OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

138.観照と無関心の違い

<OSHOの講話より> 

質問:OSHO、講話の中であなたは非同一化について、人は観照者にならなければならないということについて語っておられます。しかし西洋では、多くの人々が人を遠ざけて関係に入ることが出来ずにいます。 

彼らは、あらゆることに対してただただ無関心です。それは私の経験でもあります。 
非同一化と無関心の違いを明確にしていただけますか? 


ニコラース、違いは非常にはっきりしている・・・しかし、それは微妙でデリケートだ。
無関心でいることは、死んでいることを意味する。観照者であることを意味するのではない。 

それはただあなたが生から、そしてあなたに滋養を与える全ての源泉から切り離されていることを意味している。あなたは根を引き抜かれているだけだ。それが無関心だ。 

木の根を引き抜けば、木は死に始める。その緑は消え、葉は枯れしぼみ、花はもう咲かない。 
春は来ては去ってゆくが、その木はそのことを何も知らない。 

存在に対して無関心になった。もう大地に根を下ろしていない。もう太陽と繋がっていない。 
もうどんな橋もない。それは壁に囲まれ、全ての橋は壊れている。 

それが現代の人間に起こったことだ。彼は根を引き抜かれた木だ。彼は存在とどう繋がったらよいのか忘れてしまった。彼は雲や木や山と、どうささやき合ったらよいのか忘れてしまった。 
彼は沈黙の言葉を完全に忘れてしまった・・・ 

なぜなら、あなたとあなたを取り巻く宇宙との橋になるのが沈黙の言葉だからだ。宇宙は他の言葉を知らない。地上には3000の言語があるが、存在は沈黙の言葉以外に言葉を知らない。 

(中略) 

あらゆる人が自分の言葉が神の言葉だと考える。ヒンドゥ教徒はサンスクリット語は聖なる言葉だ、神の言葉だと言う・・・「デヴァヴァニ」・・・神はサンスクリット語だけが分かる、と。 

そして回教徒達に聞いてみると、神はアラビア語だけが分かる、さもなければなぜ神はコーランアラビア語で啓示しなければならなかったのか、と。 

そしてユダヤ人に聞いてみるがいい・・・神はヘブライ語だけを理解する。 

神は言葉は分からない。というのも、神とはこの全存在を意味するからだ。 
神は沈黙だけを理解する・・・一方、私達は沈黙を忘れてしまった。 

ニコラース、私達は沈黙を忘れ、瞑想のアートを忘れたがゆえに疎遠になってしまった。

私達は小さな、汚い、ぬかるむ水たまりになった。そして、どうやって進んで行って大洋とひとつになったらよいのか分からない。私達は日ごとに汚くなり続け、日ごとに浅くなり続ける。 

なぜなら水は蒸発し続けるからだ。私達はとにかくぬかるんでいる。私達の生に透明さはない。私達の眼は見ることが出来ず、私達のハートは感じることが出来ない。 

この状態が無関心の状態だ。それはネガティブな状態だ。神秘家達はそれを「魂の暗い夜」と呼んで来た。それは観照ではない。観照の反対にすぎない。 

私が観照者でありなさいと言う時、私は生から根を抜きなさいと言っているのではない。
私は生をその多次元性すべてにわたって生きて、なおかつ醒めていなさいと言っている。

生のジュースを飲むがいい。しかし生のジュースを飲んでいる間、あなたの中には全ての動作、全ての行為を超えて意識がある、ということを憶えておくことだ。 

飲むこと、食べること、歩くこと、眠ることは全て動作だ。 
そして、あなたの中にはただ映し出すだけの鏡のような現象の、意識がある。 

それは無関心ではない。鏡はあなたに対して無関心ではない。 
さもなければ一体なぜそれが、あなたを映し出すことに気を使わなければならない? 

それは、あなたに途方もなく関心を持っている。それは、あなたを映し出す。 

が、執着することはない。あなたがいなくなった瞬間、あなたはいなくなる。 
鏡はあなたを憶えたままではいない。鏡は今その前にあるものを映し出す。 

観照する意識は生を生きるが、そこには途方もない執着のなさ、大いなる非所有がある。
それは何も所有しない。 

それは全体的に生きる。激しく生きる。が、それでも「私は何をも所有しない」と知っている。 

観照する意識は大洋から切り離された島ではない、それは大洋とひとつだ。 
それでもなお奇跡が、逆説がある・・・ 

大洋とひとつになっていても、氷山の一角のように大洋の上に留まっている部分がある。
その部分があなたの観照する魂だ。 

それを創造することは、世界における最も偉大な宝だ。 
それを創造することで人はブッダ(覚者)になる。 

無関心に陥れば、あなたはただただ無意識になる、あなたは昏睡状態に入る。 
あなたは生における全ての楽しみを失う。生の祝祭はあなたにとってはストップする。 

そうなったらあなたは存在しない。あなたはぼんやりとした日々を送るだけだ。 
そうなったらあなたは人間ではない、ただのキャベツだ・・・ 

しかも、それもまた根を引き抜かれている。あなたは日を追ってますます腐ってゆく。 
あなたは悪臭を放つ、あなたからは何の芳香も漂わない。 

観照する魂を通過して、芳香になることが出来たはずのその同じエネルギーが、 
無関心になることによって、悪臭を放つ現象になる。 

だがニコラース、私にはあなたの質問が分かる。 
外側から見たら、時として無関心と観照は似ているように見える。 

これは最大の惨事のひとつであり続けて来た・・・それらは似ているように見えるからだ。 

だからこそ本当のサニヤスが失われ、偽のサニヤスが大勢を占めるようになった。 
もしそれが無関心に生きていたら、私はそのサニヤスを偽物と見なす。 

偽のサニヤスは逃避主義者だ。それはあなたに生を楽しんではいけないと教える。 
音楽を愛してはいけないと教える。美を大切にしてはいけないと教える。 

それはあなたの存在を美しくする全ての源泉を破壊するように教える。ほら穴の中に、汚いほら穴の中に逃げるように、神があなたに贈り物として与えた世界に背を向けるように教える。 

偽のサニヤスは世界に逆らっているだけでなく、神にも逆らっている。 
なぜなら世界に逆らうことは、その世界の創造主に逆らうことだからだ。 

もしその絵を嫌うなら、あなたはその絵を描いた人を嫌わずにはいない。 
その踊りが好きでないのに、どうしてその踊りを踊る人を好きになることが出来る? 

神は画家であり、世界は彼の絵だ。神は音楽家であり、世界は彼の音楽だ。 
神はダンサー、「ナタラージ」であり、世界は彼のダンスだ。 

もし世界を放棄したら、あなたは間接的に神を放棄している。 

偽のサニヤスは逃避主義者だ。それは安っぽい、簡単だ。世間から逃避してほら穴に住み、神聖に感じるのは非常に簡単だ・・・そこには、あなたが不浄になる機会がないからだ、挑戦がないからだ。 

誰もあなたを侮辱しない、誰もあなたを批評しない。そこには誰もいない。だからあなたは、もう自分の中には怒りはないと考えることが出来る。もう自分の中にエゴはないと感じることが出来る。・・・世間に戻りなさい! 

私は30年の間、ヒマラヤに住んでいた人々を知っている。彼らは世間に戻って来て、自分達が同じ人間だということに気づいて驚いた、何ひとつ変わっていなかった。ヒマラヤの30年・・・ 
全くの無駄だった! 

しかし彼らはヒマラヤにいた時、自分達は非常に神聖に、非常に清浄になった、自分達は偉大な聖者になったと思っていた。しかも、彼らにはそう考えるだけの理由があった。なぜなら怒りがなく、エゴがなく、強欲がないからだ・・・ 

所有する物が何もないから、非所有を感じる。競争する者が誰もいないから、非競争的に感じる。誰も自分のエゴを傷つけないから、あなたはエゴを全く感じない。 

物事は何らかの痛みがある時にだけ感じられる。例えば、頭痛がする時にだけあなたは自分の頭を感じる。頭痛が消えると、頭もあなたの意識から消える。頭痛がなければ、あなたは自分の頭を感じることが出来ない。頭痛がない時、あなたは頭なしになる。 

ヒマラヤのほら穴に住むことであなたは、何度も何度も自分にエゴを、怒りを、強欲を、嫉妬を気づかせる世間のあらゆる痛みから逃げたのだ・・・ 

世間の中に戻って来ると、あなたはあらゆるものが再び戻っているのに気づく・・・ 
しかも、嫌というほど戻って来る。なぜなら30年の間、それは積もり積もって来たからだ。 

あなたはかつて、ヒマラヤに自分が連れて行ったものより、もっと大きなエゴを連れて来る。

 

無関心を教えるサニヤスは、偽物だ。 

世間の中にどのように生きるか・・・ 
しかも、その上に蓮の花のように浮かび、 
蓮の葉のように水の中に留まって、しかも水に触れず、 
世間の中に留まって、しかもその世間が自分の中に入るのを許さず、 
世間の中にあって、しかもその世間には属さない。 

それを教えるサニヤスこそ、真の放棄だ。 
真の放棄は、観照から来る。それは無関心ではない。 

無関心は、あなたを人から遠ざける。 
人から遠ざかれば、あなたは無意味に、楽しみがなく、偶然的に感じる。 
偶然的に感じると、自殺しようとする欲望が起こる、起こらざるを得ない。 

なぜ無意味な生を生き続ける? 
なぜ毎日決まり切ったことを、同じ型にはまったことをやり続ける? 
もし意味がないのなら、なぜすっかり終わらせない? 
なぜ全部終わりにしない? 

だからこそ、ますます多くの人達が毎日自殺している。 
多くの、多くの人達が毎日狂ってゆく。 自殺と狂気の率は増えている。 
精神分析家は実際、他のどんな職業よりも多く自殺し、多く狂う。 

現代の人間を救うものは、何ひとつないようだ・・・ 
それは、無関心があまりにも重すぎるからだ。 
それは、現代人の周りに暗い雲を作り上げた。  
彼は、自分の鼻より先を見ることが出来ない。 
彼は、自分ひとりの世界で窒息している。 

壁は非常に厚いので、万里の長城より厚いので、 
あなたは自分が愛する時でさえ、自分の壁の背後に隠れ、 
あなたの恋人は、彼女の壁の背後に隠れるほどだ。  
あなた方の間には、万里の長城がふたつある。 

あなたは叫ぶが、どんなコミュニケーションもあり得そうにない。 
あなたが何か言うと、それとは別の何かが受け取られる。 
彼女が何か言うと、あなたはそれとは別の何かを理解する。 

夫婦はいずれ、ある理解に達する。 
つまり、話さない方がよいということだ・・・沈黙を守っている方がよい。 
なぜなら、一言口に出そうものなら、必ず誤解がそれに続くからだ。 

世界から、全てのコミュニケーションが消えた。 
誰もが孤独な生を生きている・・・群衆の中の孤独だ。 

群衆は日を追ってより大きく、より大きくなっている。 世界の人口は爆発している。 
今日ほど人間がたくさんいたことは、かつて一度もなかった・・・ 

それに、人間は決してこれほど孤独ではなかった。 不思議だ!  
すさまじい群衆のただ中で、なぜ私達はこうも孤独なのだろう? 
コミュニケーションは失敗に終わった。 

(中略) 

人々を理解するのは、ますます難しくなっている。 

なぜなら、それほどにも厚い濃密な無関心が、あらゆる人々を取り囲んでいるから、 
たとえば、あなたが大声で叫んだとしても、それは聞かれ得ないか、 
あるいは、あなたが言いもしなかったことが、彼らに聞かれてしまうからだ。 

彼らは、自分達が聞きたいことを聞く。 あるいは自分達が聞けることを聞く。 
彼らは言われたことを聞くのではなく、彼らのマインドが解釈することを聞く。 

(中略) 

あなたは自分が理解出来ることを理解する。 
あなたのマインドが、いつも解釈しようとしてそこにいる。 
そしてその解釈は、あなたのものだ。 
それは、あなたに言われたこととは何の関係もない。 

人々は、ますます独りになりつつある。 
そして絶望ゆえに、彼らは相手に伝える為に、 
可能なあらゆる方法を試みている。 

何ひとつ、助けにはなりそうにない。 
彼らが、沈黙のアートを学び始めない限り、 
何ひとつ、助けにはなり得ない。 

男と女が、何が沈黙なのか知らない限り、 
彼らが深い沈黙のうちに、一緒に坐ることが出来ない限り、 
彼らは、互いの存在の中に溶け合うことが出来ない。 

彼らの肉体は互いを貫き合うだろうが、彼らの魂は遠く離れたままだ。 
一方、魂が出会えばコミュニオン(合一)があり、理解がある。 

無関心はあなたを鈍感にし、あなたを凡庸にし、あなたを聡明でなくする。 
もしあなたが無関心だったら、あなたの剣は鋭さを全て失う。 

それが、僧院の僧達に起こることの成り行きだ。 
彼らの顔、彼らの目を見入れば、何かが死んでいるのが分かる。 
彼らは歩く屍(しかばね)のようだ。 物事をロボットのようにやっている。 

なぜなら、それらのことはしなければならないからだ。 
彼らは、本当には関わっていない。 
彼らはどんなことに対しても、関わる能力を完全に失っている。 

これは、非常に悲しい情況だ。 
そしてもしそれが続けば、人間に未来はない。 
もしそれが続けば、その時には第三次世界大戦が必ず起こる・・・ 

私達が、世界的規模の自殺を遂げることが出来るようにだ。 
小売りで自殺する必要はない、卸売りで出来る。 
一瞬の内に、全地球が死ぬことが出来る。 

それゆえに瞑想が、 
地球がまだこれからも生き残る為には、絶対必要なものに、 
人類が救われる為の、唯一の希望になった。 

瞑想とはただ、関わりながらも執着せずにいる能力を意味している。 
それは逆説的に見える・・・全ての偉大な真理は、逆説的だ。 
あなたは、その逆説を経験しなければならない。 
それが、それを理解する唯一の道だ。 

あなたは、ひとつのことを楽しくやることが出来てなお、 
自分はそれをやっているということの、自分はやり手ではないということの、 
観照者でいることが出来る。 

小さな事からやってみるがいい。 ニコラース、そうすれば分かる。 
明日、朝の散歩に行く時に、散歩を楽しんでごらん・・・ 
木の茂みにいる小鳥達、陽光、雲、そして風・・・楽しむのだ。 

それでいてなお、自分は鏡だということを、 
自分は雲を、木を、鳥達を、そして人々を映し出しているのだ、 
と憶えておくがいい。 

この自己想起を仏陀は、「サンマサティ」・・・正しい留意と呼ぶ。 
クリシュナムルティは、それを「無選択の覚醒」と呼ぶ。 
ウパニシャッドは、それを「観照」と呼ぶ。 
グルジェフは、それを「自己想起」と呼ぶ。 
が、彼らはみな同じことを言っている。 

しかしそれは、あなたは無関心にならなければならないということではない。 
もし無関心になったら、あなたは自己想起する機会を失う。 

朝の散歩に出かけて、なおかつ自分はそれではない、と憶えておきなさい。 
あなたは歩く人ではなく、見守る人だ。 
そして徐々に徐々に、あなたはその味が分かる・・・ある種の味だ。 

それはゆっくりとやって来る。 
そして、それは世界で最もデリケートな現象だ。 
あなたは、急いでそれを得ることは出来ない。 
忍耐が必要だ。 

食べるがいい、食べ物を味わう。 
それでいて自分は見守る人だ、ということを憶えておきなさい。 

初めの内、それはあなたの内部に少しの面倒を作り出すだろう。 
なぜならあなたは、これらふたつのことを同時にやったことがないからだ。 

初めの内は、もしあなたが見守り始めたら、食べるのを止めたくなるだろう。 
あるいは、もしあなたが食べ始めたら、見守るのを忘れるだろう。 
それは分かる。 

私達の意識は一方通行だ。 
今の今、そのあるがままでは、それは目標に向かってのみ進む。 
しかし、それは両面通行になり得る。 
つまり、それは食べてなお見守っていられる。 

あなたは、自分のセンターに決まったままでいられる一方で、 
自分の周りの嵐を見ることが出来る。 
あなたは、サイクロン(台風)の中心になることが出来る。 

それが、人類に起こり得る最大の奇跡だ。 

なぜならそれは、自由を、解放を、真理を、神を、至福を、祝福をもたらすからだ。 

OSHO:Be Still And Know (1979,9,5)(日本語版ラジニーシ・ニューズレター、58号)より