OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

135.私はメシア(救世主)ではない

<OSHOの講話より> 

私は、メシア(救世主)ではない。私は、あなたにどんな希望も与えない。そして私は、はっきりとあなた方に、あなたを救うことの出来る人は誰もいないのだ、ということを憶えておいて欲しい。 

考え全体が、間違っている。あなたが、あなたの束縛を創り出した、どうして私が、あなたを自由にすることが出来よう?あなたが自分の束縛を放り出して、自由になるのだ。 

あなたは、自分の鎖を愛しているのに、私に自由にして欲しいと望む。あなたは、不合理なことを求めている。あなたの惨めさ、苦しみの原因はあなたなのに、自分の苦しみ、そして惨めさから救って欲しいと、私に望む。 

しかもあなたは、その同じ種子をまき続ける、その同じ古い人物であり続ける、その同じ原因に、水を撒き続ける。誰に、あなたを救うことが出来よう。 

そしてなぜ、誰かが、あなたを救わなければならない?あなたを救うのは、私の責任ではない。私が、今あるあなたを作ったのではない。あなたが自分で、今あるあなたを作ったのだ。 

だから、ここでの私の働きは、私を信じればあなたは救われる、と単純に言うメシアとしてのものではない。 

非常に単純な戦略だ。あなたは、自分の人格の変化、変容とは何の関わりも持たない。あなたは、全く何もやる必要はない、あなたはただ、私を信じる。どんな疑いも、生じさせてはならない。 

さあ、これが信仰の戦略全体だ、あなたは、疑いを避けることは出来ない。どこに信仰が存在しようとも、そこではただ、疑いが抑圧されているにすぎない。 

もし疑いがないのなら、あなたは、どんな信仰も必要としないはずだ。疑いゆえに、あなたはそれを抑圧する為の、それに覆(おお)いをかける為の、信仰を必要とする。 

そしてその条件とは、つまり疑いはあってはならない、あなたはどんな疑いも持たずに私を信じなければならない、そうすれば、私はあなたを救おう、というものだ。 

あなたは、その条件を満たすことも出来ないし、なぜ私は救われないのか、と私に尋ねることも出来ない。その条件とは、もともと満たすことの出来ないものだ。 

そして私は、あなたはその条件を満たしていない、と自由に言える。契約は、あなたの側で果たされていない、私に何が出来よう?  

あなたは、疑う余地もなく私を信じた。が、それは絶対に不可能だ。それは誰にも出来ない。それは、ものごとの道理ではない。信仰は、常に疑いと手を取り合って存在する。それは、疑いの為に存在する。 

私はどんなことにも、全く信仰を持っていない。なぜなら私は、どんなことにも全く、何の疑いも持っていないからだ。もし疑いがなかったら、信仰の必要はない。病気がそこにないのだ、薬の必要はない。 

あなたは信仰を、さらに多くの信仰を、注ぎ入れ続ける。だがあなたは、疑いを自分の無意識の中に深く、さらに深く、抑圧しているにすぎない。そして、それは深く行けば行くほど危険だ。なぜなら、あなたはそれに無意識になるからだ。 

いつの日かあなたは、信者だと信じている自分に気づくだろう、自分は、信仰を達成したのだと。なぜならあなたの疑いは、あなたの暗い無意識の中に、非常に深く入ってしまった為に、あなたはもう、それを見ることは出来ないからだ。 

私はあなたに、自分の疑いをはっきりと見て欲しい。それを、何らかの信仰体系で抑圧するよりは、それを意識的マインドの中に、取り出すがいい。それと顔を合わすのだ。そして、自分の疑いと顔を合わすだけで、それは溶ける。信仰は必要ない。それはただ蒸発する。 

それは、信仰によって代用されるべきではない。もし、それを信仰によって代用したら、その時にはあなたは、非常に奇妙なディレンマに陥る。 

あなたの信仰を、ほんの少しひっかくだけで、そこには、全く活気に満ちて流れている疑いがある。信仰は、皮一枚の深さだ。そしてその下を、あなたの血は流れている。 

だから、基本的に私の立場は、あなたがどうあろうとも、その責任はあなたにある、というものだ。 

もしあなたが惨めだったら、あなたに責任がある。他の誰にも、その責任を転嫁してはいけない。さもなければ、あなたは決して、それから自由にならない。 

なぜなら、もしあなたの惨めさの責任が、私にあるとしたら、あなたはどうやって自由になることが出来る? そうだとしたら、私があなたを自由にしないかぎり、あなたは自由になることが出来ない。 

それは、私の手の内にある。そして、もしそれが私の手にあるなら、それは他の誰かの手の内にもありうる。 

私と共にいる者達は、それがどんなに厳しく辛いものであろうと、それを理解しなければならない。 

つまり、あなたに起こっていること、あなたに起こったこと、あなたに起こるであろうこと、そのあらゆることの責任は、あなたに、あなただけにある、ということだ。 

ひとたび、自分のあらゆる責任を、その全体性において受け容れたら、あなたは成熟する。あなたは、癇癪を投げつけるのを止める。そして、メシアを探し求めるのを止める。

OSHO:The Rajneesh Bible,(1984,11,2)(日本語版、ラジニーシ・ニューズレター、70号)より