OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

64.バウルの愛の歌

<OSHOの講話より>  第1話 

私はあなた方にバウルの世界を紹介することに、途方もない幸せを覚える。これによって、あなた方が滋養を得て、豊かになることを望んでやまない。 

これは非常に風変りな世界だ。エキセントリックだ。異常だ。それはそうでしかあり得ない。不運だが、しかしそうでしかあり得ない。なぜなら、いわゆる正常と言われる人々の世界があまりにも異常だからだ。もし、あなたがその中で正常であろうとすれば、あなたは異常にならざるを得ない。あなたはあなた独自の道を選ばなければならぬが、それは普通の道とは全く正反対になる。 

バウル達がバウルと呼ばれるのは、彼らが狂った人々だからだ。バウルの語源はサンスクリット語のvatul に由来している。それは狂気、気がふれているという意味だ。バウルは何の宗教にも属していない。彼はヒンドゥ教徒ではないし、回教徒でもない。キリスト教徒でもなければ仏教徒でもない。彼は単にひとりの人間だ。 

彼の反逆はトータル(全面的)だ。彼は誰にも属することなく、ただ自分自身だけに属している。彼は自由の土地に住み、祖国はない。何の宗教もなく、何の経典もない。彼の反逆は禅師達のそれより深くゆきさえする。なぜなら、禅師達は少なくとも仏教に属しているからだ。形式的にしろ仏陀を拝し、形式的にしろ経典を持っている。もちろん経典を排そうとする経典だ。けれども焼くべき経典を持っている。 

バウルは何ひとつ持っていない・・教会なしだ、寺院なしだ、モスクなしだ・・とにかく何もなしだ。バウルとは、いつも路上にある人間だ。彼には家がなく、居所がない。神のみが彼の住居であり、大空全体がねぐらだ。そして粗末な刺子と、エクターラと呼ばれる手作りの、小さな一本弦の楽器、そして小太鼓・・ケテル。それだけが彼の所有する全てだ。 

彼はただ楽器と、それに太鼓しか持っていない。一方の手で楽器を奏で、もう一方の手で太鼓を叩く。太鼓は体の脇に下げ、彼は踊る。それが彼の宗教の全てだ。ダンスが彼の宗教だ。歌うことが彼の祈りだ。彼は神という言葉さえ使わない。バウルの言葉で神に当たるのは、アダール・マシュ、Adhal Manush つまり本質的な人間だ。彼は人間を礼拝する。あなたの、私の、あらゆる人の内側には、本質的な存在がある。その本質的存在こそ全てだ。そのアダール・マヌシュを、あの本質的存在を見い出すのが探索の全てだ、と彼は言う。 

だから、あなたの外側のどこかに神がいるのではない。それにどんな寺院を建立する必要もない。なぜなら、あなたはすでに彼の寺院なのだ。探究全ては、内面に向かう。そして歌の波に乗り、ダンスの波に乗り、彼は内面に向かって進む。歌いながら、彼は乞食のように進んで行く。彼には説くべきことはなく、説くべきことの全ては彼の詩だ。その詩はありきたりの詩ではない、単なる詩ではない。彼は意識的な詩人ではない。 

彼が歌うのは、彼のハートが歌っているからだ。詩は影のように彼を追う。それゆえに途方もなく美しい。彼はそれを計算しているのではない。彼がその詩を作っているのではない。彼は自分の詩を生きている。それが彼の情熱だ、生そのものだ。彼のダンスは、ほとんど異常だ。彼は決してダンスを習ったことはない。彼は踊りのアートに関して、何も知らない。彼は狂人のように踊る。つむじ風のようだ。 

そして彼はまさに自在に生きている。というのも、バウルは言う。「もし、あなたがアダール・マヌシュに、本質的人間に到達しようと望むなら、その道は、サハジャ・マヌシュ Sahaja Manush 自在な人間を通ってゆく」と。本質的人間に到達するには、あなたは自在な人間を通ってゆかねばならない。自在さが本質に至る唯一の道だ。 

・・だから、彼は泣きたいと感じた時に泣く。彼が村道にたたずみ、何の理由もなく泣いているのを見かける。もしあなたが「どうして泣いているの?」と尋ねたら、彼は言うだろう。「どうしても何もない、ただそう感じたからさ。泣きたかったから泣いたまでさ」と。もし笑いたければ、笑う。もし歌いたければ、歌う・・だが、それは全て深いフィーリングから湧き出て来なければならない。彼はマインド指向ではない。どんなやり方であれ、彼はコントロールしないし、律しない。 

彼は何も儀式を知らない。彼は儀式には全面的に反対だ。というのも、彼は言う。「儀式人間は死んだ人間だ」と。そんな人は自在であることが出来ないからだ。それに、儀式に従い形式を追い過ぎる者は、自分の周囲にあまりにも多くの慣習を作り出しているから、機敏に目覚めている必要はない。機敏さは失われ、慣習が形成される。そうなると、儀式的な人間は、慣習を通して生きて行く。 

寺院に出かければ、彼は頭を垂れる。しかし、彼は自分が何をしているのか、いささかも意識していない。覚めていない。彼はただそうするよう教えられたから、そう学んだからするだけだ。それは条件づけになっている。だからバウルは、どんな儀式にも従わない。彼らは、いかなる技術も持っていない。彼らは、どんな慣習も持っていない。だから、似かよったバウルはふたりと見つけ出せない。彼らは「個」たちだ。その反逆が、彼らをして真正な「個」になるよう導いて行く。 

これは理解しなければならないことだ。あなたが社会の一員になればなるほど、あなたはますます「個」ではなくなる。ますます自在ではなくなる・・何故なら、まさに社会の一員であるということが、あなたに自在で在ることを許さないからだ。あなたは、そのゲームのルールに従わざるを得ない。もしあなたが社会に踏み込んだら、あなたはその社会が演じている、これらのルールに従うことを受け入れる、あるいは演じようと決める。それが一員であることの意味だ。特定の組織に参加すれば、あなたはそのゲームを演じなければならない。 

バウルには何の組織もない。だから、それぞれのバウルが「個」なのだ。そして、これこそ本当の宗教の何たるかだ。それは、真実に対する個的なアプローチだ。人は、ひとりぽっちで行かねばならない。人は、自分独自の道を行かねばならない。人は、自分自身の道を見つけなければならない。あなたは、他者の後を追うことは出来ない。既製の進路の上を進むことは出来ないのだ。自分自身の道を探索すればするほど、あなたは一層神に、またはリアリティに近づいている。 

実際の話、その道は歩くことによって創造される。あなたは歩きながらそれを創造する。それはあなたの為にそこに用意され、歩いて貰おうと待っているのではない。あなたが歩いてそれを創造するのだ。それはあたかも、森の中で迷うようなものだ。あなたはどうする?地図はなく、しかもどこかに通じている道はない・・樹木、樹木、樹木が周り中にある。そして、あなたは道に迷った。どうする?あなたは歩き始める。探索する。探し求める。まさにあなたが歩くことで、まさにあなたの探索で、道が創造される。 

生はワイルド(野性的)だ。そして、それがワイルドだというのはいいことだ。それには地図がない。それには何も記されていない。それが未だに未知だというのは、いいことだ。それにその不可知性は、それを可知にする方法など何もないといった類のものだ。そうでなかったら、魅力は全て失われる、美の全ては失われる。それでは生はあなたを驚かさない。そして、もし驚きが失われたら、全てが失われる。その時は何の不思議さもなく、何ら不思議がることもない。 

そうなったら、あなたの眼は死んで行く。それに、あなたのハートは鼓動するのを止める。情熱は消え失せ、愛は不可能になる。畏怖、不可思議、驚愕、これらは生のそのカリスマの、神秘の成分だ。だから、何の経典もないのはいいことだ。儀式的な宗教がないのはいいことだ。あなたが高速道路の上にいないのはいいことだ。 

バウルは反逆的な人間だ。そして私は反逆的ということに、大いに意味を込めて言う。バウルは革命家ではない。革命家は依然、社会という限界内で考えている。「いかにして社会を変革するか?」それこそ革命家が絶えず思いを廻らしていることだ。彼は社会に焦点を当てたままだ。社会指向だ。いかにして社会を変革するか? 

反逆的人間は、世界について気にかけない。というのも彼は、世界を自分によって変えることは出来ないと理解しているからだ。それに、その世界を変えようとする自分は何様だろう?・・世界を変えるなんて、自分に何の権限がある?それにもし、その世界が今ある在り方でいることを決めたのなら、それに干渉する自分は何様だ?彼は、世界そのものを置き去りにする。彼は干渉しない。彼は構わない。彼は自分自身を変え始める。 

彼の反逆は内面的だ。彼の反逆は、全くもって内面的だ。反逆的人間はドロップアウトだ。彼は自分に適さない社会から、あっさりとドロップアウトする。彼は、社会が自分に合うように変わるのを待ったりしない。この願望は愚劣だ、馬鹿げている。そうなったら、あなたは途方にくれる。それにその日は、そのユートピアは決して起こらない。社会が変わり、あなたがそれに適合でき、そして、その社会があなたに適合出来る時・・そんな時は、決して起こらなかった。何世紀にもわたって革命家達が生き、そして死んだ。世界は多かれ少なかれ同じままだが、これら革命家達の生命は、それを変えることに浪費された。 

マルクスやレーニンやトロツキーが戻って来て、この世界を眺めることをちょっと考えてごらん。彼らは泣き出すだろう。自分達がその生涯を費やした世界とはこれか?これが自分達が生涯を賭け、希望し、命をカタに博打を打った世界なのか?彼らは世界を変えようとしていたから、自分の生を生きることが出来なかった。というのも、彼らが世界を変えようとしたのは、ただ世界が自分達の意志に応じて変わったら生きることが出来る、と考えたからだ。さもなければ、どう生きられる?どうすれば不幸な世界の中で幸福に生きられる?・・これこそ革命家の問いかけだ。まさに重要だ。不幸な世界の中で、どうすれば自分は幸福でいられるか?そこで、革命家は世界を幸福にしようと試みる。 

「世界は放っておこう。今まで誰もそれを変革した者はいない」と反逆的人間は言う。彼はもっと実際的だ。そして地についている。「私は、私独自の道を生きることが出来る。私は自分の内部に、私独自の世界を創造出来る」彼はドロップアウトだ。バウル達はドロップアウトだ。彼らはどんな宗教にも、どんな社会にも、どんな国家にも属していない。彼らは乞食達だ、放浪者だ。ヴァガボンドだ、ヒッピーだ、ジプシーだ。村から村へと漂いながら、自分達の歌を歌いながら、自分自身のやり方で生きながら、自分達のやるべきことをやりながら・・ 

反逆的人間とは「私は待たない。私はこの『今』を生きてゆく」と言う人だ。革命家達は、未来に対し希望を持つ。「私は待とう。私は正当な時期を待つのだ」と彼は言う。反逆的人間は言う。「その正当な時期とは『今-ここ』にある。それに私は誰も待たない。私はこの『今』を生きてゆく」と。反逆的人間は、現在の中に生きる。

 

さらにもうひとつ理解すべき事柄は、反逆的人間は誰にも対立しないということだ。彼は、自分自身の道を生きようとしているから、対立しているように見えるかもしれない。しかし、本当は彼は誰にも対立していない。彼はモスクには行かない、が回教徒に反対しているのではない。彼は寺院には行かない、がヒンドゥ教徒に反対しているのではない。彼は「私は関心がない。それとは無関係だ」とあっさり言う。「どうか私を放っといておくれ。あなたは自分のことをすればいい。私は私のことをするから。私に干渉しないでくれ。私もあなたに干渉しないから」と彼は言う。 

反逆的マインドのヴィジョンは、非常に現実的だ。生は短く、明日が来るかどうか誰も知らない。未来は不確かだ。それに「これ」が、人が生きることの出来る唯一の瞬間だ。なぜ他者と争うことで、それを浪費する?なぜ他者を説得することで、それを浪費する?それを楽しむがいい。その中に歓喜するのだ。バウルは快楽主義者だ。彼はエピキュリアンだ。彼は生き始める。彼は愛し、生きる。彼は歓喜する。 

バウルは死ぬ時、死を恐れない。彼は準備している。彼は自分の生を生きた。彼は熟れている。その果実は熟れ、大地に落ちる用意がある。何のためらいもなく・・あなたは恐れるだろう。あなたは既に恐れている。というのも、あなたはまだ生きることが出来ないでいるからだ。あなたは生きて来なかった。そして死がやって来る。あるいはやって来つつある。あなたはまだ、生きる時間を持ったことがなかったのに、死がその扉をノックしてしまった。あなたはどうやって死を受け入れる?どうやって死を歓迎する? 

バウルは、どんな瞬間にも死ぬ用意がある。というのも、彼は生を一瞬たりとも浪費しなかったからだ。彼は生きるのが可能な限り、深く生きた。彼には何の不満もない。彼は生に恨みはない。それに彼には、何ひとつ待つものがない。だからもし死がやって来たら、彼は死をも生きる用意がある。彼は死を抱擁する。「入っておいで」と彼は言う。彼は、死に対しても主人になる。 

もしあなたが正当に生きたら、あなたは平和に、至福に満ちて死ぬ用意が出来る。もしあなたが正当に生きていなかったら、もしあなたが延期していたら、もしあなたが自分の生を脇に置いて、それを楽しむことより、他の物事をやっていたら、生の中に歓喜することより、千とひとつの物事をやっていたら、その時にはもちろん、当然ながらあなたは死を恐れる。そして死がやって来た時、あなたはその前で臆病者になる。 

バウルは踊りながら死ぬ。バウルは歌いながら死ぬ。バウルは自分のエクターラとドゥッギを奏でながら死ぬ。彼はいかに生き、いかに死ぬかを知っている。それに彼は、神のことなど気にかけない。彼はただ、内部に住むそのアダール・マヌシュを、本質的人間だけを気にかける。 

彼の探究の全ては、自分であるこの本質的人間を見つけることだ。「私は誰?」こそ、彼の本質的探究だ。それに彼は他の人間に対し、非常な敬意を払う。というのも、人々は全てこの本質的自然に属しているからだ。他の形象も全て、この形なき本質的自然のものであり、彼の全てが大洋に属している。彼は深い敬意を払う。途方もない敬意を払う。バウルは決してどんな非難もしない。 

私にとって、まさにこれが宗教的人間のその基準だ。彼には何ら非難がましい態度がない。彼にはあらゆるものが受け入れられる。彼の世界は全てを含んでいる。何ひとつ除外しない。セックスは受け入れられる。サマーディもそうだ。彼の世界は、何ひとつ除外されていないから豊かだ。「あらゆるものが、あなたの存在の、あの本質的核心からやって来る。だから、なぜそれを否定する?それに、もしあなたがそれを否定したら、どうやってあなたはその根源に到達出来る?」と彼は言う。 

どこであれ、あなたが何かを否定したら、あなたはそこにしがみつく。あなたはそこで停止する。そうなったら、その旅は核心に進むことが出来ない。生はあるがまま、トータルに受け入れられる。これはバウルが、単なる耽溺の人間だという意味ではない。違う。彼は基本的なものを、より高いものに変容させる錬金術を知っている。彼は、鉄をどのようにして黄金に変容させるかを知っている。彼は、セックスをどのようにしてサマーディに変容させるかを知っている。彼はその秘密を知っている。 

では生を永遠の生に、時間を永遠性に変容させる、その秘密とは何だろう?その秘密は、愛だ。セックスとサマーディの間のその橋は、愛だ。愛はその両方に参加している。一方にセックス、そのもう一方にサマーディがある。それは橋なのだ。一方の岸がセックス、もう一方の岸がサマーディだ。愛は両方を含んでいる。両方を包摂している。「愛を通して」とバウルは言う。「人は永遠の我家に到着する・・」だから、これがその道における唯一の必須条件だ。愛、愛が彼らの礼拝だ。愛が彼らの祈りだ。愛が彼らの瞑想だ。 
バウルの道は、愛の道だ。彼は途方もなく愛している。 

インドには2つの伝統がある。1つはヴェーダの伝統であり、1つはタントラの伝統だ。ヴェーダはより形式的だ。より儀式的な性質のものだ。ヴェーダはより社交的で、組織的だ。タントラはより個的だ・・儀式、形式、慣習への関心は少なく、本質への関心はずっと深い。形への関心は少なく、魂により関心がある。ヴェーダは全てを含まない。多くのものが除外されている。それはより清教徒的、道徳的だ。タントラは清教徒的ではない。全てを含んでいる。もっと人間的で、もっと大地の香りがする。「あらゆるものが使用されるべきだ。そして何ひとつ否定すべきではない」とタントラは言う。 

バウルは、ヴェーダよりタントラに属している。タントラには1つだけ改良点がある。違いはそれだけだ。タントラは全てを含み、男性的というより女性的だ。ヴェーダはより男性指向であり、タントラはもっと女性的だ。もちろん、女性は男性より多くを含んでいる。男性は女性の中に含まれるが、女性は男性の中に含まれない。男性は一種の特殊化のように見受けられる。女性はより普遍的だ。より流動的だ。より丸みがある。 

タントラは、道(タオ)のように女性的なるものの道だ。しかしバウルは、タントラもまた改良して来た。タントラは技巧的過ぎる。「タントラ」という、まさにその言葉の意味が技巧だ。それはいささか荒っぽく、科学的だ。バウル達は、もっと詩的だ。バウル達はもっとソフトだ・・彼らは歌い手であり、ダンサーだ。 

タントラはセックスを、セックス以上に高める為に利用する。だが、それを利用するのだ。セックスは手段になる。それでは敬意がなさ過ぎる、とバウルは言う。「エネルギーをどうやって利用など出来る?どうやってエネルギーを手段として利用することなど出来るだろう?」とバウルは言う。彼らはセックスを手段として利用しない。彼らはその中に歓喜する。それを楽しむ。彼らはそこから礼拝を生み出す。だが、どんな技巧もなしにだ。それは技巧的ではない、彼らはそれを愛する。すると愛を通して、ひとりでに変容が起こって来る。 

タントラの中では、あなたは遊離したままだ。たとえセックスを、サマーディに向かう手段として使用している間でさえ、あなたはセックスから遊離したままでいなければならない。純粋に中立的だ。純粋に観察者のようだ。目撃者だ。ちょうど科学者が、実験室で作業しているようなものだ。実際の話、タントラの技巧は、自分の愛している女に使うことは出来ない、とタントラでは言う。なぜなら、愛が障害になるからだ。あなたには愛着があり過ぎる。あなたは分離して外側にいることが出来ない。だからタントリカ達は、無条件に観察者の姿勢のまま留まれるよう、自分が全く愛していない女性を見つける。 

それこそ、バウルの違うところだ。彼らはそれは残酷過ぎると言う。この情熱のない態度は残酷過ぎる。そんなに厳しく残酷になる必要はない。愛を通して変容は可能だ。だからこそ彼らの態度はもっと詩的だ、と私は言うのだ。もっと人間的だ。もっと価値がある。あなたは世間に接しながら生き、なおかつ遊離して生きることが出来る、とバウルは言う。あなたは女性を愛し、なおかつ観照者でいることが出来る。あなたは市場の中にいて、そしてなお、その彼方にいることが出来る。あなたは世間にあってなお、その一部とならずにいることが出来る。 

このヴィジョンは、私のヴィジョンでもある。それこそ、私のサニヤスの意味だ。世界の中に在って、しかもその一部として在らずだ。それに、もしそれが愛を通して為されなかったら、それには価値は全くない。 

これがタントラに欠けているものだ。それは人間性の欠如だ。もしあなたが女性を愛したら、タントラは不可能だ。もしあなたが男性を愛したら、タントラは不可能だ。あなたは完璧に無関心にならなければならない。その時には、セックスは非常に科学的になって来る。それは技巧になって来る。操作される何かだ、為される何かだ・・中に入ってゆく何かではなく、あなたを吸収する何かではなく、大洋的な、オーガズミックな何かではなく、あなたがやっている何かだ。 

サマーディに達したいから男性に、または女性に何かをするという、その相手を道具として、手段として使用するという考え自体醜悪だ。不道徳だ。それこそ、バウルがトータルに違う芳香を持っているところだ。「そんなに厳格である必要はない。そんなに手段指向である必要はない。愛がやってくれる」と彼らは言う。そこで私達は、彼らが愛ということで何を意味しているのか、理解してみよう。 

最初の詩だ・・これらの詩は、様々なバウル達のものだ。だが、私は彼らの名前を出さないでおく。それは無関係だ。彼らは全て、同じヴィジョンに属している。いろいろな詩だが、それらは深い根底では依然同じ詩だ。違う言葉だ、違う形式だ。しかし、そこを流れているのは同じ流れだ。それはちょうど花環のようなものだ。多くの花が一緒にまとめられている。だが内側を走り、そしてそれらをまとめているのは、1本の糸だけだ。私達はこの糸を大事にする。私達は、誰がこの詩を書いたかについては気にかけない。実際の話、その詩の多くは作者不明だ。それを誰が書いたのかは誰も知らない。なぜなら実際、それらは決して書かれたものではないからだ。 

バウル達は無学だ。もしかしたら、彼らがこんな純粋さを持っているのはその為かもしれない。彼らは、世間のやり方で教育を受けた文化的な人々ではない。だからこそ、彼らはこんなに無垢なのかもしれない。彼らは大地の子供だ。無教育で、貧しく、謙虚だ。しかし非常に誠実だ。だから私は、誰がこの歌を歌ったのか、あるいはこの20日間で追ってゆく他の歌を誰が歌ったのか、あなた方に言うまい。それは無関係だ。これらは同じヴィジョンから出て来たものだ。 

これらには、ある種のメロディがある。あまりに個性的であるがゆえにバウルスール、バウルのメロディと呼ばれているほどだ。全く特別だ・・その味わいはいかにも特別で、芳香はいかにも個性的であるゆえに、どこであれバウルの歌を聴けば、あなたはすぐにそれと分かる。それには独自の個性がある。固有のスタイルがある。野性的で、無知で、無教育だ。けれども非常に個性的だ。ちょうど大海原の味が同じであるように・・どこから味わおうとそれは塩辛い・・これらの歌の中に、あなたはそれらが1つのヴィジョン、1つの姿勢、1つの情緒、1つの体験から来ていることを、すぐに感じ取ることが出来る。 

それに彼らは決して書かなかった。バウルは、それらを何世紀にもわたって歌いついで来た。それぞれのバウルが何かを落としたり、何かをつけ加えたりして、自分自身の歌を作った。あるいは自分のマスターから聞き取った古い歌を使った。しかし、そのヴィジョンはあまりにも明白で、バウルの歌を聴く時には、決して聞き逃せないほどだ。

 

最初の歌・・ 
『 恋する人のハートの言葉が分かるのは 愛の味覚の通ばかり 他の者には糸口もない  ライムの美味は果芯に宿るが どんな達人とて それに至る近道は知らない 
蜜は蓮の花の中に隠れているが 蜂はそれを知っている 
馬糞に巣食う馬糞コガネども 蜜のことなど知らぬふり 
服従こそ知識の秘密 』 

まず第1に、愛は、唯一愛することでしか知ることは出来ない。愛は、それに関する知的な討論によって理解出来るものではない。愛は理論ではない。もしあなたが、それから理論を創り出そうとしたら、それは不可解なままであり続ける。それがバウルの第1の立脚点だ。物事には、ただそれを為すことによってしか、それであることによってしか、知ることの出来ないものがある。 

もしあなたが泳ぎを知らなかったら、あなたはそれが何であるか知らない。またそれについて知る方法もない。あなたは千とひとつの泳ぎ手達が、それに関して話しているのを聞きに行くかもしれない。それでもまだあなたは、それが何であるか知ることにはならない。それは他のどんな方法によっても知り得ない。あなたは泳ぎを習う以外ない。あなたは河へ行かなければならない。あなたはその危険を、溺れる危険を冒さなければならない。 

もしあなたが非常に賢かったら、あなたはこう言うかもしれない。「最初に泳ぎを知らない限り、私は河の中に踏み入らない」・・これは論理だ・・「泳ぎを知らないのに、どうして河の中に踏み入ることが出来る?だから最初に、私は泳ぎを知らなければならない。その時にしか河に入ることは出来ない」と。けれども、それではあなたは決して泳ぎを知ることが出来ない。なぜなら、たとえ泳ぎを習うというようなことであっても、河の中には入らなければならないからだ。 

泳ぎは、唯一泳ぐことによってのみ知り得る。愛は、唯一愛することによってのみ知り得る。祈りは、唯一祈ることによってのみ知り得る。他に方法はない。その中に進むことなくして、知ることの出来るものはある。それらは役に立たないものだ。哲学、教義、信条など。それらは知的なものだ。しかし全て本当のものは、それを生き抜かねばならない。そして全て実存的なものは、それに浸透してゆかなければならない。そして危険を冒さなければならない。人は大胆であるべきだ。勇敢であるべきだ。 

それは大いなる冒険だ。なぜなら誰かを愛する時、あなたは自分自身を失い始める。誰かを愛するということは、エゴを失うことだ。誰かを愛するということは、失われてゆくことだ。誰かを愛するということは、自分を支配する力を誰かに与えることだ。誰かを愛するということは、所有されることだ。誰かを愛するという意味は、サレンダー(自分を明け渡す)ということだ。 

『・・服従こそ知識の秘密・・』 
・・なぜならバウルにとって、愛だけが唯一の知識だからだ。あなたはヴェーダを読むことは出来る。そこに服従の必要はない、自分を明け渡す必要はない。あなたは聖書を読むことは出来る。そこにサレンダーの必要はない。あなたは非常に練達して来る。非常に巧みだ。非常に博学だ。しかしサレンダーする必要はない。 

もしサレンダーする必要がなければ、バウルにとってそれは知識ではない。バウルの基準とはこれだ。つまり何かがサレンダーを要求する時、ただその時にのみ、本当の知識の可能性があるということだ。それ以外は駄目だ。もしあなたが私の元に来て、そして私がただ知識を与えるだけだったら・・多くの人々が私の元に来る。そして彼らは言う。 

「もし私達がサニヤシンにならなかったら、もしあなたに自分を明け渡さなかったら、それは難しいことなんでしょうか?しかもなお、私達はあなたのおっしゃることを愛しているし、それを聴きたいと望んでもいるんです。そのことに何か問題があるんでしょうか?それは出来ないことなんでしょうか?」と。 

私は言う。「それは出来る。問題はない。しかしそれでは、あなたはただ表面的なものを収集するだけだ。あなたは言葉を集めることになる。そうだとしたら、あなたはテーブルから落ちたパン屑を集めるだけだ。あなたは本当には私の客になれない。あなたは本質的なもの全てを取り逃がす。非本質的なものだけが、あなたの運命になる。あなたは決めなければならない」と。 

ひとたびあなたがサレンダーしたら、あなたと私の間にはトータルに違う世界が開く。ハートとハートの交流が始まる。その時、あなたは私の言葉を聴く。が、違った聴き方で、深い共感と愛を伴って、感謝と受容性を伴って聴くゆえに、言葉はもはや言葉ではなくなる。それらは生き生きし始める。あなたは自分の受容性をもって、それらを生き生きさせた。あなたは私が言っていることを、私が伝えていることを懐妊する。その時、そこに転移が起こる。 

その時には、言葉は単なる口実だ。私は言葉では扱えない何かを、言葉にまとわりつかせてあなたに送る。その時、あなたに届くのは言葉だけではなく、私のハートを通して運ばれる精神的風土だ。もしあなたが私と恋に落ちているなら、その時には、私とあなたの間にはトータルに違った種類の理解がある。 

もしあなたが私を愛していなければ、その時には私達は遠く離れている。その時には、あなたは別の惑星にいる。私から何千里も遠く離れている。私が大声で叫んだら、あなたは言葉をいくつか聞くかもしれない。しかし、この方法では何も特別なことは起こらない。もしかしたら、あなたは今までより博識になるかもしれない。しかし、それは肝心な点ではない。あなたはより博識になるのではなく、もっと「在る」べきだ。もしあなたがここで私と接触することで、本当により豊かになって来るとしたら、あなたの存在は成長しているということだ。そうなったら、あなたはもっともっと結晶し、もっともっと真正に生き生きして来る。そしてより深い神性を得る。それは愛なしでは不可能だ。 

ではサレンダーとは何だろう?サレンダーの意味は、エゴを明け渡すことだ。サレンダーの意味は、あなたが知る全てを明け渡すことだ。サレンダーの意味はあなたの知識を、あなたのマインドを、あなたの知性を明け渡すことだ。サレンダーとは自殺だ。過去の自殺だ。もしあなたが秘密の方法で、内側に自分の過去を持ち歩いているとしたら、その時にはあなたのサニヤシンのジェスチャーなど無力だ。 

あなたはサニヤスを受け、なおかつ過去をまるで財宝のように隠し守りながら持ち歩き続けることも出来る。それでは表面上はあなたはサニヤシンだが、私にサレンダーしてはいない。そしてその時、あなたが満たされていなかったとしても、それはあなた以外誰の責任でもない。バウルの第1の立脚点は、実存的なものごとは実存的な方法を通してのみ知ることが出来る、ということだ。愛は、ただ愛することによってのみ知ることが出来る。

・・(略)・・ 

神はあなたの周り中にいる。だが、あなたは経典や知識であまりにもいっぱいだ。自分のエゴであまりにもいっぱいで、あなたの内側には、神が浸透し入ってゆける空間が残っていない。それは不可能になってしまった。「あなた」のせいで、それは不可能になって来ている。「祈るがいい。もし、あなたが祈りの何たるかを知りたいと望むなら」とイエスが言う時、彼は正しい。 

それに、その男もまた正しい。「どのようにして祈るか?それこそ私の問題だ。あなたはそれに答えなかった」と彼は言う。するとイエスは言う。「その唯一の方法として、私が祈ろう。私はひざまずいて祈る。あなたは私の脇に坐るがいい。自分を開いて感じやすくしておくなら、あなたはそれを捕まえるかも知れない」と。 

これこそ、ここで私が試みていることだ。私に対して、ただ開いているがいい。あなたはそれを捕まえるかもしれない。ひとたび、あなたが自分自身の道を塞がなくなったら、ひとたび、あなたが自分自身のやり方から抜け出始めたら、そこにはあらゆる可能性がある。そこには何の問題もない。なぜなら、あなたに話しかけているあの本質的人間はまた、あなたを通して聞くこともしているからだ。その時には、本質と本質が出会うことが出来る。アダール・マヌシュとアダール・マヌシュが出会うことが出来る。 

ちょっと、あなたのエゴを脇に置いてごらん。というのも、エゴは非本質的だからだ。あなたのエッセンス(本質)を持って、私に直面するがいい。あなたのエッセンスを持って、私と遭遇するがいい。そうしたら突然、あなたは自分の中に新しい火が燃え上がるのを見る。新たな愛が生まれるのだ。 

そうだ、服従が知識の秘密だ。サレンダーが知識の秘密だ。それは知的な努力ではなく、トータルな服従だ。自己の溶解だ。だからこそバウルは愛に関してより多く、知識に関してはより少なく語るのだ。なぜならこの世で愛は、愛する以外に他のどんな方法を持ってしても、達成することの出来ない唯一の事柄だからだ。 

・・(略)・・ 

・・多くの人々が、映画で愛について学ぼうとしている。多くの人々がポルノ文学で愛について知ろうとしている。多くの人々が愛について知ろうと、小説を、詩を、そして他人の恋文を読み漁っている。そう、あなたが愛について多くの事柄を知って来る危険がそこにある。だが愛について知るのは、愛を知ることではない。実際、あなたが愛について知れば知るほど、愛を知る可能性はますます減少する。あなたは自分の知識の中で迷ってしまう。あなたは自分は知っていると思い始める。 

あなたは、愛を商売にしている映画俳優達が、いつも自分自身の愛情生活では敗北者だという事実を観察したことがあるだろうか?彼らは決して成功しない。マリリン・モンローでさえ自殺した。彼女は頂点にあった。ケネディ大統領でさえ彼女に恋をしていた。全世界が彼女に恋をしていた。だが、どういうものか彼女の生涯は空虚だった。彼女は自分の生涯の、名声のそのまさに頂点において自殺した。あんなに美しい女性がだ。 

何が起こったのだろう?なぜ男優や女優達は、いつも自分の現実の愛情生活では敗北者なのだろう?彼らは愛について、あまりに知り過ぎたものだから、愛に関して本当になれないのだ。彼らは、同じ役柄を演じ続けてゆく。彼らは同じゲームを演じ続けてゆく。まるで彼らは、舞台の上で演技しているかのように、生の中でも演技し続ける。舞台の上ならそれはオーケーだ。というのも、何も巻き込まれないからだ。しかし現実の生活の中では、それは空っぽだ。だから、彼らは空虚な仕草をやり続ける。 

覚えておくことだ。あなたは、愛について多くのことを知ることが出来る。しかし、それは愛を知る手助けにはならない。愛は、唯一愛することによってのみ知ることが出来る。ということは、それについて何も知ることなく、ただ愛の中に進んでゆかなければならないということだ。だからこそ勇気がいる。あなたは暗闇の中に進んでゆかなければならない。地図はなく、誰ひとりガイドもなく、松明さえない。あなたは自分がどこを進んでいるのか知ることもなく、正しい進路を取っているかどうかも知らず、自分が道を見つけるのか、それとも溝に落ちて永遠に迷うことになるのかも知らずに、ただ闇の中を進んでゆかなければならない。 

これが勇気だ。バウル達は、非常に勇気ある人々だ。彼らは言う。『愛の味覚は通ばかり・・』 
愛には多くの味わいがある。愛は多くの次元を、多くのニュアンスを持っている。愛は単一の事柄ではなく、非常に豊かなものだ。途方もなく豊かだ。それには多くの局面がある。多面的だ。それはダイヤモンドのようだ。それは多くの面を持ち、そしてそれぞれの面が豊かさを与えている。ただ通だけが・・いろいろなやり方で愛した者、勇敢に危険に生き、愛した者、愛の全ての味わいを知る者だけだ。 

あなたは見守ったことがあるだろうか? ”LOVE”という言葉は、全ての愛を表現している訳ではない。それは単一の言葉だ。古代の言語は全て、愛の為に多くの言葉を持っていた。というのも、あまりにも多くの愛があるからだ。その点、英語は貧弱だ。ふむ?なぜなら、あなたは自動車だって愛するからだ。それにあなたは自分の女性を愛し、自分の家を愛し、祖国を愛し、自分の子供を愛し、自分の母親を愛している。たったひとつの言葉でだ! 

あなたは特定の銘柄の煙草を愛している。この言葉は非常に貧弱だ。というのも、愛は多くの面を持っているからだ。子供を愛する時、あなたは違う愛し方をする。それはあなたが女性を愛する時と同じような愛ではない。それには情熱がない。あなたが自分の母親を愛する時のそれはトータルに違っている。そこには敬意がある。そこには深い感謝がある。 

ところがあなたが女性を愛する時、それは全く違っている。そこには大変な烈しさがある。ほとんど狂っている。それは、あなたが自分の母親を愛するやり方ではない。あなたは友達を愛する。これは全面的に違う。それは愛情だ。けれども同じものではない。もしあなたが見守るなら、あなたは愛の多くのニュアンスを見つけ出す。この単一の言葉”LOVE”の中には多くの言葉が隠れている。 

そして人は、その次元全部の中に進むことによって、愛の全てを知らなければならない。もし、あなたが愛のどんな面も知っていなかったら、あなたの愛に関する理解はそれだけ欠如する。人は全ての局面と、全ての微妙な違いを知らなければならない。それこそバウルが、こう言う時意味していることに他ならない。 

『恋する人のハートの言葉が分かるのは 愛の味覚の通ばかり 他の者には糸口もない』

・・(以下、略)・・ 

OSHO,「バウルの愛の歌」(上巻)(めるくまーる社)より抜粋