OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

133.マスターと弟子との関係

<OSHOの講話より> 

質問:愛するOSHO、あなたは、私の大好きな叔父さん、父、私の産婆、笑っている子供でした。わが最愛の友人、古(いにしえ)の賢者、私の大好きなストーリー・テラー、そして私のマスター・・・。 

目覚めての最初の考え、そして夜、最後の。あなたは温かい茶色の目、優しい手、私の頭の為にこそある足、私の身体の中の昂(たかぶ)りでした・・・ある時は沈黙、ある時は歌。あなたは一撃、一瞥、現前、不在・・・昼と夜、夏と冬、全ての四季の人だった。 

成就の約束、ただひとつの望み・・・全ての夢の、究極の破壊者。唯一の隠れ場所・・・私が避難しようとした人、魔術師・・・そして、ただ普通の人。 

あなたは謎・・・あなたは私だった。あなたは月、星、その周りを回る全てのものたち。あなたは、わが大地と緑と茶、青と金。あなたは全てだった・・・そして無。常にあなたは、愛だった。  

OSHO、マスターと弟子の関係の進化について、話していただけますか? 


関係性につぐ関係性がある。 だが、マスターと弟子との間に存在する関係とは、比較にならない。他の全ての関係は、条件付きだ、その最良のものでさえ。たとえば愛の関係でさえ、要求がある。 

無条件で、要求のない唯一の関係は、マスターと弟子の間に存在する。実のところ、それはあまりにも稀(まれ)で、あまりにもユニークだから、他の関係と、同じ範疇に入れられるべきではない。 

関係性ではないものを、関係と呼ばざるを得ないのは、言語の貧困だ。それは溶け合いだ、それは出会いだ・・・全く何の理由もなく。 

弟子は、何ひとつ求めていない。そしてマスターは、何ひとつ約束していない。それでも、弟子の中には渇きがあり、マスターの中には、約束がある。 

それは、誰ひとり高低のない親密さだ。それでも、その弟子は女性だ、常に女性だ。なぜなら弟子とは、他ならぬオープニング、子宮、受容性だからだ。 

そしてマスターは、常に男性だ。なぜならマスターとは、他ならぬ与えること、自分があまりに満ち足りているというだけの理由で、与えることだからだ。彼は、与えねばならない。彼は雨雲だ。 

ちょうど弟子が、探求しているのと同じように、マスターもまた、探求している。弟子はどんな恐怖もなしに、どんな抵抗もなしに、何ひとつ背後に隠すことなしに・・・トータルに自分自身を開け放てる場所を、探している。 

そしてマスターもまた、神秘なるものを受け取れる、神秘なるものを孕(はら)む用意のある、再び生まれる用意のある、そのような人類を探している。 

多くの教師達がいる。そして、多くの学生達がいる。教師達は、知識を借用した。彼らは、とても学術的かもしれない、とても知識豊かかもしれない。だが、彼ら自身の内側には、暗闇がある。彼らの知識が、彼らの無知を隠している。そして、知識を探し求めている学生達がいる。 

マスターと弟子は、トータルに異なったものだ。マスターは、あなたに知識を与えない。彼は、自分の実存を分かち合う。そして弟子は、知識を探求していない。彼は、実存を探求している。 

彼は、「在る」。だが彼は、自分が誰であるのかを知らない。彼は、自分自身の前で、露わになりたい。彼は、自分自身の前に、裸で立ちたい。 

マスターは、ある単純なことしか出来ない。それは、信頼を創り出すことだ。他の全てのことは、起こる。 

マスターが、信頼を創り出すことが可能になる瞬間、弟子は、自分の防御を落とす、自分の衣服を落とす、自分の知識を落とす。彼は、再び全くの子供になる・・・無垢な、注意深い、新鮮な・・・新しい始まりだ。 

普通の父と母が、あなたの肉体に誕生を与えた・・・それは死で終わりを告げる、ひとつの生だ。あなたの父親と母親は、あなたの誕生と死に責任がある。 

マスターも、新しい生を与える。だが、それは意識の誕生だ。それは、始まりしか知らない・・・そして、それに終わりはない。 

必要とされる全ては、絶対的な信頼の環境だ・・・その信頼の中で、ものごとは自然に起こり始める。弟子が、それをするのでもないし、マスターが、それをするのでもない。弟子は、それらを受け取る。 

マスターは、宇宙的な力の乗り物だ・・・ちょうど、笛になる中空の竹のように。だが、その歌は、中空の竹のものではない・・・中空の竹は、その歌を壊さず、それを許すことの栄誉を得られるだけだ。 

マスターは、宇宙的意識の媒体だ。もし、あなたが空いていたら、突然、あなたの中に眠っている、休止している意識が、その宇宙的意識によって、かき立てられる。マスターが、何をしたのでもない。弟子が、何をしたのでもない。それは全て、ハプニングだ。 

古代の物語は意義深い、思い起こされるべきだ。探求者達は、ある人に辿り着くまで、何百の教師達を通過して行った。彼らが辿り着いた、その人の現前の中には、突然、信頼があった・・・彼らは、到達したのだ。マスター達は、移動していた・・・。 

美しい物語がある。ゴータマ・ブッダが、ある町にやって来た。町中が、彼を聴く為に集まった。だが、彼は待ち続けていた。道の後ろを振り返っている・・・というのも小さな娘が、13歳にもなっていない娘が、道で彼に会って、こう言ったからだ。 

「私を待っていてください。私は畑にいる父に、この食べ物を届けに行くのです。でも私は、遅れずに戻って来ます。忘れないでください、私を待っていてください」 

とうとう、その町の長老達が、ゴータマ・ブッダに言った。「あなたは、誰を待っておられるのですか?重要な者達はみな、ここにいます。あなたは、講話を始められて結構です」 

仏陀は言った。「だが、私がその者の為にここに来た、その当人がまだ、出席していない。私は、それを待たねばならない」・・・とうとう、その少女が到着した。彼女は言った。 

「私はちょっと遅れました。でもあなたは、約束を守ってくださいましたね。私はあなたが、約束を守ってくださることを知っていました。あなたは、約束を守らねばなりませんでした。なぜなら私は、物心ついてからというもの、ずっと、あなたをお待ちしていたのですから・・・。 

多分、私があなたの名前をお聞きしたのは、4歳の時でした。ただそのお名前だけで、何かが、私のハートの中のベルを鳴らしたのです。それ以来、とても長いことでした・・・多分、10年です。私は、待っていたのです」 

そして、仏陀は言った。「あなたは、無用に待っていたのではない。私をこの村に引き寄せ続けた人物は、あなたなのだ」 

こうして、彼は話した。そしてその少女は、彼のところに来た、ただひとりの者だった。「私を入門させてください。私は、充分待ちました。今からは、私は、あなたと共にいたいのです」 

仏陀は言った。「あなたは、私と共にいなければならない。なぜならあなたの町は、全く幹線から外れているので、私は、何度も来る訳にはいかないからだ。道路はずっと続いている。そして、私は歳を取りつつある」 

その町全体の中で、ただひとりの人も、瞑想に入門させてもらおうとして来た者は、いなかった・・・その小さな娘だけだった。 

夜になり、みなが眠りに就こうとする時、仏陀の高弟のアナンダが尋ねた。「あなたがお休みになる前に、私はひとつ、お聞きしたいことがあります。あなたは特定の地域に、特定の引かれるものを、お感じになるのですか・・・ちょうど磁石の引く力のように?」 

すると仏陀は言った。「おまえの言う通りだ。そうやって、私は自分の旅を決める。誰かが渇いている・・・私なしでは、あまりにも渇き過ぎていて、その人物に道はないと感ずる時・・・私は、その方向に移動しなければならない」 

マスターは、弟子に向かって動く。弟子は、マスターに向かって動く。遅かれ早かれ、彼らは出会うことになる。その出会いは、肉体的なものではない。その出会いは、マインドのものではない。その出会いは、まさに魂のものだ・・・ 

ちょうど突然、あなたがふたつのランプを、互いに近づけでもしたかのように、ランプは別々であっても、その炎はひとつになる。 

ふたつの肉体の間で、魂がひとつになる時、それを関係性だと言うのは、とても難しい。そうではない、だが、別の言葉がない。言語というのは、本当に貧しい。 

それは、「ひとつとして在ること」だ。 

OSHO:The OSHO Upanishad,(1986,9,3)(日本語版、ラジニーシニューズレター、91号)より