OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

87.未知への扉:グループ・ワーク

<OSHOの講話より> 「未知への扉」 序章:グループ・ワーク 

※1971年、ボンベイ、ウッドランド・アパートメントで行われた、OSHOによる最初の英語の講話、「I AM THE GATE」より 

覚醒は、一瞬のうちにも起こりうる。一瞬のうちに、人は聖なる神へと爆発しうる。それは可能だが、まずそのようなことは起こらない。人は、何生にもわたって、たゆまず苦闘しなければならない。なぜなら、その仕事はきわめてむずかしく、人は独りでは目覚めることができないからだ。 

それはこのような状況に似ている・・・人が朝眠りながら、目覚めているという夢を見て、眠りつづけるといったおそれは大いにある。 

もしあるグループの者たちが、集団で覚醒しようと努力するなら、眠りが破られる可能性は高くなる。それゆえに、覚醒は、実際にはグループ・ワークになる。覚醒は独りでいても起こりうる・・・人はみな独力で覚醒する能力を備えている。だが、覚醒は決してそのような形では起こらない。 

実際のワークは別の形をとる。なぜなら、私たちは決して潜在能力の限界まで働きかけないからだ。私たちが心の潜在能力の10%以上を使うことは決してない。90%はたんなる潜在能力に留まったまま、一度も使われることがない。 

眠っていても、覚めていても、あなたが夢を見ていることに変わりはない。夢はあなたの内側で続いている。誰もが経験するこの覚醒や気づきは表面的なものに過ぎない。内側深くでは、夢が続いている。 

可能性はふたつある。独りでワークを行ってもいい。あるいは、それができなければグループ・ワークが必要になる。サニヤスの一団は、グループ・ワークが起こるのを助けるためにつくりだされた。一団となって働きかけている1万人の者たちがいれば、覚醒が起こる可能性は高くなる。そうすれば、目覚めている者がひとりでもいれば、その人は覚醒の連鎖を引き起こすことができる。 

仏陀は教団をつくりだした。マハヴィーラは教団をつくりだした。彼らの教団は外面的な現象だった。それはサニヤシンの一団だった。サニヤシンたちは、内側ではグループとして働きかけていた。そして、そのグループ・ワークは、何生にもわたって続けられる。 

例えば、仏陀のサニヤス・グループに属していた人で、まだ生きている者たちがいる。そのグループのメンバーによって交わされた内なる理解と内なる誓願がある。それは、そのメンバーのひとりが目覚めた場合には、そのグループに対して「必ず他の者たち・・・とりわけそのグループに属する者たちを目覚めさせるために最善をつくす」と約束するというものだ。 

グループの一員を重視するのはなぜか?それはどの流派にも独自の技法があるからだ。もしあなたが前世で、ある特定の技法を用いて働きかけたことがあるなら、今世でも、その技法を使ってたやすく働きかけることができる。 

例えば、かつて他の生、生涯において、私とともにワークをしていた者たちが大勢いる。この一群の者たちは、様々な点で他の者たちよりも可能性がある。彼らは特定の方法で働きかけたことがある。彼らは特定のものごとを為したことがある。彼らはある地点まで先に進んでいる。彼らにとっては、これはたんなる始まりではない。 

さもなければ、新しい人がやって来るたびに、不必要で、非本質的なワークをたくさん行わなければならなくなる。例えば、初心者には知的なワークが必要になるが、過去世において、特定の技法を用いて働きかけたことのある者たちには、もはやいかなる知的ワークも必要ではない。 

その技法を教えれば、彼らはただちにそれを行いはじめる。知的なワークの必要はない。彼らは皮相な質問などしない。そういった好奇心はそこにはない。そういった好奇心は、多くの時間と多くのエネルギーを取る。 

だから、まだこれから何度も転生する者は初心者に働きかけることができるが、もう転生しない者は初心者に働きかけることができない。そういった者たちは、かろうじてこちらの岸辺に留まっているいにしえの者たちにワークを限定せざるをえない。 

いにしえの者たちは知的な哲学をいっさい必要としない。彼らには表面的な問いかけなどない。彼らはただちに、深く入ってゆく。 

古くからある必要条件、人は「信」を持つべきであるという必要条件は、実は策略だ。それはたんに初心者といにしえの者たちを見分けるためのものだ。新しく来た者には「信」は起こらない。起こるのは疑いだけだ。「信」は、いにしえの者たちにしか起こらない。いにしえの者たちには、疑いなど起こりようがない。 

だから「信」とは、古い者と新しい者とを選り分けるための・・・時間を無駄にせず、誰により多く働きかければいいかを知るための技法、策略にすぎない。だが、信じることが出来る者と疑う者とのあいだには少しも違いはない。 

信じる者たちは、以前、どこかでワークを行ったことがあるため、知的な好奇心を持っていないというだけのことだ。そういった好奇心は満たされている。彼らはそれを通り抜けた。彼らはスクールへの入門を志願しているわけではない。彼らはとっくに門を通り抜けている。 

それゆえに「信」を求めることは、「あなたは過去世でワークを行ったことがあるか?」と尋ねることだ。以前にワークを行った経験があって初めて、あなたは信じることができる。経験がなければ、信じることはできない。 

現代の世界では「疑い」の方がはるかに際立ち、ずっとやさしいようにみえる。「信」はひじょうにむずかしい。その理由は、人間の心理構造が変化したからではなく、たんに古くからある伝統の命脈が細りつづけているからだ。 

実際、ナーナク以降、新しい伝統は存在しなかった。今や、あらゆる宗教が古くなっている。宗教は絶えることなく続いてきたが、その川は日を追うごとに細くなってゆく。日が経ってゆくにつれ、それぞれの伝統に属するメンバーの数は減ってゆく。 

今や、仏陀の時代から25世紀が過ぎた。仏陀の伝統はとても古いので、生きた仏陀と絆を結んでいた者たちの大半は、すでに解脱している。そして、後に残っている者たち、いまだに行き着いていない者たちはみな、三流にすぎない。彼らは何世紀もかけてたゆまず働きかけてきたのに、いまだに行き着いていない! 

ある意味で、今やあらゆる伝統が古くなりすぎている。「信」が少ないのはそのためだ。過去には、実に様々の生きた伝統があり、過去世で働きかけてきた者たちが大勢いた。「信」は、ひとりひとりに深く根をおろし、疑うことはとてもむずかしかった。 

だから「あなたは何をしておられるのですか?」と訊かれたら、私は、多くのことをしていると答える。ひとつは、過去世において何らかの形で私と絆を結んでいた者たちのために働きかけること。彼らは大勢いる。 

もうひとつは、来るべき時代に私たちが生きることになる新しい法脈をつくりだすこと。今や、古い思考方式は一切通用しないからだ。 

だが、私は、人が何生にもわたって歩きつづけてきた道から誰ひとり逸脱させたくない。25世紀もの長き伝統に属する人を解放することはできないからだ。今さらそういう人を変えてもしかたがない。そういう人には、その人自身の伝統に深く入ってゆかせる方がいい。 

その人を変えるのではなく、その人が属している伝統を再び蘇らせる方がいい。その人は自らの伝統のなかに深く入ってゆける。その人は古い伝統の法脈に連なるだろう。 

以前は、新しい探究者たちに働きかけていたので、私は「疑うこと」に力点を置いていた。私がいつも「疑うこと」に関心を寄せていたのは、「信」によっては決して新しい探究者を引きつけることが出来ず、疑うことで初めて彼らを引きつけることができるからだ。 

「信」は、過去世で何かを行ったことのある、いにしえの者たちを引きつける。私が疑うことを強調してきたのは、私が生き生きとした新しい伝統をつくりだすために働きかけているからだ。 

だが、今や私は「信」を強調する。しかし、そこに矛盾はない。私はたんに入口を変えつつあるだけだ。私が「疑い」を強調しているあいだは、誰もやって来なかった。今や私は「信」を強調する。 

私は過去世において私と絆を結んでいた者たちのために働きかける。そうすれば、困難は生じない。なぜなら、私たちは何ごとにも深く入ってゆかないからだ。私たちは深く入ってゆくことができない。 

様々な水準がある。私が「疑い」と言い、「信」と言うと、一貫性がないように見えるだろう。だが、ラベルが変わっただけだ。今や別の言葉が用いられるが、かつて私が行っていたことはすべて継続される。今や、過去世でワークを行ったことがある者たちに力点が置かれる。 

今、サニヤスという新しい一団を創設したのはそのためだ。「疑い」がある限り、それはつくりだせない。「疑い」がある限り、人は単独ではありえても、グループを組んでワークを行うことは決してできない。疑うという技法を用いる限り、グループワークは成り立たない。 

「疑い」はあなたを孤島にするが、大陸になれば、あなたは他の者たちと結ばれる。そうなったら、あなたと他の者たちのあいだに分離はない。そして、あなたはグループのなかでワークを行うことができる。 

人間は、あまりにも弱く、個々ばらばらでは頼りにならない。人間は独りでは何も出来ない。自分をごまかすのが関の山だ。だから、個人に働きかけようとするなら、機械的な装置をつくりださなければならない。例えば、あなたが眠りこけていて、誰も起こしてくれる人がいなければ、目覚まし時計を使わざるを得ない。それはあなたを助けるための機械的な装置だ。 

だが、機械的な装置は、そう長くは助けにならない。というのも、あなたはそれに慣れてしまうからだ。やがてあなたの眠りは、目覚まし時計によってはかき乱されなくなる。それどころか、目覚まし時計は気持ちよい音にすらなってしまいかねない。 

マインドの働きは大したもので、目覚まし時計の音を自分の夢に取り入れて、それを別の形に解釈してしまう。そうすれば、あなたの眠りが途切れることはない。目覚まし時計の音は、あなたの夢の一部にすぎなくなる。それは眠りの邪魔にはならず、あなたの夢の一部になっている。 

私は多くの人々に個別に働きかけようと努力してきた。私は彼らに機械的な方便を与えてきた。だが、彼らはその方便に慣れてしまった。そうなってしまうと、新しい虚偽、精神霊的な領域で起こりうる最大の虚偽が生まれる。 

彼らは目覚めているという夢を見る!それはもっとも致命的な病であり、最も危険だ。私たちは眠りつづけながら、自分は目覚めているという夢を見ることができる。そうなったら、方便は不要だ。あなたは夢のなかに独り取り残される。 

それゆえに、私はこれから先、グループ・ワークを強調する。誰かがほんの一瞬でも目覚めていれば、他の者たちにショックを引き起こすことができる。彼は他の者たちを揺さぶって、目を覚まさせることができる。 

だから、サニヤスという私の新しい一団は、内なる「信」を抱いてワークを行うグループとなる。覚醒がわずか1秒でも訪れていると感じたら、他の者たちを助けなさい。そうすれば、必要に応じて、他の者たちがあなたを助けるだろう。 

OSHO:「未知への扉」(瞑想社)より抜粋  

ナーナク・・(1469~1538) 
シーク教の開祖。カビールの思想と共に、スーフィズムの強い影響を受け、唯一神信仰を強調、偶像崇拝や苦行を排斥、カースト制を否定して、宗教の道徳的側面を強調した。