OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

34.私のここでの働きは手術のそれだ

<OSHOの講話より> 

質問:もし神が彼女なら、なぜあなたは彼女のことを彼と呼び続けているのですか? 

神は、実際には彼でも彼女でもない。だから、もしあなたが神は彼だと言えば、私は神は彼女だと言う。もしあなたが神は彼女だと言えば、私は彼だと言う・・あなたを自分の思い込みから引き離す為に。 

ある時、こういうことがあった・・ 
仏陀がある村に入って行った。入ろうとするところで、村人が尋ねた。「神は存在しますか?」彼は言った。「いや、絶対に存在しない」午後になって、別の人が来て尋ねた。「神は存在しますか?」すると彼は言った。「そうだ、間違いなく存在する」夕方になると、3番目の人が来て尋ねた。「神は存在しますか?」 

仏陀は目を閉じ、完全に沈黙したままだった。その人も目を閉じていた。その沈黙の中で何かが起こった。数分後にその人は仏陀の足に触れ、頭を下げ、敬意を表して言った。「あなたは私の問いに答えてくれた最初の人です」 

さて、仏陀の従者、阿難は非常に不思議に思った。「朝には彼は否定した。午後には肯定し、夕方になると全く答えなかった。一体どういうことなのだろう?何が本当の真実なのだろう?」そこで、仏陀が眠りにつこうとしている時、阿難は言った。「まず、答えてください。さもなければ私は眠れません。私にももう少し慈悲をかけてくださってもいいでしょう。私は1日中あなたと共にいました。あの3人の人達は、他の答えを知りません。ですが、私は3つの答え全てを聞いてしまいました。私はどうなるのです?私は困っています」 

仏陀は言った。「私はお前に話していたのでは全くない!私はお前には答えなかった。最初に来た人は有神論者だった。2番目に来た人は無神論者だった。3番目に来た人は不可知論者だった。私の答えは、神とは何の関わりもない。私の答えは、質問者と何か関わりがある。私は質問者に答えていたのだ。神とは何の関わりもなかった」 

「私は、神を信じている者には否定した。彼に神の概念を落として貰いたかったからだ。自分の神の概念から、自由になって貰いたかった・・それは借物だ。彼は体験していなかった。もし体験していたら、私に尋ねたりはしなかっただろう。その必要はなかったはずだ」 

「神を信じていた人・・彼は自分の信仰を確認するものを、私から見出そうとしていた。私は、彼には肯定するつもりはなかった・・私は、誰の信仰にも承認を与えるつもりはない。私は否定しなければならなかった・・ただ彼の信仰を壊す為に。信仰は、全ての真理を知る邪魔になるからだ。有神論者であれ無神論者であれ、信仰は全て、ヒンドゥ教徒であれキリスト教徒であれ回教徒であれ、信仰は全て障害だ」 

「そして、私が沈黙したままだった人こそ、ふさわしい探究者だった。彼には信仰がなかった。何かを壊すこともなかったのはその為だ。私は、沈黙したままだった。それが彼への私のメッセージだった・・沈黙して知るがいい。尋ねてはいけない。尋ねる必要はない。質問に答えが来る訳ではない。それは問いではなく、探求だ。渇きだ。沈黙して知るがいい。私は彼にも答えていた。私の沈黙を通して、私は彼にメッセージを与え、彼はすぐにそれに従った・・彼も沈黙した。 

私は内に見入り、彼も内に見入った。そして何かが起こった。彼が、あれほど圧倒されていたのはその為だ。彼は、とても感謝を感じた。理由は単純だ。私が知的な答えを与えなかったからだ。彼は、知的な答えを求めて来ていたのではなかった。知的な答えは、非常に安く手に入る。彼は、何か実存的なものを必要としていた・・味を必要としていたのだ」 

これを覚えておきなさい・・神は、男でもなければ女でもない。男や女ではあり得ない。その両方か、さもなければどちらでもない。神は、全ての両極の究極の統合だ。男は一方の極、女はもう一方の極だ。神は極ではない。存在全体だ。両極を含むほど、神は広大だ。神の中で、極は全て補い合うものになる。だから、私の答えに執着してはいけない。それらは答えではない。私は、教師では全くない。私はここであなた方に、ある一定の教義、一定の信条を教えているのではない。 

私はあなたが、自分の知識の重荷を下ろすのを助けようとしているだけだ。あなたが、私と共に沈黙していられるように・・それに、私は急いでいる。すぐにも私は沈黙に入りたいからだ。だから、あなた方も急がなければならない。あまりぐずぐずしていてはいけない。先に延ばしてばかりいてはいけない。私は、永遠に二度と話さないからだ。私はすぐにも沈黙したい。そうなったら、あなた方は私と共に、沈黙して坐ることが出来る。 

あなた方は歌えばいい、音楽を奏でればいい、踊ればいい。が、私は、私とあなた方との間のあらゆる種類の、知的なコミュニケーションを終わりにしたい。私は、あなた方と実存的に関わりたい。私は、まさにその地盤を整えている・・雑草を抜いている。 

だから、それはことと次第による。あなたがどんな信仰を持っていようとも、私はそれを壊すつもりだ。私は全ての信仰に反対だ。私に反対しているキリスト教の聖職者達がいるのはその為だ。カトリックの法王が私に反対している。ヒンドゥ教のシャンカラチャリアが私に反対している。回教徒達が私に反対している。共産主義者でさえ私に反対している。理由は単純だ。私が、全ての信仰に反対しているからだ。共産主義者カトリック教徒か、ヒンドゥ教徒か仏教徒か、そんなことは関係ない・・信仰は信仰だ。 

私は、あなた方に無信仰の状態、知らない状態でいて欲しい。あなた方に、その知らないという状態から、その無垢からワークして欲しい。その無垢の中でしか知ることは出来ない。だから、もしあなたの中に共産主義の雑草があれば、私はそれを引き抜く。もしカトリックの道具の助けが必要であれば、私はカトリックの道具を使って共産主義の雑草を引き抜く。もしあなたがカトリックで、共産主義の道具が必要であれば、私は共産主義の道具を使ってカトリックの雑草を引き抜く。 

私のここでの働きは、手術のそれだ。私は、使われる器具にはあまり興味がない。手術がなされなければならないのだ。あなたから何かを引き抜かなければならない。あなたの土壌から全ての石を、全ての雑草を取り払って、綺麗にしなければならない。そうして初めて、あなたの本性がバラに成長し始める。 

だから、あなたは不思議な感じがするだろう。私の言葉が、何度となく矛盾していることに気づくだろう・・まさにその通りだ。それに、私は事実を隠したくない。それらは矛盾している。馬鹿げている!ある瞬間、私はあることを言い、次の瞬間にはそれを矛盾させるからだ。そして、私はまるで首尾一貫しない・・あるいは、私はひとつのことでのみ首尾一貫している。自分が首尾一貫しないこと、それが私の唯一の首尾一貫だ。 

私は首尾一貫して、首尾一貫していない。それが全てだ。私は常に矛盾している。それには単純な理由がある。あなた方は、様々なバックグラウンドからここに来ていて、私は、その全てのバックグラウンド、全ての条件づけを破壊しようとしているからだ。だから、それはあなた次第だ。 

神は、男でもなければ女でもない。実際のところ、神は人物では全くない。神は人物だという考えそのものが、人間中心的だ。神はいない。実際には、神々しさだけがある。人物としての神という概念を落としなさい。あなた方はみな、神はどこか空中の黄金の玉座についている、スーパーファザーだという子供じみた考えを持っている。全員のひもを手に・・あやつり人形師か何かで、統制し、管理しているスーパーボス、偉大なマネージャー、エンジニア、建築家だと。神のこの考えを、あなた方は持っている。 

神は人物では全くない。神は存在の究極のハーモニーだ。覚えておきなさい。そのハーモニー、調和、音楽、旋律、はるか遠くからのカッコウの呼び声を・・ そして、その中に神々しさがある。この鳥の呼び声・・その中に神々しさがある。あなた方全員が溺れている、ここのこの沈黙・・その中に神々しさがある。 

神々しさは、確かに存在する。私は、H・G・ウェルズに完全に同意する。彼は仏陀について、かつてないほどもっとも深遠な声明を出した。仏陀は、かつて地上を歩いた人物の中で、もっとも神のようでなく、それでいてもっとも神のような人物だ、と彼は言った。もっとも神のようでなく、それでいてもっとも神のような? 

その通りだ、それが存在のありようだ。それは神のない存在だ。が、途方もなく神のようだ。神々しさを覚えておかなければならない。神は忘れ去られねばならない。神を覚えていたら、あなたは教会や寺院やモスクに行って、何世紀にもわたってなされて来たあらゆる種類の愚かなことをやるだろう。神々しさを覚えていたら、カーバ神殿やカシ(ヴァラナシ)に行くことはない。それを生きるかどうかだ。 

そうなったら、神々しい生き方をするがいい。調和して生きるがいい。美しく生きるがいい。美的に生きるがいい。感受性豊かに生きるがいい。愛に溢れて生きるがいい。あなたの生を、途方もない恋愛にするがいい。 

そうすれば、祈りは必要ない。それを聞く者が誰もいないからだ。ことは祈りではなく、瞑想だ。神に求めてばかりいてはいけない。あなたは時間を無駄にしている。沈黙し、もっともっと沈黙し、その沈黙から生きるがいい。その沈黙から行動するがいい。深い敬意を持って、人々と、動物と、木と、岩と会うがいい。全てが神性だからだ。 

存在は、神以外の何ものでもない。存在は、神と同義だ。 

OSHO、The Dhammapada より抜粋