OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

131.ブッダフィールドについて

<OSHOの講話より> 

質問:愛するOSHO。仏陀が光明を得る為に、妻や子供を捨てる必要が本当にはなかったのなら、光明というものはどこででも起こり得るものなのでしょうか?どうして私は、あなたのブッダフィールドの中にいる必要性を感じるのでしょう。 

デヴァ・スラティ、仏陀もまた自分がブッダ(覚者)となるまではそのことが、つまり光明はどこででも起こるということが分からなかった。それが分かったのはブッダとなってからだ。 

だから王宮を離れ、子供、妻、両親と別れ、遥か彼方の山々にある洞窟や人里離れた密林にこもり、自然の中で独りで暮らし、社会や社会による条件付けを後にしなければならなかった。 

ブッダとなって初めて、同じことはどこにいても起こったであろうことを理解した。いったんブッダとなったら、世界の見え方は全く変わって来る。すでに到達した者が、そのようなことを口にするのは易しい。 

そして、それこそが最大の問題だ。つまりブッダとなった人間が何を言おうと、それはすでに到達した者が言うことで、それを耳にする人間はまだ到達していないということだ。

そこに交感が起こるのは困難だ。非常に困難だ。ブッダとなった人間は言う、「あなた方はみんなブッダだ」。だが「あなた方はみんなブッダだ」という言葉を耳にして、あなた方は言う。 

「それなら何も心配しないでいい。どうして瞑想などする必要がある。どうしてサニヤシンになる必要がある」などと。そのように理解するならば、完全に要点を逃したことになる! 

仏陀の言うことが誤っている訳ではない。彼は全く正しい。だが彼の言うことの真実を理解するには、あなた自身の体験が必要だ。いつの日か、あなたもまたブッダとなる。そうしたらあなたも言うだろう。何を捨てる必要もなかったと。 

あるいは「マスターのブッダフィールドにいる必要もなかった」とも言うだろう。だがブッダフィールドにいることは、現在のあなたにとっては必要だ。絶対に不可欠だ。 

ブッダフィールドは、その外部でも起こることが可能な数多くのプロセスを助ける。だが、そのプロセスが外部で起こるには、とても長期にわたる懸命な努力が必要だ。 

対岸に向かって風が吹いている時には、簡単に川を渡ることが出来る。舟をこぐことはない。放っておけば、風が対岸に運んでくれる。ブッダフィールドでは、風は彼岸へと吹いている。風に身を任せればよい。何の努力もなしに彼岸に到達するだろう。 

独力で彼岸に到達することも出来るだろうが、その場合には舟をこぐ必要がある。また海図にない領域を、独りで旅することの危険を犯さなければならない。 

ブッダフィールドでは、あなたは独りではない。たくさんの人々が動いている。あなたの先をゆく人もあれば、あなたの後をゆく人もいる。そしてあなたは、人々が動いているのが分かる。彼らが新しい洞察を身につけつつあること、彼らが進歩しつつあること、そして彼岸へと段々に近づきつつあることが分かる。 

あなたの先をゆく人々は、いつでもこう言ってあなたを励ますことが出来る。「心配することはない。どんどん旅を続けるがいい!私達のいるところからはすでに彼岸が見える。まもなく、あなたにも見えて来るだろう」 

あなたもまた自分の後をゆく人々に、多くのことを言ってやることが出来る。彼らは大きな確信を必要としている。未知へと旅することは、簡単なプロセスではない。ブッダフィールドが、人々を結ぶ鎖となる。 

スラティ、根本においてはあなたが言うことは正しい。どこにいてもブッダになることは出来る。だがブッダフィールドにいることで、ものごとはずっと簡単になる。深い愛と信頼の中でマスターと共にあることで、いろいろなことが起こり出す。春の訪れと共に、花が咲き出すように。 

季節外れに花を咲かせることも出来るだろうが、それには大きな努力、無駄骨折りが必要だ。春の訪れと共に、ものごとはひとりでに起こる。いったんそれが起こり出したら、誰の目にもそれは簡単なものに見える。 

コペルニクスがある法則を発見した時、人々は言った。「そんなことは誰にでも発見出来た。単純なことじゃないか」だがコペルニクス以前に、それを発見した人はいなかった。

コロンブスアメリカを発見して帰国した時、人々は言った。「これは大したことじゃない。騒ぎ立てるほどのことはない。地球は丸いのだから誰にもやれたことだ」コロンブスは言った。「3年前、地球は丸いと言った時には、誰も耳を貸さなかった。女王陛下が協力に応じて下さった時には、こちらが驚いたくらいだ」 

同じことは何回となく起こった。未知の何かを男性が理解出来ない時でも、女性はそれを理解出来た。男性はゆっくりとした論理的なプロセスを辿(たど)ってから、結論に達する。女性は直観的だ。ゆっくりしたプロセスを辿ったりしない。女性は結論に飛びつく。

だから女性と話したり議論したりするのは難しい。男性はいつも当惑してしまう。男性は非常に整えられた論理を用い、完全な論拠を準備し、一歩一歩論理を展開するのだが、女性は何の前提も展開もなしに、突如として結論に達するからだ。男性と女性は全く違った世界に生きている。 
スペインの女王はコロンブスの申し出に合意した。「いいでしょう、行きなさい。私が費用を持ちます」みんなが馬鹿な女王だと笑った。「女はやっぱり女だ。気まぐれで気違いだ!あの女王に地理や天文の何が分かる。あの男に上手く騙されたものだ」だが今ではみんなが、それは簡単なことだったと口にしていた。 

コロンブスは皿から卵を取ると王宮の人々に言った。「この卵をテーブルの上に立てられる人はいるだろうか」全員が試したが、誰がやっても卵は倒れてしまう。みんなは言った。「これは不可能だ。どうしたら卵を立てられるというのだ。こんな丸いものはすぐに倒れてしまう」 

全員が試してそれが不可能だということを納得すると、コロンブスは卵を取ってテーブルに打ちつけ、底の部分を平らにした。卵はテーブルの上に立った。 

みんなは言った。「これはインチキだ!どうして初めからこのやり方を言わなかったんだ。そうすればやったのに!」コロンブスは言った。「いったんやられたことは簡単になる。私はこの方法がいけないなどとは言っていなかった。それなのに誰もこの方法を思いつかなかった。今ではそれは簡単なことだ。誰にでも出来ることだ。大層なことではない」 

あなたがブッダとなった日には、それがどれだけ単純なことだったかを知って驚くだろう。きっと不思議に思うだろう・・・どうしてこれまでこれが起こらなかったのか。どうしてこんなに長く、何生も何生もかかったのか。 

インドでは、それまでには何百万もの生を経なければならないという。それは正しい。「どうして何百万生もかかったのか。こんなに単純なプロセスの為に!」・・・あなたは人間の愚かさと奇妙さに笑うだろう。 

ブッダ達は、まだ覚醒していない人々が聞いたら危険とも思われることを口にするものだ。たとえば、仏陀はどこででも光明を得られたと耳にしたあなたは、自分がこの場所から離れることを合理化するかもしれない。 

それはあなたのマインドの策略だ。その場合には、あなたはブッダになれないと言っている訳ではない。あなたはどこででもブッダになれる。たとえカリフォルニアでも。 

だがここ以外の場所では、それはずっと難しくなる。それがここで起こらないなら、他の場所でそれが起こるのは全くもって困難だろう・・・完全に不可能だとは言わないが。 

それは完全に不可能な訳ではない。可能性はある。だが可能性のあることが、必ずしも起こるとは限らない。適切な環境なしには、可能なことも起こらない。

 

実際のところブッダフィールドとか、ブッダになるとかいう考えは、ここにいるからこそあなたに浮かんで来た。西洋ではキリストを崇拝する人はいるが、キリストになろうなどとは誰も考えない。そのような考えは冒涜だとされる。 

キリストはひとりしかいない。神の1人息子のキリスト様だ!彼らにとっては、クリスチャンになるということで充分だ。キリストになろうという考えそのものが、気違いじみたものとされる。 

あなたはブッダになれる、クリシュナになれる、人間に可能な最高の高みに達することが出来る。あなたの存在には超越の種が秘められているという東洋の教えは、人類の意識の成長に貢献した。 

だが種には、適切な土壌と庭師が必要だ。マスターは庭師であり、彼のエネルギー・フィールドこそが適切な土壌だ。 

マインドの策略に注意するように!マインドはいつも、なぐさめや合理化を求めている。道を歩む者は絶えず、合理化となぐさめに注意しなければならない。 

農夫が野菜を売りに町にやって来た。野菜が売れた後、農夫はショーを見て楽しむことにした。ショーで興奮した農夫は、スーツから帽子まで新しい服を一式そろえて帰り、女房を驚かせることにした。農夫は買った衣装を運転席の下に押し込むと家路についた。途中農夫は、古い服を川に投げ捨てた。車に戻って運転席の下を見ると、新しい服がなくなっていた。「なんてこった!」と農夫は言った。「だけど女房が驚くことには変わりはないぜ」 

マインドはいつも、あなたになぐさめを見つける。マインドはこう言うかもしれない・・・「分かるものか。ここで起こらないならどこでも起こらなかったかもしれない。ここで起こるなら、どこでも起こったはずだ」 

だが私は、究極の真実を否定することは出来ない・・・その真実はまだ、あなたの領分ではないのだが。 

究極の真実とは、あなた方はすでにブッダだということだ。起こるか起こらないかの話ではない。だから、どこでそれが起こるかなどという問題は存在しない。それは家でも森林でも世間でも僧院でも起こる。マスターと一緒でもマスターなしでも起こる。罪人にも起これば、聖人にさえも起こる。 

嘘ではない!私はそれが起こった2,3の聖人を知っている。だから究極の可能性がそこにある。だが究極の可能性を即座に現実的なものとするのは、全く別のプロセスだ。それをすぐにも現実のものとするには、どうしたらよいか? 

マスターは大きな助けとなる。そして、そのマスターにブッダフィールドがあったなら・・・ブッダフィールドを生み出すことなく、ひとりで旅するマスターもいる。 

マスターがブッダフィールドを生み出すには、数千人の弟子が必要だ。マスターはあらゆる種類の人々が貢献し、それぞれのエネルギーを注ぎ込む、多次元的なエネルギーの集体を生み出さなければならない。 

彼は、エネルギーの海を生み出さなければならない。そこに入った者は必ず・・・時には意に反してでも、あるいは何が起こっているかを知ることなしにも・・・変容されるようなエネルギーの海だ。 

マスターと共にあれば、それはより簡単に起こる。ブッダフィールドを生み出したマスターと共にあるならば、それはさらに容易となる。 

そして私の努力は、ただこの場所にブッダフィールドを生み出すだけではなく、全世界に小さなオアシスを創ることにある。この莫大な可能性を、この小さなコミューンだけに閉じ込めたくはない。 

このコミューンは源泉であり、全世界に支流が流れ出す。このコミューンは根だ。それは大きな樹となって全世界に、可能性のある全ての個人へと枝を伸ばす。 

私達は世界中に、小さなコミューンやセンターを創り始めている。全世界で200ばかりの小さなファミリーが活動している。ここのコミューンが本当の意味でトータルに確立されたら、世界中で1000のコミューンが生まれることになる。 

このコミューンは途方もない原動力を与え、全世界に大きな羨望をもたらし、世界にはとてもたくさんのコミューンが生まれるだろう。 

そしてどこであれ、私のサニヤシンの集まるところには、私もそこにいる。どこであれ彼らが坐って瞑想するところでは、私の臨在が感じられるだろう。 

だからまず、根を生やさなければならない。そうしたら枝を伸ばす。世界中の人々がここに集まることは出来ない。だが私達からのメッセージを伝える人々、私達の使徒達を全世界に送り、それによって遠くまで幅広く枝を伸ばすことが出来る。 

私達は全世界を覆い尽くすことが出来る。私達は全世界を覆い尽くすだろう! 

今日そのことには、途方もない重要性がある。それが起こらない限り、人類に未来はない。「旧人類」はすでに死んでおり、あなた方はその死体を運んでいるだけだ。 

新しい人類は絶対に必要とされており、新しい人類が生まれない限り、この地球が存続しその生命を保つことは出来ない。 

人間は生まれ変わることが出来る。過去に対して死に、新しく生まれることが出来る。人間は死んで復活することが出来る。 

だが今日の地球は砂漠のようなものであり、小さなオアシスはいたるところで必要とされている。渇いている人々に、こう言わせてはならない・・・「私達は何をしたらよいのか?どこにも水がないではないか。どうしたら渇きを癒すことが出来るのか?」 

可能性を持った全世界の探求者達に、神を供給しなければならない。 

私の試みは中国やソ連をはじめとする共産諸国にもまた、小さなオアシスを創り出すことだ。彼らはすでに始めている。彼らは地下で活動している。それらの国々では、地下で活動することしか出来ないのだ。 

驚くだろうが、あるソ連の町には25人のサニヤシンがいる。もちろんオレンジの服は着ていないが。彼らは自分達でマラを作り、秘密裡にどこかの地下室で会合を開く時には、オレンジの服を着る。 

そしてテープを聴いたり瞑想したり本を読んだりしている。彼らは2,3の本をロシア語に翻訳した。翻訳された本は回し読みされている。 

2,3日前のこと、その地下グループを組織した女性からの手紙を受け取った。「私達にはサニヤシンとなる準備が出来ています。あなたが一言でもほのめかして下さったら、私達はどんな犠牲を払ってでも、それなりの主張をするつもりです」 

もちろんソ連で、そんなことをするのは危険だ。禁固刑を受けるか、シベリアで死ぬまで働かされることになる。だから私は、彼女に次のようなメッセージを送った。 

「今のところその必要はない。またオレンジの服を作るのだったら、代わりに赤い服を作りなさい。共産主義風にやりなさい!着ているのが赤でもオレンジでも、私は同じように働きかけることが出来るから心配はいらない。私は無益な苦しみは好まない。何の理由もなく殉教する者はいらない。そしてワークを続けなさい。ワークはより重要だ」 

私達のしていることは広がるだろう。すぐにでも、いたるところにコミューンが生まれるのを目にすることだろう。そうなれば、私もより大きなスケールで働きかけることが出来る。 

だが、根本となるコミューンはここでなければいけない。そして根本となるコミューンには、少なくとも1万人のサニヤシンが必要だ。全世界に脈動するエネルギーを生み出すには、少なくともそれだけのサニヤシンが必要だ。 

どこにいてもブッダになることは出来る。だがここでブッダになる方が容易であり、それは今生においても可能だろう。他の場所でだったら、はっきりとしたことは何も言えない。1回、2回、3回、あるいはたくさんの生を重ねなければならないだろう。 

あなたは1人でワークすることになる。どんな助けも得られないだろう。たまには一匹狼もいる。彼らは1人でゆくのを好む。自分がそのような人間だと感じるならば、私は全くかまわない。それならば1人でゆくがいい。 

だが、あなたはそのようなタイプではない。だからこそあなたは尋ねる・・・「どうして私は、あなたのブッダフィールドの中にいる必要性を感じるのでしょう?」 

それは、あなたがそれを必要としているからだ!それはまた、あなたが一匹狼ではないからだ。自分と似たようなエネルギーが、あたりを脈動しているところが好きであり、そしてあなたの道は、瞑想の道というよりも愛の道だからだ。 

そして愛は、質の高い恋人がいて初めて可能となる。世界のどこでも恋人を見つけるのは可能だろうが、その愛は性欲にすぎないものとなるだろう。ここでは性欲ではない愛を与えてくれる恋人達に出会うことだろう。 

その愛は喜びの分かち合いであり、あなたを助けようとするものだ。あなたを泥沼から引き出す為に、差し出された手だ。 

OSHO:The Dhammapada、 
(OSHOタイムズ日本語版、33号、1991年10月1日発行)より