OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

144.あなたは世界だ

<OSHOの講話より> 

質問:愛するOSHO。「あなたは世界だ」これはクリシュナムルティの困惑させられる声明のひとつです。私達がこれを理解するのを手助け出来る人は、この地球上であなた以外には現存していないと私達は考えます。ですから、これについて何か言ってくださるようお願いします。 

昨日、質問がまだ残されていた。明日の為に残されていた。だがたった今、明日など決してやって来ないことに私は気がついた。いつの日か明日がやって来るまでは、その質問は待たねばならない。 

J・クリシュナムルティの「あなたは世界だ」という声明は、全く困惑するものではない。それはとても単純だ。理解するにはほんの少しの知性が必要だ。私達はこの声明に、いくつかの異なった方向からアプローチを試みることが出来る。 

世界というのはただの名前だ。「個」が現実(リアリティ)だ。あなたは世界中で、世界を見つけようと試み続けることも出来る。だが、あなたはそれを見つけない。あなたはいつも「個」を見つける。「世界」や「社会」、「宗教」「国家」といった言葉は、その背後にはどんな内容もない、単なる言葉にすぎない・・・空っぽの容れ物だ。 

あなたを除いて他に世界はない。これが、その声明を理解するひとつの道だ。個がただひとつの現実であり、世界とは個の集合に他ならないということが。だから世界が何であれ、それは複数の個の寄与するものだ。もしそれが醜いなら、あなたはその醜さに寄与している。もし世界が憎悪で、嫉妬で、怒りで、貪欲で、野心で満ちているなら、あなたが私達の住んでいるこの地球全体に寄与している。 

あなたは責任を、他の誰かに転嫁することは出来ない。あなたは責任を、自分自身の双肩に受け容れなければならない。それがこの声明、「あなたは世界だ」を理解するもうひとつの道だ。 

私達はひっきりなしに責任を転嫁している。戦争がある時、アドルフ・ヒットラーが、ロナルド・レーガンがいる時、これらの人々を指して責任は彼らにあると言うのは、私達にとって簡単になる。だが、誰が彼らを創り出すのだろう?アドルフ・ヒットラーは私達の寄与だ。私達がいなければ、彼は誰でもない。ロナルド・レーガンは私達の意見に他ならない。それは私達の票決だ。それは私達の支持だ。 

だから、あなたが誰であれ非難した瞬間、覚えておきなさい。あなたは自分自身を非難している。あなたの寄与がいかに間接的なものであろうとも、それでもあなたの加担はそこにある。 

ジャイナ教の僧や、仏教の僧や、カトリックの僧のように、僧院で世間に関しては完全に閉ざされて生活することも可能だ。チベットには僧院がある・・・中国には共産革命以前はたくさんあった。ヨーロッパには奇妙で長い歴史と共に、いくつかが存在している。 

ヨーロッパのエトズにある僧院は、千年の歴史がある。千年の間に誰であれこの僧院に入った者は、生きては出ては来れなかった。あなたは入るだけだ。ひとたび僧侶になったら永遠に僧侶だ。そして僧院は、その在院者が世間に出て来ることを許さない。彼らは死んで初めて外に運び出される。 

あなたは彼らには、アドルフ・ヒットラーについての責任がないと思うかね?彼らには世界大戦についての責任がないと?一見そのように見える・・・どうしてこれらの人々に責任を問えるだろう?世間を去った人々、決して振り返りもしなかった人々、自分自身を世界から断絶させた人々。 

だが、それでも私はあなた方に言おう。彼らには責任がある、彼らは逃避したことで責任がある・・・彼らは自分達の責任から逃避した。それは何の違いも生み出さない。仏教の僧侶、ジャイナ教の僧侶、ヒンドゥ教の僧侶は、世間での活動に従事していない。だがあなたは積極的な方法で寄与することも出来るし、消極的な方法で寄与することも出来る。

あなたはこの家に火をつけることが出来る・・・それは積極的な方法、活動的な方法だ。あなたは道路の脇に立っていることも出来る。その火を消す為のどんなこともしないで・・・それは消極的な方法だ。だが、どちらにも責任がある。消極的な人物には、それほど責任があるようには見えない。だが彼らの責任は絶対的に等価だ・・・というのも、生にはバランスがあるからだ。 

あなたは戦争に反対しているかもしれない。あなたは平和主義者かもしれない。あなたは反戦主義者かもしれない・・・いつも旗を持って戦争に反対し、暴力に反対し、抗議している。当然、あなたは言うことが出来る。「どうして私に責任があるだろう?」と。だが生は複雑な現象だ。 

あなたの抗議、あなたの平和主義、あなたの戦争屋に対する戦いは、それすら戦争の一部だ。あなたは平和の人ではない。あなたはそれを、人々が抗議する時に見ることが出来る・・・彼らの怒り、彼らの暴力はあまりに明白なので、なぜこれらの人々が戦争に反対しているのか、人は不思議に思うほどだ。彼らは戦争しているどこかの兵営に参加すべきだ・・・彼らは怒りに、激怒に満ちている。 

単に彼らは「平和」という美しい名前の背後に、第三の兵営を持つことを選んだのだ。よい仮面だ。だが内側には同じ怒りが、同じ激怒が、同じ暴力が、同じ破壊性がある。誰であれ、彼らに賛同しない人達に対して。彼らは他の誰とも同じ量の暴力を、雰囲気に対して寄与している。彼らは愛について話しているかもしれない。だが彼らは、あなたは愛の為に戦わなければならないとも言っている。 

ハズラット・モハメッドの剣には「平和が私のメッセージだ」という意味の言葉が印(しる)されていた。彼は「平和が私のメッセージだ」と印すのに、剣しか見つけられなかった。そして彼は、自らがイスラムと呼ぶ宗教に生を与えた。「イスラム」とは平和の意味だ。そしてイスラム教は世界中で、他のどんな宗教もなさなかったほど多くの暴力を行なった。平和の名のもとに剣の切っ先で、イスラム教は何百万の人々を殺戮し、改宗させて来た。 

あなたは美しい言葉を選ぶことが出来る。だが、あなたは現実を隠すことは出来ない。J・クリシュナムルティの「あなたは世界だ」という声明が単に力説している事実は、あらゆる個人がどこにいようと、どんな者であろうと、私達の周りに存在しているこの世界を創り出していることの責任を受け容れるべきだ、ということだ。 

もしそれが狂っているなら、あなたは自分自身のやり方でその狂気に寄与している。もしそれが病んでいるなら、あなたもまたそれを病気にさせている共犯者だ。彼が力説していることは重要だ・・・なぜなら、あなたが「私もまたこの悲惨で狂った世界に対して責任がある」と理解しないかぎり、変化の可能性はないからだ。誰が変えることになるのか?誰もが、他の誰かに責任があると考える。 

インドの偉大な皇帝のひとりアクバル。彼の一生の中で「アクバル・ナマ」・・・「アクバルの伝記」に記録されているひとつの出来事がある。ある日、彼は単に友人達とおしゃべりをしていた・・・彼は自分の周りに国のあらゆる所から選ばれた、まさに最良のもっとも賢い、もっとも創造的な人々を抱えていた。彼のすぐ脇に立っていたのは、彼の宮廷道化師だった。 

ところであなたは理解しなければならないが、あらゆる偉大な皇帝のどこの宮殿にも道化がいたものだった。その役目全体は宮廷が深刻になりすぎないように、宮廷が軽く、陽気であるように維持することだった・・・たまには爆笑になるように。宮廷道化師を置くというのは偉大な洞察だった。そして彼はいつも、その当時の最も偉大な賢人のひとりだった・・・というのも、それは容易な現象ではなかったからだ。 

ビルバルはアクバルの宮廷道化師だった。彼らが議論している時、アクバルはビルバルに平手打ちを食わせた・・・全く何の理由もなく。さあ、あなたは皇帝を叩き返すことは出来ない。だが、この平手打ちはどこかに行かなければならない・・・それで彼は、自分の脇に立っていた人物に平手打ちを食わせた。 

誰もが思った。「これは奇妙だ!最初から何の理由もなかった。突然、狂気がアクバル帝に取り憑いたかのように、彼は気の毒なビルバルを叩いた。そしてあの男も奇妙だ。『なぜあなたは私を叩いたのですか?』と尋ねるよりむしろ、彼は自分の脇に立っていた人物を叩いた!」そしてその男は、多分これがこの宮廷の規則なのだと考えて、次の人物を叩いた。連鎖的にそれは宮廷中を廻った。 

あなたは驚くだろう。夜には、アクバル帝の妻が彼をひっぱたいた!彼は言った。「なぜおまえは私を叩くのか?」彼女は言った。「それは問題ではありません。ゲームはゲームですから」彼は言った。「これがゲームだと誰が言ったんだね?」彼女は言った。「私達は1日中、大変なゲームが宮中で始まったと聞いていたのです。ルールは叩き返さないということだけ、誰か他に叩く人を見つけなければいけない、と。そして誰かが私を叩きました・・・だからあなたの平手打ちは、自分のところに戻って来たのです。ゲームは完了しました!」 

この広い世界で、何千もの狂気じみたゲームが進行している。そしてあなた方はみな、その参加者だ・・・もちろんとても小さな規模で、あなたの能力に従って。だが覚えておきなさい。その平手打ちは遅かれ早かれ、あなたのところに戻って来ることになる。それがどこに行くというのか?何であれあなたのもとにやって来るものは、覚えておくがいい。それはあなたのしたことだ。 

おそらくあなたは、それを始めた時に忘れてしまったのかもしれない。世界は広大だ、時間がかかる。だが全てのものがその源泉に帰って来る・・・それは生の根本的なルールのひとつだ、ゲームのルールではなく。だからもしあなたが苦しんでいるなら、もしあなたが惨めなら、もしあなたが緊張しているなら、不安と苦悩でいっぱいなら、この世界全体は醜い、他の誰もが醜い、自分は犠牲者だと、単に自分自身を慰めてはいけない。

 

J・クリシュナムルティが言っているのは、あなたは犠牲者ではない、あなたはこの狂気の世界の創造者だ、ということだ。そして自然と、あなたは何であれ自分が加担したものについて、その結果に同席しなければならない。あなたはその種を播くことに関与している。あなたはその作物を刈り取る時も同席しなければならない。あなたは逃げることが出来ない。 

その人が責任を転嫁するのを止めるように、個人を目覚めさせれば・・・むしろ逆に、自分が狂気全体にどのように加担しているのかを見る為に、彼が内側を見始めると・・・彼は加担することを止める可能性もある。なぜなら彼もまた苦しまねばならないからだ。もし彼がこの世界全体はもっと広いスケールでの、自分の投影に他ならないと知るに至ったら・・・。 

なぜなら何百万の個人が同じ怒りに、同じ憎しみに、同じ競争心に、同じ暴力に関与していたゆえに、それは山のようになった。あなたは自分がそれについて責任があるかもしれない、と想像することが出来ない。「私はほんの少しは加担していたかもしれないが・・・」だが大海は何百万の、何百万の水滴に他ならない。ひとつの水滴は大海について責任がある、と考えることが出来ない・・・だが水滴にこそ責任がある。水滴がなかったら大海は全く存在しない。大海というのはただの名前だ。実体は水滴の中にある。 

自分の責任を受け容れることは、あなたを変える。そしてあなたが変わることは、世界が変わることの始まりだ・・・なぜならあなたが世界だからだ。どんなに小さいにせよ、ミニチュアの世界であるにしても、あなたは全ての種子を運んでいる。革命があなたのもとにやって来るなら、それは全世界の革命の先触れだ。 

J・クリシュナムルティが「あなたは世界だ」と言う時、彼はあなたにだけそれを言っているのではない。彼はそれを全ての人に言っている。あなたは世界だ、と。もしあなたが世界を変えたかったら、世界を変えることから始めてはいけない・・・それは人類が今日まで従って来た誤った方法だ。社会を変え、経済構造を変えること。これを変え、あれを変えること。だが個人を変えることはだめだ。それゆえ全ての革命は失敗した。 

ただひとつの革命だけが成功し得る。それは今までに試みられたことがなかった・・・それは個人の革命だ。あなたは自分自身を変えなさい。世界を地獄にするどんなことにも加担しないように、醒めていなさい。そして世界を楽園にする何かを、世界に貢献することを覚えておきなさい。これが宗教的人間の秘密の全てだ。もし全ての個人がそれをし始めたら、どんな流血もなく革命があるだろう。 

アクバルの生涯で別の出来事があった。彼はとても美しい大理石の池を創った。彼は白鳥をマンサローヴァから、ヒマラヤから運んで来た。そして彼はその池に水を入れてはいけないことに決めた。これは皇帝の池だ・・・水の代わりに牛乳でなければならない。都のあらゆる者は明日の朝早く、陽の昇る前に、そんなに多くではないバケツ1杯だけの牛乳を、どの家からも王宮に持って来なくてはならない、と知らされることになった。 

ビルバルはアクバルに言った。「あなたは全く人間のマインドを理解していません。あなたの池は水で満たされるでしょう」彼は言った。「意味もないことを・・・これは私の命令なのだ!」ビルバルは言った。「あなたの命令であれ、誰の命令であれ・・・私は人間のマインドを理解しているのです」アクバルは言った。「私達は待つことにしよう。明日の朝には誰が正しいかはっきりするだろう」 

そして次の日の朝、ふたりは庭に行った。池は水でいっぱいだった。アクバルは言った。「これは奇妙だ。どうしてこうなったのか?誰でもよいから通りにいる何人かの人々を捕まえるのだ。そして、どうしてそうなったのか尋ねるのだ」人々は脅迫された。もし嘘をついたら彼らの命は危険になる。もし真実を言ったら自由の身になるだろう、と。 

彼らは言った。「真実はこうです。私達は都の者全員がバケツ1杯のミルクを持って来ることになると思ったのです。バケツ1杯の水くらい完全に見逃されて、誰も知ることはあるまいと。でも今見たところ池は水でいっぱいです。どうやら誰もが同じように考えたらしいですね・・・都全体が!ただひとりの例外もなかった」 

人間のマインドはまさに同じように働く。だから世界がこれほどの悲劇であるなら、それを創り出しているのは私達人間のマインドだ。私達はバケツ1杯の惨めさを寄与している。人間が人間のマインドを理解し、異なったやり方で行動し始めないかぎり、どんな革命も成功し得ない・・・「自分のバケツの水くらい全く気づかれまい」と希望することなく。 

誰もがこの考えが、どの人間のマインドにもやって来るものであることを理解し「少なくとも私は、バケツ1杯のミルクを持って行くべきだ。私は全ての人類が振る舞っているように、無意識で行動することは止めるべきだ」と決断するなら・・・池を牛乳でいっぱいにすることは可能だ。 

「あなたは世界だ」は、それが何であれ、私達は自分自身の責任から免(まぬが)れることは出来ないことを単純に意味している。私達の僧侶達、私達の聖者達は、ただこれだけを試みて来た。もしあなたが彼らの心理に深く入るなら、彼らがしようとしていたのはこのように言うことだった。「我々はもはや世間で進行している、これら全ての意味もないことに責任はない」と。 

だが彼らはその同じ世間に依存していた。自分達の食べ物を、彼らはその同じ人々に依存していた。自分達の衣服を、彼らはその同じ人々に依存していた。彼らはいずれにしても世間から分離してはいなかった。彼らは単に世間の中で活動的でいることを止めただけだった。彼らは引き続いている狂気全体の、沈黙の共犯者だった。 

彼らはもっと非難されるべきだ。なぜなら彼らはより知性的な、より賢い人々だからだ。それでも彼らは、単に脇によけているだけでは充分ではないという要点を見ることが出来なかった。あなたは通常の人間のマインドに対して、何かをしなければならない。 

ヒマラヤに逃避することは助けにはならない。なぜならたとえヒマラヤにいても、あなたのマインドは同じままだから、単にあなたにはそれを知る機会がないだけだ。それに敵を知らないよりは、敵を知った方がよい。なぜなら、それを知ることで変わる可能性がそこにあるからだ。知らないというのは、とても危険だ。病気が診断された時、それは半分治っている。病気の診断がつかない時、その時は本当の問題がやって来る。薬は問題ではない、診断が問題だ。 

ひとりの男が30年間ヒマラヤで暮らしていた。彼の問題は怒りだった。彼はそれから免れたかった。ヒマラヤで30年間、彼はただのひと時も怒ったことはなかった・・・そこにはどんな理由もなかった。妻はそこにいなかった、子供達はそこにいなかった、両親はそこにいなかった、社会はそこになかった・・・気に障ることは何もなかった。 

やがて少しずつ彼の名前は有名になった。そして人々が彼を礼拝する為にやって来るようになった。こうなると、怒りがそこにまだあることに気づくのはもっと難しくなった。人々があなたを礼拝している時には、怒りという問題はない。そしてアラハバードで「クンバ・メラ」が行なわれた。人々は言った。「あなたはこれほど偉大な聖者様です。あなたがいないとクンバ・メラにとって、この地上における一か所では最大の人々の集まりにとって、何かを欠くことになってしまうでしょう。あなたは行くべきです」 

それに今では、彼は偉大な聖者になったと納得させられていた。人々は彼にただ敬意を表す為に遥か遠くから、山々を通って困難な骨の折れる旅をしてやって来ていた。彼はクンバ・メラに行った。だがそこには何百万の人々がいた・・・誰も彼を知らなかった。彼は誰かに足を踏みつけられた。いきなり彼はその男に平手打ちを食らわすと、その襟首をひっ捕まえて言った。「おまえさん、一体どういうつもりだね?」 

突然、彼は自分が聖者なのを思い出した。彼は言った。「何てことだ。私は何をしているんだろう?30年間はどうなったのだ?怒りはたちまちやって来た。即座に、一瞬の考える暇も与えずに」彼はその男を殺すところだった。それが、彼がヒマラヤに行った理由だった・・・というのも、彼は自分が誰かを殺して磔(はりつけ)になるか、あるいは一生を牢屋の中で暮らさなければならなくなるのを怖れていたからだ。 

彼の家族ですら言っていた。「あなたはヒマラヤに行った方がいい。あなたは誰かを殺すかもしれない。しかもそれは自分を殺すという意味でもある。そうすればふたつの命が救われるのです。行きなさい」だが、その30年間で・・・どうなっただろう? 

それは単純な事実だ。この世界から逃げ出した人々は、この世界に対して自分達には責任がないと考えるべきではない。逃避することによって、彼らはこの世界を変えなかった。逃避することで彼らは、この世界をもっと美しく、もっと人間的に、もっと知性的に、もっと瞑想的にする為のどんなことにも貢献しなかった。彼らはこの世界を変えることもしなかったし、自分自身の内側のいかなる変化を通過することもなかった。 

それゆえに、私はこの世界を放棄することに反対する。この世界の中にいなさい。それがいかに困難であれ・・・というのも、自分がどんな種類のマインドを内側に持ち運んでいるのか、それをあらゆるステップで覚えているには、この世界の中にいるしかない。そのマインドは外側に投影されている。そしてそれは巨大になる。なぜならとても多くのマインドが、同じように投影されているからだ。 

「あなたは世界だ」は、数学的な声明ではない。「あなたは世界だ」は、心理学的な洞察だ。そしてそれは、成功し得るただひとつの革命の為の、まさに鍵になり得る。 

OSHO:Sermons in Stones,Vol.1(1986.11.6、ボンベイ)(日本語版ラジニーシ・ニューズレター94号)より