OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

86.マスターと弟子との関係性

<OSHOの講話より> 

質問:マスター(導師)と弟子との関係性とは、どんなものですか? 


まず第一に、マスターとは教師ではない。マスターとは、宗教的な生に到達した人のことだ。 

宗教とは、知識ではない。それは、人から教わることは出来ない。なぜなら宗教とは、ひとつの生き方だからだ。 

まさしく、マスターの現存そのものが、交感(コミュニオン)だ。その上、誰かの生がマスターに触れると、言葉によってではなく、何かが伝達(コミュニケイト)される。 

マスターと弟子との関係性は、たいへん親密なものだ。それゆえ、それは教師と生徒のようではなく、むしろ、愛する者と愛される者との関係に近い。 

マスターは、自らが光明を得ていなくてはならない。彼自身が、到達していなくてはならない。なぜなら、自らが実現していないことは、伝達など出来ないからだ。 

宗教的体験は、それが直接的なものである時にのみ、伝達され得る。教師なら、「自己実現」している必要はない。だがマスターは、「自己実現」していなくてはならない。 

教師なら、経典や言い伝えの中から得た、受け売りの見聞を、人に説くことも出来る。だがマスターには、それは出来ない。 

マスターとは、真理を実現した者だ。今や彼は、その源泉だ。彼自らが、「現実(リアリティ)」と遭遇したのだ。彼は「それ」に、面と向かっている。 

だからこそ弟子は、マスターの「知」に、直接触れることになる。なぜなら、マスターから弟子に何かを伝達、または語られることは、マスター自身の一存だからだ。 

第二に、マスターは、自分がマスターであることに、気づいてはいない。それはあり得ない。マスターは、自分がマスターなのだと、主張は出来ない。そういう主張は、断じておかしい。 

自我のない状態へ到達したかどうかは、その人にしか分からない。そうでなければ、真理に遭遇することは出来ない。真理とは、自我が完全になくなった時にのみ、見い出されるものだ。 

私は常に、宗教、精神霊性スピリチュアリティ)の中では、ただ、弟子だけが存在すると言う。なぜなら、マスターなどいないからだ。彼はその場に、その存在感を感じられるほどの、霊気に過ぎないからだ。 

彼の無主張、無自我、非教育者的態度、そして、真なるものを生きていること、それらがみな霊的交感だ。だから、自分はマスターだと主張する人は、ただの教師だと言うのだ。そういう人は、決してマスターなどではない。 

マスター(導師)を訳す言葉は、英語にはない。なぜなら、弟子とマスターとの関係性は、基本的に東洋のものだからだ。未だかつて、西洋の文化や伝統の中に、そういう関係性が存在したことはなかった。 

だから西洋人の誰ひとり、マスターが何であるのかを、理解出来る人はいない。せいぜい彼らに理解出来るのは、教師が何であるかだろう。 

マスターと弟子の関係性は、とても親密なものだ。それは愛のようだ。抱かれている崇敬の念は、まるで愛のようだ。だが、ひとつだけ違いがある。愛は平行線だが、崇敬の念は、自分より上の、より高い人へと向けられるものだ。 

愛は、友情をもたらす。なぜなら、愛する者も愛される者も、同一線上にいるからだ。崇敬の念もまた愛の一種だが、大きな違いがある。それは同じレベルではない、ということ。片方の人間が、もうひとりより高い、ということだ。 

高潔な人格と、愛のこもった親密さがあれば、マスターの周りには、自然に崇敬の念が生み出される。だが期待されて、そうなるのではない。求められたものでもない。 

ただ、弟子だけが存在する・・・というのも彼らは、自分が弟子であることを、意識しているからだ。彼らは、自らが弟子になることを選んだ。 

マスターは、選ばない。彼は行動の人だ。彼の行為は、彼の生と一致しているので、まさにその行為によって、彼は教える。彼の教えと彼の生は、ひとつの存在のふたつの側面だ。 

彼のまさに座っていること、立っていること、歩いていること、しゃべっていること、彼の沈黙・・・その全てで、彼は、何かを指し示している。まさに、マスターの現存を通して、何かが起こる。 

そして弟子は、いつでもそれを受け取る準備が、出来ていなくてはならない。弟子とは、開かれたマインドを持った人、受容的なマインドを持っている人、という意味だ。彼は、単に能動的に学んでいるだけでなく、受容的にも学んでいる。 

だから信頼とは、弟子になるのに必須の、根本的条件だ。知られざるものに直面する時はいつであれ、論理や道理にそった説明は、全く不可能だ。だが、知られざるものに直面する時はいつであれ、信頼だけが、私達を導くことが出来る。 

もし私が、既に知られているものについて何かを語ったら、あなたは私と議論出来る。あなたもまた、それを知っているからだ。私達は議論出来る、それについて、話すことが出来る・・・対話は可能だ。 

だがもし私が、あなたの全く知らない何かについてしゃべれば、その時、対話は成り立たず、議論はあり得ない。理性的なアプローチは、あり得ない。なぜなら理性というものは、既知の周囲でしか、機能することが出来ないからだ。 

知られざるものが入って来る瞬間、理性は役立たなくなる。無意味なものとなる。知られざるものに関しては、考えられないので、それを考えることは、馬鹿げたことになる。 

まるで、あなたが盲目なのに、私があなたに、光について話すようなものだ。あなたは私が話すことを、ただ信頼するしかない。それ以外に、方法はない。 

弟子とマスターとの関係性は、親密な信頼の関係だ。それは盲信ではない。というのも、マスターは、決して信仰されることを、期待しないからだ。彼は、そんな期待などしない。 

だが、まさに知られざるものの本性、そのものからして、信頼なくしては、あなたは、一歩も踏み出すことは出来ない。弟子の信頼が、要求される。なぜなら、マスターへの信頼がなかったら、弟子は、知られざるものへ向けての一歩は、踏み出せないだろうからだ。

知られざるものとは、暗黒だ。未踏の原野だ・・・至福ではなく、究極でもない。 それにマスターは、いつも言っている。 「そこに向かって、ジャンプしなさい! やるのだ!」 

だがあなたが、ジャンプ出来るようになるには、信頼が必要だ。信頼がなければ、ジャンプなどしないだろう。そして「知ること」は、ジャンプを通してのみ、やって来れる。 

科学では、実験の前に仮説が必要とされる。仮説とは、仮の確信だ。もし実験が仮説を証明すれば、真実となる。だが実験で証明出来なければ、偽りとなる。だが仮説なしで、仮の確信なしでは、どんな実験もあり得ない。 

そのことは、まさに宗教と同じだ。科学で仮説が必要なように、宗教では、信頼が必要とされる。だが科学的態度と、信頼の念に満ちた態度の間には、大きな隔たりがある。 

人は、科学的命題を仮定的に信じ、なおかつ、それを疑うことも出来る。尊敬の念は、必要とはされない。というのも、それは客観的現象と関わっているからだ。あなたはそれを実験し、どうなるのか知ることが出来る。 

だが宗教では、仮説にもとずく信頼では、不充分だ。なぜならあなたは、自分の外側にある、客観的問題と取り組んでいる訳ではないからだ。あなたは、自分自身と取り組んでいる。それは、主観的な現象だ。 

あなたは巻き込まれ、傾倒していなくてはならない。あなたは、外側から実験をしてはいけない。あなたが、実験なのだ。ジャンプし、その一部にならなくてはならない。偉大なる信頼が必要だ。 
だから、弟子とマスターとの関係性とは、ひとつの偉大な信頼であり、親密なる愛であり、崇敬の念だ。だが、これらが要求されている訳ではない。要求される瞬間、それは搾取となる。強いられる瞬間、それは暴力となる。 

というのも、それは誰にも、無理強いすべきではないからだ。それは、マスターの側からの強制ではない。それは弟子からの、マスターがワークすることを喜んで許す、という気持ちなのだ。 

だが概して、弟子は嫌々ながらであり、マスターと呼ばれる者達のしていることは、無理強いだ。そうであれば、あらゆることは無意味だ。 

マスターが、誰かに何かを無理強いしようとすれば、それは人を不具にし、殺してしまう。なぜなら、それは他の誰かの自我に対する、暴力的行為だからだ。 

だが弟子に、喜んでそうなる意思があれば、もし彼が、マスターへ完全な信頼を捧げるのであれば・・・もしそれが、押し付けられたものではなく、彼自身の自発的な明け渡しであれば・・・その時、偉大な変容が起こる。弟子は、まさに明け渡しによって、変容する。 

自分を他の誰かに、完全に、全面的に明け渡すこと・・・これは、まさに決定的な行為だ。それは単に、他の誰かへの信頼からではない。自分自身への、基本的信頼から来ている。 

あなたが自らの決断に、充分な自信を持っていなければ、自分を明け渡すことなど出来ない。なぜなら、それは、偉大な決断だからだ・・・全面的であり、無条件の決断だ。 

弟子が、自らを明け渡す時はいつであれ、常に意志を伴う。そして、意志から決断が生まれる。弟子は、明け渡しを通じて、結晶化した人格となる。というのも、その決断はあまりにも重大で、全面的、絶対的であり、無条件だからだ。 

あらゆる明け渡しは、無条件だ。マスターと共にあっては、どんな条件もあり得るはずがない。あなたは、「もし、あなたがこれをすれば、その時に、私は明け渡しましょう」とは言えない。そうであれば、それは明け渡しではない。 

全面的に明け渡す時、そこに「もし」は、存在しない。あなたは言う。「あなたの好きなようにして下さい。私は、あなたの手の内にあります。壁に向かってジャンプせよ、とおっしゃるのでしたら、私はそうします!」 

この、まさに全面的な明け渡しの決断こそが、変容であり、結晶化だ。そのような弟子の振る舞いは、常に、全面的な明け渡しのひとつだ。 

そこではマスターは、どんなことでも出来る。なぜなら、あなたの全面的なまでのマスターへの受容性を通して、彼と、交感出来るからだ。そしてまもなく、あなたは変わる。 

物事は繊細で、とても傷つきやすい。生きている実存を変えること、人格を変えることは、もっとも偉大で、もっとも困難な、もっとも繊細な事柄だ。それは、あまりに複雑で、多くの葛藤の中にあり、抑圧され、ゆがめられた多くのものを伴っている。 

それを変え、エクスタシーの中で開花させること、神への価値ある贈り物とすることは、もっとも偉大なアートであり、起こり得る可能な限りの、科学だ。 

だが、私が言っていることは、常に、弟子から生じて来たものであり、決してマスターからではない、ということを覚えておかなくてはならない。 

もし、マスターから来ているのであれば、その時は、クリシュナムルティは正しい。マスターであることは、最も微妙で破壊的な、搾取のひとつだ。 

だがクリシュナムルティは、実際のところ、正しい訳ではない。というのは、明け渡しが、マスターの側から要求されたことは、かつて一度もないからだ。 

明け渡しとは、弟子であることの、基本的な要件だ。マスター、あるいは信頼という関係性なしでは、精神的により高い段階へと進むことは、とても難しい。実際、それは不可能だ。

 

人が、マスターなしでも開花する可能性は、充分ある。だが、その人もまた、明け渡さなくてはならない。 

彼は、信頼していなくてはならない・・・もし、それが特定の個人でないなら、その時は、「全体」を信頼しなければならない。その時も、基本的要件は、満たされていなければならない。 

それらが、人との関わりの中で満たされるか、そうではないかということなどは、どちらでもいいことだ。 

「全体」を信頼するより、誰かを信頼することの方が、簡単だ。もしあなたが、人を信頼出来なければ、存在を信頼することなど、決して出来ない。人間関係の中で明け渡しが出来なかったら、人格を持たない神聖さに明け渡すことなど、決して出来ない。 

だからマスターとは、非人格性へ向けての踏み石であり、「全体」、あるいは存在そのものへの明け渡しを、手助けする手段なのだ。 

人間にとって、全ての関係性は、個人的なものだ。それは愛かもしれない。尊敬かもしれない。あるいは、他の何かかもしれない・・・いずれにしろ、個人的な事柄だ。 

真理、あるいは宇宙的存在の認識に向かう、最初の一歩もまた、必ず個人的なものであるはずだ。誰かが踏み台として、使われなくてはならない。それに、さらに別の事柄もまた、存在する・・・ 

スピリチュアリティ(精神霊性)に関する限り、言葉は、意義深いことを伝達するには、さほど役に立たない。まさに、その現象そのものが、途方もないほどなので、それは表現出来ない。 

もし楽器が奏でる音楽を、何か聴いたとしても、あなたには、その趣意を言葉を通して、誰かに伝えることは出来ない。せいぜいあなたには、何かの判断を下すような言葉しか、使えない・・・良いとか、良くないとかだ。 

だがそれでは、何かを伝えたことにはならない。あなたには、ただあなたの気分しか、伝えられない。だが、それらの言葉もまた、きわめて不充分なままだ。 

もし花を見たことがあれば、それは美しい、と言うことが出来る。だがそれでは、何も伝達されてはいない。あなたの言葉は、その瞬間の実際の認識を、何ひとつ伝えてはいない。 

なぜなら、それらの言葉は、その言葉を聞いた人にとって、どんなものにでも意味付け出来るからだ。これまで一度も、花の美しさに気づいたことのない人なら、あなたの言葉を聞いて何ひとつ理解しないまま、意味を受け取るだろう。なぜなら、美という言葉は、その人にとって、何の意味も持たないからだ。 

たとえ美という概念でさえ、それを完全に表現することは、難しい・・・私達に出来ることは、せいぜいそれを試みることだけだ。 

精神霊的な事柄は、あまりにも申し分なく、完全なまでに静かで、どこまでも果てしないので、言語は、それらを破壊してしまう。言葉は、とても狭い範囲に限定してしまうので、その本当の意味は、伝えられないままだ。 

だから私は、宗教は、人から教わることは出来ない、と言うのだ。 

どんなに難しくても、数学は教えて貰うことが出来る。なぜなら、記号を用いるからだ。記号は、伝達可能だ。物理学なら、教わることが出来る。なぜなら、言い表せないものなど、何ひとつないからだ。 

だが、人間のハートに近づけば近づくほど・・・たとえば詩の場合なら・・・ますます、あなたの使っている言葉では、うまく表現されていないと感じる。何か大切な事柄が、置き去りにされてしまう。 

容れ物は、そこにある。だが中身は、置き去りにされたままだ。言葉は届いた。だが、意味が失われてしまった。花は受け取られたのに、その香りは、まさに花を渡すことの中で、死に絶えてしまった。 

言葉は、宗教と科学の間の、中間地点だ。科学では、あらゆるものが伝達され得る。だが宗教においては、何ひとつ伝えることは出来ない。 

3つの道がある。ひとつは科学・・・それは理性を意味する。それは表現可能な事柄だ。次は、詩や芸術・・・それらは情緒を意味し、そこを超えたら表現不可能な、ある地点までは、表現出来る。 

そして宗教・・・精神霊性・・・それは、完全に表現不可能だ。それが、マスターと弟子との関係性が、教師と生徒のものとは異なる、と言う理由だ。宗教は、教わることが出来ない。 

それでは一体、どうやって伝えられるのだろうか? それには、別の方法がある。 

あなたが、誰かと愛の関係にある時、最初の頃、表情や動作は深い意味を持つ。ちょっとした顔の痛みは、すぐに分かってしまう。目の中にあるちょっとしたためらいは、感じ取られ、理解される。 

恋に落ちていない限り、そんな些細な事柄に注意を向けることは、決してない。単に、顔を見るだけだ。その複雑さを、顔の中に見ることは決してない。絶え間なく変化し続ける、そのパターンを見ることはない。 

あなたはその顔を、外側のものとして見ているだけで、決して中身を見ている訳ではない。だが誰かを愛したら、相手の顔はただの形ではなくなり、生きたパターンとなる。 

ちょっとした表情や、微妙な変化を見つけることが出来、分かるようになる。愛する人が何かを言う前でさえ、それが何か分かるだろう。愛する人が何かを感じたと分かる前でさえ、あなたには、それが見つけられる。 

それに尊敬の念は、愛よりも遥かに微妙だ。マスターの存在そのものが、何かの伝達(コミュニケーション)であり、マスターの現存そのものが、交感(コミュニオン)だ。 

彼が絶え間なく発している、あらゆるメッセージは、マスターに深く敬意を表するマインドによって、とらえられる。言葉として受け取られ、知られ、解読され、理解される。これらの身振り、これらの生きた表情や動作が、言語なのだ。 

マスターとの関係性が成熟する時、コミュニケーションは、より一層深くなる。弟子が、「弟子であること」の中で花開き、マスターの言葉や身振りの意味を完全に理解したら、彼は成熟した、ということだ。 

その時、身振りも、どんな言語的象徴も持たない、沈黙のコミュニケーションが可能となる。この以心伝心的なコミュニケーションは、神秘だ。それは、マスターと弟子との間の交感に関わる、もっとも神秘的な鍵だ。 

テレパシー伝達が可能となった時、弟子は、初めてマスターにより容認される。そうなると、そこには時間や空間という問題はなくなり、弟子がどこにいようが、コミュニケーションが可能となる。 
これら全ての事柄は、忍耐強く、待たなければならない。しっかりと落ち着いて、待つことだ。精神的に学び、体験することに関する限り、決して急いではならない。 

急いでみたところで、大して深く進めないし、急いでいては、静かになるなど、とても無理だ。弟子は、知りたいあまりに、焦ってはいけない。ふさわしい時がやって来るまで、待たなくてはならない・・・信頼して待ち、その日の為の準備をすべきだ。 

西洋では、弟子はマスターに仕えるべきだ、ということが、全く理解出来なかった。「なぜ彼は、奴隷のようでなければならないのか?」 

西洋人には、奉仕が交感のひとつである、ということが分からない。弟子がマスターの為に働く時、彼が待ち、仕える時、「分割」は落ちる・・・彼はマスターと、ひとつになる。 

マスターの体と弟子の体は、今や、ふたつの別々なものではない。彼は、マスターの痛みを、病を感じる。マスターの喜び、エクスタシーを感じる。やがて弟子はマスターの中に、完全に吸収されてしまう。 

この、マスターの肉体への吸収を通して、彼は、マスターとひとつになる。もし親密になれないなら、その肉体とひとつになれないのなら、霊的にひとつになることは出来ない。この肉体が、基本だ。 

弟子は、マスターに仕え続け、決して何かを訊いたりすることはない。これは奇跡だ! 彼は、「これを教えて下さい。あれを教えて下さい」とは言わない。というのも、そんなことを言うことでさえ、マスターへの不信になるからだ。 

正しい瞬間が来れば、彼は教えられるだろう。正しい時でないのなら、彼はただ待つだろう・・・現代においてでさえ、時によっては何年も・・・20年が過ぎても、彼はただ待ち続けているかもしれない。若者は、今や老人になっているかもしれない。それでも、彼は待っている! 

この、まさに待つこと・・・そしてこの忍耐こそが、マスターと弟子が、別々ではなくなる状況を生み出す・・・彼らは、ひとつになる。彼らがひとつとなる瞬間、表現され得ないものが、表現される。 

ヴィトゲンシュタインは、言い表せないものでも、見せることなら出来ると、どこかで言っている。言う為には、何の忍耐もいらないが、見せる為には、多くの忍耐が必要だ。 

もし私が、あなたに何かを言いたいのなら、今、この瞬間に話せる。あなたの忍耐や、あなたの準備などいらない。私はそれを話し、あなたはそれを聞く。 

だが私が、何かを見せようとすれば、あなたはそれを見る為に、いろいろと準備しなくてはならないだろう。あなたに見る許容力がない限り、私には、見せることは出来ない。 

マスターは、基本的には何ひとつ語らず、何かを示そうとする。もし弟子が醒めていれば、何の障害もなく、物事は明白となる。 物事は、常に明白だ。 

ただマインドが、混乱しているだけだ。混乱したマインドが、物事を混乱させているのだ。この世的な物事に関する限りは、マインドは、それらを過度にゆがめられない。というのも、それらはとても客観的な事柄なので、あなたのマインドには、依存していないからだ。 

だが精神霊性スピリチュアリティ)は、とても主観的なので、あなたのヴィジョンに、そのほとんどを依存している。混乱したマインドは誤解し、様々なものを、破壊することがある。 

破壊は、過去の蓄積された知識から生まれる。マインドは、あまりに多くの物事を知り、蓄積して来たので、あらゆるものを破壊する。古きものが、新しいものとあなたの間に、割り込んで来る。 

あなたが知るに至ったものは、解釈されるべきではない。新しいものは全て、新たなマインドで見るべきだ。古い知識を脇に置いて、すぐに直接、物事をのぞき込めれば、物事は、常に明白だ。 

存在は、とても無邪気で純粋で、はっきりしている。あらゆるものは、水晶のように澄み切っているので、人間のマインドが、こうも混乱するのは、まさに驚きだ。 

この混乱は、マインドの解釈を通じて起こる。知られざるものを理解する為に、知られている、あらゆるものを使うことから、生じるのだ。

 

何であれ、私達が新たに出会うものに、完全に醒めていたら、もし受容的で、その存在に醒めていられたら、その時は、気づきが直接ハートを貫く。 

私が語っていることは、不合理に思われるかもしれないが、これは真実だ。マインドは、決して理解しない。ハートだけが、それを理解する。 

理解の中心は、決してマインドではない。それは、常にハートだ。ハートは常に純粋で、新鮮で、穢れがない。決して、過去の重荷を負ってはいない。 

だがマインドは、決して処女ではあり得ない。新しくもない・・・それは常に古い。常に過ぎたこと、死んだ経験の積み重ねだ。だからマインドが働く時はいつであれ、あなたは誤解する。常にそうだ。 

だが、マインドが働いていない時、すなわち静かで、沈黙していて、完全にあなたが不在である時・・・その時にのみ、覚醒はそこにある・・・ギャップは作られ、ハートの扉が開かれる。 

ハートは、どんな解釈も交えずに理解する。ハートの理解は、直接的ですみやかだ。あなたは、ただ理解する・・・あなたは「知る」、「これが、そうなのだ」と。このマインドを脇に置くことが、私が、瞑想と呼ぶものだ。 

もしハートを通して、物事を眺められたら、ハートを通して、存在と触れ合えたら、その時あなたは、瞑想の中にいる。だが、常にマインドを通して生きるのなら、決して瞑想に至ることはない。 

ハートは、瞑想の為の機能であり、マインドは、瞑想に反して動く機能、と言える。このふたつの働きが、同時に起こることはない。 

もしマインドが機能していれば、ハートは機能出来ない。ハートは必要ないので、一時的に消え去ってしまう。眠りに入るのだ。 

マインドが働いていない時にのみ、ハートは表面に現れ、息をし、周囲を見渡す。ハートは、マインドが必要ない時にのみ、マインドが不要になった時にのみ、やって来る。 

そして、ハートが存在と触れ合う瞬間、あなたは歓喜、至福を感じる。あらゆるものが、神聖なものとなる。それは、これまでも神聖だった。だが、その時に初めて、あなたはそれを知る。 

ハートが、この世界と接触する時、世界は神聖なものとなる。マインドが、世界と接触する時、世界は物質的だ。マインドは、物質を超えたものなど思いもよらないし、ハートは、精神の下にあろうものなど知るはずもない。 

だから、ハート指向の人々は、世界は実在しない、幻影だ、と言って来た。それはマーヤ・・・ただのマジックショーだと。そう言うのには、理由がある。 

なぜならハートは、精神の下の層に降りて行くことは出来ないし、物質を知ることは、決して出来ないからだ。物質的世界は、つかみどころのない、非現実的で、夢のようなものになる・・・まるで、存在しないかのようだ。 

マインド指向は、精神的なものを否定して来た。彼らは、それを夢、虚構であり、そんなものはどこにもないと言う。彼らにとっては、物質だけが在る。精神的なものなど、何もないと。それは幻影であり、はかない馬鹿げたものだと。 

ニーチェは、どこかで言った。「イエスは天才だった、賢い人だったと言う人々がいるが、私は、彼は、白痴だったと申し上げたい!」 マインドを通して、存在を見ている人にとって、ハートが言うことは、何もかも白痴的に見える。 

東洋は、ハート指向だった。そして西洋は、マインド指向だった。西洋のマインドは、立派な大建造物を作り出したが、東洋のマインドには、出来なかった・・・無から、どうやって科学を生み出せるだろう? それは不可能だ。 

当然、東洋は、非科学的に生きて来た。だが西洋は、瞑想が何であるかを知ることは、出来なかった。せいぜい祈ることしか、出来なかった。 

だが祈ることは、要点ではない。マインドでのみ、祈ることも出来る。決まった文句を、習慣的に唱えることも出来るからだ。 

もしマインドがなかったら、祈る者は、沈黙するだろう。もはや、祈ることも出来ないだろう・・・そこには、ひと言の言葉さえないだろう。ハートと共にある時のみ、人は、本当に祈ることが出来る。 

西洋では、精神の科学を発展させられなかった。瞑想も、発達させられなかった。彼らは瞑想を、集中や沈思黙考と、等しく扱ったからだ。瞑想は、そのどちらでもないのだが・・・その為に、肝心な要点を逃してしまった。 

集中は、メンタルなプロセスだ。マインドが集中し、全ての考えの働きが一点に集まると、それは思考となる。それは、ハートの問題ではない。 

瞑想は、沈思黙考でも、集中でも、どちらでもない。それは心の働きでも、思考の働きでもない。瞑想とは、その中間の、ノーマインドの世界と接触することだ。 

マインドが消える瞬間、あなたと存在の間、あなたと神聖なるものとの間を、隔てる壁はない。なぜならハートは、いかなる境界を引くことも出来ないからだ。それは、限界を持たない。 

物事を限定することによって、マインドは、障壁を、境界を、未知の領域を作り上げてしまう。 

だがハートと共にあっては、存在には、どんな未開の領域もあり得ない。どこで終わることもなく、どこで始まることもない。あなたは、あらゆるところにいる。あなたは、「全体性」とひとつなのだ。 

ハートは、二元性を感じることは出来ない。二元性とは、メンタルな創造物だ。マインドが分割し、分析する。マインドは、分割なしには機能すら出来ない。 

だから科学は、分子を、原子や電子の分析をし続けている。存在を小さく、もっと小さくと、飽くなき分割をしている。分割すればするほど、マインドはより寛ぐ。というのは、そうすれば存在の概念がより明らかになるからだ。 

存在は扱うことが出来るし、簡単に認識され得るからだ。だが存在がより巨大であれば、より偉大で無限になれば、マインドは、より畏敬の念を感じる。マインドは、それを明確に出来ず、存在は、神秘なものとなる。 

神秘に取り組む科学的方法が、分析だ。それは物事を分析し、神秘なるものを解くことだ。もし全世界を分析出来るのなら、世界には、神秘は存在しなくなるだろう。 

だが神秘は、未解決のまま存在している。なぜなら、それを解くには、「統合」が必要だからだ。 

全ての定義を、落としなさい。全ての境界を、落としなさい。そうすれば、あらゆることは、神秘となる。その時あなたは、神秘の一部となる。そして、あらゆるものが、神秘となる。 

それが、唯一の回答だ。それが存在を知る為の、唯一の方法だ。科学的定義を落としなさい。そして定義のない、境界のない世界が、存在に向かって入って来るようにしなさい。

統合された全体、有機的統一、結晶化した一元性、この一元性こそ・・・神という言葉で、意味するものだ。 

瞑想は、神を知るに至る道だ。マインドは、物質を知るに至る道だ。マインドと瞑想は、ちょうど正反対だ。違う次元のものだ。それ両方共に、という訳にはいかない。 

あなたは、マインドには届くだろうが、その瞬間、ハートは動かなくなるだろう。ハートに届くことも出来るだろうが、その瞬間、マインドは動かなくなるだろう。両方とも使えるが、同時には無理だ。それらは反対に位置する、両極同士だ。 

瞑想なしでは、あらゆることは合理的で、それでいて不条理だ。なぜなら、それでは、あらゆることが無意味だからだ。瞑想と共にあっては、あらゆることは不合理だが、意味に満ちている。 

そして、生が意味に満ちている時、本物の生が存在する。生が意義深くない時、合理的に理解は出来ても、無意味であるなら、生は存在していない。それはまるで、可能な限りの「死」のようだ。 

これは、パラドックスだ。マインドなら合理的に理解は出来るが、意義は失われる。ハートであれば、マインドのようには理解出来ないが、意義は知られ、感じられ、分かる。 

マインドであれば、あらゆるものは分類され、手際よく処理出来るが、そうすることで、あなたは破壊され、最後には、どんな神秘もなくなってしまう。 

ひとたびマインドが、全てを理解したら、残るものといったら自殺くらいなものだろう。なぜなら、神秘なしには、誰ひとり生きることは出来ないからだ。生がより神秘的になれば、それを生きる価値は増す。 

宗教とは、神秘を知ることであり、それでいて、それを破壊しないことだ。宗教的な探究の仕方は、とても変わっている。論理的でも、合理的でもない。それは、全く新しいものだ。 

だが私達のマインドは、それと一緒では寛げない。なぜなら、私達があまりにも、理性に取り憑かれているからだ。マインドのこの非常に小さな部分、理性が、私達の全てになってしまった。 

生は、合理的なものではない。基本的に、不合理に出来ている。そして、生と存在の不合理性は、神秘だ。もしあらゆるものが、あなたにとって神秘になったら、あなたは今ここの場で、神聖なるものの中にいる。 

瞑想と共に、神秘はよみがえり、あなたは再び、神秘と接触する。瞑想は、ハートの為のもの。ハートには、理性やマインドとは全く違う、理解の方法がある。 

私は、あなた方全てに、ハートについて、もっと多くを知って欲しい。マスターと弟子との関係性とは、ハートの理解のことだ。 

東洋には、多くの秘密の鍵がある。だが、ひとつの鍵さえあれば、充分だ。なぜなら、ひとつの鍵で、何千という錠が開けられるからだ。 

マスターと弟子の関係性とは、そんな鍵のひとつだ。 

OSHO、「グレート・チャレンジ」第7章(市民出版社)より抜粋