113.愛する準備が出来ていますか?
<OSHOの講話より>
質問:私は親密な関係性を望んでいるのですが、関わるのが簡単ではありません。多分、私にとってあまり正しくないだろうと感じて、ためらってしまいます。私は誰かと本当に深く関わりたいのですが、それが出来ないのです。
正しさそのものを待っていてはいけない。さもないとそれは決してやって来ない。また深い関係を待っていてはいけない。さもないとそれは決して起こらない。それはあたかも人が川の一番深いところに行きたいと思うようなものだ。まずは浅瀬から行くこと。浅瀬に入ることだ。いきなり一番深いところに飛び込むことは出来ない。そこは遠く離れている。
だから、そこにあるものは何であれ逃してはいけない!何度も逃していたら一番深いところも、一番深い可能性をも逃してしまうだろう。ひとつひとつの関係性がより高い関係性へのステップなのだ。そのより高い関係性は同じ人と起こるかもしれないし、別の人と起こるかもしれない。この関係が、そこへ行く助けになるだろう。
個々の恋人に関わるのではなく、愛そのものに関わりなさい。もしあなたが愛よりも人に関わるようになると、あなたは道を見逃し、愛を殺してしまうだろう。それは常にパートナーを変えなければいけないという意味ではなく・・・ただ一緒にいる人に執着してしまわないようにということだ。
愛は、ただ1人の人といても深くまで成長出来るが、それにはいろいろなことが関わってくる。例えば、ある相手とはある程度の深みまでしか行けないかもしれない。その深みまでなら、その相手と共に愛の中を流れていくのは易しいだろう。その向こうへは、その相手と一緒に行くことは出来ない。そうしたらあなたは先へ進まなければならない・・・相手への深い感謝と共に。なぜなら相手はその位であれ助けてくれたからだ。
どの愛も助けになる・・・小さな愛、大きな愛、全てが助けになる・・・生はたくさんの事から成り立っている。あなたが本当に深く恋に落ちる日、過去の全ての愛がその中に内包されるだろう。たとえ小さな事でも。
あなたは道を通り過ぎようとして、そこに小さな男の子が立っているのを見かける。彼は微笑み、あなたも微笑んだ。そしてあなたは通り過ぎ、他には何も起こらなかった。あなたが深く恋に落ちる時、それもまたそこにあるだろう・・・その微笑みがそこにあるだろう。なぜならそれはあなたの一部だからだ。
正しさそのものを待っていてはいけない。そうでないと、それは決してやって来ない。やって来るどんな機会もつかみ、利用しなさい。多分、相手は成長出来るだろう。相手がより深く入っていくのを、あなたの愛が助けるだろう。相手と一緒に、あなたもまたとても遠くまで行けるだろう。出来る限り遠くへ行きなさい。そして相手は重要ではない。関係性が行き詰り、新鮮でなくなってしまったと分かったら先に進めばいい。それは結びつきではなかったのだ。
究極の結びつきは、愛に向けられる。そして全てのことを愛への踏み台として使うのだ。あまり正しくあるまいとか、それほど深く行くまいとかいった考え方は危険だ。あなたの中で解き放たれたエネルギーは、使われなければ滞(とどこお)るだろう。それは遅かれ早かれ消え去るだろう。使われないエネルギーは消滅する。使われるエネルギーは成長する。それはどんどん大きくなる。
OSHO:This Is It より
質問:私は自分の全人生を、私を本当に愛してくれて、私から本当に愛されることを受け入れてくれる誰かに出会う為に費やしました。全ての私の試みは痛々しい失敗で、私は全く絶望し拒否されたように感じます。私のどこが悪いのですか?どうしたら私は、私の中の愛を感じられるのでしょう?どうしたら、私は私自身に出会い、愛することが出来るのでしょう?
まず第1に、人は自分自身を受け入れることを学ばなければいけない。そして他人に完全を求めてはいけない。人間でありなさい!非人間的な完全を求めるのは止めなさい。あなたは愛について、とてもロマンティックな考えを与えられた。そしてそれは大きな不幸だった。
あなたはロマンティックな、私的な考えを捜して来た。人々は、夢見る人達や詩人の考えたものではない。人々は本当の人々だ。そしてあなたは詩の中で生きている!あなたは他人のことを、誰も満たせないといった風に考えている。全ての人が及ばない。
ちょっと考えてみなさい。あなたは誰か、あなたの愛を受け入れてくれる人を求める・・・しかしあなたは、誰かの愛を受け入れたかね?いいや、あなたは完全な恋人を捜していた。しかしあなたが完全な恋人を捜している時、相手も完全な恋人を捜していることを覚えておきなさい。
あなた方は同じ社会の、同じロマンティックな考えによる条件付けを受けている。あなたは現実とは何の関係もない、馬鹿げた詩を与えられて来た。実際、私自身の経験からすると、詩人とはあなたが愛について習うことが最も出来ない人々だ・・・それは最も愛せない人達だ。いわゆる詩人は、愛とは何の関係もない。彼らは自分では愛を知らない。彼らの詩は、単に彼らが手に出来なかった愛の代用品だ。彼らの詩は彼らの夢だ、彼らの詩は経験に基づくものではない。
彼らの詩は病的だ。それはポルノグラフィーだ。それはあなたの想像力をかきたて、あなたに幻想を与える。そして本当の人々は、本当の人々だ!誰もあなたの幻想を充たす為に、ここにいる訳ではない。あなたの幻想を落としなさい。そしてあなたは、この世界が素晴らしい人々で一杯なのが分かるだろう。
そしてもしあなたが受け入れられたかったら、まず自分自身を受け入れなさい。そして誰かの愛を受け入れなさい。これらの条件を充たしなさい・・・あなたは受け入れられるだろう。不可能なことは求めないでおきなさい。
あなたはとても否定的なマインドで生きて来たに違いない。これがマインドの否定性だ。もう少し肯定的になりなさい。それはあなたの人生の見方次第だ。それは全くあなた次第だ。あなたはあなたの人生の創造者だ。それは途方もない意味、美、喜びを持ち得る・・・
しかし、あなたはそれを自分のハートで創り出さなければいけない。そして全ての場所に、それを広げなければいけない。あなたはあなた自身で何かを創り出さなければいけない。その時にのみ、あなたは存在の中にそれを見出す。存在は、あなたにこだまする・・・
質問:私はバラを愛しています。でも他の花にもまた惹かれるのです。
どうしてバラだけなのか?そしてどうして花だけなのか?愛はどこにも定まってはいけない。愛は相手に合わせる必要はない。相手に合わせる愛は本当の愛ではない。関係性としての愛は本当の愛ではない。存在の状態である愛は、本当の愛だ。
人は女性を愛することが出来る、男性を愛することが出来る。人は自分の子供を愛することが出来る、自分の良心を愛することが出来る。人はバラを愛することが出来る、他の花々を愛することが出来る。人は千とひとつのものを愛することが出来る・・・しかしそれは全て関係性だ。
いかに愛であるかを学びなさい!そうすればあなたの愛が誰のところにあるのかは問題ではなくなり、ただあなたの存在が愛しているかどうかが問題になる。独りで座っていながらなお、愛は花開き続けている。全く独りでいてなお、あなたに何が出来るだろう。ただ呼吸している・・・あなたは妻の為に呼吸しているのではない。それは関係性ではない。あなたは自分の子供の為に呼吸しているのではない。それは関係性ではない。あなたはただ呼吸をしている・・・それは生命だ。
ただ呼吸をしているのは身体にとっての生命であり、愛は魂の生命だ・・・人はただ愛なのだ!そうして初めて人は、愛は神聖であると知る。
イエスは言う「神は愛なり」と。私はあなたに言う「愛は神なり」と。すると他にたくさんの質を持つ神の問題ではなくなる。実際、神は消える・・・愛そのものが神になる。愛が本当だ。神は神学者が自分達の全く知らない何かにつけた名前だ。神はいない。全ての存在は、愛と呼ばれるものでできている。
しかしもしあなたが神という言葉を愛しているなら、それは全く問題ない。あなたはそれを神と呼んでもよい。しかしそれは愛なのだと覚えておきなさい。愛があなたの存在の状態になった時に、ただあなたの存在の状態になった時に初めて、あなたはこの愛を知るだろう。
OSHO:Be Still and Know より
質問:私は恋をしている時にだけ、いい気分になります。今までガールフレンドはたくさんいましたが、最近付き合っていたガールフレンドが私のもとを去り、私は傷ついています。
あなたはまだ愛の神秘を学んでいない。あなたはまだそれに成熟していない。それに関してとても子供っぽい考え方をしている。
まず始めに、愛が美しい時はいつでもそれはすぐに終わるだろう。醜いものだけが永く続く。美しいものはすぐに消え去る。物事が生き生きとしていればいるほど、それはすぐに消える。これは成熟する為の学びのひとつだ。もし物事が永遠であって欲しいなら、いつまでもいつまでも続いて欲しいなら、あなたは本当に愛を求めてはいない。あなたは安全を求めている。
安全は愛ではない。愛は安全ではない。あなたは女性にしがみつきたいし、女性にもまたしがみついてもらいたい。しがみつくのは愛ではない。確かにそれは安全だろう。そしてそれを頼りにも出来る。しかし、それこそがあなたの問題を作り出す。私にとって、安全なものは何もない。
成熟した人は、明日のことでさえ約束出来ない。成熟した人はこう言えるだけだ。「この瞬間、私はあなたに愛を感じる。あなたの方へ流れていく。しかし次の瞬間、何が起こるのかは誰にも分からない。次の瞬間がもたらすものは、何であれ受け入れることだ」と。この為にあなたは困難に陥るだろう。あなたはしがみついてくれる誰かを求めている。それはエゴの恰好のえさになるだろう・・・あなたにしがみついてくれる女性が。
私はこう理解している。もしあなたが女性との愛を楽しんだなら、本当に楽しんだなら、そしてその愛があなたにとてつもない満足感を与えてくれたなら、あなたはその女性が去ってもすぐに別の女性と恋に落ちるだろう・・・なぜなら、今やあなたは愛の美しさを知っているからだ。そうしたら、あなたは常に愛に留まる。それは1人の人との愛に留まるという意味ではなく、常に愛に留まるという意味だ。
なぜならあなたは、その美しさを知っているからだ。彼女がその美しさをあなたに見せてくれたことで、あなたはその女性に感謝を感じるだろう。
私は愛の為のとても自由な環境を、愛への全くの自由を持ちたい。2人がよいと感じている時は、彼らは一緒にいる・・・しかしそれは、その感じがそこにある時だけだ。もしそれが永遠に続くなら、それはよい。もしいつかそれが消え去るなら、あなたは相手に本当のことを言わなければならない・・・それは消えてしまったと。
あなたは涙を流しながら言うかもしれない。あなたは決して終わって欲しくなかったのに、それは終わってしまった。そしてあなたには何も出来ない。お手上げだ。あなたは立ち去らなければならない・・・恨みや不平もなく。
あなたに問題を作り出すのは愛ではない。それはエゴだ。あなたは傷つく。そのエゴは落ちなければならない。愛と共に、愛に在りなさい。女性は来ては去り、男性も来ては去る。愛は留まる。愛は永遠だ。
OSHO:Only Losers Can Win in This Game より
質問:私は天にも昇るような気持ちにさせてくれる人に出会うことを、ずっと望んでいます。
成熟とは、望みを持たずに生き始めた時に起こる。望みは子供じみている。望みを未来に投影しなくなった時に、あなたは成熟する。事実、未来を持たない時、あなたは成熟している。あなたはただその瞬間に生きる・・・それが唯一の現実だからだ。過去には、宗教は死後の世界について語っていた。それは宗教が子供じみて未熟だった時代だ。今や宗教は「今ここ」について語る。宗教は大人になった。
私が全ての望みを落としなさいと言う時、それは未来が必要ないほど、強烈にその瞬間にいなさいという意味だ。するとそこには転機が、変容がある。あなたにとって、時の本質が変化する。それは永遠になる。
あなたは望みに対して何が出来るだろう。実際あなたは、何を望むことが出来るだろう。新しいことの為に望むことは出来ない。以前起こった古い出来事を望むことしか出来ない・・・
多分あちらこちらに少しずつ修正を加え、そしてもう少し飾って、しかし望みは過去以外の何者でもない。あなたは何かを生きた、何かを経験した。そしてそれに何度も何度も望みを抱く。それは繰り返しだ。それは循環だ。望みとは、たんに過去を未来に投影するという意味だ。
あなたは昨日ある男性を愛した。明日もまたその男性を愛したい。そしてあなたは昨日は満足ではなかったことを知っている。だから明日に望みを抱く。昨日は充分ではなかった。だから明日に望みを抱く。あなたは昨日何かを逃した。その逃した隙間(すきま)が今あなたを苦しめている。苦悩を作り出している。
あなたは望みを抱く。明日もまた、あの男性はあなたを愛してくれるだろう。そして明日こそあなたは本当に愛するだろう、と。しかし昨日と明日の間には今日がある。もしあなたが本当に愛したいなら、なぜ今日、今ここにいないのかね。
OSHO:The Belove より
(日本語版、OSHOタイムス、vol.34、市民出版社)