OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

143.破滅的な災いで人間の意識はどうなるのか?

<OSHOの講話より> 

質問:愛するOSHO。知っている人達のほとんど全てを殺してしまうほどの災い、その止めることも出来ない破滅的な災いの真っ只中にいることに、世界の人々が突然気づいたら、人間の意識はどうなるのですか? 

アムリット、その人次第だ。完全に意識している者には何も起こらない。それを受け容れる、他のあらゆるものを受け容れて来たように・・・。葛藤はない、不安はない。自分の死を受け容れることが出来るように、自分の惑星の死をも受け容れることが出来る。そしてこの受容はどのような意味でも一種の絶望ではなく、逆に全ては生まれ、生き、そして死ななければならないという、まさに物事のあるがままを見ることだ。 

この惑星は40億年前にはここになかった。それ以降に生まれたのだ。おそらく生涯を全うしたのかもしれない。いずれにしろ政治家達が生み出したこの危機を、人間のマインドがたとえ何とか切り抜けたとしても、この惑星は長く生きられない。太陽が死につつあるからだ。40億年という年月で太陽は、エネルギーを使い果たしているだろう。太陽が死んでしまえばこの惑星は生きていられない。私達の生命エネルギーは全て太陽から来ている。 

完全に覚醒している人は、それを自然な現象としてただ受け容れる。まさに今、木から葉が落ちている。先日の夕方は風が強く吹き、葉がまさに雨のように落ちていた。だが何が出来るかね?これは存在の法だ。あらゆるものが形をなし、そして無形の中に消えてゆく。だから、覚醒している人の意識にはどんな変化もない。覚醒している人には違う反応がある。 

聞いた話だが・・・ある男が臨終を迎えた。とても長く生きた人で、生涯を全うしていた・・・死を思い煩うことはなかった。太陽が沈み暗くなりかけていた。男は目を開けて、右側に坐っている妻に尋ねた。「一番上の子はどこにいる?」妻は言った。「私のすぐ前、ベッドの反対側にいますよ。あの子のことは心配いりません。今は何も心配しないで下さいね。気を楽にして祈るのよ」だが男は言った。「で、二番目の子はどこにいる?」妻は言った。「あの子は上の子のすぐそばに坐っています」 

すると、死のまさに瀬戸際にいる老人が起き上がり出した。妻は言った。「一体どうしようというの?」彼は言った。「三番目の子を探しているんだ」妻と息子達はみな、自分達へ寄せられる父親の強い愛情を感じた。三番目の息子は彼のすぐ足元に坐っていた。その息子が言った。「パパ、僕はここにいるよ。気を楽にして・・・みんなここにいるからね」男は言った。「お前たち、みんなここにいるんだな。それなのに私に気を楽にして欲しいと言うのか?店番は誰がしているんだ?」 

死の間際ですら、まだ店のことを気にしている。様々な人の無意識なマインドがどう反応するか、予測するのは非常に難しい。その反応に彼らの全生涯が映し出されている。それだけは確かだ。だが人の生はみなそれぞれ異なった道、異なった体験を経て、その頂点は様々なものになる。死は、あなたの本質的な人格を表面に浮き上がらせる。 

(中略) 

死んで行く人の最後の思考は、その人の全生涯、全哲学、全宗教がどんなものであったか、その特徴を非常によく表している。それは途方もない暴露だ。 

J・クリシュナムルティの信者のひとり・・・インドでは非常に尊敬されている老人・・・が私のところによく来ていたものだ。彼の息子がマディヤ・プラデシュ州の司法長官で、その州の法廷はジャバルプールにあったからだ。彼はよく息子のもとを訪問していた。そして、自分がそこにいて私がその街にいさえすれば、いつも決まって私に会うことにしていた。 

老人は50年近くもクリシュナムルティの信者だった。彼は儀式、教典を全て落とし、クリシュナムルティは正しいということを論理的に、知的に確信し切っていた。私はいつも彼に言ったものだ。「あなたは覚えておくべきだ。知的な確信・・・論理での、あるいは理屈での確信は非常に表面的なものだ。危機に際しては消えてしまう、蒸発してしまう」だが彼はいつも私にこう言っていた。「50年だよ・・・それが表面だけだなんてあり得ない」 

ある日、彼の息子が私のところに来て言った。「親父が死にそうなんですが、親父がそばにいて欲しいと思う人なんて他に思い当たらないのです・・・親父はあなたをとても愛しています。ですから、ぜひ私と一緒に来てください。車で来ました。時間があまりありません」そこで、私は彼と一緒に行った。 

父親の部屋のドアのところに行くと、彼の唇が非常に静かに動いていた。私は中に入った。全く物音を立てずに・・・彼が何を繰り返し言っているのか聞きたかったからだ。彼はこう言っていた。「ラム、ラム、ラム」・・・神を表すヒンドゥの名だ。が、50年もの間、神はいないと彼は言い続けていたのだ。 

私は彼を揺すった。彼は目を開け、そして言った。「邪魔しないでくれ。今は議論なんかしている時じゃない」私は言った。「議論するつもりはない。ただちょっと聞きたいのだが、この50年はどうなったのかね?神の名を繰り返しているこれは、一体どこから来ているのかね?神はいないとあなたは言い張っていたんだよ」 

彼は言った。「あの時はあれでよかった。でも今は死にかけている・・・医者が言うには私の命はもう30分も保たないそうだ・・・とにかく私の邪魔をしないでくれ。神の名を唱えさせてくれ。どのみち誰に分かるかね?神はいるかもしれない。神はいないのであれば、名を唱えても害はないだろう。だが神がいて、その名を唱えることなく死んだりしたら、ブラックリストに載ってしまう。地獄には行きたくない。この地上で充分苦しんだからね」私は言った。「だから言っただろう。知的な確信なんか役に立たないって」 

彼は死ななかった。生き延びた。3,4日して、私は彼に会いに行った。彼は庭に坐っていたので、私は言った。「あの夜のことはどうかね?」彼は言った。「あれは全部なかったことだ。ちょっと弱気になっていただけで、死の怖れから神の名を唱えることになったんだ。さもなければ神なんていない」 

私は言った。「ということは、死の体験がもうひとつ必要だということかな?あれはあなたの最初の心臓発作だった。あなたは生き延びた・・・2回目がすぐに来る。よくて2回目までは生き延びられるが、3回目は生き延びられない。あなたが私に言っていたことを覚えておくことだ」彼は言った。「あれは全部過ぎたことだ。神がいないことについては絶対的な確信がある」 

私は言った。「死を自分に近づけ始めただけで、あなたの表面的で知的な確信などすぐに消えてしまう。神はいないというこの考えは、あなたのものではない。借りて来たものだ。あなた自身の探求ではない。あなた自身の洞察ではない。あなたの意識の一部ではなく、あなたのマインドの一部にすぎない」 

人々は様々な行動を取る。あなたは尋ねている。「知っている人達のほとんど全てを殺してしまうほどの災い、その止めることも出来ない破滅的な災いの真っ只中にいることに、世界の人々が突然気づいたら、人間の意識はどうなるのですか?」 

いくつかの点は間違いなく断言出来る。ひとつ・・・世界が死に瀕していれば、あなたの関係は全て・・・自分の母親、父親、ガールフレンド、妻、夫、ボーイフレンド、子供・・・何の意味もない。全世界が死へと、ブラックホールへと消えてゆく瀬戸際にあれば、生においてあなたが作り上げた関係は損なわれる他はない。事実、私達の関係の背後で、私達は見知らぬ者同士だ。 

それで人は恐くなる。だから、決してそれを覗き込まない。さもなければ、たとえ群衆の中にいてもあなたは独りだ。たとえあなたの名前が人々に知られていても、どこが違うかね?それでもあなたは見知らぬ人だ。見れば分かる・・・30年40年50年一緒に生きた夫婦でも、一緒に暮らせば暮らすほど、見知らぬ者同士だということに気づく。 

結婚する前は、相手の為にこそ生まれて来たに違いないという幻想を互いに抱いていた。が、ハネムーンが終われば、その幻想は消える。そして日を追うごとに2人は遠く、さらに遠くなってゆく・・・全て大丈夫だ、全て素晴らしいという振りをしながら。だが深いところで、見知らぬところには触れていないことを互いに知っている。 

この全世界は見知らぬ者でいっぱいだ。そして、もし次の瞬間に世界が消えることになっていたら、もしそれが全てのラジオとテレビで発表されたら、突然あなたは全くの裸の、独りの自分を見ることになる。

 

幼い子供が父親と動物園に来ていて、檻に入っている狂暴なライオンを2人で見ていた・・・ライオンは歩き回っていた。子供はとても恐くなり・・・まだ9歳にも満たなかったのだ・・・父親に尋ねた。「父さん、もしこのライオンが出て来て、父さんがどうにかなってしまったら・・・お願いだから何番のバスで家に帰ったらいいのか教えて!」 

これほどの状況で、彼は非常に適切な質問をしている。父親に何かが起こったら、自分にも何かが起こることなど思いも及ばない。だが父親に何かが起こり自分は生きていたら、バスの番号を知っておく必要がある。父親は子供が自分のことなど全く気にしていないのでショックを受けた。起こることは何でも起こる・・・子供の関心はバスの番号を知ることだ。 

死の雰囲気そのものが、突然あなたの仮面を全て引き剥(は)がす。自分は独りで、自分の関係は全てごまかし・・・自分の孤独を何とか忘れ、自分は独りではないと感じられる家族を作り上げる為の方策だということに、突然気づかされる。 

だが、死は間違いなく暴露する。しかも、これは小さな死のことにすぎない。全世界が死ぬとなれば、その前にあなたの関係が全て消える。あなたは独りで死ぬ。名前のない、名声のない、尊敬も得ていない、権力もない見知らぬ人・・・全く無力だ。だがこの無力感の中で、それでも人々は様々な行動を取る。 

(中略) 

死に際して、意識していない人々の心の中の最も重要な対象はセックスになる・・・セックスと死は同じコインの両面だからだ。生は神秘に満ち溢れている。あなた方はそうと知って驚くだろうが、磔(はりつけ)にされて処刑されると、人々は磔にされたその時にまず間違いなく射精する。 

医者達はなぜなのか考え続けて来た。そしてこの精子達・・・それは生きている・・・がその状況、肉体は死んでしまったという状況を見て、肉体から急いで外に出るのだという解釈に行き着いた。精子の命は肉体の外ではわずか2時間にすぎない。だが2時間で何か他の肉体、何か他の中心が見つかるかもしれない。 

最初それは、磔になった人は射精するというのは、非常に神秘的なことのように思われていた。だがそれはまさに自分の家が火事になったので、そこから逃げ出すようなものだ。あなたの精子は生き物だ。が、あなたは死にかけている・・・。なぜ彼らまであなたと一緒に死ななければならない?あなたは彼らにとって家にすぎなかった。そして、その家が燃えている・・・。少なくとも自分の命を救う努力をする権利は誰にだってある。 

全世界が死に瀕している時、性欲を抑圧して来た無意識な人々はほとんど、セックスのことしか考えない。他のことなど考えられない。彼らの関心事や趣味や宗教は全て消えてしまう・・・。世界が死滅しようとしている。死が全てを破壊してしまう前に、もう一度愛を交わすことが出来るかもしれない。 

彼らは聖職者達の言うがままに、社会と文明の言うがままに、全人生のリビドー、性欲衝動を抑圧して来た・・・。が、今となってはどうでもいい。あらゆるものが消えることになる。尊敬されることなど必要ない。宗教のことなど気にしない。 

(中略) 

相手が死ぬと分かったら、関係性の細い糸が突然ほどけてしまう。ブラックホールへと、突然の死へと消えてゆく世界が、人々をほとんど狂気に駆り立てるだろう。抑圧された性欲、官能を全て吐き出させるだろう。だがそれは様々な個人によって、彼らがどう生きたかということで違ってくる。 

もし彼らが抑圧のない自然な人生を生きていたら、あらゆる瞬間に全てが分かち合われていたら、おそらくそれを見守ることになるだろう・・・。それは最大の悲劇、世界最大のドラマになる。彼らは何もしない。が、静かに坐って見守る。だが人々はどうするかということに関して、普遍的な法則を規定することは出来ない。 

光明を得た人々についてのみ、完全な保証のもとに言えることがある。つまり、どんな違いもないということだ。彼らはそれが物事の本性だということを知っている。これはゴータマ・ブッダのアプローチの全てだ・・・秋が来て、葉は木から離れなければならない時があるという、あるがままの哲学だ。 

春が来ると花々が咲く。特に東洋では・・・西洋にその考えはない・・・東洋では、創造されたものひとつだけでなく、創造されたあらゆるものが崩壊に向かう・・・あらゆる人が1日の仕事を終えると夜には眠りに就くように。これは非常に説得力のある考え方だ。創造されたものはひとつ残らず、ある時が過ぎると・・・彼らは、創造されたあるものがどれだけ続くかというその正確な時間まで語っている・・・崩壊に向かう。それにもまた休息が必要だ。 

だから光明を得た人にとって、それは何も異常なことではない。存在そのものの一部だ。昼が終わったように、夜もまた終わる・・・そして、創造されたものは再び目覚める。 

現代の物理学はその考え方に近づいている。まず彼らはブラックホールを発見した。宇宙には不思議なブラックホールがいくつかあり、そのブラックホールに惑星や太陽が近づくと引き込まれ、跡形もなく消えてしまう。だが科学は自然におけるバランスを理解する。だから今や彼らはホワイトホールがあるに違いないと言っている。 

おそらくブラックホールは扉の片側で、ホワイトホールはその扉のもう一方の側だろう、と。一方の側から、ひとつの星や太陽がブラックホールに入って私達のところから消え、もう一方の側、ホワイトホールから新しい星が誕生する。毎日新しい星が生まれ、古い星が死んでゆく。生と死は切れ間のない円環だ。生が昼ならば、死は夜・・・昼に反してはいない。まさに休息、眠り、活力を取り戻す時だ。 

理解のある人は、それで心が乱されたりしない。だが無意識な人々はただ気が触れて、これまで決してやらなかったようなことをし始める。彼らは自分を抑圧して来たが、もはや抑圧しても意味がない、その必要はない。 

もしそれが前もって分かっていれば・・・あまりありそうにないことではあるが・・・というのも、核兵器だと地球が消えるのに10分しかかからないからだ。だから前もって、あなたのところにその知らせが来ることなどあまりあり得ない。用意を整えなさい! 

10分以内に世界が崩壊することをラジオやテレビで聞くそのショックで、あなたはまさに凍りつき、麻痺してしまう・・・そのショックは非常に大きく、馴染みのないものだ。おそらくほとんどの人々はショックで死んでしまうだろう、核兵器ではなく。10分以内に全世界が死ぬと聞くだけで充分だ・・・そのショックが彼らの脆(もろ)い存在を破壊してしまう。だから、人々がどういう行動を取るかというのは仮説にすぎない。 

光明を得た者達に関してのみ、私は絶対的な保証のもとに、私自身の権威でもって何の違いもないと言える。もしお茶を飲んでいれば、彼らはお茶を飲み続ける。手が震えることすらない。シャワーを浴びていればシャワーを浴び続ける。ショックを受けたりはしない。麻痺することもなければ、気が触れることもない。これまで抑圧して来た物事に耽ることもない。光明を得た人は、自分の実存の中に抑圧を抱えていないからだ。 

その人はいつでも「自然」に対して言う言葉をひとつしか知らない・・・「イエス」。彼らは消えてゆく地球に、究極の死に「イエス」と言う・・・「ノー」という言葉は知らない。彼らの側に抵抗は何もない。意識して死ぬ者達は彼らだけだ。そして意識して死ぬ者は、生の永遠の流れに入る。死にはしない。 

無意識の内に死ぬ者達はどこか他の惑星に、他の子宮に生まれるだろう。というのも命は破壊され得ないからだ、核兵器によってすら。核兵器は命が存在している家を壊すことが出来るだけだ。 

OSHO:The Hidden Splendor (日本語版、OSHOタイムズ、30号より)