OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

147.常に内発的でいなさい

<OSHOとのダルシャン(面談)より>       (1976年7月28日) 

OSHO・・・(イタリアから来て、サニヤスを受けようとしている探求者に)目を閉じて、もし何かが起こったらそれを許しなさい。自分の内側で私のエネルギーを感じてごらん・・・。 

※カテリーナは目を閉じて、1分から2分ほとんど微動だにせずに坐り、その間にOSHOは彼女のサニヤス名を書いた。OSHOはそれから、しばしペンシルライトを彼女の顔に当てながらカテリーナを凝視した。 

OSHO・・・これがあなたの新しい名前だ。アナンド・サハジョ。アナンドは至福を意味し、サハジョは自然に内から出て来るという意味だ。内発性の至福。そしてサハジョというのは、ある女性の神秘家の名前でもある。偉大なインドの聖者、世にもまれな女性の神秘家のひとりだ。 

私があなたにこの名前をあげるのは、絶えず内発的でいなければならないということを、覚えていられるようにする為だ。瞬間から瞬間へと生きなさい。過去のことを考えたり、未来のことを考えたりしないこと。両方とも存在しないものだ。過去はもう去っている。未来はまだ来ていない。あるのは現在だけなのだ。 

だから、現在の中にいることこそ唯一の在り方なのだ。その瞬間に感応出来る状態でいなさい。もし誰かが何かを聞いても、自分のマインドから答えないこと。マインドは脇に置いておくがいい。なぜならば、マインドというのは決して内発的ではあり得ないからだ。そして内発的であり得ないものなど、あなたではない。 

マインドを脇にのけると、あなたの内発的な実存が浮かび上がって来る。だから一貫性などに構うことはない。そんな必要はない。あるひとつの人格を持つ必要などない。人格というのは、過去が現在を決定するということだからだ。自分は過去にあることをやって来た。今、自分はそれと一貫していなければならない。それが人格の何たるかなのだ。 

社会は、あなたにも他のあらゆる人にも人格を持たせたがる。なぜならば、人格を持った人間というのは簡単に操れるからだ。人格を持った人間は予測可能だ。内発的な人間は予測不能だ。彼は根本的なところで自由なのだから・・・次に彼が何をするかは決して分からない。自分でも次の瞬間に何が起こるか予測出来ない。 

もし次の瞬間に何が起ころうとしているか、自分が何をしようとしているか分かったら、あなたはもうすでに死んでいる。それでは、その瞬間は生きた、新鮮な、若々しいものではあり得ない。あなたはもうすでに、それに対する構えを取ってしまっている。だから何も用意はいらない。ただ次の瞬間が来るのを待って、結果がどうであれ自分の全体性(トータリティ)をもって感応するのだ。 

結果を考えるということは、世間的であることだ。そして結果を考えるのを止めることが、サニヤシンになることなのだ。分かるかな?それがこの名前の意味だ。そして、それはあなたの名前になるだけではない。それはあなたの実存そのものにならなければならない。何か言いたいことはあるかな? 

ラダ(通訳)・・・彼女はどのグループをやるべきか知りたがっています。彼女は8月の10日までしかいられません。カシミールの山に行きたいからです。彼女は山に登るのが大好きなのです。彼女はイタリアでも山に登っています。彼女はとても達者な登山家なのです。 

OSHO・・・私よりも大きな山は見つかるまい!(笑)だが行くのはいい・・・いい練習になるだろう! 

ラダ・・・延ばすことも出来るそうです。 

OSHO・・・延ばしなさい。そうでないと、早く山に来すぎたということになるだろう。少なくとも1ヶ月ここにいて、私の何かを吸収出来るようになりなさい。そうしたら私が山にのっけてあげよう。何か他に言いたいことは? 

ラダ・・・彼女は小さい頃から音楽を勉強していて、大きなコンサートでオルガンを弾いて来ました。けれども、今彼女の中にはある衝突があります。それを続けるべきかどうか分からないのです。 

OSHO・・・音楽というのは、絶対に捨てるべきでないビューティフルなものだ。それは一種の瞑想なのだ。だからそれを捨てるよりは、むしろその中にもっと深く入って行きなさい。私がその中にもっと深く入って行くのを助けてあげよう。私にはどこに問題があるか理解出来る。問題は音楽の中にあるのではない。問題は「演奏家」でいることにある。

ラダ・・・彼女が言うには、自分の問題は音楽の中で完全に自分を実現したいということだそうです。そうすれば、もうこれ以上コンサートはやらないだろうと言っています。 

OSHO・・・そう、私が言っているのはそれだ・・・。「演奏」が問題なのだ。世の中には本当のところ演ぜられ得ないものがある。もしそれが自分の中の深いところにあったら、ごく共感度の高い愛を持った聴衆が得られない限り、あなたはそれを他人の前でやることなど出来ないものだ。そして、そういう聴衆というのはなかなか得られるものではない。公衆の面前でコンサートをやるというのは、路上でセックスするようなものだ。それはそれほどに親密なものであり、人は柔らかなハートをあんな公衆の凝視にさらすなどということに戸惑いを感じてしまう。 

ラダ・・・彼女は、自分が思う存分ほかの人達に音楽を与えてあげることが出来ないことも問題だと感じています。 

OSHO・・・それは可能になるだろう。あなたが瞑想の中に深く入って行けば行くだけ、音楽の質も変わって来るだろう。あなたの能力も変わってゆく。あなたは音楽の中にもっと根づいた感じになるだろう。だから今の今はここで瞑想し、いくつかグループをやりなさい。ここは音楽グループもあるから、それに参加してごらん。そして、あれは演奏ではない。あれは瞑想だ。 

(ラダに)そしていつか彼女はここ(ダルシャンの席)に来て、演奏しなくてはいけないよ。何でもやりたいものをやればいい。とにかく彼女がどこにいるかを私が感じられるようにする為だ。そして、ここで私の前で演奏する時には(サハジョに)自分自身を完全に忘れてしまうことだ。30分間、出来る限り深く入り込むがいい。そうすれば、私はどこにブロック(エネルギーの滞り)があるかを感じることが出来る。それが分かれば打つ手もあるというものだ。 Good サハジョ! 

「生命の歓喜・DANCE YOUR WAY TO GOD」(めるくまーる社)より