OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

156.サニヤスの神秘

<OSHOの講話より>  「未知への扉」 第7章: サニヤスの神秘      (1971年) 

質問:OSHO、イニシエーションを受け、精神霊的な生に参入するというのはどういうことですか?イニシエーションには、どのような密儀的・秘教的な意味が隠されているのですか?あなたは、サニヤシンやサニヤシンでない者たちに、どのようなイニシエーションを授けていらっしゃるのですか?それらについてどうか語ってください。 

人間は、あたかも眠りながら生きているかのようだ。人間は、現に眠っている。目覚めとして知られるものもまたすべて眠りだ。イニシエーションとは、覚醒している人と親密に触れ合うことをいう。覚醒している人と親密な接触を持たない限り、眠りから覚めることはできない。なぜなら、マインドは、目覚めているという夢を見ることさえできるからだ。マインドは、もう眠ってはいないという夢を見ることができる。だが、どんな夢でも、夢を見ている者には、それが夢であることがわからない。夢から醒めて初めて、それが夢だったことがわかる。 

夢が続いているあいだは、それが夢だとはどうしてもわからない。あなたはいつも夢が消え、過ぎ去った後でそれに気づく。「これは夢だ」と言える者はいない・・夢に現在形は使えない。あなたは、いつも「あれは夢だった」と言う。夢見のさなかには、夢は生々しく見えるからだ。現実のように見えなければ、夢は破れてしまう。現実の装いがあって初めて夢は生み出されうる。 

私が「人間は眠っている」と言うときには、このことを理解しなければならない。私たちは1日24時間絶えず夢を見ている。私たちは夜は外界を遮断し、内側で夢を見ている。昼は感覚が外界に向かって開かれているが、夢は内側で続いている。一瞬でも目を閉じれば、あなたは再び夢のなかにいる。夢は内側で絶えることなく続いている。あなたは外界に気づいているが、気づいていても夢見るマインドが消えたわけではない。 

夢見るマインドの上に目覚めた意識が押しつけられているが、夢は内側で続いている。目を覚ましているはずのときでさえ、あるがままの現実を私たちが見ていないのはそのためだ。私たちは現実の上に夢を押しつける。私たちは現にあるものを決して見ない。私たちはいつも自分の投影を見ている。 

私があなたを見ても、私のなかに夢があるなら、あなたは投影の対象になる。私は自分の夢をあなたの上に投影し、あなたをどう理解しようとも、それはすべて私の夢、私の投影と混ぜ合わされる。私があなたを愛しているときには、あなたはある姿をとって見える。あなたを愛していないときには、あなたはすっかり違って見える。あなたは同じには見えない。私はたんにあなたをスクリーンとして使い、私の夢見るマインドをあなたの上に投影している。 

私があなたを愛しているときには、夢が変わるので、あなたは違って見える。私があなたを愛していないときには、あなたは同じだが・・スクリーンは同じだが・・投影が変わる。今や私はあなたを別の夢を映すスクリーンとして使っている。そして、夢はまたもや変わりうる。私は再びあなたを愛することができる。そうなったら、あなたは私の目には違って見える。私たちは決してあるがままを見ていない。私たちはいつも、現にあるものの上に投影された自分の夢を見ている。 

夢見るマインドはまわりに非現実の世界をつくりあげる。マーヤ、幻想という言葉が指しているのはこのことだ。「幻想」とは、世界は実在しない、戸外の通りの騒音は実在しないという意味ではない。それは現実にある。だが、内側で夢を見ているマインドが止まらない限り、決してそれをあるがままに知ることはできない。ある人にとっては、その戸外の騒音は音楽であるかもしれない。他の者にとっては、ただうるさいだけだ。その騒音にあなたが気づいていない瞬間もあれば、気づく瞬間もある。その騒音が気にならない瞬間もあれば、耐えがたくなり、我慢できなくなることもある・・が、騒音は同じだ。通りを行き交う車は同じだ。だが、あなたの夢見るマインドが変わる。 

マインドが変わるにつれて、あなたの周囲にあるものすべてが新しい色彩を帯びてくる。私たちが世界は幻想、マーヤだと言うのは、世界が実在しないという意味ではない。それは実在する。だが、私たちが世界を見る見方が幻想なのだ。私たちが見ているものなどどこにもない。誰かが覚醒していても、現実の世界が消えるわけではない。その人が覚醒する前に知っていた世界が完全に消え去るだけだ。まったく新しい世界、客観的な世界が代わりに現れる。あなたが加えた色合い、形・・自らの夢見るマインドにしたがって、あなたが加えた意味や解釈はもはや一切存在しない。 

このマーヤの世界、この幻想の世界、この投影の世界に関する限り、私たちは決してひとつの世界に住んではいない。ひとりひとりが別の世界に住んでいる。それゆえに、夢見る人の数だけ世界がある。あなたがたの眼に映る私は同一ではない。それぞれが私に私以外のものを投影している。私は、私自身に関する限りひとりだ。だが、もし私自身が夢を見ていたら、私の眼にも、私は一瞬一瞬に違って映る。私の解釈が刻一刻と変わるからだ。

だが、私が覚醒していたら、私はいつも同じだ。仏陀はどこかで、「光明を得た人を見分けるには、その人が海水のようにいつも同じであるかどうかを確かめればよい」と言っている。海水は、どこをとっても一様に塩辛い。私が覚醒していれば、私にとって、私は同一だ。今世だけではない。私は通り過ぎてきたあらゆる生で同一だった。私は永遠に不変だった。真の私は同じままでありつづけている。それは変わりようがない。投影が変わるだけだ。スクリーンは同じままだが、フィルムが変わり、映像が変わる。 

あなたはスクリーンに映された映像を見ている。映像が映されていないときだけ、あなたはスクリーンを見る。映像がそこにある限り、スクリーンは決して見えない。スクリーンは同じだ。だが、映像が変わると、あなたは私の内側で変化が起こったと見なす。私が覚醒していたら、私にとって、私は同一でありつづける。だが、それでもあなたの私を見る眼はめまぐるしく変化する。というのも、あなたは夢見るマインドを抱えて私のもとにやって来て、そのマインドが投影するからだ。私が友人に見える者もいれば、敵に見える者もいる。それぞれが自分自身を投影している。 

私たちは自分のまわりに世界をつくりだすが、誰もが自分だけの世界に住んでいる。衝突が起こるのはこのためだ。世界が・・あなたの世界と私の世界が衝突する。だから、二人がひとつの部屋で暮らしはじめると、二つの世界が一緒に暮らすのだから、衝突は避けがたくなる。部屋で暮らしているのは二人だけではない・・部屋の空間は、二人が暮らすには充分だが、二つの世界が住めるだけの余地はない。 

人間社会、人間関係の葛藤はすべて、人と人ではなく世界と世界の衝突だ。私が自分の夢がつくりあげた世界を持たない人であれば、私たちは何の衝突もなく、ひとつの部屋でいつまでも暮らしてゆける。部屋の大きさは二人が暮らすには充分だ。だが、ふたつの世界が住まうには、惑星全体でも間に合わない。しかも、個々の人間がひとつの世界である以上、世界は無数に存在する。各人が自分だけの世界に住み、そのなかに閉じ籠もっている。これは一種の眠りだ。 

あなたは自分のまわりに投影、観念、信念、概念、解釈といった皮膜のような囲いを張り巡らせている。あなたは、自分の内側にしかないもの、それ以上のどこにもないものを延々と映しつづける映写機であり、全体がひとつのスクリーンになる。それゆえに、自分が深い眠りのうちにあることを、あなたはひとりでは決して自覚できない。 

スーフィの聖者で、ヒラジという男がいた。天使が夢に現れて彼にこう告げた。「明日の朝、世界中の水という水に悪魔が毒を盛ろうとしている。水を飲んだ者はみな気が狂ってしまうだろう。だから、井戸からできるかぎりたくさんの水を汲んでおきなさい」そこで、そのファキール(行者)は、一晩かかって、できるだけたくさんの水を蓄えた。すると、本当にその現象が起こった!翌朝になると、誰もが狂いだした。だが、町中が狂ってしまったことに気づいている者はいなかった。狂っていないのはそのファキールだけだった。ところが、町中の人々が、まるで狂ったのはファキールであるかのように噂した。 

彼だけが何が起こったのか知っていたが、誰ひとり彼を信じなかった。そこで、彼は自分で汲んだ水を飲みつづけ、独りのままでいた。だが、それを続けることはできなかった。町中の人々はまったく別世界に住んでいて、誰ひとりヒジラに耳を傾けようとしなかった。あげくの果てに、ヒジラは捕らえられ、投獄されるだろうという噂がたった。 

ある朝、町の者たちがヒジラを捕まえにやって来た。病人扱いか、それとも投獄か、いずれにせよ彼に自由は認められなかった。ヒジラはすっかり狂ってしまったんだ!何を言っても彼は相手にされなかった。彼は違う言葉を話していたからだ。ファキールはどうしてよいかわからなかった。他の人々が過去を思い出す手助けをしようとしたが、彼らは何もかも忘れてしまっていた。彼らは、過去のこと、あの狂気の朝以前にあったことは何も憶えていなかった。彼らには理解できなかった。彼らにとってファキールは理解を超えたものになっていた。彼らは家をとりまき、ヒジラを捕まえた。 

するとファキールは言った。「ちょっとだけ時間をください。自分で直します」彼は共同井戸まで駆けて行って、水を飲み、まともになった。町中が喜んだ。ファキールは正気に戻った、もう狂っていない。彼は今度こそ本当に狂ってしまったのだが、ふつうの社会のれっきとした一員になったわけだ。それゆえに、もし誰もが眠っていたら、あなたは自分が眠っていることに気づくことさえない。誰もが狂い、あなたも狂っていたら、あなたは決して狂っていることに気づかない。 

「イニシエーション」とは、あなたが覚醒している人に自分を明け渡したということだ。あなたは言う。「私は理解していません。私には理解できません。私は狂い、眠りこけている世界の一部です。私はいつも夢を見ています。私の理由づけは当てになりません。行為するとき、私はいつも不合理なマインドの部分から行為するからです。私はいつも無意識に行為して、後から理由をつけます。誰かと恋に落ちると、やがてなぜどういうわけで恋したのかと理由をつけ始めます。この現象はこのようにして起こります。まずあるものを好きになり始め、次に、なぜそれが好きになったのかその理由を見いだします。まず好みが先にあり、後から理由をつけ加えます。ところが、好みというのは理屈をつけられるようなものではありません!」 

この感覚は夢うつつの人でさえ感じることがある。眠りは、ときおりひじょうに深くなったり、ごく浅くなったりしながら、揺れ動いている。眠りの深さは決して一定していない。眠りは変化する。ふつうの眠りでさえ変動する。眠りは一晩中同じわけではない。ときおりあなたの眠りが深すぎて、後から何も思い出せないことがある。ひじょうに深く眠った翌朝、あなたは「ひとつも夢を見なかった」と言う。本当は夢を見ていたのだが、眠りがあまりに深かったので、あなたは何も思い出せない。 

あなたが夢を見ていたことを示すことのできる科学装置があるが、夢の記憶が一切ないので、あなたはそれを否定するだろう。あなたの眠りがひじょうに深く、顕在意識からあまりに遠く離れていたために、マインドが夢から何も拾い上げることができなかったのだ。またあなたの眠りがひじょうに浅くて、目覚めとの境界ぎりぎりにあるときもある。そのときには夢を思い出すことができる。ふつう私たちは、朝、眠りから覚める直前に見た夢しか憶えていない。そのときは眠りがとても浅く、顕在意識と潜在意識のギャップがひじょうに小さいからだ。 

ふつうの眠りは、様々なレベルや水準を行き来している。ときおりあなたは覚醒と眠りのはざまで揺れ動いている。境界のぎりぎりで揺れ動いているときには、夢の外で起きている物音を聞くことができる。あなたは眠りに落ちる。何かが聞こえてくる・・誰かが何かを喋っている。その一部は理解され、一部は失われるが、とにかくあなたはそれを聞くことができる。またあるときには、あなたはぐっすり眠り込み、熟睡している。誰かが喋っていても、あなたにはそれが聞こえない。解釈のしようがないし、意味のとりようもない・・あなたにはまったく聞こえない。 

通常の眠りのなかで起こるのと同じことが、私が話している形而上的な眠りのなかでも起こる。ときおりあなたはまさに境界線上にいて、覚者(ブッダ)にひじょうに近づいている。そのときには、あなたは覚者が語っていること、覚者が言っていることを少しは理解することができる。あなたは何かを理解することができる。もちろん、決して語られたことを正確に理解するわけではないが、あなたは少なくとも何かを聞いた。少なくともあなたは真理を垣間見たことになる。 

だから、形而上的な眠りの境界線上にいる者は、イニシエーションを受けたいと望む。彼は何かを聞くことができる。何かを理解することができる。何かを見る。すべては霧に包まれているかのようだ。だが、それでも彼は何かを感じることができる。今や彼は覚醒している人物に近づき、自分を明け渡すことができる。夢うつつの者にもこれだけのことはできる。彼は明け渡すことができるのだ。この明け渡しが意味するのは、彼が自分の眠りとはまったく異なる何かが起こっていることを理解しているということだ。彼はどこかでそれを感じている。それを正しくつかんでいるわけではないが、感じている。 

仏陀のような人が通り過ぎると、眠りの境界線上にいる者たちは、その人には何かが起こったことにかならず気づく。行動が違い、話し方が違い、生き方が違い、歩き方が違う。何かが彼には起こった。境界線上にいる者たちは、それを感じることができる。だが、彼らは眠っている。そして、この境界線上の覚醒は永続するものではない。彼らはいつ何どき眠りに舞い戻るかもしれない。あるいは、たった一言で眠りから引き出されるかもしれない。彼らは、より深い無意識におちいる前に、覚醒している人に明け渡すことができる。 

これが、イニシエーションを受ける側から見たイニシエーションだ。彼は言う。「私は独りでは何もできません。私は無力です。私にはわかります・・この瞬間に明け渡さなかったら、私はおそらく再び深い眠りに入ってゆくことでしょう。そうなったら、明け渡すことは不可能になってしまいます」だから、逃してはならない瞬間がある。こういった瞬間を逃す者は、何世紀にも、何生にもわたって、その機会を得られないかもしれない。なぜなら、再びその境界線に達する時というのは自分では決められないからだ。それはあなたの意のままにならない様々な理由から起こる。あなたには眠りを左右することはできない。

 

ときおり仏陀や覚醒を遂げた人が通り過ぎてゆくことがある。あなたが明け渡せるのは、自分が境界線上にいるときだけだ。仏陀の生涯にはとても重要な物語がある。仏陀は、自らが覚醒したとき、7日間、沈黙を守りつづけた。彼は話そうという気にならなかった。これはとても美しい物語だ。神々は不安になった。もし仏陀が沈黙を続けたら、境界線上にいる者たちはどうなるだろう? 

仏陀は深く眠りこけている者たちに対しては何もできない・・仏陀のような人ですら、そういう人々に対してはどうすることもできない!また、仏陀はすでに覚醒している者たちに対しても何もできない。そういう人たちには仏陀の助けを借りる必要がないからだ。だが、少数だが境界すれすれのところにいる者たちがいる。ほんの一押しするだけで、彼らは目覚める。彼らの目覚めに必要なのは、仏陀の臨在だけだ。 

そこで、神々は仏陀のところへやって来て、祈りを捧げ、話してくださいと懇願した。仏陀は彼らに言った。「助けることのできない人々がいる。彼らはあまりに深く眠りこけているので、話しても無駄だ。また、私を聴くことのできる者たちはすでに目覚めているのだから、彼らにも話す必要もない。なぜ私に話して欲しいと懇願するのかね?話すのは無意味なことだ。私は沈黙したままでいたい」 

すると、神々は言った。「でも、まだもうひとつの範疇が残っています。深く眠りこけてもいないが、理解できるほど目覚めてはいない者たちが。彼らは境界すれすれのところにいます。彼らはあなたのおっしゃることすべてに耳を傾けはしないかもしれませんが、わずか一言で眠りから引き出されるかもしれません。あなたはお話しにならねばなりません。何千年もの歳月を経て、ようやくひとりの人が覚者になるのです。ブッダは話さなければなりません。沈黙していてはなりません。機会を逃してはいけません」仏陀は説得を受け入れた。その通りだ、第3の範疇がある。その範疇に属するのがイニシエーションを受ける者たち、第3の範疇に属する者たちだ。 

イニシエーションを受けようとしている者には、明け渡し以外のものは役に立たない。イニシエーションとは、明け渡すという意味だ。イニシエーション、イニシエーションを受けようとしている者を表す仏教用語は、シュロタパン・・預流(よる)、流れに入りし者だ。仏陀は河のように流れている。自らを明け渡す者、流れに身を投じ、流れはじめる者がシュロタパンだ。流れはあなたのもとにはやって来れないが、あなたの家の側を流れている。あなたはそのなかへ飛び込めばいい。だが、泳ぎはじめたら、あなたは流れに抵抗し、闘いはじめている。あなたにはどこかに辿り着こうとする自分自身の目的、目標がある。 

光明を得た人のところへ来て、議論を始める者たちがいる。彼らは根拠が欲しい、証明が欲しい、確信を得たい。それは格闘だ。彼らは光明を得た人と闘っている。そんなことをしても光明を得た人が傷つくことはないが、格闘している者の方は傷ついてしまう。というのも、機会が失われてしまうからだ。あなたは境界線上にいる・・だからこそ、やって来たのだが、今やあなたは機会を逃しつつある。そして、あなたは再び深い眠りに落ちてゆくかもしれない。 

明け渡しとは、流れとともに流れはじめる者、河の流れに身をゆだねる者をいう。今や彼は河の流れに従ってゆく。彼はまさに手放し、完全な手放しの状態になっている。イニシエーションとは、それを受ける側にとっては手を放すこと、すなわち完全な信頼であり、完全な明け渡しだ。それは決して部分的なものではありえない。部分的に明け渡しても、明け渡していることにはならない。あなたは自分自身をごまかしている。 

部分的な明け渡しなどありえない。なぜなら、部分的な明け渡しのなかではあなたは何かを差し控えていて、それが再びあなたを深い眠りにおし戻すかもしれないからだ。この明け渡していない部分は致命的なものになる。あなたはいつ何どき深い眠りに舞い戻るかもしれない。明け渡しは常に全一だ。このために、イニシエーションにおいては「信」が要求されてきたし、これからもかならず求められる。 

全面的な条件として、全面的な要求として「信」が求められる。そして、あなたが全面的に明け渡す瞬間、ものごとは変わりはじめる。もはやあなたは白昼夢のような人生には戻れない。この明け渡しは、投影全体をこなごなに打ち砕いてしまう。この明け渡しは、投影するマインド全体をこなごなに打ち砕いてしまう。なぜなら、投影するマインドは自我(エゴ)につなぎとめられていて、自我なしでは生きられないからだ。自我こそがその中枢だ。 

私がある人を友と呼ぶのはなぜだろう?私がある人を敵と呼ぶのはなぜだろう?敵とは、私の自我を傷つけた相手であり、友とは、私の自我に餌を与え、大切に育ててくれた相手のことだ。「まさかの時こそ誰が友であるかがわかる」と言うのはそのためだ。なぜだろう?まさかの時というのは何だろう?まさかの時には、あなたの自我は飢えている。そのときこそ、誰が友なのかがわかる。 

私たちの夢見る世界、私たちの夢見るマインド全体が、自我の台座の上にあぐらをかいている。明け渡したら、あなたは基盤そのものを明け渡したことになる。あなたは無条件降伏をしたのだ。夢そのものが降参したのだから、あなたはもはや揺らぎつづけることはできない。 

それゆえに、イニシエーションを受ける側からすれば、イニシエーションとは全面的な明け渡しだ。イニシエーションを受ける者にとって、イニシエーションが何であるかを理解するのはそれほどむずかしいことではない。きわめて単純だ。それは眠れる人が目覚めるために助けを求める・・目覚めている誰かに明け渡すということに他ならない。実に単純なことだ。少しもむずかしくない。 

だが、あなたにイニシエーションを授ける者にとっては、状況はかなり込み入っていて、ひじょうにむずかしい。通常、私たちは明け渡すことはとてもむずかしいと考えている。だが、あなたは無力であり、明け渡すより他にどうしようもない。あなたは今すぐには明け渡さないかもしれないが、もっと多くのことを知れば、明け渡しの地点にやって来る。いつかかならずそれはやって来る。明け渡すより他にどうしようもなくなるからだ。明け渡しを拒む態度を取りつづけるわけにはゆかない。それはあなたに惨めさ、苦悶、地獄をつくりだすからだ。 

あなたは拒みつづけるわけにはゆかない。欲求不満にかられ、悪夢にかられ、明け渡す瞬間がかならずやって来る。イニシエーションのこの部分はむずかしくない。これはとても単純なことだ。だが、あなたにイニシエーションを授ける者にとっては、状況はひじょうに込み入っている。関連する事柄がたくさんある上、その多くは秘教的なものであって、顕教的なものではない。まず、私たちは顕教、外面的な事柄を理解しなければならない。それが終わって初めて、秘教的なもの、内面的な事柄に進むことができる。 

まず第一に、明け渡しに対応するのは責任だ。眠っている者が明け渡すと、目覚めている者は責任を取る。あなたが仏陀のような人、イエスのような人、モハメッドのような人のところへ行って自らを明け渡すと、彼らは全責任を負う。あなたが明け渡してゆくのは今あなたが持っているものだ。あなたに明け渡せるものはそれしかない。あなたとは眠りと夢以上の何ものでもないからだ。あなたはそれを・・あなたの眠り、あなたの夢想、あなたの過去のがらくたすべてを明け渡す。 

明け渡されるのは常に過去であり、責任は常に未来へと向かう。あなたは未来など持っていない。あなたとは夢に満ちた過去に他ならない。長い一連の記憶、何生にもわたる夢が明け渡される。それを明け渡すのもなかなか骨が折れる。この塵の積もった過去でさえ、明け渡すのは骨が折れる。だが、あなたは他のものは何ひとつ持っていない。あなたは延々と眠りつづけ、夢を見てきた。 

あなたは膨大な夢の記録を持っている・・善い夢もあれば、悪い夢もある、美しい夢もあれば、醜い夢もある・・だが、夢が夢であることに変わりはない。再び夢のなかに迷い込まないうちに、自分の夢を明け渡すことだ。だが、それもまた一筋縄ではゆかない。それもまたひじょうにむずかしい。それは格闘だ。あなたは自分を差し控え、抵抗しようとする・・何かを保持しておかねばならない!と。だが、あなたは何を得てきただろう?一連の長い夢、長い眠りにすぎないではないか。 

だから、イニシエーションを受ける側からすれば、それは過去の明け渡しであり、イニシエーションを授ける側からすれば、それは未来への責任だ。授ける者にはあなたに対する責任が生じてくる。そして、実際に責任を果たすことができるのは彼だけだ。あなたには責任を負うことなどできない。眠れる者にどうして責任が負えるだろう?責任は決して眠りの一部ではありえない。 

眠りのなかで殺人を犯しても・・夢遊病者がどこかで殺人を犯しても・・法廷は責任を問わない。夢のなかでは責任の取りようがないからだ。深く眠っている人にどうして責任が取れるだろう?あなたは決して自分の夢に責任を感じたりしない。夢のなかでは何でもやれるが、あなたは一切責任を感じない。人を殺すことさえできる。それでもあなたは、それは夢にすぎなかったと言うだろう。 

責任は覚醒と共に生まれる。これはまさに生の根本法則だ。眠れる者には自分自身に対する責任すらないが、覚醒している者には他者に対してさえ責任がある。光明を得ている者、覚醒している者は、あなたがたがつくりだした混乱全体に対してさえ責任を感じる。仏陀のような人は慈悲を感じる。そういう人は、あなたがたの犯罪、あなたがたの罪に対してやましさを覚える。彼は自分も連座していると思う、責任を感じる。彼はあなたがたが無知であることを知りながら、十全に醒めている。 

例えば、第3次世界大戦が起ころうとしている。覚醒している人には、それがやって来つつあることがようくわかる。日毎にその日は近づいてきて、やがて現実になる。あなたは深い眠りのなかにあるが、彼は眠っていない。彼は夢を見ていない。彼は、レーダーのように意識を張り巡らせている。彼はどのような未来がやって来つつあるかを知っている。彼はやましさを覚える。彼は何かをしなければならない。 

それはあなたが飛行機に乗って空を飛んでいるのに似ている。あなたは眠り、夢を見ているが、パイロットは目覚めている。もし何かが起こっても・・エンジンが少しでも変な音をたて、誰も気づかないトラブルが発生したとしても、責任を負うのはパイロットだけであり、他の者たちに責任はない。彼はしっかり目を覚ましている。目を覚ましているのは彼だけだ。 

仏陀のような人は、私たちのすべての犯罪や罪に対して責任を感じている。イエスの物語はすべてこの責任に基礎を置いている。キリスト教全体、その概念全体がこの責任に端を発している。イエスは、アダムから我々に到るまでの人間の罪全体に対して責任を感じている。イエスは責任を感じている。彼は私たちの罪が贖(あがな)われ、許されるために、その肩に十字架を担う。イエスにはいかなる責任もない。たとえアダムが何かをやったとしても、全人類のマインドが何かをやったとしても、なぜ彼が責任を負わなければならないのだろう? 

キリスト教神学者は、何世紀にもわたってこのことを論じてきた。イエスはいかなる罪も犯さなかった。にもかかわらず、イエスが責任を感じるのは、彼が覚醒しているからだ。覚醒しているという現象そのものが、イエスをして眠れる人々が為したすべてのことに対する責任を感じさせたのだ。彼の荷は大きくなり、彼の十字架は重い。彼の磔(はりつけ)は象徴的だ。彼は私たちの身代わりになって死んだ。イエスの磔が歴史的な出来事になったのはこのためだ。 

彼は全人類への責任を感じて、人間が変容を遂げうるように身代わりとなって死んだ。だが、彼の死をもってしても、私たちは変容を遂げていない。私たちは彼のメッセージを夢のなかで聞き、それに勝手な解釈をほどこしてゆく。そうして、彼の生涯は私たちの夢見る世界の一部になってしまう。私たちは教会や教義をつくりだす。私たちは宗派をつくりだす。カトリックプロテスタントや他の様々な宗派はこのようにして生まれた。愚行がそのまま種々の新しい形をとって続いてゆくが、世界は同じままだ。 

私たちはイエスを崇めはじめる。つまり、私たちは彼にまつわる夢を・・イエスは神の息子だという夢を見はじめる。私たちは明け渡していない、変容していない。むしろ逆に、私たちは彼の真の姿を夢に変えてしまう。私たちは彼のために教会をつくりだし、彼の偶像をつくりあげ、彼を礼拝することで自らの眠りを持続させる。実際、私たちは彼を精神安定剤として使う。それは日曜の仕事になる。1週間に1時間だけ彼のもとに行き、後は勝手きままに生活する。 

彼は私たちがぐっすり眠るのを助けてくれる。私たちの良心は楽になる。私たちは宗教的な気分に浸る。私たちは教会に通って祈り、礼拝するが、家に帰るといつもと同じ姿に戻る。だが、不安は軽くなっている。もはや宗教的になるとか、変容するといった重荷はない。教会に行って礼拝したり祈ったりしてきたのだから、私たちはすでに宗教的になっているというわけだ。私たちはすでに宗教的なのだ!と。そして、ものごとはそっくりそのままに続けられてゆく。

 

明け渡しに対応するのは責任だ。責任とは、答える能力があるということだ。それはイエスがあなたに代わって答える能力を持っているということだ。いやしくも神が存在するならば、イエスは神の前であなたに対する責任を取るだろう。神は、なぜこのような事態が人類に起こったのかと問い、イエスはそれに答えなければならない。責任とはそういうものだ。イエスにとって、責任は自然に生じてくる。だが、あなたがイエスのもとを訪れ、明け渡す場合には、あなたに対する特別の責任が彼に生じてくる。 

だから、クリシュナはアルジュナに「すべてを捨てなさい。私のもとへ来て、私の足元にひれ伏すがいい」と言えたし、またイエスも「私は真理だ。私は扉だ。私は門だ。私のもとへ来て、私を通ってゆくがいい。私は最後の審判の日にあなたの証人になる。私はあなたに代わって答えよう」と言うことができた。これはすべて譬えだ。毎日が「審判の日」であり、一瞬一瞬が「審判の瞬間」だ。最後の日などというものはやって来ない。 

こういった言葉は、イエスが話しかけていた人々にも理解できる用語にすぎなかった。彼は本当はこう言っていたのだ。「私はあなたに対して責任をもとう。神が尋ねるときには、私があなたに代わって答えよう。私は証人として立ち会う。私にまかせるがいい。私はあなたの証人だ」 

これは大いなる責任だ。眠れる者にはそんな責任をとることなどできない。なぜなら、眠りのなかでは自分自身に対する責任を負うことでさえむずかしくなるからだ。眠っていては、他者に対する責任をとることなどできるはずがない。あなたが他者に対する責任をとることができるのは、もはや自分自身に対する責任を負う必要がなくなり、重荷から完全に解放され、「あなた」がいなくなったときだけだ。「もはや存在しない」というこの宣言は様々な形でなされてきた。 

エスは「私は天国にいる父の息子だ」と言ったが、彼が言おうとしたのは、「私は父親だとみなされている男の息子ではない、母親だとみなされているマリアの息子ではない」ということだ。彼はなぜこんなことを言うのだろう?ときとしてイエスの言葉はとても非情に見えることがある。ある日のことだ、彼が群衆のなかに立っていると、誰かが言った。「あなたの母親、マリアが来て、群衆の外であなたを待っておられます」イエスは言った。「私には母親はいない。私の母とは誰のことだ?私の父とは誰のことだ?誰も私の母ではないし、誰も私の父ではない」 

この言葉は非情に見える。母親が群衆の外に立って、待っているのに、イエスは「誰も私の母ではないし、誰も私の父ではない」と彼女に告げるように言う。なぜだろう?イエスは、これは私の父、私の母、私の妻、私の兄弟であるというあなたの夢が描き上げたパターンを否定しているだけだ。これは夢見るマインド・・夢想の世界、投影の世界が描き上げるパターンだ。彼はたんにそれを否定している。 

母親を否定する瞬間、あなたは全世界を否定したことになる。なぜなら、母親と共にすべてが・・世界全体が始まるからだ。それが始まりだ。すなわちあなたがこの夢想の世界に入ってきた根・・関係性の、サンサーラの根だ。母親を否定すれば、あらゆるものを否定したことになる。深い眠りにある者たちには非情に見えるだろうが、それは純然たる事実だ。「私は天にいる父の息子だ」と強調することで、「私は個人ではない。私はマリアの息子イエスではない。私は神性な力、宇宙的な力の一部だ」と言っているにすぎない。 

そのように感じる者だけが・・宇宙の一部のように感じるものだけが・・あなたにイニシエーションを授けることができる。さもなければ、イニシエーションを授けることはできない。特定の個人があなたにイニシエーションを授けることなど不可能だ。だが、そういうことは頻繁に起こっている。毎日のように起こっている。自分自身眠っている者たちが他の眠れる人々にイニシエーションを授けている。つまり、盲人が盲人を導いているわけだ。そういう者たちは、そろってどぶに落ちてしまう。眠れる者は、誰にもイニシエーションを授けることができない。だが、自我(エゴ)はイニシエーションを授けたがる。この自己中心的な態度がきわめて危険であることは明らかだ。 

イニシエーション、その神秘、その美しさは、イニシエーションを授ける資格を持たない者たちのためにすべて醜いものになってしまった。内側に自我がなく、内側に眠りがなく、内側に夢がない者だけが、イニシエーションを授けることができる。さもなければ、イニシエーションは最大の罪になる。他者を騙すだけでなく、自分自身をも騙していることになるからだ。イニシエーションは大いなる責任、究極の責任だ。今やあなたは他者に対する責任を負うようになってゆく。 

そして、他者に対する責任を負うことは、たんなるゲームではない。それは不可能なことを自らの手に引き受けることだ。あなたは他者の愚かさに対する責任を負うようになってゆく。それゆえに、この責任は、全面的な明け渡しがあって初めて引き受けることができる。さもなければ、引き受けることはできない。自分自身を差し控えている者に対して責任を取ることは不可能だ。そういう者は自分なりの流儀を続け、あなたに耳を傾けようとしないからだ。そういう者はあなたを自分なりの流儀で解釈してしまう。 

スーフィーの物語がある・・裕福な男が死んだ。その男は裕福なだけでなく、賢明でもあった。そういうことはめったにない。息子は10歳か12歳になったばかりだった。そこで彼は村の長老、パンチャヤットたちに遺言を託した。遺言のなかで、彼はこう宣言していた。「私の財産から一番良いものだけをお取り下さった上、子供に与えてください」遺言はきわめて明瞭だった。そこで5人の長老たちは男の全財産を山分けした。少しでも価値があるものはひとつ残らず自分たちで分け、最後には役に立たないごくわずかのものだけが残った。それは誰も取ろうとしなかったので、子供にまわされた。 

ところで、死にゆく老人は少年にも1通の手紙を残していたが、その手紙は彼が大きくなったら開けることになっていた。大きくなると、彼は手紙を開いた。父親は手紙にこう書いていた。「私が遺言で伝えようとしたことを、おそらく彼らは勝手に解釈するだろう。おまえが大きくなったら、あの遺言を次のように解釈するように。これが私の解釈だ。私はこう言おうとしたのだ。『一番良いものだけお取り下さった上、そのすべてを私の子供に与えてください』」 

息子は長老たちの前で手紙を見せた。彼らはこんな意味だとはまったく思いもしなかったので、何もかも山分けにしてしまっていた。そこで彼らは、すべてを元通りに戻した。遺言の意味は火を見るよりも明らかだった。そして、少年にはもう準備ができていた。父親はまたこのように但し書きをしていた。「おまえがそれを受け取る時が来るまでは、長老たちに意のままに解釈させておけばよい。財産を直接おまえに与えてしまったら、おまえが大きくなるまでに、長老たちに横取りされてしまうだろう。だから、おまえが相続できるようになるまで、彼らの財産として保管させておくことにしよう」そして、父親が見越した通り、長老たちは自分たちのものだというので財産を守ってくれた。 

だから、部分的な明け渡しが起こるときには、かならずあなたは与えられたメッセージ、訓戒、命令をすべて自分の都合のよいように解釈してしまう。あなたは眠っているので、あなたが加える意味はすべて、あなたの眠れるマインドを通して来る。だから、全面的に明け渡さない限り、責任を引き受けることはできない。だが、全面的に明け渡せば、師、覚醒している者が一切の責任を負うことになる。 

昔は、イニシエーションを受けることは容易ではなかった。それはもっとも困難なことだった。その現象そのものが、困難であらざるをえないものだった。イニシエーションを受けるためには、何年ものあいだ待たなければならなかった。イニシエーションを受けるために、一生待つことさえあった。準備ができるまで、イニシエーションを受けることはできなかったからだ。こうして待つことが、まさに試練の下地になった。 

あなたは辛抱強いだろうか?待つことができるだろうか?待つことで初めて、あなたが成熟していることが明らかになる。子供は、ほんの一瞬も待つことができない。玩具(おもちゃ)が欲しくなると、すぐに手に入れたがる。子供は待つことができない。忍耐力が足りなければ足りないほど、精神は未熟だ。そういうわけで、昔は、イニシエーションが許される前に、人は何年も待たねばならなかった。この待機は試練の下地だった。それは修練でもあった。 

例えば、スーフィーたちは、あなたがある特定の期間待ってはじめてイニシエーションを授けた。時が来たことを師が告げるまで、あなたは問わずに待たなければならなかった。その間、人は色々なことをしたものだ。例えば、あるスーフィー靴屋であるかもしれない。そのスーフィーのイニシエーションを受けたければ、何年も彼の靴づくりを手伝わなければならない。しかも「靴をつくることで何が起こるのか、それが自己了解にどう役立つのか、どうして靴をつくることでこの私が神聖になるのか、靴をつくることにどういう関連があるのか」と尋ねることさえ許されない。関連性を問うだけで、あなたは放り出される。それはあなたが口出しすることではないからだ。 

どういう関連があるかを知ることは、師の仕事だ。どうしてあなたに知ることができるだろう?あなたは聖なるものを知らないのだから、靴づくりと聖なるものにどういう関連があるかわかるはずがない。あなたには知りようがない。師の靴づくりを手伝いながら、あなたは5年間ひたすら待っている。師は、祈りや瞑想のことは一度も口にしない。靴づくり以外のことは何ひとつ語らない。あなたはこのようにして5年間待つ。だが、これこそが瞑想だ!しかも、これは普通の瞑想ではない・・あなたはこの瞑想を通して浄化される。 

こうしてただ待つこと、こうして質問せずに待つこと、こうして一心に師を信頼することが、完全な明け渡しの下地を整える。それは外見はごく簡単に見えることもある。だが、それは容易なことではない。ひじょうにむずかしい。あなたのマインドは抵抗する。あなたのマインドは問いを発する。あなたのマインドは問題を持ち上げる。マインドはこのように問いかける。「私は何をしているのだろう?私は正しいことをやっているのか、それとも、時を無駄にしているだけなのだろうか?この男と一緒にいる価値が本当にあるのだろうか?靴をつくることが探究とどう関係しているというのだ?」 

マインドは問いを発し続けるだろう。内側で煮えたっていても、それでも尋ねることは許されない。あなたは信頼しなければならない。あなたはしかるべき時を待たねばならない。だが、1年でも待つことができたら、マインドはひとりでに静まる。あなたが毎日餌を与えない限り、あなたが毎日手を貸さない限り、マインドは存続することができない。あなたが毎日想念にかき乱されなければ、マインドは存続することができない。あなたは、マインドが喋りつづけ、問いを持ち出しつづけているあいだ、ただ待ちつづける。 

あなたが待って、待って、待ちつづければ、問いは無意味なものになってゆく。マインドはただ疲れ果てる。マインドは興味をなくして、ただ死んでゆく。あなたが待ちつづけていると、問いが起こらない瞬間がやって来る。そして、問いが止むそのとき、師が答える。師は、弟子の内側に問いがなくなるまさにその瞬間を逃さずに答える。なぜなら、今やあなたは聞くことができるからだ。あなたのお喋りは止まっている。今やあなたは沈黙している。今やあなたは通路になっている。 

だが、通常、私たちは毎日マインドに餌を与えている。私たちは、かき乱されているので、マインドが存続するかどうかを見るために1時間待つことさえできない。あなたは、このマインドが存続するかどうかを見るために待つことさえできない。 
マインドは存続できない。マインドには永続する特性などないからだ。マインドはひとりでに消えてゆく。

 

チベットの導師ミラレパは、このような規則を設けていた。彼に質問したければ、人々は7日待ってようやく尋ねることを許される。これは人が払わねばならない代価だ・・そして、人はあらゆるものに代価を払わなければならない。その場で質問しようものなら、彼はあなたを放り出してしまう。彼はこう言ったものだ。「7日待ちなさい。その問いを抱えたままでいるがいい」だが、7日間も問いを抱えつづけていられるものではない。7日は長すぎる。 

ときおり誰かが私のもとへやって来て、尋ねることがある。私が質問を巧みにそらせて、2分でも別の話をすれば、相手は質問を忘れてしまい、その質問には二度と戻ってこない。1時間しゃべることを許されても、二度とその質問に戻ってくることはない。そういう問いはたんなる気まぐれ、さざ波にすぎない。ようするに取るに足りないということだ。したがって、5年間も待つことができれば、あなたは別人になる。 

だが、待つことはとてもむずかしい。昔は、イニシエーションは長い待機の後でなされた。その頃は、明け渡すことが容易だったし、弟子に対する全面的な責任を引き受けることができた。今では、ことの全体が変わってしまい、誰にも待つ用意ができていない。現代人のマインドのもっとも深刻な病は性急さだ。時間を意識するのは、現代人のマインドに特有の新しい現象だ。マインドに起こった基本的な変化は時間の意識だ。私たちは、時間をあまりに意識するようになったため、一瞬といえども待つことができない。それは不可能だ。 

このために、この時代全体が幼稚なものになってしまった。成熟はどこにもない。なぜなら、成熟とは常に待つことの副産物だからだ。そして、待つことは「時間意識」ではなく、「時間のない意識」があって初めて可能となる。この「時間意識」のために、イニシエーションは不可能になった。あなたはイニシエーションを受けることができない。あなたは仏陀の傍らを走り過ぎながら、「私にイニシエーションを授けてください」と言う。あなたは走りながら路上で仏陀に出会う。そして、このわずかな言葉を発するあいだでさえ、あなたは立ち止まらずに、走りつづけている。 

こういうわけで、成熟は不可能になってしまった。だが、最大の障壁であるこの「時間意識」はなぜ生まれてきたのか?かつてはなぜ時間意識がなかったのだろう、なぜそれが今はこうも優勢になっているのだろう?「時間意識」は、あなたが死を恐れるようになって初めて深くなる。あなたは気づいていないかもしれないが、死を意識すればするほど、あなたは時間を気にするようになる。ほんの一瞬も失うわけにはゆかない。死がそこにある。 

失われる瞬間はすべて永遠に失われ、死がどんどん近づいてくる。あなたは死んでゆくのだから、一瞬一瞬を活かさなければならない。あなたは待つことができない。なぜなら、待つとは、まさに死を待つことに他ならないからだ。死がやって来つつある!誰も待つことなどできない。明日どうなるかは誰にもわからない。次の瞬間にも、死はやって来るかもしれない。あなたは不安になる。あなたは震え出し、走りはじめる。そもそも現代人のマインドのこの性急さは、死の恐怖からきている。 

人間が死をこれほどにも恐れるようになったのは初めてだ。それは人間が初めて不死なるものに完全に無自覚になってしまったからだ。不死なるものを自覚していれば、あわてる必要はない。永遠に生きるのだから、いつでも時間はたっぷりある・・十二分にある。時間は尽きないのだから、失われるものなど何もない。ある瞬間を無駄にしても、残された時間が減るわけではない。時間は永遠なのだから減るものはない。無尽蔵の宝庫からは、何ひとつ失われるはずがない。あなたが失いつづけても、何も変わりはない。残されたものは同じだ。その宝庫からは何も取り去ることができない。 

だが、私たちには時間がない。時間は短く、死がそこにある。私たちは死にゆく肉体しか意識していない。私たちは不死なる内面意識を自覚していない。昔は、不死なるものを自覚していた人々がいた。そして、彼らの意識、その不死性ゆえに、ゆったりとした雰囲気がかもしだされていた。ものごとはまるで微動もしないかのようにゆっくりと動いていた。それゆえに、イニシエーションも、待つこともたやすかった。明け渡すこともたやすかった。師が弟子に対する責任を負うこともたやすかった。 

今では、こういったことはすべてむずかしくなってしまった。が、それでもそれに代わるものはない。イニシエーションは必要だ!古いイニシエーションが不可能になってしまった以上、新しいイニシエーションがそれに取って代わらなければならない。古いイニシエーションは、新しいイニシエーションにその座を譲らなければならない。私の努力はすべてそれに向けられている。 

あなたが急いでいるなら、私は駆けているあなたにイニシエーションを授ける。さもなければ、イニシエーションは消滅してしまう。私は前提条件としてあなたに待つように求めることはできない。私は、まずイニシエーションを授けておいてから、様々な方法を使ってあなたが待つことを引き延ばす。様々な方便を使って、私はあなたが待つように説得する。待つことなくして、成熟はありえないからだ。そして、あなたに準備ができたときに、第二のイニシエーションが起こる。昔はそれが第一のイニシエーションだったのだが、今やそれは第一のイニシエーションにはなりえない。 

ときどき、人々が戸惑うことがある。ある人が私を訪ねて来るが、その人はそれまで私のことを一度も耳にしたことがない。その人は私のことなど何ひとつ知らない。ところが、私はその人にサニヤスを授ける。これは不条理で、まったく理解しがたいことだ。だが、私は承知の上でそれをやっている。何をやろうとも、私はそれを熟慮した上でやっている。 

このイニシエーションは始まりにすぎない。というのも、こうしてイニシエーションを授けることで初めて、私は相手を待たせるための方便をつくりだすことができるからだ。そうしなければ、相手は待つことができない。「5年待てば、あなたにイニシエーションを授けよう」と言っても、彼には待つことができない。だが、この瞬間にサニヤスを授けたら、彼は待つことができる。 

だから、イニシエーションはこのような形であっていい。そうしても違いはない。そのプロセスは同じだ。あなたに待つことができないのだから、私の方が変わる。あなたはイニシエーションの後で待てばいい。そうすれば、やがて第二のイニシエーションが起こるだろう。最初のイニシエーションは形式的なものだが、第二のイニシエーションは形式的なものではない。それは偶発的な出来事に似ている。あなたはそれを私に求めるわけではないし、私がそれをあなたに授けるわけでもない。それは起こる。内奥の実存において、それは起こる。そして、それが起こるとき、あなたはそれをそれと知るだろう。 

さしあたり今の世界の状況では他に方法がない。時間を意識するマインドには、こうするよりほかにない。だから、私はまずあなたを押しておいてから、あなたに働きかけてゆく。そして、その働きかけもこれまでとはまったく異なったものになる。それは同じではありえない。 

例えば、私はあなたの知性に多く働きかけねばならない。それはかつては必要のないものだった。それはいつも障壁と見なされてきた。それが障壁であることは私も知っている。知性を使っても本当には何も起こらないことは私も知っている。それでも私はあなたの知性に労を惜しまず働きかけなければならない。私が知性は必要ではないと言えば、その言葉をあなたの知性が解釈してしまい、あなたは私との断絶感を覚えてしまう。そうなったら、親密さが深まってゆかなくなる。私たちのあいだにある扉は閉ざされてしまう。だから、現代ではそのようなことは言えない。もちろん、それは基本的な真実ではあるが、昔風のやり方で口にすることはできない。 

今では、私はあなたの知性に多くのことを為さなければならない。あなたの知性に充分に働きかけて初めて・・ある意味で、これまで働きかけたことがないほどに、あなたの能力以上に・・ようやくあなたにも「知性を投げ捨てなさい!」という言葉を聞く用意ができる。それまではだめだ。あなたは納得する。知性を納得させることはきわめて容易だ。というのも、それはごく表面的な部分だからだ。私が言ったことは合理的であるとあなたが納得して初めて、私は不合理なものに働きかけはじめることができる。それが真の始まりだ。 

だが、あなたのハートに到るために、私はあなたの知的な迂回路を使ってその周囲をぐるぐるまわらなければならない。いたずらに知性の迷路を旅しなければならない。だが、現代では、それはやむをえないことだ。今では、不合理なものでさえ合理的な努力を通して近づいてゆかざるをえないのだから。 

こうして待つあいだに、彼方なるものを見る知性が鍛えられる。それと同時に、私は有無を言わせずあなたを押しやって、あなたを瞑想へと向かわせる。昔は、瞑想は秘伝であり、極秘のうちに教えられた。それは相手に全面的な用意が整ったときに初めて授けられたものだ。なぜなら、それは極秘の宝を開ける極秘の鍵だからだ。それはあなたに完全な用意が整ったときに初めて与えられる。さもなければ、与えることはできない。 

だが、あなたの用意が整うのを待っていたら、あなたに授ける機会など永遠にやって来ない。だから、私はあなたに鍵をひとつ与える。もちろん、贋の鍵だ。あなたはそれで遊びながら、待つことができる。鍵そのものよりも、待つことが助けになる。贋の鍵でも、持っていればあなたの不安は軽くなる。しかも、その鍵は、使いつづければ本物になってゆくようにつくられている。その鍵を、あなたがずっと使いつづけてゆくならば・・その鍵は、この瞬間には扉を開けることはできない。今のところ、その鍵は贋物だ。その鍵にはあってはならない角(かど)がいくつかついている。 

だが、それを使って努力をしつづけてゆけば、その角は消えてゆく。その角が擦り減って、本物の鍵になってゆく。それは日を追うごとにますます自由に動くようになってゆく。あなたは私を理解していることだろう。私はその贋の鍵を本物の鍵に取り替えるつもりはない。くり返して使えば、その同じ鍵が本物になってゆく!不要な角は擦り減ってゆく。私は、この瞬間に扉を開けることのできる鍵をあなたが受け取れるようになるまで待ってはいられない。扉は用意されている。鍵は用意されている。ところが、「あなた」の用意ができていない。

 

そこで、方法は二つある。古いやり方では、あなたが待たねばならない。私は言う。「5年待ちなさい。これが鍵で、あれが扉だ。だが、5年待たねばならない。二度と鍵のありかを尋ねてはいけない。好奇心で扉に触れることさえ許されない。錠前に近づいてはいけない。待ちなさい!」そして、あなたがちょっとでも錠前に目をやるのを見つけたら、私はあなたを追放してしまう。あなたはただ待つほかはない。決して錠前を見てはならない。決してそれを欲しがってはならない。「これが鍵だ。おまえに準備ができたら、それを授けよう」これは古いやり方だ。人々は何年も待った。人々は何生でも待った。 

こんな話がある・・ある弟子が三生ものあいだ待った。師は、彼がどれだけ待つことができるか試そうとしていた。師は言った。「私はおまえがどれだけ待つことができるか知りたい」弟子は言った。「結構です。私もあなたがどれだけお待ちになれるか見てみたいです」・・弟子と師は共に待つことになる。あなただけが待つことになると思わないこと。あなたが待っていれば、私も待っている。そして、私の方があなたよりも急いでいる。なぜなら、私は二度とここにはいないかもしれないからだ・・ 

すると、弟子は言った。「どちらが長く待てるか見てみましょう」師は困った立場に追い込まれた。師は三生にわたって戻ってこなければならなかったが、弟子の方は相も変わらず待っていた。そのたびに師は、坐って待ち、そのたびに同じ話がくり返された。とうとう、師はしびれを切らして言った。「もう、この鍵を受け取るがいい。おまえの勝ちだ!私は負けた」弟子は言った。「どうしてそんなに急ぐのですか?私はもっと待つことができます」 

師は言った。「おまえは待てるだろうが、そのたびに私は、ただおまえをこうして待つために、あえてこの世に戻ってこなければならない。まるでおまえは永遠に待つことができるかのようだ。さあ、この鍵を受け取るがいい」だが、弟子は言った。「鍵はすでに私のところに来ています。こんなに長く待っていれば、待つことが鍵になります。もう私には鍵はいりません」師は言った。「私があんなに急いだもうひとつの理由はそれだ。おまえがもう少し待てば、鍵を与える必要がなくなってしまうのはわかっていた。待つこと自体が鍵になるからだ」 

これが古いやり方だ。まず待たせておいて・・それから鍵が授けられる。だが、今やそれは不可能だ。そこで、私はことの全体を変えなければならない。私はあなたにまず鍵を与える。そうすれば、あなたはそれで遊べる。気を紛らわさずに待つことはできないが、気を紛らわせば待つことができる。今やあなたは鍵を手にしている。あなたは錠前を手にしている。扉はそこにある。あなたは宝にまつわる噂を聞いた・・あなたはすべてを手にしている。 

私は宝の噂を広めつづける。あなたは鍵を持っているので、待つことができる。あなたは錠前と鍵を使って遊ぶことができる。そして、こうして遊びながら待っているだけで、贋の鍵は本物に代わってゆく。師が果たす責任は弟子の明け渡しに対応している。師のみが行い、弟子の内側にはそれに対応するものがない事柄が他にもたくさんある。師が行うことと弟子が行うこととが対応する事柄はひとつしかない。それは橋だ。弟子の明け渡しと師の責任・・それは橋だ。 

師だけが関心を持つ事柄はたくさんある。実際、弟子がやらなければならないことはそれほど多くはないが、師はたくさんのことをしなければならない。そして、それでいい、ものごとはそうあるべきだ。弟子はいつも自分が多くのことをやっていると思っているが、たくさんのことをしなければならないのは師の方だ。師はそのいくつかをほのめかすことしかできない。師はあなたの様々な層に同時に働きかけなければならない。 

まず第一に、師はあなたの肉体に働きかけなければならない。あなたは自分の肉体にまったく無自覚なので、師が何をやっているのか理解することができない。あなたは自分の肉体のことなど何も知らない。あなたが肉体に気づくのは、空腹を感じたり、苦痛や肉体の変調を覚えるときだけで、それ以外の時は気づかない。それがあなたと肉体との唯一の触れ合いだ。あなたは自分の肉体がいかに深遠な現象であるかに気づいていない。 

師はあなたの肉体に多くのことを為さなければならない。なぜなら、あなたの肉体が変化を遂げるまで、あなたの内奥の部分に取り組むことはできないからだ。師は、あなたの肉体に何かをしていることを悟られないように働きかけねばならない。あなたがそれに気づいてしまったら、まさにその意識があなたの肉体に障害をつくりだし、師は自らの仕事を行えなくなるからだ。それが肉体という現象の神秘だ。肉体はあなたがそれを意識していないときには働くが、あなたが意識すると、働かなくなってしまう。 

明日にでも試してみるがいい。食事中に意識して、それから、胃が食べ物を栄養分に変えるために働いているのを意識する。このプロセスを24時間意識していると、気分が悪くなってくる。あなたの胃はかき乱され、あなたは食べ物から栄養を取れなくなってしまう。それは毒になるので、あなたはそれを完全に捨てなければならなくなる。有機組織全体がかき乱される。眠りが必要なのはそのためだ。睡眠中はあなたが意識していないので、肉体はよりよく働くことができる。 

誰かが病気になると、医者は、何よりもまず患者によく眠れるかどうかを尋ねる。患者が睡眠を取っていなければ、薬は効かないし、手のほどこしようがない。患者の肉体が働いていないのだから、手のほどこしようがない・・患者は肉体を意識し過ぎている。この意識のために多くの病がいたずらに長びいてしまう。ひとたび胃がかき乱されると、あなたは胃を意識するようになる。そうなると、胃が正常に戻っても、その意識は続いてゆく。今度はこの意識が胃をいっそうかき乱し、そうして、それは悪循環になってゆく。あなたの意識は胃によってかき乱され、胃はあなたの意識によってかき乱される。あなたはそれを断ち切ることができない。それがどこまでも続き、生涯にわたる条件づけになる。 

ある日、あなたの眠りはかき乱される。一夜明ければどうということはない。だが、あなたは眠りを意識するようになっている。今日も眠りがやって来ないかもしれないとあなたは思う。あなたが眠りを意識しているために、眠りはやってこない。あなたはそれを意識し過ぎている。そして、次の日にはもっと強くそれを意識する。 

それゆえに、師はあなたの肉体に多くのことを為さなければならないが、そのことをあなたに話すことはできない。ひと触れするだけでも何かをしていることになる。あなたの頭に手を置くだけでも何かをしていることになる。いにしえの世界に住んでいた人々にとって、それはいともたやすいことだった。彼らはあまり肉体を意識していなかったからだ。だが、時間意識に対応して、必然的に肉体意識が現れる。私はそれを「死の意識」と呼ぶ。実際、死を意識すればするほど、あなたは肉体を意識するようになる。 

現代では、誰もが肉体を意識しすぎるようになったため、誰かに触れると、相手は必ず自意識を持ってしまう。だが、相手が自意識を持つと、触れることの内的な意味、その内的な作用はただちに止まってしまう。私たちは触れることを恐れるあまり、とても過敏になった。誰もが他人に触れられないように絶えず気を配っている。あなたが群衆のなかに立っていると、あらゆる人が触れてゆく。だが、どこかしら内側で、あなたはいつも触れられないように努めている。そういうわけで、事態はこのようにむずかしく、いたずらにむずかしくなってしまった。 

今や私は、あなたの肉体を変えることのできる種々様々の方便を編み出さなければならない。私がダイナミック・メディテーションの手法にカタルシス(感情の発散浄化)の段階を加えたのは、たんにあなたの肉体のセンターを変えるためだ。古い瞑想のテクニックにこの部分が加えられなかったのは、師自らがカタルシスを引き起こすことができたからだ。師がふれることで・・あなたの数あるセンターのいずれかに一触れするだけで・・大量のカタルシスを引き起こすことができた。だが、今ではそれはひじょうにむずかしい。

例えば、禅師は杖を手にして、その杖で弟子を打つ。西洋人にはそれにどういう意味が込められているのかわからない・・禅に共鳴する者たちですらわからない。そして、禅師もまたその意味を説明しない。それはたんに叩いているのではない。特定のセンターを打ちすえているのであって、たんに叩いているのではない。だが、それは隠しておかなければならない。 

例えば、師はあなたの背骨の特定の場所を打つ。もし彼が「おまえの肉体が特定の仕方で働くのを助けるために、あるセンターに触れているのだ」と言えば、あなたは自意識を持ってしまう。だから、彼はそうは言わない。彼は「おまえが寝ぼけているから、打っているのだ」と言う。そして、あなたが眠気を催すたびに、師はやって来てあなたを打つ。この一撃は状況全体を覆い隠すための秘策だ。あなたは「師に打たれている」と思うが、師がセンターを打ちすえたことには気づかない。だが、今ではそれも使うことができない。

あなたの内なる流れを変えるためにアーサナが用いられた、ムドラーが用いられた。だが、これらは長期にわたって実践しなければならない。今では誰ひとりそんな長いあいだ実践を続けることはできない。しかも、これらは街なかではなく、人里を遠く離れた環境のなかで行われなければならない。特定のアーサナやムドラーを行い、その実践が深まってゆくと、働きかけている特定のセンターがとても敏感になるので、あなたは離れた場所に居つづけなければならない。そうしないと、いくつかのセンターが開いているため、不必要な妨害をたくさん受け、かき乱されてしまう。 

それゆえに、師は、様々な手法を使って、あなたの肉体に多くのことを為さなければならない。新しい手法を考案することは常に彼にまかされている。古い手法は役に立たなくなるからだ。知れば知るほど、あなたの自意識は強まってゆくので、新しい手法を使わなければならなくなる。そして、光明を得た師だけが新しい手法を用いることができる。自ら光明を得ていないのにイニシエーションを授けている者たちは、古い手法に頼らざるをえない。彼らには新しい手法を編み出すことはできないからだ。 

彼らは自分たちが教えている古いテクニックがどんな効果をもたらすかさえ知らない。知っているのは外面的な仕草だけだ。こうして彼らはハタヨーガ、プラーナヤマを使いつづける・・いつまでも使いつづける。光明を得た新しい人物が現れるたびに、世界は新しい方便を得る。彼らが現れなければ、新しい方便は得られない。そして、新しい時代が到来するたびに、そのつど新しい方便が必要になる。なぜなら、マインドが変わるからだ。 

したがって、師はあなたの肉体に多くのことを為さねばならない・・それが始まりだ。そして、そこにはあなたにそれを悟らせてはならないというむずかしい側面がある。師と共に生きること、アシュラムで暮らすこと、師と共に眠ることが重要なのはそのためだ。そうすれば、あなたが知らないあいだに、あなたの肉体は、師のワークに感応するようもっと繊細になってゆく。 

師たちは、あなたを無意識にさせ、肉体に働きかけるために麻薬を使うことさえあった。麻薬を使ったのは外科医たちだけではない。師たちも独自の方法で使った。あなたの意識が完全に失われれば、師たちは働きかけることができる。通常は1年かかっても為しえないワークが、そうすることで一瞬のうちに為されうる。というのも、正確なポイントに触れ、それを転じ、変えることができれば、あなたのエネルギーの流れをそっくり変えることができるからだ。 

ものごとが一段とむずかしくなるのは、働きかけなければならないエネルギーがセックス・センターに位置しているためだ。このために事態はいっそうむずかしくなる。それもまた複雑さ全体の一部をなしている。私は、時間の意識、死の意識、性の意識について話している。それらはすべてひとつの事柄の一部をなしている。死を意識すればするほど、あなたは性欲を強く感じる。なぜなら、セックスは解毒剤になるからだ。セックスは生の始まりであり、死はその終わりだ。 

死を意識すればするほど、あなたはますますセックスを意識するようになる。死を意識しない社会のみがセックスを意識しなくなるだろう。それはその社会が性的でなくなるという意味ではなく、たんにセックスを意識しなくなるということだ。セックスは自然な現象にすぎなくなる。原始的な社会に行って、女性の胸に触り、これは何かと尋ねると、彼女はごく自然に・・道徳を持ちだしたり、羞恥心を持ちだしたり、セックスを持ちだしたりせずに・・応えるだろう。彼女はただこう言う。「これは子供におっぱいをあげるものです」 

私たちのエネルギーはセックス・センターに位置している。そして、私たちはセックス・センターを強く意識するようになり、それを守ろうと絶えず気を配り、そのことで過剰なまでに緊張しているため、手を貸すことはますます困難になりつづけている。私が新しい方便をたくさんつくりだし、多くの次元から様々なものごとについて話さなければならないのはそのためだ。例えば、セックスから超意識への変容について私がひじょうに多くのことを語ったのは、たんにあなたをくつろがせるためだ。あなたのセックス・センターがゆるみ、緊張がなくなれば、そのエネルギーを上に向かって解き放つことができる。 

だから、師が最初にしなければならないことは、あなたの肉体が変わるのを助けることだ。それは変えられねばならない。なぜなら、新しい現象があなたの肉体に起ころうとしているからだ。訪れようとしている、降りてこようとしている新しい爆発、間もなくあなたの客となる新しいエネルギーに備えて、肉体を用意しなければならない。あなたは主人にならなければならない。そのために、すべてをそっくり調整し直さなければならない。

私たちの通常の調整は役に立たない。それは生物学的な調整だ。この肉体の有機組織、この肉体のパターンはすべて生物学的なものだ。それはセックスの媒体として使われるだけだ。肉体のプロセス全体は、自らを存続させるためにのみある。自然はあなたの肉体にそれ以上のものは何も期待していない。このために、肉体のパターン全体がそのように調整されている。だが、もはやあなたは種の存続を欲しているだけではない。あなたは完全に非生物学的な、新しい霊的な次元を生み出すために生物学的なプロセス全体を変えようとしている。肉体の有機組織全体が変えられなければならない。 

それゆえに、師はあなたの肉体にたくさん働きかけた上、感情にもたくさん働きかけなければならない。そして、現代では、あなたの知性にもさらに多く働きかけなければならない・・これはすべて意識された秘教的ワークだ。

 

師は、イニシエーションにおいて、あなたの外面的な部分に多くのことを為すことになる。だが、内なる部分、秘教的な側面もある。このワークは、テレパシーによるメッセージ、夢、ヴィジョン、秘教の意思伝達を通して為されてゆく。あなたの知性は、直接静めることができる・・語りかけて静めることもできる。だが、感情はそうはゆかない。あなたの感情には間接的に働きかけなければならない。あなたの感情が変化し、変容する環境・風土をつくりださなければならない。 

だが、それもまた外面的なものだ。あなたの感情、あなたの知性、あなたの肉体・・こういったものは、あなたの実存の外殻だ。あなたは内側に住んでいる。あなたの実存は内側のもっと深いところにある。その実存もまた変容されなければならない。これはテレパシックな手段、エソテリックな秘密の道を通して為される。 

あなたの夢を使うことができる・・夢が使われる。実際、あなたが自分の夢に気づいていなくても、師が気づいているといったことはよくある。そして、師は、目覚めたあなたの状態よりも、あなたが見ている夢の方に関心がある。あなたのいわゆる目覚めた意識は偽りだ。それは真実ではない。あなたは目覚めた意識のなかには表れていない。あなたは演技をしているだけだ。あなたの夢の方が真実に近い。 

フロイト夢分析を用いたが、それは彼がある錬金術の伝統を知るに到ったからだ。ある秘教サークルから、ある種の情報が漏れた。彼はそれを利用して、そこからひとつの科学を完成させた。もちろん、彼はあなたの夢を直接知ることはできなかった。彼はあなたに告白させ、夢を提示させ、想起させ、語らせなければならなかった。そうした後で、夢を分析することができた。だが、イニシエーションにおいて、師はあなたの夢を知る。師はあなたの夢に入ってゆくことができる。師はあなたの夢を目撃することができる。そうして、師は、あなた自身も気づいていない、あなたにまつわる秘められた事柄を知る。 

エドガー・ケイシーは、自己催眠による昏睡状態に入ることができた。あなたは昏睡状態に入った彼に自分の夢に関することを話す。あなたの夢からはいくつかの環が失われている。彼は無意識の状態であなたの夢に入っていって、その夢の全容を見ることができた。そうして彼は、「これが失われた環であり、夢の全容はこのようになっている」とあなたに告げた。朝になると誰も自分の夢全体を憶えていないのは驚くべきことだ。それは不可能だ。 

顕在意識が主導権を取ると、たちまちものごと全体が曲げられてしまう。なぜなら、そのメッセージは無意識から来るからだ。それが意識と対立するために、顕在意識は、それを曲げて解釈する。そのために何かが欠けたり、付け加えられたりする。そうして、ことの全体が意味をなさなくなる。あなたは「これは夢にすぎない・・無意味だ」と言う。無意味な夢などひとつもない。夢には、目覚めているときよりも深い意味が秘められている。

それゆえに、師はあなたの夢に働きかけなければならない。そして、夢に働きかけない限り、師はあなたの覚醒にむかって働きかけることができない。あなたの内側で夢を生み出している源こそが問題のすべてだからだ。それが壊されねばならない。それがあなたの意識から根絶されねばならない。夢見のメカニズム全体が壊され、完全に根こぎにされねばならない。 

それが完全に根こぎにされると、まず最初は夢を見なくなったという感覚が訪れ、続いて眠りがなくなったという感覚が訪れる。あなたは眠るが、何かが目覚めたままでいる。肉体は朝になると精気を取り戻すが、あなたは意識を保っていたことを知っている。夢を見なくなると、眠りも消えてゆく。 

夢を見ることが眠りを絶えず助けていると知って、あなたは驚くだろう。あなたは夢を見ずには眠れない。夢を見ているおかげで、あなたは眠りつづけることができる。例えば、睡眠中に空腹感を覚えたら、眠りは破られてしまう。肉体が眠りを破る。肉体は「行って何かを食べろ」と言うだろう。あるいは、喉が渇いていたら、肉体が「行って何かを飲め」と言うだろう。だが、夢の構造があなたが眠りつづけるのを助けてくれる。それは「問題はない」と言う。それは夢をつくりだす。あなたは夢のなかで水を飲んでいる・・そうなったら、眠りから覚める必要はない。あなたは必要なものを夢のなかで手に入れた。夢が実物に代わる何かを与えてくれたので、あなたはさらに眠りつづけることができる。 

あるいは、目覚まし時計が鳴っている。5時だ。あなたは起きなければならない。夢の構造がある夢をつくりだす。あなたは寺院のなかにいて、鐘が鳴っている。外で鳴っている目覚まし時計が姿を変えて夢の一部になっている。今や寺院の鐘が鳴っている。起きる必要はない。あなたは眠りつづけることができる。 

このようにして、夢はあなたが眠りつづけるのを助ける。さもなければ、あなたは眠れない。外界でひじょうにたくさんのことが起こっているので、眠りは何度も破られてしまう。肉体はそういったことには耐えられない。たった1匹の蚊ですら、あなたの眠りをかき乱しかねない。だが、そこでもまた夢が助けになる。夢がつくりだされ、蚊の羽音は夢のなかで音楽に変わる。そうして、あなたは夢を見ながら眠りつづける。 

それゆえに、夢見る意識の構造全体が根こぎにされなければならない。師は、これが起こるのを助けるために働きかけなければならない。師が夢見のメカニズム全体を打ち壊すと、そのとき初めて内なる扉が開き、師は意思を直接伝えることができる。そうなったらもう言語は不要だ、言葉は不要だ。師は意思を直接伝えることができる。そして、言葉を使わない直接の意思伝達が起こるとき、初めて真理をあなたに明かすことができる。それ以外はだめだ。それゆえに、最も秘教的なワークは、あなたの夢見る意識に対して為される・・その意識を変えるために。 

ときおり、この秘密の何かが漏れることがある。こういうことは何度も起こったことがある。秘教的な世界から漏れたたったひとつの秘密、たったひとつの暗示にそっくり基盤を置く科学がいくつかある。あなたはそのまわりにひとつの科学をつくりだせるが、それには欠陥があり、決して完全なものとはならない。フロイト夢分析は、決して完璧なものとはなりえない。なぜなら、彼はその科学の全貌を知らないからだ。彼はどこかで重要な一点に出喰わし、それを解明しつくした。だが、その一点は、ことの全体の一部にすぎない。その全貌は知られていない。 

あなたの夢見る意識が洗い去られたときに、真の秘教的(エソテリック)ワークが始まる。そうなったら、師はあなたの手を取って、あなたをどんな場所にも導くことができる。いかなるリアリティ、いかなる宇宙の深みにまでも・・だが、そのことについては語れない。それを論じることはできない。師は弟子を天国や地獄、宇宙の隅々・・あらゆる惑星、より高次の領域にまで連れて行ったものだ。 

だが、それはあなたの夢見る意識が完全に消えてはじめて起こることだ。あなたは何も投影してはいけない。あなたはひとつのスクリーンにならなければならない。そうなったら、あなた自身が変わったために、世界は姿を変える。世界は同じままだが、今やあなたは何ひとつ投影していない。 

まだまだ多くの事柄がある。関心があるならば、あなたは内側に入ってゆかなければならない。こういった事柄に関する情報知識をあなたに与えることはできないが、わかるように仕向けることはできる。私はあなたを助けることができるし、あなたに働きかけることができる。私はあなたを内なる次元に押しやることができる。だが、知識を与えることはできない。私があなたに与えている知識の多くは、かつては許されなかった。だが、私は一度も許されなかった多くの事柄に関する知識を与えることができる。なぜなら、私は常に、いくつかの重要な鍵を省いているからだ。あなたは独りでそれを引き出すことはできない。 

私が言うことには、常に何かが欠けている・・私にとってではなく、あなたにとって。それは、その現象自体があなたに起こるまではいつも見失われている。それが起これば、すべてが完結し、結び合わされる。だから、私はたくさんの環について語るが、あなた自身が努力することで初めて見いだされるいくつかの「失われた環」が常にある。私はあなたが懸命に働きかけるよう誘うために、これらの欠けている環について語る。あなたがワークに力を注げば注ぐほど、私は「失われた環」についてさらに多くのことを語るだろう。主要な環については、決して語られることがない・・それはただ体験するほかにないものだ。だが、私には、あなたがそれを体験できるように手を貸す用意がある。ものごとの本性自体が、ただ体験する他にないものだ。 

自分の役割を果たしなさい。そして、いいかね、あなたには自分の役割を演じる力がある。あなたが明け渡すことができるときには、かならず師が現れる。師はそこにいる。師たちは常に存在してきた。この世が師を欠いたためしはなかった。欠けていたのは、いつも弟子たちだった。だが、誰かが明け渡さない限り、師は何も始めることができない。だから、明け渡せる機会をつかんだなら、決してそれを逃さないことだ。明け渡す相手が誰も見つからなければ、そのときには、ただ「存在」に明け渡せばいい。だが、明け渡しの機会があるときには、決してそれを逃さないこと。なぜなら、そのときあなたは境界線上に、眠りと覚醒のはざまにいるからだ。ただ明け渡しなさい! 

明け渡す相手が見つかればそれはよいことだ。だが、誰も見つからなかったら、ただ宇宙に明け渡すがいい。そうすれば、師が現れる。師がやって来る。明け渡しが起こるたびに、師は押し寄せてくる。あなたが真空になり、空っぽに・・霊的に空っぽになると、霊的な力があなたに押し寄せ、あなたを満たすだろう。だから、常に憶えておきなさい。いつでも明け渡したい気持ちになったときには、その機会を逃してはならない。その機会は二度とやって来ないかもしれないからだ。あるいは、来たとしても、何世紀も何生ものあいだ虚しく時間を費やしたあとになるかもしれない。その機会が訪れたときには、ただ明け渡すがいい。 

だが、マインドはトリックを演じる。怒るとき、あなたはその瞬間に腹を立てる。ところが、明け渡したい気持ちになるときには、あれこれと考え、計画を練り、待ち構える。マインドが境界線上にいるのはほんの一瞬にすぎない。だから、神性に明け渡しなさい。対象は何でもいい・・樹でもいい。大切なのは何に明け渡すかではなく、明け渡しそのものだからだ。樹に明け渡せば、その樹があなたの師になってくれる。樹は、聖典には載っていない多くのことをあなたに明かしてくれる。石に明け渡しなさい。そうすれば、石がひとつの神となり、どんな神も明かしてくれないことをあなたに明かしてくれる。大切なのは明け渡しだ。 

明け渡しがあるときには、あなたに対して責任をもってくれる存在がかならず現れる。イニシエーションという言葉が意味するのはまさにこのことだ。 

OSHO:「神秘の扉」(瞑想社刊)第7章:サニヤスの神秘 より