OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

139.怖れと自由

<OSHOの講話より> 

質問:愛するOSHO。あなたは怖れと自由は、野心と愛のように共存出来ないと言われました。でも実存に恐怖と、自由の愛の両方を持ち込むのは実存です。一言お願いします。

アナンド・マイトレーヤ。恐怖と、自由の愛の両方をもたらすのは存在それ自体だ、というのは本当だ。そして私は、あなた方にそれらが共存出来ないと言って来た・・・それは出来ない。存在は、あなたに選ぶ為の選択を与える、あなたの自由が妨げられないように。あなたは怖れを選ぶことも出来る。あなたは自由を選ぶことも出来る。自然はあなたに自由を押し付けてはいないし、恐怖も押し付けてはいない。自然はあなたに選択を与える。 

さあ、それはあなた自身の選択だ。あなた自身の知性で、あなたは選ばなければならない。あなたは両方同時に選ぶことは出来ない。私がそれらは共存出来ない、と言う時に意味しているのはそのことだ。存在はそれらを入手可能にする・・・だが、あなたはひとつを選ばねばならない。 

大部分の人々は恐怖を選んだ。恐怖ゆえに彼らはあらゆる種類の神々を、神学を、宗教を創った。恐怖ゆえに、彼らは愚かな政治家達に支配されている。恐怖ゆえに、彼らは何千年も搾取されて来た。恐怖ゆえ、彼らの霊的隷属の全てがある。だが、そこには何かあるに違いない・・・なぜ彼らは恐怖を選ぶのか、そしてなぜ彼らは自由を選ばないのか?ごくわずかな人々だけが自由を選んだ。 

そこには理解されるべき何かがある。自由は責任をもたらす。あなたが自由であることを選んだ瞬間、あなたは自分のあらゆる行為に責任がある。あなたは自分の生全体に責任がある。あなたは自分が惨めであるか至福に満ちているか、ということに責任がある。あなたは眠ったままでいるか目覚めるか、ということに責任がある。自由は責任の扉を開ける。 

恐怖は全ての責任を取り去ってしまう・・・あなたは単に奴隷だ。責任は、あなたを支配している誰か他の人の手の中にある。彼はあなたに食べ物を供給するだろう。彼はあなたに衣服を供給するだろう。彼はあなたに避難所を提供するだろう・・・あなたはそれについて心配する必要はない。もし彼が奴隷を欲しければ、彼はそれら全てのものを供給しなければならない。 

恐怖は安全の、防護の一種だ。他の誰かが責任と、責任の重荷を引き受けた。これが何百万の人々が、なぜ恐怖を選んだかという理由だ。だが彼らが恐怖を選ぶ瞬間、彼らは同時に多くのものを失う・・・責任だけでなく、彼らは自分達のまさに魂を失う。 

彼らはもはや彼ら自身ではない。彼らは成長の全ての可能性を失う。彼らは誰か他の人の手の中にある・・・もしあなたの成長がそれらの手に有益であるなら、成長は許される。だがもしあなたの成長があなたの知性が妨げになるなら、その時にはあなたの根は切られるだろう。 

日本には奇妙な種類の植木がある・・・300年400年も経っている。だがたった5インチか6インチの高さしかない。何世紀にも渡って庭師の何世代もの家族がそれらの植木の世話をして来た。あなたはそれらが古いのを、とても古いのを見ることが出来る。どの枝もその古さを示している。 

だが、なぜそれらは6インチの高さしかないのだろう?それらは100フィートの高さにも、150フィートの高さにもなっていたかもしれない・・・何千人もの人々が、その下に涼むことが出来るほどの葉陰を持っていたかもしれない・・・だが、あなたはそれを手に取ることが出来る。 

策略は単純だ。そして人間にとってもとても象徴的だ。彼らはそれを芸術だと考える・・・私はそれを犯罪だと考える。それらの樹々が歳を取っても上には伸びず、小さいままで、ピグミーのままでいるようにする方法は・・・それらが4,5インチの高さの時に、彼らはその根を切り続ける。そして根が伸びることが出来ない時、その木は伸びることが出来ない。根と木との間には一定のバランスがある。樹が高く伸びるほどその根も深く伸びる。 

100フィートの高さの樹に6インチの根しかないということはあり得ない・・・それは倒れてしまう。彼らは根を切ることによって、その木が成長するのを許さない。そして、遥か遠くから人々がその植木を見にやって来る。その一族はそれらについて自慢する・・・「これは400年の樹齢です」それはとても年老いて見える・・・だがとても奇妙なことに、それはわずか6インチのままだ。 

人間についても同じことが真実だ。あなたが誰かに自分の責任を取るのを任せる瞬間、彼はあなたの根を切り始める。奴隷は弱いままでいなければならない。そのマインドは知恵遅れのままでいなければならない。そうでないと彼は危険だ。もし彼が強かったら、知性的だったら、彼は反乱を起こすかもしれない。反乱を避ける為に、いかなる種類の革命も避ける為に、奴隷は最高限度ではなく最低限度の成長に留めておかれなければならない。

だから彼らは、あなたが個として上に成長するのを許さない。彼らはあなたが知性的になるのを許さない。たとえばインドでは、社会の4分の1がスードラから成り立っている。彼らは不可触賤民だ。あなたは彼らに触れることが出来ない・・・あるいはもし万が一、あなた方が互いに触れたら、あなたは直ちにシャワーを浴びて衣服を替えなければならない・・・彼らは穢れた人々だ。 

彼らは社会の為にあらゆる種類の汚い仕事をする。彼らは尊敬されなければならない・・・なぜなら社会は画家なしで、詩人なしで、歌い手なしで、神秘家なしで存在出来るからだ。彼ら全てを擁するのは美しい。だが社会は彼らなしで存在出来る。社会はあらゆる類の汚い仕事をしている、これら全ての人々なしでは存在出来ない・・・あなた方のトイレットを掃除し、あなた方の道路を掃除する。 

彼らは町の中に住むのを許されない。彼らは町の外に住まなければならない。彼らは世界中で最も貧しい極貧の人々だ。彼らにはどんな教育も許されない。彼らには宗教経典に耳を傾けることすら許されない。彼らが神の寺院に入って来るなどというのは問題外だ。これが根を切断する方法だ・・・教育はない。ひとつの職業から別の職業へと移る可能性もない・・・ 

彼らはあたかも牢獄の壁などなく暮らしているように見える。だが彼らの周りには微妙な牢獄の壁がある。ヒンドゥ教の社会にはどんな移動もない。スードラはどんなことが出来ても決して聖者にはなれない。どんなに徳が高くてもどんなに純粋でも、彼は社会の上流階級には受け容れられない。そして彼は何千年もの間、彼の先祖がして来た職業から移ることが出来ない。彼は同じ種類の仕事をしなければならない。 

あなたは彼らの自由を奪ってしまった。あなたは彼らの責任を奪ってしまった。確かに彼らは食べ物を与えられる。彼らは衣服を与えられる。彼らは小さな小屋を与えられるが、それだけだ。彼らは一定の安定を得ている。だがこの小さな安定ゆえに、彼らはまさに自分達のスピリチュアリティ霊性)を失ってしまった。 

存在はあらゆる次元でいつも選択を与える。というのも存在は、その子供達にいかなるものによっても強制されて欲しくないからだ。あなたは選ばなければならない。 

私はこれらのスードラ達、不可触賤民達に話をしていた。最初、彼らは高いカーストからの誰かが、都市の外にある彼らの小さな村に来ることが信じられなかった。だが私が彼らを訪問し始めると、少しずつ少しずつ彼らはそれに慣れていった。この男はちょっと風変わりだと。そして私は彼らに言った。 

「あなた方の隷属、あなた方の抑圧、あなた方の搾取は、あなた方がこんな小さな安定にしがみついているからだ。社会があなたに自分の個であることを、あなたの自由を与えることが出来ない時、その社会はあなたの社会ではない・・・それは放っておきなさい。自分達はそんな醜い社会には属していないことを宣言しなさい。誰があなたを止めているのかね?そして、これら全ての汚い仕事をすることを止めなさい。バラモンと高いカーストの者達にトイレットの掃除をさせないさい。彼らはそこで、単に坐って経典を読むことが美徳ではないことを知るだろう。それが純粋さではないことを」 

バラモンは社会に寄生すること以外の何もしなかった。だが彼らは最も尊敬されている人々だ。なぜなら彼らには教育があるからだ。彼らは宗教経典に精通している。バラモンの一族に生まれるというだけで充分だ・・・人々はあなたの足に触れる。その他の質は必要ない・・・生まれながらのバラモンであるだけで、あなたは礼拝される為の全ての資格を持っている。そしてこれは少なくとも5000年続いて来た。 

スードラ達に話していて、私は彼らがある種の安定にあまりに慣れてしまっていることに気がついた・・・そして彼らは自由という選択を忘れてしまった。私が彼らを説得しようとした時はいつも、遅かれ早かれこの質問が出された。 

「責任についてはどうなんですか?もし私達が自由だったら、その時には私達には責任があります。今のところ私達には何についても責任がありません。私達は安全に、安心して暮らしています」・・・完全な屈辱の中にありながらも。だがそのことに彼らは慣れてしまい、免疫になってしまっている。 

アナンド・マイトレーヤ、存在はあなたに恐怖を与える。存在はあなたに自由を与える。あなたはその両方を同時に持つことは出来ない。自由は、あなたの中に真正な個を創り出す・・・偉大な挑戦と責任、危険、賭けを伴って。だが危険のない、賭けのない生は生ではない。 

その時には、最も安全な場所が墓場だ。そこにはどんな病気も生じない。肝炎もない、エイズもない、同性愛もない、犯罪もない、強姦もない、殺人もない・・・何も起こらない。あなたは絶対的に安全だ。それに、あなたは死ぬことすら出来ない!一度死ぬだけで充分だ・・・その後は死という問題はない。だが、あなたは墓場を選びたいかね? 

恐怖を選んだ者達は、心理的な墓場を選んだ。私のここでの努力は、あなた方をあらゆる種類の墓場から連れ出すことにある。ジーザスは墓場からただひとりだけ連れ出した。それはラザーラスだった。私はもっと大きな心理的な墓場から、何千もの人々を連れ出し、彼らに自由になること、責任を持つ機会を与えようとしている・・・賭けをし、冒険を受け容れることを。 

山を登ることは危険だ。だが、あなたがその危険を受け容れない限り、あなたが自分の実存の頂きに到達することは決してない。自由は、あなたに光明を得ること(エンライトンメント)の最高の頂きをもたらす。 

OSHO:The Spirit Rebellious、(1987,2,15)(日本語版、ラジニーシ・ニューズレター96号)より