OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

151.「やり手」にならずに活動的でいる

<OSHOとのダルシャン(面談)より>      (1976年7月29日) 

OSHO・・・ヒーレン、お前はどうした? 

ヒーレン・・・(イギリス人サニヤシン、財政顧問)ええ、私は今現在、特にハッピーな感じではありません。ここに帰って来ることをものすごく楽しみにしていたのですが、全ては申し分ないはずなのに、私は心の中でいつも何かやることを計画しているのです。私はたくさんのエネルギーを持っています。けれども、ただ自分自身でいるということが出来ないのです。 

OSHO・・・それでお前は今、何の仕事をしているのかね? 

ヒーレン・・・アシュラムの食堂で働いています。 

OSHO・・・こうなることは分かっていた。根本的にお前はやり手(doer)だ。だから何かやることがあれば気分がいい。ただその何かも難しいことでなければいけない。さもないと何も挑戦がない。その何かは骨の折れることでないといけない。その何かはお前の自我(エゴ)が、自分は本当に何か大層なことをやっているのだと感じられるようなことでないといけない。 

しかし、この問題はしっかりと理解されなければならない。というのも、これは一種の病気だからだ。この病気の為に、たくさんの人々が自分の人生を「する」ことに費やしている。これをやったりあれをやったり、全然何の目的もない。彼らはただ自分達の自我を高揚させる為に、自分を困難な状況に追い込みたがっているにすぎない。彼らは奮闘したい。彼らの興味は全てその奮闘に、その戦いにある。 

だから、もし何か戦うことを見つけられればそれでいい。しかし、その幸福ですら本当の幸福ではない。なぜなら遅かれ早かれ、お前はそのことをやるのが上手くなってしまうからだ。そうしたらもうおしまいだ。そうなるとお前は何か新しい絶頂(ピーク)、よじ登る為のまた別の山を求める。そしてこの時までには、生はこぼれ落ちている。お前は刻一刻と時を失いつつあり、死はどんどん近づいて来ている。 

これは理解しなければいけないことだ。何もすることがなくても、「やり手」のマインドというのはいつも計画を立てている。ということは、空想をしているということだ。もし本当に「する」ことが出来ないと、彼は夢を見る。しかし、それもまた空しいものだ。 

ヒーレン・・・それが空しいということは分かります。けれども、自分のマインドから脱け出すのは至難の技なのです。 

OSHO・・・お前はふたつのことをやる必要がある。ひとつは小さなものごと、ごく小さなものごとに興味を持ち始めることだ。というのもお前がやり手でいるのには、ふたつのことが関わっているからだ。お前の自我とお前のエネルギー・・・。そのエネルギーの方は全く問題ない。お前は活動的なエネルギー、積極的なエネルギーを持っている。お前はハイエネルギーの人間だ。 

それからもうひとつは、お前の自我だ。が、もしそれを両方とも落とそうとしたら、それは絶対に不可能だろう。なぜならばひとつは本物で、ひとつは本物でないからだ。そして、その両方が一緒にくくられている。だからお前は内側で、そのふたつを解きほぐさなければならない。エネルギーの方は蓄えられなければならないのだ。 

お前はたくさんのことをやらなければならない。が「やり手」になるべきではない。お前は活動的でなければならない。さもなければ、ひどく悲しい沈んだ人間になってしまうだろう。それはお前にとっては自然ではないからだ。お前は活動的な方が自然だ。そしてその違いは理解されねばならない。お前が「やり手」になると、自我が入って来る。が、もしただ単に活動的なだけだったら、そこに何も問題はない。 

私がまず、挑戦にならないような小さなものごとに興味を持てと言っているのはそこだ。食堂なら完全に正解だ。床掃除も完全に正解だ。その中には何も挑戦がない。実際のところ自我は屈辱を感じるだろう。「ヒーレン、床掃除なんて、お前は何をやっているんだよ?便所掃除なんて、お前は何をやっているんだよ?お前はこんなことをやる人間か?お前は大きな仕事をやる人間じゃないか!お前の天命はアレキサンダーやアドルフ・ヒットラーや、何かああいう気違いになることだぞ」 

だから、床を掃除する時にはただそれを楽しむがいい。楽しみは、活動を通して来るべきだ。自我の高揚を通してではない。だからこの手の小さなことは、とてもとてもいい。 

※OSHOは、アブラヒムという回教徒の皇帝で、王座を後にしてあるマスターにイニシエーションを受けに行った人の物語をした。マスターは皇帝にすぐさま着ている服を脱いで、片一方の靴で自分の頭を叩きながら、自分の街の通りを裸で走れと命じた。マスターの弟子のひとりは王様の肩を持って、可哀想に、それではあまりにも酷すぎると反論した。何といっても彼は皇帝だったのだし、そこはまさしく彼自身の都だったのだから・・・。マスターは、着ているものを脱いだ時、人は防備も脱ぎ捨てるのだと答えた。人はひとりの「誰でもない人(nobody)」になるのだ、と・・・。 

OSHO・・・これを観察したことがあるかね?裸になると、あなたは誰でもない人になる。自分のある特定の服を着ると「誰かさん(somebody)」になる。もし裸で立っていたら、犯罪者と高等裁判所の判事と見分けがつくだろうか?もし裸で立っていたら、人殺しと一国の大統領と見分けがつくだろうか?それは不可能だ。 

だがもし正装していたら・・・王様は王冠をかぶり、判事はかつらと黒衣を着る・・・誰が誰だか分かるのは言うまでもない。我々は、その人達の着ているもので人々を知っているのだ。裸になったら、人間はあっさりと無防備になってしまう。 

そのマスターは言った。「何も難しいことではない。彼は王様だったのだ。彼には普通の人達が持っていないような、あまりにも多くの防備がある。私が彼に厳しくしなければならないのはその為なのだ」弟子が尋ねた。「なぜ彼に街を走り回ることを求めているのですか?私達にはそんなことをおっしゃったためしがありません。それになぜ靴で頭を叩くというこんなナンセンスをやらせるのですか?」 

マスターいわく。「私は彼に屈辱を感じさせたいのだ。もしそれが受け容れられなければ、もしそれが歓迎出来なければ、彼は私の言ったようなことは出来ないだろう。あっさりと拒絶するに違いない。つまりこれは一種のテストなのだ」と。 

もし何かを受け容れれば・・・たとえ屈辱であってもいい・・・それは謙虚さとなり、ビューティフルな質を帯びる。しかしもし抵抗すれば、もしそれを嫌がれば、それは屈辱のように見える。屈辱というのは自我による解釈にすぎないのだ。 

だからまずお前に言ってあげたいのは、自我の構想でないようなごく小さなものごとに興味を持てということだ。たとえもしそれを上手くやってのけたとしても、誰もお前にノーベル賞などくれはすまい。トイレや床をどんなに綺麗にしたところで、食堂でどんなによく働いたところで、勲章など貰えるわけではない。誰ひとりお前のことなど認めもすまい。誰も「偉人ヒーレン」などと言ってはくれないだろう。誰もお前の名前など耳にすまい。 

からして、活動というのは許されるべきだ。せいぜい活動家になって、エネルギーが閉じ込められたままにならないようにするがいい。エネルギーをせき止めないこと、それを流させなさい。もし何もやることがなかったら、コレガオン・パーク(アシュラムのある地域)を走り回ってごらん。私はお前に厳しくするつもりはないし、裸になれと言うつもりもない。 

だがもし必要とあらば、いつか私もそう言わなくてはなるまい。今の今、お前に靴はあげないが、もしお前が言うことを聞かなければ、それもやらなければならないだろう。お前はハイエネルギーの人間だ。もしエネルギーがそのままになっていたら、お前は多くのトラブルを持ち上げるに違いない。それはズキズキしてくる。それは傷のようになって来る。それは痛み始める。それはお前自身にはね返って自己破壊的なものになってしまう。

仕事を始めて、完全に入り込みなさい。お前は歴史など創りはすまい。それにこの私の周りにいる連中は、ただどうやって歴史からドロップアウトするか、どうやって誰にでもない人になるかを知る為にだけここにいるのだ。だからエネルギーを出し惜しみしないこと。こうした小さなものごと以外、何もやることなどありはしないのだから・・・。 

この当たり前の生こそ、存在する唯一の生なのだ。そしてこの当たり前の生には、何の計画も必要もない。それはあまりにもシンプルだ。計画が必要なのは、巧妙なものごとだけだ。それらがあまりにも複雑だから・・・。何回も下稽古しなければならない。あれやこれやと考えなければならない。たくさんの糸を操らなければならない。そうやっても誰も自分が成功するかどうかは確信が持てない。ものごとがあまりにも複雑すぎるからだ。そうした複雑なものごとには、たくさんの競争相手がいる。 

もし世間の目に大物に映りたいと思ったら、他人から良く思われることを求めたら、競争の激しい気違い病院にいるのと同じだ。大勢の人間が同じことをやっている。何をやっても成功するかどうかは当てにならないし、たとえもし成功したところで、それは何ももたらしてはくれない。それがもたらすのはさらに多くの構想、さらに多くの計画だけだ。 

お金を稼ぐと、それを稼いだ頃にはもっと多くのお金に対する欲望が湧いていて、お前はそのお金をさらに多くのお金を稼ぐことに投資し、そしてまた投資に投資を重ねていく。死が到着する時までには、お前はたくさんのお金と、生きられざる生を手にしている。 

そして二番目は、幸せというのは、お前に起こるものではないということだ。それはもうすでに起こっている。お前はただ敏感になればいいだけなのだ。それは時には起こって、時には起こらないというものではない。それはお前の側の決定なのだ。毎朝、起きる時に、今日自分は幸せになりたいか、不幸せになりたいかを決めるといい。そして一日中その決心を守るのだ。 

※OSHOは以前あるダルシャンで、私達のムードが単に決心の問題であるということについて語っています。その時も彼はプラスタンというサニヤシンに、今夜ヒーレンに与えたのと同じメソッドを与えました。ただひとつだけ違うのは、プラスタンの場合は、目が覚めた時のムードと反対のムードにならなければいけない、ということでした。プラスタンは知らず知らずの内に、最後には何日もの間一日中機嫌のいい自分を発見することになりました。(the cypress in the courtyard, 6月24日参照) 

OSHO・・・ちょうど今日、私は配管屋から請求書を受け取ったある男の話を読んでいた。配管屋は「3週間以内に、お宅の工事の代金40ドルをお払い下さい。もし3週間以内に払い込み頂けない場合には、もう5ドル、つまり45ドル払わなければなりません」と書いていた。その人はひどく腹を立て頭に来て、その手紙をある友人に見せた。 

その友達が言うには「うちの配管屋はとても頭がいい。同じことを書くのでも書き方が違う。もしそれがうちの配管屋だったら、こう書いてあっただろう。『45ドルお払い下さい。それが工事代金です。けれども、もし3週間以内にお支払い頂ければ、5ドルお安くなります』とね」そうすれば、人はとてもハッピーになる。選択が積極的だからだ。 

あるスーフィ神秘家がその自伝に、彼が自分のマスターの許で学んでいる時、同僚とマスターの庭園を歩いていた時のことを記している。彼らは煙草を吸っていて、そのことで罪悪感を抱いていた。同僚は「マスターに訊いた方がいいんじゃないか」と言う。その時間は歩く瞑想に当てられていて、彼らは庭を歩きながらヴィパサナの瞑想をすることになっていた。そこで「そうだな、罪悪感を持つよりは訊いた方がいいだろう」ということになった。 

そこでひとりはマスターのところへ行って「瞑想中に煙草を吸ってもいいですか?」と尋ねた。マスターは「もちろんいかん!」と言う。あくる日、彼が庭へ出て来ると、もうひとりの方が煙草を吸っていた。「マスターのところへ行かなかったのかい?」もうひとりが答えて「行って来たよ。『さよう、吸ってよろしい』とおっしゃった」ひとり目、「これは不公平だ。マスターは私のことはきっぱりとはねつけた。二言もなく『いいや、もちろんいかん!』とおっしゃったのだ。どうしてお前だけお許しになったのだろう?」 

「ふたりとも違う訊き方をしたんだと思う。僕は『喫煙中に瞑想してもいいですか?』と訊いたんだ。マスターは『もちろん、言うまでもないことだ!』とおっしゃったぜ」 

それは同じことだ。生はどの人にも同じものをもたらしてくれる。だがもし間違った態度や消極的な態度を取ったり、間違った質問をしたり、間違った場所をノックしたら、お前は取り逃がし続けることだろう。私の見る限り、不幸せが人々を襲うということはない。彼らが不幸せになろうと決めているのだ。もしかしたらそれは無意識的なもので、彼らがそれを忘れてしまっているということもあり得る。 

だから、これを3週間試してごらん。そしてしっかり決心を守るのだ。一度そのコツが分かったら、それは実に単純なものだよ。ヒーレン、幸せになったり、不幸せになったりするのは、世の中で最も単純なことなのだ。そして人はいつもその支配者なのだ。もしかしたら、そのことを知らないかもしれない。が、人はいつでもその支配者なのだ。 

※そこでOSHOは感情を支配することについて語り、グルジェフの弟子のひとりであるベネットの人生におけるある出来事を述べています。 

OSHO・・・3週間したら私に教えなさい。それはなくなるだろう。何も心配することはない。 
Good 、ヒーレン。 

「生命の歓喜・DANCE YOUR WAY TO GOD」(めるくまーる社)より