉大な貢献をした、ジグムント・フロイトのような地位についている人々ですら・・。 

彼の手法は精神分析だった。あなたは自分の中の無意識な全てに気づくべきだ、と。そしてその秘密とは、無意識な何かが意識しているマインドのもとに一度引き出されたら、それは蒸発するということだ。あなたはもっと綺麗に、もっと軽くなる。無意識が楽になればなるほど、あなたの意識は大きくなり続ける。そして無意識の範囲が縮めば縮むほど、意識の領域は拡大する。これは測り知れない真理だ。 

東洋は何千年もの間、それを知っていた。だが西洋へはジグムント・フロイトが紹介した・・・東洋と、その心理を何も知らずに。それは彼の個人的な貢献だった。だがあなた方は驚くだろうが、彼には精神分析を受ける用意が一度も出来ていなかった。精神分析創始者は、一度も精神分析を受けなかった。 

彼の同僚達は、何度も何度も主張した。「あなたが私達に与えてくれた手法・・・私達はみな精神分析を受けました。なぜあなたは、自分は精神分析を受けるべきではないと言い張るのですか?」彼は言った。「そのことは忘れるがいい」彼は自分を露わにすることを恐れていた。彼は偉大な天才になっていた。自分を露わにすると、普通の人間に落ちてしまう。彼にも同じ恐怖、同じ欲望、同じ抑圧があった。 

彼は自分の夢については、決して話さなかった・・・彼は他人の夢を聴いただけだ。彼の同僚達は非常に驚いた。「あなたの夢を知ることは、偉大な貢献になるのです」だが彼は、精神分析家のカウチ(寝椅子)に横になり、自分の夢について話すことには決して同意しなかった。なぜなら彼の夢は、他の誰とも同じように普通だったからだ。それが恐怖だった。 

ゴータマ・ブッダのような人だったら、瞑想に入って行くのを恐れはしなかっただろう。それは彼の貢献だった・・・ある特殊な瞑想だ。それに彼は、どのような精神分析も恐れはしなかっただろう。なぜなら瞑想する人にとっては、次第に夢が消えるからだ。 

昼には、彼は自分のマインドの中で沈黙している。思考の普通の往来の中ではない。夜には、彼は深く眠る。なぜなら夢とは、昼には生きられなかった思考、生きられなかった欲望、生きられなかった憧れ以外の何ものでもないからだ。それらは少なくとも夢の中で、自らを完結させようとしている。 

自分の妻の夢を見る男性、あるいは自分の夫の夢を見る女性を見出すのは、非常に難しいだろう。だが彼らが隣人の妻や、隣人の夫の夢を見るというのは、間違いなくよくあることだ。妻はそこにいて手に入る。自分の妻に関する限り、彼は何も抑圧していない。だが隣人の妻の方がいつでも美しい。 

壁の向こう側の方が、芝生はいつでも瑞々(みずみず)しい。そして手の届かないものは、それを自分のものにしようとする、それを所有しようとする、深い欲望を生み出す。昼にはそうすることは出来ないが、少なくとも夢の中では、あなたは自由だ。夢を見る自由は、政府によってまだ奪われていない。それほど長くはないだろう・・・すぐに彼らはそれを奪ってしまうだろう。なぜなら手法が手に入るからだ。すでに手に入る。 

彼らはあなたが夢を見ている時と、夢を見ていない時とを見守ることが出来る。そしていつの日か、スクリーンにあなたの夢を映し出すことの出来る科学的な装置が見出されることもあり得る。何かの電極を、あなたの頭の中に差し込むだけでいい。あなたは眠り込み、楽しげに夢を見ている。隣人の妻と愛を交わしている。そして映画館全体がそれを見守っている・・・ところが彼らは、この人は聖者だといつも思っていたのだ! 

この程度だったら、あなたでも見ることが出来る。ある人物が眠っていたら、見守ってごらん。もし彼の目蓋(まぶた)が、内側の目の動きを少しも示していなかったら、彼は夢を見ていない。もし彼が夢を見ていたら、彼の目蓋が動いているのが分かる。あなたの夢をスクリーンに映し出すのは可能だ。あなたにある種の夢を強制することも可能だ。だが少なくとも現在に至るまで「人々には夢を見る自由がある、それは彼らの生得権だ」と、そのことについて語る憲法すらひとつもない。 

ゴータマ・ブッダのような人は夢を見ない。瞑想はマインドを超える道だ。彼は完全な沈黙の中で生きている。24時間・・・彼の意識という湖には、さざ波は立っていない。思考はない、夢はない。だがジグムント・フロイトは恐れている。彼は自分が何を夢見ているか知っているからだ。 

私は実際にあった、ある出来事を聞いたことがある。3人の偉大なロシアの小説家・・・チェーホフゴーリキートルストイが公園のベンチに座って噂話に興じていた・・・彼らは偉大な友人だった。全員が天才だった。そして全員が偉大な小説を生み出した為に、今日でさえ世界の偉大な小説を10冊挙げたければ、少なくとも5つはロシアの小説家達のものになるほどだ・・・革命以前の。 

革命以後、彼らは天才の資質を含んでいる小説はひとつも生み出していない。今では政府の命令のもとにある。政府が唯一の出版社だ。政府が吟味する。が、吟味する人々は芸術については何も知らない。彼らは官僚だ。 

プーナの警察署長が、私の講話が出版される前に自分がそれらを吟味するべきだ、と申し入れて来たばかりだ・・・が、警察署長が瞑想とどんな関わりがあるというのかね?だがロシアではそれが起こっている。そしてその為に革命後の70年というもの、彼らは偉大な小説をひとつも生み出せずにいる。だが革命以前は、ロシアは創造性の頂点にあった。この3人の人々は、今でも偉大な小説家として挙げられている。 

チェーホフは、自分の人生における女性達のことを話していた。ゴーリキーが加わり、彼も2,3のことを話した。だがトルストイは沈黙していた。トルストイは非常に正統的な、宗教的なキリスト教徒だった。インドのマハトマ・ガンディーは3人の人物を自分のマスターとして受け容れたが、その1人はトルストイだったと知ったら、あなた方は驚くだろう。彼はあまりにも抑圧しすぎていたに違いない! 

彼はロシアではもっとも裕福な人々の1人だった。彼は王家に属していた。だが彼は、貧しい乞食のように生きた。なぜなら「貧しき者こそ祝福はある。彼らこそ神の王国を相続する」とあり、彼は神の王国を諦めるのは気が進まなかったからだ。それは単純さではない。そして無欲でもない・・・それは過大な欲望だ。それは過大な強欲だ。それは力を求める過大な本能だ。彼はこの生と、その喜びを犠牲にしている。それは小さな生だからだ・・・その後で、永遠に渡って彼は天国と神の王国を楽しむ。 

それはいい取り引きだ。ほとんど宝くじに似て確実だ。彼は非常に禁欲的な生活をしていた。菜食の食事しか食べずに・・・彼はほとんど聖者だった。当然、彼の夢は非常に醜かったに違いない。そしてチェーホフゴーリキーが「トルストイ、なぜ君は黙っているんだ?何か言えよ!」と彼に尋ねると、彼は言った。「私は女性達については何も言えない。墓に片足突っ込んだら、その時にのみ何かを言おう。私はそれを言って墓に飛び込む」なぜ彼は、何かを言うことをそれほど恐れていたのか、あなた方は理解することが出来る・・・それは彼の内側で煮え立っていた。 

さてあなた方は、トルストイのような人とはあまり親密になれない。親密さとは、ただあなたの為にハートの扉が開かれているという意味だ。あなたは入って、客になることを歓迎されている。だがそれは、抑圧されている性欲で悪臭を放っていないハートを、あらゆる種類の倒錯で煮え立っていないハートを、自然で・・・木々のように自然で、子供達のように無垢なハートをあなたが持ってこそ可能だ。そうなったら親密さという恐れはない。 

それこそ、私がやろうとしていることだ。あなたが自分の無意識を楽にするのを、自分のマインドを楽にするのを、普通になるのを助けることだ。ただ単純で、普通である以上に美しいものは何もない。そうなったら、あなたは可能な限り多くの親密な友人を、多くの親密な関係を持つことが出来る。あなたは何も恐れていないからだ。あなたは開かれた本になる・・・誰でもそれを読むことが出来る。隠すものは何もない。 

毎年ある狩猟クラブは、モンタナの丘陵地帯に出かけていた。メンバー達はストローを引いて、誰が料理の受け持ちになるかを決めた。さらに食事に文句をつけた者は、誰であれ自動的に運の悪い料理人と交替することにも同意した。2,3日経っても、誰も敢えて正直に発言する危険を冒しそうにないことが分かって、サンダーソンはやけくその計画を実行に移すことに決めた。彼はオオツノ鹿のうんこをいくつか見つけて、その日の夜シチューにふた握り加えた。 

キャンプファイヤーの周りには、最初の2,3口でしかめっ面が並んだが、誰も何も言わなかった。そのうちに、ひとりのメンバーが突然沈黙を破った。「おい!」と彼は感極まって叫んだ。「こいつはオオツノ鹿の糞のような味がするな・・・だが、美味いぜ!」彼は文句を言っているのではない。事実、誉めている! 

あなたは非常に多くの顔を持っている。内側では、あなたはあることを考える。外側では、何か別のことを表現する。あなたは、ひとつの有機的な全体ではない。くつろいで、社会があなたの中に創り上げた分裂を壊すがいい。本気にしていることだけを言うがいい。あなた自身の自発性に従って行動するがいい。決して結果を思い煩ってはいけない。それは小さな生だ。ここと、その先の結果について考えることで、それを台無しにするべきではない。 

人は全面的に、強烈に、楽しく、誰でもそれが読めるような、まさに開かれた本のように生きるべきだ。もちろん、あなたは歴史の本に名前を残すことはないだろう。だが、歴史の本に名前を残すことにどんな意味がある?覚えておかれることを考えるよりは、生きるがいい。あなたは死んでいるのだ。 

何百万という人々が地上に生きて来た。が、私達は彼らの名前すら知らない。その単純な事実を受け容れるがいい。あなたはわずか2,3日ここにいて、そしていなくなってしまうということを。この2,3日は偽善で、恐怖の中で浪費されてはならない。これらの日々は、楽しまれるべきだ。未来については、誰も何も知らない。あなたの天国とあなたの地獄、そしてあなたの神は、まず間違いなく仮説だ。証明されていない。あなたの手の中にある唯一のものは、あなたの生だ・・・それを、出来る限り豊かにするがいい。 

親密さによって、愛によって、多くの人々に自分を開くことによって、あなたはさらに豊かになる。もしあなたが多くの人々と深い愛、深い友情、深い親密さで生きることが出来たら、あなたは正しく生きたことになる。そして、あなたがどこにいることになろうとも・・・あなたはそのアートを学んだのだ。あなたはそこで生きているかもしれない、それでも幸せに。

 

私は英国の哲学者、エドモンド・バークを思い出す。彼は英国の大司教ととても仲がよかった。エドモンド・バークが大学で講演をすると、大司教は決まって彼を聴きに行ったものだ。聴くだけの価値はあった・・・彼の声明ひとつひとつが彼の全体性を伴って、偉大な権威を伴って来ていた。だが彼は日曜日に、教会に大司教を聴きに行くことは決してなかった。大司教は言った。「少なくとも一度は来るべきだ。私はいつも君を聴きに行っている・・・」 

エドモンド・バークは言った。「あなたが私を聴きに来るのは、あなたが何を知っていようとも、それはあなたの知識ではないからだ・・・それは全て借り物だ。しかも、あなたはそれに確信がない。私が何を言おうとも、それは私の体験だ。そして私は、それに対するあらゆる証明と証拠と論拠を挙げる。私は自分の声明の為に命を賭けることが出来る。あなたはオウムにすぎない。だがあなたが求めているから、私は次の日曜日には行こう」

そこで大司教は、本当に素晴らしい説教を準備した。エドモンド・バークが列席するのだから、説教は出来る限り偉大なものでなければならない、と考えて・・・。だが彼は驚いた。エドモンド・バークは最前列に座っていたが、彼の顔には感動が見受けられなかった。大司教は彼がそれを気に入っているのか、嫌っているのか、それに同意しているのか、あるいは異議があるのか、判断することが出来なかった。彼は非常に困惑した。 

説教が終わると、エドモンド・バークは立ち上がって言った。「質問がある。非常に単純な質問だ。というのもあなたの説教全体は、つまるところあなたのキリスト教神学に従って、徳の高い生を生きジーザス・クライストを信じる人々は、この生の後で天国に行くということだからだ。ジーザス・クライストを信じずに罪人の生を生きる人々は、この生の後で永遠の地獄に落ちる。私の質問は」とエドモンド・バークは言った。 

「もしある人物が、徳は高いがジーザス・クライストを信じていなかったらどうなるのか?ということだ。彼は善良だ。彼の生涯は称賛するに値する生だ。だが彼はジーザス・クライストを信じていない・・・彼はどこに行くことになるのか?あるいはジーザス・クライストを信じてはいるが、たいへんな罪人である人は・・・彼はどこに行くことになるのか?あなたは、ふたつの非常に重要な要点に言及しそこねた。あなたの説教は半分だった。私は、あなたがこのふたつの可能性に気づいているかどうか見る為に、待っていたのだ」 

大司教はしばらく考えた。質問は本当に危なかった。もし彼が、善い人々はジーザス・クライストを信じようが信じまいが、天国に行くことになると言ったら、ジーザス・クライストと彼への信仰は余計なこと、非本質的なことになる。そしてもし彼が、ジーザス・クライストを信じる者達は罪人であろうとも天国へ行くと言ったら、罪は教会そのものによって認められることになる。彼は非常に混乱した状況に陥った。 

彼は言った。「あなたの質問は、しばらくよく考えてみる必要があります。私に7日間ください・・・次の日曜日にはそれに答えましょう」7日間、彼はあらゆる教典に取り組んだ。この方法、あの方法とやってみた。だが・・・質問は単純だった。そして彼はディレンマに陥った。この7日間、彼は眠れなかった。 

どうやって彼は、エドモンド・バークと自分の会衆に顔を合わそうというのかね?彼が何を言っても、間違いのように思われる・・・それはジーザス・クライストに反するか、あるいは徳の高い生に反するか、そのどちらかだ。彼はその男を教会に来るように招いたことを、およそ後悔した! 

彼は朝早く教会に行った。会衆が来る前に。依然として彼には答えが何もなかった。彼は考えた。「朝早く誰も教会にいない時、私はクライストその人に光を見せてください、答えを与えてくださいと祈ろう。私の名声が危機に瀕しているだけでなく、彼の名声も危機に瀕しているからだ」 

7日間、絶えず思い煩い、眠らずに・・・彼はジーザス・クライストの像の前で礼拝していた。彼は眠りに落ちて夢を見た。言うまでもないことだが、7日間、彼のマインドの中にはひとつのことしかなかったのだから、その夢もまたそれと関わりがあった。 

彼は自分が列車に乗っているのを見て、こう尋ねた。「私達はどこに行こうとしているのですか?」誰かが言った。「この列車は天国に行くんだ」彼は非常に気が楽になって、こう言った。「それはいい。おそらくこれはジーザス・クライストがしていることなんだ。誰が天国に行き誰が行かないかを、自分で見ることが出来るわけだ」 

天国の駅に着くと、彼にはそれが信じられなかった。駅は非常に朽ち果てていた・・・彼は天国の中に入った。彼が出会う人々は、ほとんど歩く屍(しかばね)のようだった。彼は何人かの聖者を認めて、彼らに尋ねた。「ひとつお聞きしたいのですが、ゴータマ・ブッダはどこにおられますか?というのも彼はジーザス・クライストも、神も決して信じてはいませんでしたが、思いつく限りもっとも道徳的な人々のひとりではあったのですから」聖者は言った。「彼はここにはいない」 

ソクラテスは?彼も神を信じる人ではありませんでしたが、非常に徳の高い人でした」「彼もここにはいない」そこで彼は言った。「なぜ、この天国全体が廃墟のように見えるのですか?それに聖者達は死人のようです・・・喜びがあるとは思えません。私は天使達が竪琴を奏でながら、歌い続けているものといつも考えていました。天使も、竪琴も、歌も、踊りも、見当たりません。何人かの生気のない、死んだような聖者達が、木々の下に座っているだけです」そして彼が誰に尋ねても、彼らはこう言った。「私達に構わないでくれ。私達は疲れているんだ」 

その瞬間に、おそらく地獄に行く列車もあるかもしれない、というちょっとした考えが彼のマインドに入って来た。そこで彼は急いで駅に戻った。列車はプラットフォームに停まっていて、地獄に向かうところだった。彼は列車に乗り込み、地獄が近づくにつれてますます困惑して来た。風は花の薫りがして、緑がとても多く、言いようもなく瑞々しかった。駅は非常に美しかった・・・駅がこんなにも美しくあり得るとは、彼は一度も考えたことがなかった。 

見ると人々は非常に幸せで、非常に喜びにあふれていた。彼は言った。「何てことだ。何かがおかしくなっているのか、それとも?」彼は尋ねた。「これは本当に地獄なのか?」彼らは言った。「かつてはそうだった。ゴータマ・ブッダソクラテスエピクロス、マハヴィーラ、老子、これらの人々がここに来る前は地獄だった。だが今では、彼らが場所全体を変容した」 

彼は地獄に入った。それは信じられなかった。純然たる喜びだった。空気そのものが至福に満ちていた。そして踊りがあり、歌があった。そこで彼はある人に尋ねた。「ゴータマ・ブッダはどこにおられますか?」すると彼らは言った。「庭園の中が見えますか?彼は薔薇に水をやっています」「で、ソクラテスはどこに?」すると彼らは言った。「ソクラテスは畑で働いています」「エピクロスはどこに?」彼らは言った。「彼はあなたのそばを通り過ぎたばかりですよ。踊りながらギターを弾いていた人が、エピクロスでした」

まさにその瞬間に、あまりのショックで・・・彼は目が覚めた。彼は言った。「何てことだ、何という夢なんだ!」そして、人々が到着し始めていた・・・なかでもエドモンド・バークはすでに最前列の席について、答えを待っていた。哀れな大司教は言った。「私は答えを見い出すことが出来ませんでした。ですが夢を見ましたので、それをあなた方にお話しすることにします。みなさんは、その夢から答えを締めくくることが出来るでしょう」 

彼は夢を詳しく述べた。エドモンド・バークは言った。「さあ、あなたも結論を出しなさい!結論ははっきりしている。善い人々がいるところであれば、どこであれ、そこに天国があるということだ。善い人々が天国に行くというのではない・・・善い人々がいれば、どこであれ、そこが天国になる。そしてどこであれ、愚かな人々と白痴達がいれば・・・彼らは神と、ジーザス・クライストと、『聖書』の偉大な信者かもしれないが、それは問題ではない・・・天国ですら廃墟になる。それは地獄になる」 

私はこの出来事をとても愛した。これは私のアプローチでもあるからだ。もしあなたが単純で、愛に溢れ、開いて、親密だったら、あなたは自分の周りに天国を創る。もしあなたが閉じていてたえず防御しながら、誰かが自分の思考を、自分の夢を、自分の倒錯を知るようになるかもしれないと、常に思い煩っていたら・・・あなたは地獄に住んでいる。地獄はあなたの内側にある、天国もそうだ。それらは地理的な場所ではない。それらは、あなたのスピリチュアルないくつかの空間だ。 

ラーマ・プレム、自分を綺麗にしなさい。そして瞑想は、あなたのマインドの中に集まった、あらゆるゴミの掃除以外の何ものでもない。マインドが沈黙し、ハートが歌っている時は・・・この鳥達をただ聴くがいい。あなたはどんな恐れもなく、大いなる喜びをもって、親密になる用意が整うだろう。 

そして親密さがなければ、あなたはここで、見知らぬ人々の間で独りだ。親密さがあれば、あなたは友人達に、あなたを愛している人々に囲まれている。親密さは大いなる体験だ。人は、それを見逃すべきではない。 

だが親密さを恐れないようになれる前に、宗教があなたの中に注ぎ入れて来ているあらゆるゴミを、何世紀もの間あなたに手渡されて来たあらゆるたわごとを、あなたは完全に綺麗にしなければならない。それを全て終わらせなさい。そして平和の、沈黙の、喜びの、歌と踊りの生を生きるがいい。そして、あなたは変容する・・・あなたがどこにいようとも、その場所が楽園になる。 

OSHO:The Hidden Splendor (1987年3月4日) (日本語版ラジニーシ・ニューズレター、97号)より