OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

68.結婚について(カリール・ジブラン「預言者」より)

<OSHOの講話より>  (カリール・ジブランの『預言者』を題材に) 
  
『そこでアルミトラは再び口を開いて言った。「では結婚はどうなのですか、マスター?」 
すると彼は答えた。「あなた方は一緒に生まれ、そして、永遠に一緒にいることになるだろう。死の白い翼が、あなた方の日々を散り散りにしてしまう時も、あなた方は一緒だ。そうだ、あなた方は神の沈黙した記憶の中ですら、一緒なのだ。だが、あなた方が一緒にいることの中に、空間をあらしめなさい。そして、あなた方の間で天の風を躍らせるがいい。 

愛し合いなさい。だが、愛の足枷を設けてはいけない。そうではなく、それをあなた方の魂の岸辺と岸辺の間で揺れ動く、海にするがいい。互いの杯を満たすがいい。が、ひとつの杯から飲んではいけない。自分のパンを与え合うがいい。だが、同じかたまりから食べてはいけない。一緒に歌い、踊り、楽しむがいい。だが、相手を独りにさせなさい。同じ音楽に合わせて震えてはいても、リュートの弦は独り立ちしているように・・ 

自分のハートを与えるがいい。が、それを互いに仕舞い込んではいけない。あなた方のハートを容れることが出来るのは、生の手だけだからだ。そして、一緒に立つがいい。が、それでも近くに居過ぎてはいけない。なぜなら、寺院の柱は離れて立ち、樫の樹と糸杉の樹が、互いの木陰で育つことはないからだ」』 


アルムスタファは愛について語って来た。次によく考えるべきことは、言うまでもなく結婚だ・・だが、あなた方の知っている結婚ではない。全世界が従って来た結婚ではない。というのも、それは愛から出たものではないからだ。愛に根を下ろしてはいない。実際には、それは逆にずるい社会、聖職者と政治家達の、愛を避けて通る為の装置だ。 

だからこそ昔は・・古い東洋の国々では今でも・・幼児婚が存在して来た。子供達は生のことなど何も知らない。結婚のことなど何も知らない。彼らのその無垢の中に、全ての文化や文明が、彼らを搾取する絶好の機会を見い出して来たのだ。自分達のハートに愛が湧き起こる前に、彼らはすでに束縛されている。現存する結婚は、愛から出たものではないというだけでなく、愛に反してすらいる。それはあまりにも破壊的だから、人間のスピリット、人間の喜び、人間の遊び心、人間のユーモアのセンスにとって、それ以上に破壊的なものは他に見つけることも出来ないほどだ。 

幼児婚では、結婚することになる子供達に尋ねることすらしない。占星術師に意見を求め、手相を見る人に意見を求め、易で占い、タロットカードで占う。決定する要因は、結婚する子供達の生にあるのではなく、決定する要因は双方の親にある。愛は全く顧みられない。彼らには彼らの考えがある・・家族、家族の名声、その社会的地位、女の子の親から男の子の親に払われる結納金。結婚することになる人達、この先長い生を生きることになる人達が完全に締め出されているというのは、奇妙だ。それは商売なのだ。他のあらゆることが考慮される。だから何千年もの間、結婚は権力欲に取りつかれた人達が発明した、最も醜悪な物事のひとつであり続けて来た。 

アルムスタファは、あなた方が知っている結婚のことを話しているのではない。彼は恋愛結婚のことすら話していない・・それは先進国で最近発展して来たものだ。幼児婚はなくなり、人々は恋に落ちた時に結婚している。だが、彼らは愛を知らない。愛の神秘は、彼らにとっては全くの未知だ。事実、彼らは何か他のことを愛と呼んでいる。彼らは性欲を愛と呼んでいる・・あなた方のいわゆる恋愛結婚とは、盲目な性欲以外の何ものでもない。 

愛は決して盲目ではない。混同がそこあり、あなた方がハッキリと区別しないから、人々は「盲目の愛」について話し始めるようになったのだ。愛は、あなた方に最も明晰なヴィジョンを、新鮮な目を与えてくれる。性欲は生理的なもので、あなたのスピリチュアリティとはどんな関係もないのだから。それは確かに盲目だ。 

『そこでアルミトラは再び口を開いて言った。では、結婚はどうなのですか、マスター?』 
初めて彼女は、アルムスタファにマスターと呼びかけている・・というのも、別れの時が迫っているからだ。そして彼が愛について語ったことは全て、マスターにしか言えないことだ・・知っている者、自分自身の体験から知っている者にしか。 

『すると、彼は答えた。あなた方は一緒に生まれ・・』 
この声明を誤解してはいけない。全ての人が、どこかにいるそうなる筈の妻と共に生まれている、と彼は言っているのではない。彼は全く違う何かを言っている。彼が言っているのは、あなた方は一緒に生まれたということだ。あなた方は新しくなり、新鮮になり、若くなり、かつてないひとつの歌になり、ダンスになったから、愛の中で一緒に生まれているのだ。 

『・・そして、永遠に一緒にいることになるだろう』 
もしあなた方が、愛から生まれていたら、もしあなた方が一緒にいることが性欲から出たものでなかったら、あなた方の愛は日を追って深まっていく。性欲はあらゆるものを減らしていく。生理は、あなた方が一緒に居続けるかどうかには関心がないからだ。その関心は繁殖にある。その為には、愛は必要ない。愛などなくても、子供達を産み続けることは出来るのだ。 

私はあらゆる種類の動物を観察して来ている。私は森で、山で暮らしたことがあり、いつも不思議に思った。彼らは愛を交わしている時はいつも、とても悲しそうに見えるのだ。楽しそうに愛を交わしている動物は一度も見たことがない。まるで何か未知の力が、彼らにそうするように強いているかのようだ。彼ら自身が選んでそうしているのではない。それは彼らの自由ではなく、彼らの束縛だ。それが彼らを悲しませる。 

同じことを、私は人間の中にも観察して来た。道で夫婦を見かけたことがあるかね?ふたりが夫婦かどうかは知らなくても、ふたり共悲しそうであれば、そうなのだと確信出来る。 
私はデリーからスリナガルへ向かう旅の途中だった。私のエアコンディション付きのコンパートメントには座席がふたつしかなく、そのひとつは私が予約していた。あるカップルがやって来た。美しい女性と、若くて美しい男性。その小さな車室にふたりは入れないから、彼はその女性を残して別のコンパートメントに行った。だが駅ごとに、彼はお菓子を、果物を、花を抱えてやって来た。 

私は全光景を見守っていた。私はただの見張りだ。私はその女性に尋ねた。「結婚してどれくらいになるのかね?」彼女は言った。「7年かしら」私は言った。「嘘をついては駄目だよ。私でなければ誰だって騙せるけど、私を騙すことは出来ないよ。あなた達は結婚なんかしていない」彼女はショックを受けた。見知らぬ人、話したこともない・・ただ見ていただけの人から。 
彼女は言った。「どうして分かったの?」私は言った。「どうってことはない。単純なことだ。もし彼があなたの夫だとして、いったん消えてしまったその彼が、あなたが降りる駅で戻って来るようなことがあったら、あなたは運がいいんだよ」彼女は言った。「あなたは私を知らないし、私もあなたを知らないけど、あなたの言っていることは正しいわ。彼は私の恋人なの。夫の友達なのよ」私は言った。「それなら、全てオーケーだ」 

夫婦の間で、何が上手くいかなくなるのだろう?恋愛結婚の後ですら?それは愛ではない。が、誰もが愛とは何かを自分は知っているかのように、それを受け入れてしまっている。それは純粋な性欲なのだ。すぐに、あなた方は互いに飽きてしまう。繁殖の為に、生理があなた方にトリックを仕掛けたのであって、すぐに新しいことは何ひとつなくなってしまう・・同じ顔、同じ地形、同じ地勢。一体何度、あなた方はそれを探検したことだろう?結婚ゆえに、全世界が悲しみに満ちている。それなのに、世界は依然としてその原因に気づいていない。 

愛は最も神秘的な現象のひとつだ。その愛について、アルムスタファは語っている。 
あなた方は、あなた方の中で愛が湧き起こった瞬間に、一緒に生まれたのだ。それが、あなた方の本当の誕生だったのだ。そして、あなた方は永遠に一緒にいることになるだろう。なぜなら、それは性欲ではないからだ。あなた方は退屈することなどあり得ない。なぜなら、それは性欲ではないからだ。 

いったんあなた方が子供達を繁殖させたら、生理はあなた方から離れ、見知らぬ人と暮らしていることが不思議に思えて来る。その女性をあなたは知らない、その男性をあなたは知らない。あなた方がやっていたことは、互いに喧嘩し、うるさく言い合い、悩ませて来たことだけだった。それは愛ではない。愛は瞑想の開花だ。瞑想は多くの宝をもたらす。おそらく愛は、瞑想という茂みに育つ最大の薔薇の花だろう。 

『死の白い翼が、あなた方の日々を散り散りにしてしまう時も、あなた方は一緒だ。そうだ、あなた方は神の沈黙した記憶の中ですら、一緒なのだ。だが、空間をあらしめなさい・・』 この声明を覚えておくがいい・・『・・あなた方が一緒にいることの中に、空間をあらしめなさい』 

一緒にいるがいい。が、支配しようとしてはいけない。自分のものにしようとしてはいけないし、相手の個人であること(インディヴィジュアリティ)を壊してはいけない。だが、どこでもそれがなされている。なぜ女性が、男性の名前を名乗らなければならないのかね?彼女には自分の名前がある。自分自身のインディヴィジュアリティを持っている。ちょっと考えてごらん・・女性の名前を名乗る男性・・そんなことをする用意のある男性はひとりもいないだろう。だが女性は傷つきやすくデリケートで、謙虚だから、あなたはその女性を壊してしまったのだ。 

なぜ女性が男性の家に行かなければならないのかね?なぜ男性が女性の家に行ってはいけないのかね?時々、男性の方が行くこともある。結婚した女性、その彼女の家で暮らすという条件の下に、彼は結婚したからだ。その女性の父親には財産、持っているものの面倒を見る息子がいないからだ。だが、よく見たことがあるかね?男性が妻の家で暮らすようになると、必ず誰からも非難される。彼は笑いものにされる。まるで男らしさを失くしてしまったかのように・・だが、その女性を笑いものにする人は誰もいない。 

実際には、男性の方が女性の家に行く能力にたけている。女性の方が傷つきやすい。自分が育った庭から彼女を連れ去り、根こそぎにしてしまうことは、破壊の始まりだ。彼女は男性の家では決して個人にはなり得ない。彼女はただの奴隷になってしまう。誰からも根こそぎにされ、繋がりを断たれる。彼女は召使いにすぎない。それこそ、女性が世界中で受けている扱いだ。 

私独自の提案は、男性と女性が一緒に暮らすことに決めたら、彼ら自身の家を持つべきだということだ。誰も誰かの家になど行くべきではない。というのも、誰か他の人の家に行くと、誰でも必ず奴隷になってしまうからだ。そして、奴隷は楽しむことなど出来ない。彼らは自分の統合性を、自分のインディヴィジュアリティを失っている。彼らは自分を売ったのだ。

 

だが、一緒に暮らす時は、そこに空間をあらしめなさい・・ 
夫が遅く家に帰って来る。どこに行っていたのか、なぜ遅くなったのか、妻が問いただす必要はない。その必要性はない。彼には彼独自の空間がある。彼は自由な個人だ。ふたりの自由な個人が一緒に暮らし、互いに相手の空間を侵すようなことはしない。妻が遅くなっても「どこに行っていたんだ?」と尋ねる必要はない。一体あなたは何者なのかね?彼女には彼女独自の空間が、彼女自身の自由がある。 

だがそれが毎日、あらゆる家庭で起こっている。小さなことで彼らは喧嘩しているが、その奥深くにある問題は、相手が独自の空間を持つことを許すだけの用意が彼らにはない、ということだ。好みが違う。あなたの夫はあるものが好きだが、あなたはそれが嫌いかもしれない。それは、夫婦なのだから好みも同じでなければいけないという、喧嘩の始まりということではないのだ。そして、こうした全ての問題・・どの夫も、こう思い続けながら家に帰って行く。「彼女、何て聞いてくるだろう?どう答えたらいいかな?」が、女性は自分が何を尋ねるか、そして彼が何と答えるか知っているのだ。だがこうした答えは全て嘘、でっち上げだ。彼は彼女を騙している。 

いつも疑い、いつも嫉妬を怖れているこれは、一体どういう愛なのかね?もしあなたが他の女性とただ笑って話しているのを妻が目にしたら、もうそれだけで一夜が台無しになるのに充分だ。あなたは復讐することになるだろう。ちょっと笑っただけでこれでは、あんまりだ。もし妻が別の男性と一緒にいて、いつもより楽しそうで、幸せそうなのを夫が目にしたら、それだけで騒ぎが持ち上がるには充分だ。 

人々は気づいていないから、愛とは何かを知らない。愛は決して疑わない。愛は決して嫉妬しない。愛は決して互いの自由に干渉し合わない。愛は決して相手に押しつけない。愛は自由を与え、その自由は、あなた方が一緒にいることの中に空間があって初めて可能だ。 

これがカリール・ジブランの美しさ・・途方もない洞察だ。愛は、自分の女性が他の人と一緒にいて幸せなのを見て、嬉しくならなければならない。というのも、愛は自分の女性に幸せになって欲しいからだ。愛は、夫に楽しくいて欲しい。もし彼が女性と話していて楽しいのであれば、妻は幸せであるべきだ。喧嘩など問題外だ。自分達の生を幸せなものにする為に一緒にいるのだ。だが、まさにそれとは逆のことが起こり続けている。まるで夫婦は互いの生を惨めにし、駄目にする為に一緒にいるかのように思える。その理由は、彼らが愛の意味すらも理解していないということにある。 

『だが、あなた方が一緒にいることの中に、空間をあらしめなさい・・』 
それは矛盾してはいない。互いに空間をより多く与え合ったら、あなた方はさらに一緒にいることになる。互いにより多くの自由を許し合ったら、あなた方はさらに親しくなる。親しい敵ではなく、親しい友人だ。 

『そして、あなた方の間で、天の風を躍らせるがいい』 
あまりにも一緒に居過ぎると、自由の為の空間が残っていないと、愛の花を壊してしまうというのは、存在の基本的な法だ。あなた方はそれを潰してしまったのだ。それが育つ為の空間を許さなかったのだ。 

つい最近科学者達が、動物には縄張り本能があることを発見した。あなた方も、犬がこっちの柱やあっちの柱に小便をかけているのを見たことがある筈だ・・あれは無駄なことだと思うかね?そうではない。彼らは境界線を引いている・・「ここは俺の縄張りだ」と。彼らの小便の臭いが、別の犬が入って来るのを防ぐ。別の犬が境界線のすぐ近くまで来ても、そこを縄張りとする犬は気にも留めない。だがもう一歩踏み込むとケンカが始まる。野性の動物達はみな同じことをする。ライオンですらあなたが彼の境界線を越えない限り、攻撃しては来ない・・あなたは礼儀正しい紳士だ。だが、もしあなたが彼の境界線を越えたら、あなたがたとえ誰であろうと、彼はあなたを殺すことになる。 

私達はそれでも、人間の縄張り本能を発見しなければならない。あなた方はそれを感じたことがある筈だ。だが科学的にはまだ確立されていない。ローカル列車でボンベイのような都会に入ると、列車は非常に混み合っている・・人々はみな立っていて、座席に座っているのはごくわずかだ。だが、立っている人達をよく見てごらん・・これ以上ないほどすぐ側にいるのに、あらゆる手を尽くして互いに触れ合わないようにしている。 

世界がますます混み合って来るにつれて、より多くの人々が正気を失い、自殺し、人を殺すようになっている。理由は単純だ。自分達の空間がないからだ。少なくとも恋人達は、自分にも独自の空間が必要なように、妻にも独自の空間が必要だという感受性を持っているべきだ。私が最も愛している本の1冊に、ラビンドラナート・タゴールのアカリ・カヴィタ『最後の詩』がある。それは詩の本ではなく小説・・だが非常に不思議な小説で、とても洞察力に富んでいる。 

若い女性と男性が恋に落ち、たまたま結婚したくなる。その女性はこう言う。「ひとつだけ条件があるの・・」彼女は非常に教養があり、とても洗練されていて、大変な金持ちだ。男は言った。「どんな条件でも受け容れるよ。とにかく君なしでは生きていけない」彼女は言った。「まず条件を聞いてね。それからよく考えてちょうだい。普通の条件ではないのよ。私達は同じ家には住まない、それが条件なの。私は広い土地を持っているわ。美しい木々、ガーデン、芝生に囲まれた素晴らしい湖。私、その湖畔の一方の側にあなたの家を建ててあげるわ。私は、ちょうどその反対側に住むのよ」 

彼は言った。「それじゃあ、結婚することにどんな意味があるのさ?」彼女は言った。「結婚で互いに相手を駄目にしてしまってはいけないわ。私は、あなたにあなたの空間をあげるし、私にも私自身の空間があるのよ。時々ガーデンを歩いていて、会うかもしれないでしょう。時には、湖にボートを出して会うかもしれないわ・・偶然にね。それとも時には私があなたをお茶に呼んでもいいし、あなたが呼んでくれてもいいのよ」男は言った。「そんな考え方、ただただ馬鹿げているよ」 

女は言った。「じゃあ、結婚のことは全て忘れましょう。正しい考え方はこれしかないの・・そうして初めて、私達の愛は育っていくのよ。私達はいつも新鮮で、新しくいられるのですもの。相手のことを当然だと思うことなんて、決してないでしょう。あなたには私の招きを断る権利が全てあるように、私にもあなたの招きを断る権利が全てあるのよ。私達の自由は侵されようがないでしょう。このふたつの自由の間で、愛の美しい現象が育つのよ」 

もちろん男には理解出来なかったので、想いを諦めた。だがラビンドラナートにはカリール・ジブランと同じ洞察がある・・しかも彼らは、ほぼ同じ時期に書いていたのだ。もしこれが可能であれば・・空間と、一緒にいること、その両方があれば・・そうであれば、あなた方の間で天の風が踊る。 

『愛し合いなさい。だが、愛の足枷を設けてはいけない』 
それは、与えようと受け取ろうと、見返りを求めない贈り物であるべきだ。だが、そこに要求があってはならない。さもなければあなた方はたちまち、一緒にいても遥か彼方の星ほどにも離れていることになる。理解が、あなた方に橋を架けることはない。あなた方はその橋の為の空間すら残さなかったのだ。 

『そうではなく、それをあなた方の魂の岸辺と岸辺の間で揺れ動く、海にするがいい』 
それを何か動きのないものにしてはいけない。決まりきったことにしてはいけない。そうではなく、あなた方の魂の岸辺の間で揺れ動く海にするがいい。もし自由と愛が共にあなたのものとなり得たら、それ以上は何も必要ない。あなたはそれを得ている・・その為にこそ、生があなたに与えられている。 

『互いの杯を満たすがいい、が、ひとつの杯から飲んではいけない』 
彼は、この明らかに矛盾するものごと・・空間と、一緒にいること・・がどう可能なのかを、あなたに理解させようとしているだけだ。互いの杯を満たすがいい、が、ひとつの杯から飲んではいけない、と。この区別は非常に微妙だが、とても美しい。 

『互いの杯を満たすがいい、が、ひとつの杯から飲んではいけない。互いに自分のパンを与え合うがいい。だが、同じ塊から食べてはいけない。一緒に歌い、踊り、楽しむがいい。だが、相手を独りにさせなさい』 
どんな意味でも、相手を貶(おとし)めてはいけない。 

『同じ音楽に合わせて震えてはいても、リュートの弦は独り立ちしているように・・』 
リュートの弦は独り立ちしている。だが、彼らは同じ音楽に合わせて震える。その離れていること、空間は、それぞれの弦のインディヴィジュアリティの中にある。そして出会いと溶け合いと合流は、その音楽の中にある。その音楽が愛だ。 

『自分のハートを与えるがいい、が、互いにそれを仕舞い込んではいけない』 
与えることは素晴らしい。愛は無条件に与えるが、互いに仕舞い込む為に、自らのハートを与えることはしない。 

『あなた方のハートを容れることが出来るのは、生の手だけだからだ。そして、一緒に立つがいい、が、それでも近くに居過ぎてはいけない・・』 
人は、とてもとても油断せずにいなければならない。一緒に立っても、相手を壊してはいけない。一緒に居過ぎてはいけない・・空間を残しておくがいい。 

『・・なぜなら、寺院の柱は離れて立ち』 
ちょっと柱を見てごらん。彼らは離れて立っているが、それでも同じ屋根を支えている。そこには空間、インディヴィジュアリティがあり、それでもなお、同じ屋根を支えているのだから、合流と出会いがある。 

『樫の樹と糸杉の樹が、互いの木陰で育つことはないからだ』 
このくらいの空間は必要だ・・相手があなたの陰に入らないくらいの。さもなければ、あなた方は育たない。なぜ恋している人達は、絶えず怒り、悲しそうにしているのだろう?それは、彼ら自身の成長が起こっていないからだ。ふたりの内のひとりが空全体を覆ってしまい、太陽、風、雨が相手に届く為の、ほんのちょっとした空間すら残されていない。

それは愛ではない。それは所有欲、自分の物にしたいという欲だ。愛は、あなた方に同じ割合で、同じ高さで育って欲しいのだ。あなた方が太陽の中、風の中、雨の中で一緒に踊れるように。あなた方が一緒にいることは、ひとつのアートでなければならない。 
愛は、存在における最大のアートだ。 

OSHO,The Messiah,Vol.1#8 より抜粋