OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

141.決断出来ない時にどうするか?

<OSHOの講話より> 

もっと直観を働かせる方法を学ぶようにしてごらん。知性で決断するよりも、あなたの直観に決断させなさい。知性には思考が、直観には沈黙が必要だ。もっと沈黙し、静かになりなさい。そうすれば何をすべきかすべきでないか、小さく静かな声があなたに語り始めるだろう。それに従うことは常に正しい。間違った道には決して導かない。 

現代人の最も大きな問題のひとつは、自分自身の直観と繋(つな)がる方法を知らないことだ。そうすると正しい場合が50%、間違う場合が50%というのが常となる。何を選ぼうと、あなたは混乱したままだ。なぜなら知性が選択するというのは、二者のうちひとつを取るということであり、もうひとつの方にもいくつか良い点があるからだ。遅かれ早かれ、あなたはそれが正しい選択だったかどうか考え始める。別の方を選択したとしても、同じことが起こっただろう。そちらの選択肢にもいくつか良い点があるからだ。 

知性で選択すれば、必ず混乱し後悔を招く。人はいつもこう思う・・・分からないぞ。もし別の方を選んでいたら、私の人生はもっと良かったかもしれない。もっと満足出来たし、実現出来ることも多かったかもしれない。だが今となっては知る由もない。戻ることなど出来ないのだから。 

自分の直観に選ばせれば、こんなことは決して起こらない。直観は二者択一を知らない。それはとても直接的に素早く、「それをやりなさい」と言うだけだ。「あれかこれをやりなさい」とは言わない。「それをやりなさい」と言うだけだ。非常にはっきりした大きな声になっていくので、人は決して振り返ることがないし、後悔することもない。 

OSHO:The Shadow of the Bamboo 

自分の心の静かで小さな声は、実存の最も深いところで聞こえる。あなたがそこまで行った時にしか、その声は見出せない。瞑想の中でしか、深い沈黙の中でしか見出せない。借り物の知識が全て出て行って、あなただけが1人残された時、物事を知らない時、知られざる状態からの働きかけがあった時、その声は聞こえる。知識の騒音、雑音がすっかりなくなった時、あなたはその静かで小さな声を聞くことが出来る。 

OSHO:The Dhammapada:The Way of the Buddha 

物事をどう見るかは、物事ではなくあなた次第だ。解釈するマインドを捨て、直(じか)に見て、即座に見る地点に至らないうちは、マインドがあなたの仲介者だ。それは解釈で歪(ゆが)められ、解釈が混ざったものをあなたにもたらす。それは純粋ではない。真理に到達する唯一の方法は、自分の視覚に直接的であること・・・マインドの助けを、落とすことだ。 

花を見なさい・・・あなたは単純に見る。「美しい、醜い!」と言わない。何も言わないことだ!言葉を持ち込んではいけないし、言語化してはいけない。ただ単に見なさい。マインドは居心地が悪く、落ち着かない感じがするだろう。マインドは何か言いたい。マインドにただ言いなさい。「黙るんだ!私に見させてくれ。私はただ見るだけだ」 

初めは難しいだろう。あまり深く関わっていないものから始めなさい。言葉を持ち込まずに妻を見るのは難しい。あなたはあまりに巻き込まれているし、感情的にも強い愛着がある・・・怒り、あるいは愛だろうと、あなたは深く関わっている。 

中立的なものを見なさい・・・岩、花、日の出、飛ぶ鳥、空に浮かぶ雲。あなたがあまり巻き込まれていないもの、離れていられるもの、無関心でいられるものを、ただ見なさい。中立的なものから始めなさい。それから始めて、感情的に重荷となっている状況に進みなさい。 

マインドを脇に置けば置くほど、光があなたに起こるだろう。なぜなら夢がない時に扉は開き、窓は開き、空があなたに届くからだ・・・そして太陽が昇り、まさにハートにやって来る。光があなたに届く。夢に満たされていなければいないほど、それだけ多くの真理に満たされる。 

OSHO:Hsin Hsin Ming:The Book of Nothing 

自分を明晰だと信じている人達は、大きな問題を抱えている。その明晰さはとても表面的だ。実のところ、明晰さについては何も知らない。彼らの言う明晰さは愚かさにすぎない。混乱は知性のある人しか覚えないものだ。 

凡人は微笑みながら、笑いながらお金を貯め、さらなる力と名声を求めて闘いながら、生を送り続ける。彼らを見れば、あなたは少しばかり嫉妬するだろう。とても自信に満ちているし、幸せそうにも見えるからだ。あなたはとても混乱しているのに、彼らは自分達の生に確信を持っている。進むべき方向、ゴールを持ち合わせている。そこに達する方法を知っているし、梯子を登りすでに到達しつつある。 

だがあなたは、何をすべきかすべきでないかも分からず、何が正しく何が間違っているのかも分からず、ただそこに立っているばかりだ。だが、これはいつものこと。凡人は常に確信している。より知性のある人しか、混乱や混沌を覚えないものだ。 

混乱は大いなる機会だ。混乱とはすなわち、マインドではどうにもならないということだ。あなたが本当に混乱しているなら、途方もなく価値あることが可能となる。全くもって混乱しているなら、だんだんあなたはマインドの死に近づいていく。そして、それは生において起こり得る、最も偉大なことだ。 

マインドが混乱の中にあり、マインドではどうにもならないということを一度理解すれば、どれくらいマインドにしがみついていられることだろう。たとえ落とさなくとも、遅かれ早かれマインドはひとりでに落ちるだろう。混乱は大変大きく重いものになり、その大変な重さゆえにマインドは落ちる。そしてマインドが落ちた時、混乱は消える。 

混乱がある時には、そこに確かさがある。混乱が消えると、確かさも消える。あなたはただ単に明快になる。明晰なるもの、透明なるものとなる。その透明性には美しさ、優雅さがある。それはこの上なく素晴らしい。それは人間の生の中で、最も素晴らしい瞬間だ。人はその有様を映す、まさに鏡だ。それは映し出す・・・方向も、何かをしようという考えも未来もなく、十全に途方もなく瞬間の中にあるその姿を。 

無心である時、全存在はこの瞬間という一点に集中し始める。その瞬間は途方もなく意義深いものとなる。それには深さが、高みがある。神秘が、強烈さがある。火が、即時性がある。それはあなたを掴み、所有し、変容させる。もしマインドを落とせば、物事をありのままに見られるようになる。あなたは混乱してもいなければ、確かでもない。 

世界は素晴らしい瞬間の中にある。自分が誰であるかを知らなければ、常に過去はしがみつく手を失い、人は伝統から引き離される・・・大きなアイディンティティ(自己同一性)の危機が生じる。私達は誰なのだろう?私達はどうなってしまうのだろう? 

未だ伝統に根付いている人達は、お決まりの活気のない、死んだ生を送り続ける。踏み固められた道を歩く時には、確かさを覚える。とても多くの人がその道を歩いているからだ。見知らぬものの中へ動いて行く時には、ハイウェーも踏み固められた道もない。あなたは歩いて、自分で道を造らなければならない。出来合いの道は見つからない。 

OSHO:The Book of Wisdom    (市民出版社、OSHOタイムズ、Vol.10)より