67.孤独、それは「独り在ること」の取り違え
<OSHOの講話より>
質問:先日のお話によると、私達は独りで生まれ、独りで生き、独りで死ぬということです。ところが、どうやら私達は生まれた時から、何をやっていても、自分がどんな人間であろうとも、他人と関係しようとしているようです。
さらに言うと、私達は普通、あるひとりの人間と親密になろうとする傾向があります。それについてどうお考えですか?
あなたの訊ねた質問は、全ての人に共通する質問でもある。私達は独りで生まれ、独りで生き、独りで死ぬ。「独り在ること」はまさに私達の本性だ。でも私達はそれに気づいていない。気づいていないからこそ、いつまでも自分自身と疎遠なのだ。
自分の「独り在ること」というのは、実に美しく、至福と、静寂と、平安に満ち、存在と共に寛いでいるものだ。なのに、それを追求する代わりに「孤独」と取り違えてしまう。
孤独とは「独り在ること」の取り違えだ。いったん自分の「独り在ること」を「孤独」と取り違えると、その文脈がすっかり変化する。
独り在ることには美があり、壮大さがあり、肯定性がある。孤独とは、貧しく、否定的で、暗く、陰気だ。人はみな孤独から逃げ去る。それは傷のようなものだ。痛い。
そこから逃れる唯一の道は、群衆の中に入ること、社会の一員になること、友達を持つこと、家庭をつくること、夫や妻を持つこと、子供を持つことだ。
この群衆の中で基本的な努力は、自分の孤独を忘れるということに向けられる。でも今まで誰ひとり、それを上手く忘れた人はいない。自分にとって自然なことは、無視しようとすることは出来るが、忘れることは出来ない。
それは何度も何度も自己を主張する。そして問題は一層複雑になる。なぜなら一度も、それをあるがままに見たことがないからだ。まるで当然のごとくに、自分は孤独に生まれついたと思っている。
辞書では意味は同じだ。それは辞書を作った人々のマインドを表している。孤独(ロンリネス)と独り在ること(アロンネス)の間の大変な違いを、彼らは理解していない。
孤独とはひとつのギャップだ。何かが欠けている。そこを何かで埋めないといけない。ところが何物でも埋めることが出来ない。なぜなら、まずそれは第一に誤解だからだ。年を取れば取るほど、そのギャップは大きくなる。
独りになることが怖いから、人々は馬鹿げたことをいろいろやる。たとえば独りでトランプをやる。相手はいない。トランプの遊びの中には、一人の人間が両側からプレー出来るようなものがある。
何とかして忙しくしていたい。その忙しさは人間相手であったり、仕事の為であったりする・・・仕事中毒の人間だ。そうした人間にとっては、週末がやって来るのが怖い。何をしたらいいのか、何もしなければ独りぼっちになる。それほど苦痛が伴うことはない。
知って驚くだろうが、世界中で事故が一番多いのが週末だ。人々は車に乗ってリゾート地へ、海辺へ、高原へと押しかける。数珠つなぎだ。着くまでに8時間も、10時間もかかったりする。そしてすることは何もない。みんな群れをなしてやって来ているからだ。
これでは自分の家、自分の近所、自分の街の方が、この海辺のリゾートよりも静かだ。みんなやって来ている。とにかく、何かやることが・・・
人々はトランプをしたり、チェスをしたり、何時間もテレビを見る。平均的アメリカ人は1日5時間テレビを見る。またラジオを聴いたりする・・・自分自身を避ける為に。
このようなことをするのも、ひとえに独りになりたくないからだ。それはとても恐ろしい。そしてこの観念は他人から来たものだ。独りが恐ろしいものだなんて、一体誰が言ったのか?
「独り在ること」を知った人間は、全く別なことを言う。独りで在ることほど美しく、安らかで、楽しいことはない。ところがあなたは群衆に従う。取り違えて暮らしている人はとても多い。
誰がツァラトゥストラやゴータマ・ブッダのことなどかまうだろう。こうした一個人は、多分間違っていて、多分幻想を抱いていて、多分自分や他人をだましているのだろうが、大多数の人々が間違っているはずはない。
そして大多数の人々によれば、独りぼっちになることは、人生で最悪の体験だ。地獄だ。
でも独りぼっちになることの地獄、その恐怖ゆえに創り出された人間関係は、決して満足をもたらすことはない。その根幹そのものが毒されている。
あなたは相手の女性を愛していない。孤独になりたくないから彼女を使っているのだ。彼女の方もあなたを愛していない。彼女もまた同じパラノイアの中にいる。独りぼっちになりたくないから、あなたを使っているのだ。
よくあることだが、愛の名においては、どんなことでも起こり得る・・・愛を除いては。争いも起こるだろうし、ケンカも起こる。それでも孤独であるよりはましだ。
少なくとも誰かがそこにいて、あなたは忙しい。だから自分の孤独を忘れられる。でも愛は不可能だ。なぜなら、愛の基礎となる土台がないからだ。愛は決して恐怖からは成長しない。
質問はこうだ。「先日のお話によると、私達は独りで生まれ、独りで生き、独りで死ぬということです。ところが、どうやら私達は生まれた時から、何をやっていても、自分がどんな人間であろうとも、他人と関係しようとしているようです」
このように他人と関係しようとするのは、逃避に他ならない。ほんの小さな赤ん坊でさえも、何かすることを探そうとする。何もなかったら自分の足の親指をしゃぶる。これは全く意味のない行動だ。そこからは何も生まれて来はしない。でもそれで忙しくはなる。何かをやっているのだ。
駅や飛行場でよく見かけるだろう・・・小さな男の子や女の子がテディ・ベアを抱いている。それがないと眠れない。暗くなると彼らの孤独は一層危険なものになる。テディ・ベアがあると安心だ。誰かが一緒にいてくれる。
そしてあなたの神は、大人の為のテディ・ベアに他ならない。あなたは自分のあるがままでは生きられない。
他人に対するあなたの関係性は、関係性ではない。それは醜い。あなたは相手を使っている。そして相手も自分を使っているということをよく承知している。人を使うというのは、その人を物に、商品におとしめることだ。その人に対する尊敬がない。
「さらに言うと」・・・質問は続く。「私達には普通、あるひとりの人間と親密になろうとする傾向があります」
そこには心理的な理由がある。あなたは母親や父親によって育てられた。もしあなたが男の子だったら、母親を愛し始め、父親に嫉妬し始める。なぜなら父親はライバルだからだ。
もしあなたが女の子だったら、父親を愛し始め、母親を憎むようになる。なぜなら母親はライバルだからだ。これは現在、定説になっている。仮説ではない。そしてその結果、あなたの一生は苦いものになる。
男の子は母親のイメージを女性のモデルとして抱き続ける。そしていつもそれによって条件づけされる。これほど近しく、親しく知っている女性は他にはいない。
その顔、その髪の毛、そのぬくもり・・・全てが刷り込まれる。これこそが科学用語として使われているものだ。彼の心理に刷り込まれる。そして同様のことが女の子の場合、父親について起こる。
あなたが成長し、どこかの女性なり男性なりと恋に落ちる。そして「多分、私達は互いの為に創られたんだ」とか思う。誰も他人の為に創られはしない。
しかし、なぜあなたは特定の人間に惹きつけられるのか?それは刷り込みのせいだ。彼氏はどこか父親に似ているに違いない。彼女はどこか母親に似ているに違いない。
もちろん、母親の正確な複製であるような女性はいない。そしてあなたは別に、母親を探しているのではない。妻を探しているのだ。しかし内面の刷り込みが、あなたにふさわしい女性を決める。
その女性を見た途端、理屈も何もなく、たちまち魅力を感じる。内側の刷り込みがたちまち働き始める・・・これこそ自分の女性だ、あるいはこれこそ自分の男性だ、と。
たまにビーチや映画館や庭園などで会うくらいならいいだろう。なぜなら、互いをとことんまで知るということはないからだ。ところがあなたは一緒に住みたがっている。結婚したいと思っている。
恋人達にとって、これほど危険な選択肢はない。結婚するやいなや、だんだん相手の全体像が分かって来る。そして何を見てもあなたは驚く。「何かおかしい、これはあの人じゃない」
相手は、あなたの抱いて来た理想像に合わない。そして相手の女性も、自分の父親という理想像を抱いているから、さらに問題は大きくなる。あなたはその理想に合わない。あなたは母親という理想像を抱き、相手はそれに合わない。
だからこそ結婚は全て失敗となるのだ。失敗とならない結婚は非常に稀だ。そうした結婚から神が守ってくれたら幸いだ。なぜならそれは心理的に病んでいるからだ。
人々の中にはサディストがいる。他人を痛めつけて喜ぶ。そして人々の中にはマゾヒストがいる。自分自身を痛めつけて喜ぶ。もし夫と妻がその範疇に属するならば、結婚は成功するだろう。
一方がマゾヒストで他方がサディストだったら、完璧な結婚だ。一方は痛めつけるのを喜び、他方は痛めつけられるのを喜ぶ。
でも普通はまず第一に、自分がマゾヒストかあるいはサディストか気づくのは非常に難しい。そして自分の対極に当たる人を見つける・・・もしあなたが賢かったら、心理学者のところへ行って自分が何なのか診てもらう。マゾヒストなのかサディストなのか、基準に照らしてもらう。
時に何かの偶然で、サディストとマゾヒストが結婚することもある。ふたりは世界で一番幸せな人間だ。互いの要求を満たしている。でも一体これは何という要求か?ふたりは共に精神病者であり、痛みの生を生きる。でもそれ以外、結婚は全て失敗する。
その理由は簡単だ。刷り込みこそが問題なのだ。結婚したところで、関係を持とうとした根本的な欲求は満たされない。独身だった時よりも、妻と一緒にいる時の方がもっと独りだ。夫婦をひとつの部屋に入れておいたら、ふたりとも不幸せになるばかりだ。
友人のひとりが引退しようとしていた。大実業家だったが、私のアドバイスで引退を考えた。私は言った。
「あなたは大変豊かで息子もいない。娘はふたりいるが、共に裕福な家に嫁いでいる。だからもう面倒なことに関わるのはお仕舞いにしたらいい・・・ビジネスとか所得税とか、あれやこれや全て辞めるんだ。あなたは充分に豊かだ。千年生きたって大丈夫だ」
彼は言った。「確かにその通りだ。でも本当の問題は、妻とふたりきりになってしまうことだ。いつ引退してもいいんだが、ただひとつ約束して欲しいんだ。私達と一緒に住んで貰えないだろうか?」
私は言った。「それは変だ。あなたが引退するのか?それとも私が引退するのか?」
彼は言った。「それが条件だ。大体私がこうした面倒全てに興味があると思うかい?全ては妻から逃げる為なんだ」
妻は大変な社会事業家だった。孤児院や寡婦の家や、特に治療費の払えない乞食達の為の病院を運営していた。私もある晩、彼女に訊ねてみた。「あなたはこうした全てを本当に楽しくてやっているのですか?朝から晩まで」
彼女は言った。「楽しくて?苦行みたいなものです。自分に課した苦しみです」
私は言った。「どうして自分で苦しみを課すのですか?」
彼女は言った。「避ける為ですよ、あなたのお友達を。ふたりきりになるというのは、人生で最悪の体験です」
そしてこれは見合い結婚ではなくて、恋愛結婚だ。ふたりが結婚した時、家族全体、社会全体が反対した。なぜなら宗教が違い、カーストが違ったからだ。
ところが内側の刷り込みによって、これこそふさわしい女性だ、ふさわしい男性だと感じた。そして、こうした全ては無意識的に起こる。だからこそ、なぜ自分が特定の女性なり男性と恋に落ちたのか、説明出来ないのだ。
それは意識的な決定ではない。無意識的な刷り込みによって決定されているのだ。
こうした努力の全て・・・関係性なり、様々なやり方で忙殺されようという努力は、自分が孤独だという観念から逃げ出そうとする為だ。
そして私は強調したいのだが、ここのところこそ、瞑想者と普通の人の分かれるところだ。普通の人はどこまでも自分の孤独を忘れようとするが、瞑想者は自分の独り在ることにもっともっと親しもうとする。
世界を離れ、洞窟や山や森に行こうとするが、それは独りになる為だ。自分が誰なのか知りたい。群衆の中ではそれは難しい。いろんな邪魔が入る。
そして自分の独り在ることを知った人は、人類に可能な最大の至福を知っている。なぜなら自分の存在そのものが至福だからだ。
自分の独り在ることに親しんだら、人と関係することが出来る。そうしたら、その関係性は大きな喜びをもたらしてくれる。なぜなら、それは恐怖からのものではないからだ。
独り在ることを見つけたら、創造することが出来る・・・好きなだけ物事に関わることが出来る。なぜならもはやそれは、自分自身から逃げ去ることではないからだ。今やそれはあなたの表現であり、あなたの潜在性全ての顕れだ。
そうした人間だけが・・・独りで生きようと社会に生きようと、結婚していようといまいと関係ない・・・常に至福に満ち、安らかで、静かだ。彼の生はダンスであり、歌であり、開花であり、芳香だ。何をしようとも、彼はそこに芳香を持ち込む。
しかしまず最初の基本は、自分の独り在ることをどこまでも知ることだ。
自分自身からの逃避は、群衆から学んで来たことだ。みんなが逃げるものだから、あなたも逃げ始める。子供はみな群衆の中に生まれ、人々を真似するようになる。
他人のやっていることをやるようになり、他人と同じような不幸な状況に陥る。そして、これこそが人生なのだと思うようになる。そして人生をすっかり逃してしまう。
だからよく言っておくが、独り在ることと孤独とを取り違えてはいけない。孤独はまさに病気だが、独り在ることは完璧な健康だ。
<中略>
私達はみんないつも同じような取り違えをしている。みんなによく知ってもらいたい・・・人生の意味を見つける最も基本的な第一歩は、自分の独り在ることの中に入ることだ。
それはあなたの寺院だ。あなたの神の住み家だ。その寺院は他のどこにも見つけられない。月や火星に行ったところで・・・
自分の存在の最も内奥の核に入ったら、自分の目が信じられないだろう・・・自分はこれほどの喜びを、これほどの祝福を、これほどの愛を携えていたのかと。そしてあなたは自分自身の宝から逃げ出そうとしていた。
こうした尽きせぬ宝を知ったら、人間関係へと、創造へと向かうことが出来る。自分の愛を分かつことによって、あなたは人々を助けることだろう。
もはや人を使うことがない。自分の愛によって、あなたは人々に尊厳を与えることだろう。もはや人の貴さを損なうことがない。
そしてあなたは努力することなく、ひとつの源泉となり、他人がまた自分の宝を見つける助けとなるだろう。
何を創ろうとも、何をしようとも、およそあらゆるものの中に、あなたは自分の静寂を、平安を、祝福を拡げることだろう。
しかしこの基本的なものは、家庭とか社会とか大学などによって教えられるものではない。
人々はいつまでも不幸の中に生きている。そしてそれが当然のように思われている。誰もが不幸だ。だからあなたが不幸であっても、どうということはない。あなたが例外だということはあり得ない。
しかし、私はあなたに言おう。あなたは例外になれる。単に正しい努力をしていないというだけだ。
OSHO:The Golden Future #6
(OSHOタイムス日本語版、87号。1996年9月1日発行より)