OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

78.ヒーリングは愛の機能

<OSHOの講話より> 

質問:集中的な精神療法(セラピー)の中では、患者は話をしているか、あるいは耳を傾けているか、つまり内側から聴こうとしているかのどちらかです。後者のみに価値があります。優秀なセラピストは、とりわけ愛がある場合には、この予期しないものに耳を傾けるプロセスを高める、いろいろな方法を思いつきます。これは瞑想の形態ですか? 
実際のところ、理想的にはセラピストと患者は、両方とも一緒に瞑想していると言えるのでしょうか? 

セラピーは、基本的には瞑想と愛だ。なぜなら、愛と瞑想なしにはヒーリングの可能性はないからだ。 

セラピストと患者がふたつでない時、セラピストが単にセラピストであるだけでなく、また患者がもはや患者ではない時・・・ 

その反面、セラピストがその人を治療しようとしないところで、自分と相手との深い関係性が起こり、患者がセラピストを自分自身と分離したものとして見ることがない時・・・これらの稀なる瞬間に、セラピーが起こる。 

セラピストが自分の知識を忘れてしまい、患者が自分の病気を忘れてしまった時・・・そして対話、2人の存在の対話がある時・・・その瞬間、2人の間にヒーリングが起こる。

そしてそれが起こった時には、セラピストは自分は神聖な力、神聖なるヒーリングの媒介としてのみ機能したのだ、ということをいつも知るだろう。 

セラピストは患者と同様に、その経験に対して感謝するだろう。実際のところ、セラピストはその経験から、患者と同じくらいに多くのものを得る。 

あなたがその人を患者として治療する時、あなたは患者を、まるで機械であるかのように扱う。ちょうど機械を改良し、調整しようと試みている職工のように、再び健康にしようと試みる。 

そうなるとセラピストは、頭の中の自分の知識に引っかかっている専門家だ。彼はその人を別の人間としてではなく、まるで機械であるかのように、その人を助けようとする。 

彼は技術的には専門家かもしれないし、ノウハウを持っているかもしれないが、それほど助けにならない。 

なぜなら、この見ることそのものが破壊的だからだ。この患者を見ることそのもの、患者を対象として見ることが、患者の中に抵抗を創り出す。患者は傷つけられたと感じる。 

注意して観察したことがあるかね?あなたがその人といて屈辱を感じないような、自分がまるで対象物として扱われたと感じることがないような、その人といて自分に対して深い尊敬を感じるような、そして機械としてではなく、ひとりの人として待遇されたと感じるような、そういう医者はほんのわずかしかいない。 

そして、それがセラピストの問題となると、さらにそのことが当てはまる。サイコセラピスト(心理療法家)は、自分の知っていること全てを忘れる必要がある。 

その瞬間、セラピストは愛に、流れるような愛にならなければならない。その瞬間、セラピストは相手の人間性を受け容れなければならない。相手の主体性を受け容れなければならない。 

相手の人を、物におとしめるべきではない。さもないと、あなたは最初の最初から、より偉大なヒーリングの力が降りて来る為の扉を、閉ざしてしまうことになる。 

セラピストであるということは、この世で最も困難なことのひとつだ。なぜなら、あなたは助ける為に知らなければならず、他方で助ける為に、知ったことの全てを忘れなければならないからだ。 

あなたは、助ける為に多くを知らなければならない。そして助ける為に、その全てを忘れなければならない。セラピストは、非常に矛盾したことをしなければならない。そして、その時にのみセラピーが起こる。 

愛が流れ、セラピストが、非常な注意を持って患者に耳を傾ける時・・・そして患者もまた、自分自身の内なる存在、自分自身の自己への無意識の語りかけに、耳を傾けようとする時・・・ 

この「聴く」ことが起こる時、次第に、その深く耳を傾けることの中で、2人の人はいなくなる。2つの両極は、あるかもしれないが・・・ 

あなたが私に耳を傾ける時、いつもヒーリングが起こっている。あなたが無心、無思考となり、あなたがそこにいないと言えるほどに注意深く、私に耳を傾ける時、あなたはただの耳となり、ただ耳を傾け吸収する。 

そして、私は全くここにいない。そしてある稀なる瞬間に、あなたもそこにいない時、ヒーリングがある。突然、あなたは癒される。あなたの知らない内に、あなたは毎日癒されている。 

あなたの知らない内に、ヒーリングがあなたを取り巻き、ヒーリングの力があなたを取り巻く。あなたの傷が癒され、あなたの暗闇が消え去り、あなたの限界が壊される。これがセラピーなのだ。 

東洋では、サイコセラピーのようなものがあった試しがなかった。なぜなら、マスターで充分だったからだ。サイコセラピストが今日知っているようなことは、東洋では何世紀にもわたって知られていた。その中に新しいものは何もない。 

しかし東洋では、マスター以外に精神分析家のような範疇を創り出すようなことは、決してなかった。患者ではなく、弟子がいるだけだった。 

ちょっと、その違いを見てごらん。あなたが患者として私のところに来る時には、あなたは非常に醜いマインドを持って来る。あなたが弟子として私の元に来る時には、美しいマインドを持って来る。 

私がセラピストとしてあなたを見る時には、その見ることがあなたを物におとしめる。私がマスターとして見る時には、その見ることが、あなたをあなたの内奥の存在の高みへと持ち上げる。 

東洋では、決してマスターをサイコセラピストと呼ぶことはないが、マスターはこの世で知られた中で、最も偉大なセラピストなのだ。ただ仏陀の側に坐るだけで、何百万もの人々が癒された。彼が移動するところには、ヒーリングがあった。 

だがヒーリングについて語られることはなかった。それはただ起こった。ヒーリングについて語る必要はなかった。仏陀の臨在そのもの、そしてマスターからの愛の眼差し・・・そして弟子には、それを吸収する用意があった・・・。 

「患者」(ペイシャント)という言葉は醜い。その言葉それ自身は醜くない。それは非常に美しい語源から来ている。それは「忍耐」(ペイシャンス)と同じ語源から来ている。しかし、それは連想によって醜くなってしまった。 

弟子は全く異なる。あなたは何かを学ぶ為に来た。治療される為ではない。しかも治療は自ずと起こる。 

セラピーの全ては、学ぶことにある。実際、なぜあなたは精神的に病気になったのかね?なぜなら、あなたは何か間違ったことを学んだからだ。あなたは何か全く間違ったことを学んでしまったので、それに捕らえられてしまった。 

あなたは、あなたの条件づけを外すことの出来る誰か、あなたが学んだことを捨て去り、別の道にあなたのエネルギーを向けることの出来る誰かが必要なのだ。それが全てだ。 

たとえば、ひとりの婦人が私のところへ来た。私は長年、彼女を見ていた。彼女は私のところへ長年にわたって来ていた。初めて彼女が来た時、彼女は、自分はセックスに全く興味がないのに、彼女の夫はひっきりなしにセックスを求める、と私に言った。 

彼女はそのことで、非常に気分が悪かった。彼女はほとんど吐き気を催していた。「どうすれば止めさせられるでしょう?私は何をすべきですか?」と彼女は訊ねた。 

私はその夫に言った。「ただ1ヶ月間、性的に興味を持たないように。1ヶ月後には事態は良くなり、変わるだろう」と。1ヶ月間、彼は私に従った。 

その婦人は再びやって来た。彼女は言った。「私は、非常に傷つけられたように感じます。というのも、私の夫は性的に全く私に興味を示さないのです」 

そこで私は言った。「あなたは、何が起こっているかを理解しなければならない。夫が性的に興味がある時には、あなたは夫に対してあるパワーを持っていた。あなたはそのパワーを楽しむが、同時に自分は利用されているとも感じる。というのも、夫はあなたを性的に見るからだ。つまり彼は、あなたをある満足の手段として見ることになる。あなたは利用されていると感じる」 

ほとんど全ての女性は、利用されていると感じる。そして、それが彼女達にとっての問題なのだ。 

しかし夫が興味を持つことを止めれば、彼女達は利用されていることについてすっかり忘れ、怖れるようになる。そして彼女達は、夫が遠くへ離れて行くと考え始める。すると彼女達は、夫に対してもはやパワーがなくなる。彼女達は夫を所有していない。 

そこで私はその婦人に言った。「ちょっとその事実を見てみなさい。もしあなたが夫を所有したいなら、あなたは夫に所有されなければならない。あなたが夫を所有したいのなら、その時は、あなたは彼に利用されなければならなくなる」 

所有欲の強いマインドは、所有される。何かを所有することは、それによって所有されることになる。多くを所有すればするほど、それだけあなたは、自分の周りに隷属を作り出すことになる。 

自由は、あなたが所有欲を捨て去る時にやって来る。あなたが所有欲を捨て去る時、その時あなたは誰に対しても、いかなるパワーも求めていない。そうなれば嫉妬は起こらない。 

そして、あなたが相手を所有しようとしない時、あなたは自分の周りに美しさを醸し出し、相手は、あなたを物として見ることが出来なくなる。あなたは人になったのだ。栄光に溢れ、活気に満ち、キラキラと輝き、あなたは自分自身を照らす光となる。 

誰もあなたを所有することは出来ない。誰であれ、あなたに近づく人は素晴らしい美しさを感じるだろう。そしてあなたの存在を、物として考えることは出来なくなる。 

今では、全ての女性が苦しんでいる。それというのもまず第1に、所有したいからだ。所有したいと思う時、所有される。所有されると「私は利用されている」と感じる。もし利用されないと、その時はパワーが消えてなくなって行くと感じる。 

そういう訳で、女性はいつも苦しみの中にいる。そして男性も同じことだ。問題を深く見て行くことが、癒されることだ。 

なぜならその見ることが、あなたはある間違ったトリックを学んでしまったのだということを、あなたに明らかにするからだ。捨て去れば・・・ヒーリングがある。

 

人々は精神的に病んでいる。なぜなら、彼らは間違って条件づけされて来たからだ。誰もが競争するようにと条件づけされ、誰もが静かにしているように、穏やかでいるように教え込まれて来た。これは馬鹿げている。 

あなたは両方でいることは出来ない。あなたは競争的であるか・・・その時は、あなたは緊張したままでいることになる。あるいは静かでいて、穏やかで愛情深くあるかだ。その時は、あなたは競争的であることは出来ない。 

あなたは二分法を教えられて来た。あなたはふたつの方向に一緒に動くようにと教えられて来た。そして、あなたはそれを学んだ。あなたは謙虚であるようにと教えられ、そして、絶えずエゴイスティックであるようにと教えられ続けて来た。 

社会は矛盾し、無節操であり続けている。そして社会は、あなたに完全に間違ったことを教え続けている。そして病気が生じる。そしてあなたの内側に精神の混乱があり、あなたの内側に矛盾衝突がある。そしてあなたは、何もかもが無秩序で滅茶苦茶になる地点にやって来る。 

あなたはマスターのところへ行くか、サイコセラピストのところへ行くかだ。もしあなたがマスターのところへ行くなら、あなたは弟子として行き、学ぶ為に行く。 

あなたは何か間違ったことを学んだ。それは捨て去らなければならず、何か新しいものを学ばなければならない。あなたが弟子として行く時、あなたは屈辱を受けるとは感じず、そのことを幸せに感じる。 

しかしあなたが、精神的な事情で行くならば、患者として行くならば、あなたは戸惑いを感じる。サイコセラピストのところへ行くと、あなたは事実を隠したくなる。 

「人々は知るべきではない。なぜなら、それは自分のマインドが上手く機能していないことを意味するからだ」 

サイコセラピストのところへ行くと、あなたはそれを隠したくなる。サイコセラピストは専門家だ。彼自身、あなたが抱えているのと同じ問題を抱えている。彼はあなたにとって、いくらか助けになるかもしれないが、彼自身にとっては、それほど役に立たない。 

しかし、マスターは問題を持っていない。マスターは、あなたを途方もなく助けることが出来る。なぜならマスターは、あなたを隅から隅まで見通すことが出来るからだ。あなたはマスターの前では、透明になる。 

サイコセラピストは職業人だ。たとえ彼があなたの面倒を見るとしても、あなたに対してある種の愛を、愛情を示すとしても、それは職業的なジェスチャーだ。 

マスターは、あなたと職業的に関係しているのではない。その関係性は全く異なる。それはハートからハートだ。 

西洋では、今や非常に多くのサイコセラピストがいる。だが、助けになるという何の証明もなされていない。患者は、ひとりのセラピストから別のセラピストへ、ひとつのセラピーから別のセラピーへと渡り歩く。生涯、彼らはひとつのドアから別のドアへと移動している。 

マスターが必要とされている。愛に到達した、悟りを得た人が必要とされている。 

しかし普通のサイコセラピストの中でさえ、もししばらくの間、患者がもはや患者ではなく、セラピストがセラピストではないことが起こり、ある愛・・・ある人間愛が起こり、セラピストが自分の職業、職業的な関係性を忘れ、愛が流れると、ヒーリングがたちまちにして起こる。 

ヒーリングは愛の機能だ。愛は最も偉大なセラピーだ。そして世界はセラピストを必要とする。なぜなら、世界は愛を欠いているからだ。 

もし人々が愛していたら、もし両親が愛していたら、もし教師が、教授が愛していたら、もし社会に愛情のある風潮がその周りにあれば、その必要はなかった。 

誰もが健康で、幸福であるように生まれている。誰もが、健康と幸福を探し求めている。しかし、どこかで何かが欠けている。そして誰もが惨めになる。 

惨めさは例外であるべきだ。なのにそれがルールになってしまった。幸福がルールであるべきだ。なのにそれが例外になってしまった。 

私はブッダ達が生まれる世界、それでいてブッダがルールであるがゆえに、誰も彼らのことを覚えていないような世界であって欲しい。 

今では仏陀が覚えられている。キリストが覚えられている。老子が覚えられている。なぜなら彼らは例外だからだ。さもなければ、誰が彼らのことなど気にする? 

もしどの家にもブッダがいたとしたら、そしてもしブッダ達が世間のいたるところにいたら、そしてどこででも老子に会うことが出来るとしたら、誰がかまったりする?そうなったら、それが簡単なルールになる。そうあるべきだ。 

老子は言っている。「この世が真に道徳的だったら、聖人になる可能性はなかった」世界が真に宗教的だったら、宗教の必要性はなかった。人々は単に宗教的だ。宗教は必要ではなかった。 

秩序、規律があったら、自然の秩序と規律があったら、「秩序」と「規律」という言葉は存在しなかった。無秩序がある時に、秩序という考えがやって来る。人々は規律がない時にのみ、規律について話し始める。 

そして人々は、病気がある時にヒーリングについて話す。人々は愛が欠けている時に、愛について話す。しかし基本的には、セラピーは愛の機能だと言える。 

この質問はセラピストから来ている・・・私は彼に、私のメッセージを彼の人生の中に持ち運んで欲しいと思う。彼はすぐに帰るだろう。さあ行くがいい、セラピストとしてではなく人間として。 

二度と患者を患者として見てはいけない。その人を、何かを学びに来た人なのだと思って見なさい。弟子のように。その人を助けなさい。しかし専門家としてではなく、その人を人間として助けなさい。そうすれば、多くのヒーリングがある。より少しのセラピーで、多くのヒーリングがあることになる。 

さもなければ、セラピーが何年にもわたって続いたあげく、結局ほとんど何にもならなかったことになる。あるいは時には、結果は有害なものにさえなる。 

非常におかしな習慣があったひとりの男について、聞いたことがある。彼がパブに行く時には必ずワインを飲み、いつも少しだけグラスに残し、それを周りの人々に向かって撒き散らした。彼は何度もぶたれた。 

それである人が助言した。パブのオーナーが助言した。「どうして精神分析家のところへ行かないんだい?あんたにはセラピーが必要だよ。なぜってあんたはこれまでずっと、ぶたれてはパブから追い出され続けているんだからね。またやって来たと思ったら、再び同じことを繰り返すんだから。何かが間違っていると思うよ。取り憑かれているんだよ」 

それで彼は行った。そして彼は3ヵ月後に戻って来た。彼は前より良くなっているようだった。パブのオーナーは訊ねた。「どこか精神分析家のところへ行ったのかい?3ヶ月間姿を見せなかったからね」彼は言った。「ああ、俺にとってとても助けになったよ」「治ったのかい?」とオーナーは訊ねた。「完全に治ったよ」 

しかし、彼は再び同じことを仕出かした。オーナーは言った。「これは一体どういう治療なんだい?同じことをやっているじゃないか」 

彼は言った。「でも俺は完全に変わったんだ。以前は同じことをやって罪の意識を感じていたんだ。もう俺は罪の意識を感じないんだ。精神分析家は俺を助け、罪の意識を治してくれたんだ。以前は戸惑いを感じていたんだが、今では悩まないですむのさ」 

これが西洋で起こったことだ。精神分析家は、ただ何も問題ではないと感じるように人々を助けて来た。精神分析家は、深い責任を与えなかった。罪の意識を取り除いただけだ。罪の意識は悪い。それは取り除かなければならない。 

しかしそれは人々が罪の意識を捨て去り、他方で、責任の観念を学ぶようなやり方で取り除かなければならない。罪の意識は悪い。罪の意識は非常に危険だ。それはあなたを破壊する。それは傷のようなものだ。 

しかし責任を感じるということは、実に、非常に本質的なことなのだ。責任はあなたに魂をもたらす。責任はあなたに統合をもたらす。そしてあなたが責任を感じない限り、健康な人だとは言えない。 

健康な人は自分が何をしていようと、自分に責任があるということを常に気づいている。責任という観念そのものが、あなたに自由を、威厳をもたらす。真正なる存在というのは、そこから現れる。あなたはもっと現存するようになり、もっと「今、ここ」にいるようになる。 

罪の観念は、偽のコインだ。それは責任であるかのように見える。が、そうではない。罪の意識は、あなたを意気消沈させる。責任はあなたに強烈さ、気づきの鋭さをもたらす。あなたは自分の中に、さらなる統合を持つことになる。もっと一緒になる感じがする。 

西洋に行くがいい。だがセラピストとしてではなく、今ではあなたはサニヤシンだ。サニヤシンであることの責任を感じなさい。人々を助けに行くがいい。 

そして人々を助ければ、あなたも非常に助けられることになる。あなたが人々を愛すれば、あなたも愛されることになる。あなたが人々を癒せば、あなたがヒーリングの力とエネルギーの媒介となれば、あなたも癒される。 

そして人々を癒している間、あなたはそのプロセスの一部なのだということを、あなたもまた癒されているのだということを、いつも憶えていることだ。 

人々を教えている間、あなたも教わっている。何を学ぶにしろ、この世で最良の方法は教えることだ。 

だがマスターもまた弟子なのだ、ということを覚えておきなさい。マスターは、絶えず学び続けている。それぞれの弟子は、新しいレッスンだ。そしてそれぞれの患者、弟子とワークすることは、新しい本、新しい人生を開けることだ。 

愛の報酬は非常に大きい。サニヤシンとして行き、患者が学び、捨て去り、変容される為に来るような環境を、あなたの周りに創り出しなさい。患者を事例として扱うのではなく、あなたが無力であるのと同じように、無力な人間として接しなさい。 

そして塔から、つまり汝よりも神聖なる者、相手より高潔な者、相手より見識のある者という見地から見てはいけない。そのようなやり方で見てはいけない。そのようにして見つめることが暴力だ。 

そうすると、愛が不可能になる。人間として見なさい。他の人と同じように無力なのだ。同じボートに、同じ苦境にいるのだと思って見なさい。 

あなたは助けになる。そして多くのヒーリングが、あなたを通して起こるだろう。 

OSHO、Come Follow Me Vol.4 より抜粋