OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

134.後戻りの出来ない地点

<OSHOの講話より> 

質問:私に、勇気があるとは思いません。ただ実に幸運なことに、私は、何のとりえもないし、馬鹿なのに、どういうわけかここにいます。そして、3年半経っても、あなたはまだ私を追い出しません。 

それに私には、去りたいという衝動がありません。私には、世間に戻り、あなたなしで、あなたからいただいたものを、何も持たずに生きる方が、もっと大きな勇気がいるように思えます。 

毎日、私は、あなたの至福の中へ、少なくとも数瞬、運ばれるのを感じます。そして、私のまわりの人々は、見るに価する歓喜です。どうしてそれには、勇気がいると言えるのですか?それとも、私があなたと共にいないのでしょうか? 


この質問は、アループからだ。アループ、それには勇気、あるいは狂気が必要だ。そして、あなたは狂っている。私と共にいることが出来るのは、狂った人々か、それとも勇気ある人々のいずれかだ。 

論理的に、抜け目なく、打算的に考える者たち、彼らは、私と共にいることが出来ない。勇気もまた、狂気の一面だ。狂気は、勇気の上をゆく。が、勇気もまた、その一面だ。 

勇気とは一体、何なのか?それは、あなたのマインドが言い、あなたの論理が言い、あなたの正気が言っている、全てのことをものともせずに、それでも進むという意味だ。 

あなたは危険を知っている、あなたは危ういことを知っている。それでも、あなたは進む。自分が知っている、あらゆることにもかかわらず、それでもあなたは、ある体験の中に入ってゆくことを選ぶ・・・それが勇気だ。 

勇敢な人々もまた、狂っている。とはいえ狂気には、勇気以上のものがある。狂気は、もっと活気にあふれている。狂気には、もっと多くの次元がある。 

未知なるものに入るために、計算ばかりしている人間が、いかに私と共にいられよう?彼はいつでも計算する。 

ここには、絶えず計算している人々がいる・・・彼らの歩みは、きわめて打算的だ。が、彼らは、取り逃がし続けることになる。彼らの歩みは、充分躍動的ではありえない、彼らの歩みは、量子的跳躍ではありえない。 

彼らは、もくろむがゆえに、自分たちの知識の境界内にとどまる・・・彼らは、既知なるものの内にとどまる。 

未知なるものについて、いかに計算できるだろう?自分がまだ知らないものについて、いかに考えることが出来るだろう? 

あなたは、自分の知識をすべて風に乗せ、投げ捨てなければならない、そうして初めて、あなたはその中へと入ることが出来る。だから、ときとして、愚者が行き着き、いわゆる賢者が、遅れをとることがある。 

愛の中、祈りの中、瞑想の中、神の中では、一種の気違いじみた勇気が、絶対に必要だ。ひとたびあなたが、その世界に入ってしまえば、その時には、勇気は不要だ。それは、最初に口火を切る地点だ。 

ひとたびあなたが、聖なるものの世界に入ってしまえば、ひとたびあなたが、その何かを味わってしまえば、その時には、アループは正しい・・・ 

それを捨てるのは、気違いじみている、それを捨てるには、途方もない勇気がいる。実際、それを捨てるには、たいへんな愚かさがいる。そして、世間に戻ることは不可能だ・・・それは起こらない、それは起こりえない。 

聞いた話だが・・・ある男が、車がパンクしたことに気づいた。そこで、彼は車を止めて、タイヤの交換を始めた。車は、精神病院の前に止めてあった。 

彼がタイヤを換えているところを、ひとりの入院患者が堀越しに、しげしげと見つめていた。ドライバーはうっかりタイヤのねじを、下水溝の鉄ぶたの中に落としてしまった。どうすればいい? 

しばらくすると、入院患者が彼を呼んで、残りの3つのタイヤのねじをひとつずつ使って、4番目のタイヤを止めればいいと言った。「すごく頭の切れる発想だ」とドライバーは言った。「またどうしてそんな君が、こんな壁の中に閉じ込められているんだい?」 

「それも単純明快さ」と入院患者は言った。「俺がここにいるのは、馬鹿だからじゃない、狂っているからさ」 

アループ、あなたがここにいるのは、狂っているからだ。それに今となっては、去ってゆくことは不可能だ。その地点は、すでに過ぎてしまった。 

ある地点がある・・・その地点の手前では、人は、逃げたければ逃げることが出来る。ひとたび、その地点を過ぎてしまうと、あなたは戻れない。 

そうなったら、たとえ私から去っていっても、あなたは、私から離れることが出来ない。そうなったら、どこにいようと、あなたは自分の内側に私を見出す。 

そして、どこで生きていようと、あなたは私の風土の中に生きている。交感(コミュニオン)、魂の出会いの地点がやって来る。ひとたびそれが起これば、後戻りの出来ない地点がやって来たことになる。 

神について考えること、神を探し求めること、神に帰依し、自らの生涯を捧げることですら、勇気があり、気違いじみている。 

瞑想の中へ入ってゆくことは、どこでもないところへ入ってゆくことだ。それが何の役に立つのだろう?あなたの手の中に、触知しうるものは何もない。自分が成就したことを、世間に示しうるものは何もない。 

世間は、あなたが何を成就したのかを、決して知ることがない。それは、内なる体験にとどまる・・・表現しえず、言語を絶している。「あなた」だけが知る、あるいは、その体験に行き着いた者たちだけが。 

彼らはごく少数で、きわめてまれだ。世間全体があなたを笑うだろう。彼らは、あなたが罠に落ち、催眠術にかけられ、自分の生を無駄にしていると思う。そして、このように言う人々が多数派を占めている・・・彼らはつねに多数派を占めている。 

彼らはキリストを笑った、彼らは老子を笑った、彼らは仏陀をあざ笑った。彼らはマハヴィーラに反対した。彼らは私に反対している。そして彼らは、あなたにありとあらゆる復讐をする。彼らは、あなたが穏やかに生きることを許さない。 

これは実に奇妙だ。仏陀は、けっして誰をもかき乱そうとしてはいなかった。彼は、弟子と共に穏やかに生きることができたはずだ。が、人々はそれを許そうとしなかった。 

エスは何をしていただろう?彼は、弟子と共に山に入り、瞑想し、祈り、神と神の王国について語ることができたはずだ。彼が人々にどんな害を与えていたと言うのだろう? 

だが、彼らは腹を立てていた、彼らは激怒していた、彼らはイエスに怒り狂っていた。彼らはイエスを殺した。 

なぜそのようなことが何度も何度も起こるのだろう?もしあなたが私と共に在れば、世界全体があなたに反対することになる。私と共に在ることは危険だ。それはやさしい選択ではない・・・あなたは、世界を向こうにまわして私を選んでいる。 

世界は大きい。多数派には、あらゆる種類の権力がある。そして、彼らはあなたに反対し、あなたを破壊したい・・・あなたは彼らに何もしていないのに。なぜ彼らはそんなにあわてふためくのだろう? 

起こる微妙な現象がある。誰かが神に向かって動きはじめる瞬間、ありふれた俗世間に生きている人はみな恐れをなす。なぜなら、探求者の現存が、突然彼らに、自分たちが生を無駄にしていることを感じさせるからだ。 

祈り、瞑想する者たちの顔に突然浮かぶ喜び。人々の生、彼らの実存のなかに突然、ダンス、変化、変容が・・・その笑い、その愛・・・。 

すると、金や権力を追い求めている者たちは、自分自身の努力に疑いを持つようになる。自分たちは何をやっているのだろう?これでいいのだろうか?と。 

大きな疑いが彼らのなかに湧きあがる・・・。彼らがひどく腹を立てるのはそのためだ。あなたは彼らの生に疑いをひき起こす。ところが彼らは、自分たちの生が正しい生だと確信して生きていた、その確信は絶対に揺るがなかった。 

そこへ仏陀、あるいはキリストのような人が現われ、彼の臨在が彼らを揺り起こす。彼らは二度と強い確信が持てない。疑いが彼らの実存に入った。彼らは、その疑いゆえに怒っている。 

さあ、私のサニヤシンたちは誰にも何もしていない。あなたは、彼ら以上に穏やかで、愛にあふれている人々を見出すことはできない。彼らは誰にも何の害も及ぼしていない。 

だが、社会はますますあなたがたに反対することになる。そして、社会はあらゆる手段を使ってあなたがたを妨害しようとするだろう。これは奇妙だ、実に奇妙だ。が、そこには微妙な論理がある・・・。 

つい2,3日前、マニーシャが質問した。「OSHO、クチに移転するという計画は方便にすぎなかったのでしょうか?」 

そうではなかった、マニーシャ。私はクチに移転したかった、すべてが計画されていた。だが、国の政策によって、移転することはほとんど不可能になった。私たちが移転できなかったのは、モラルジ・デサイの悪意のせいだ。 

だが、私がどこへ行くか、私の人々がどこへ行くか、私が何をしているかに、いったいなぜこの国の首相が関与しなければならないのか?私たちはいかなる政策も講じていない・・・私の人々は世界でもっとも非政治的な人々だ。私たちは、政治はまったく愚劣だと考えている。 

だが、まさにそれが原因だ。疑いが起こる。疑惑が起こる。もし私が正しければ、そのときには、彼ら全員が間違っている。そして、もしこの考えが広がったら・・・。 

それは火のように広がりうる。真理には潜在能力がある・・・たとえあなたがそれを磔(はりつけ)にしても、それは広がる。イエスは磔によって破壊されはしなかった。 

実のところ、それは役に立った。イエスは磔ゆえに、世界における偉大な力になった。真理を殺すことはできない。だが、遅らせることはできる。 

人々はあなたがたに反対するだろう。だから、私と共に在るには勇気がいる。そして、私はあなたがたに何ひとつ与えることができない・・・「無」の他には何も。 

一休はまさにそのことを言う。「私はあなたにすべてを与えたい。だが、私たちブッダは『無』の他には何も持っていない」私は、あなたがたに「無」しか与えることができない・・・それが私の贈り物だ。 

そして、あなたは自分のすべてを賭けることになる。あなたの生命、あなたの社会的地位、あなたの家族、あなたの財力・・・あなたはすべてを賭けることになる。 

「無」のためにすべてを賭けるとは?あなたは狂っているにちがいない。 

OSHO:日本語版「一休道歌」(下巻)(めるくまーる社刊)より