OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

70.生はエクスタシー

<OSHOの講話より> 

エクスタシーは、人間が完全に忘れてしまっている言葉だ。彼はそれを忘れるように強いられて来た。彼はそれを忘れるように強制されて来た。 

社会はそれに対立し、文明はそれに対立している。社会は惨めさにこの上もない投資をしている。それは惨めさに依存し、惨めさを食糧とし、惨めさによって生き延びている。社会は人間の為にはない。社会は人間を自らの手段として利用している。 

社会の方が人間よりも重要になってしまった。文化、文明、教会といったものの方が重要になってしまった。それらは人間の為のものだった筈だが、今や人間の為にはない。それらはほとんど全プロセスを逆行し、今や人間がそれらの為に存在している。 

子供はみなエクスタシーに満ちて生まれて来る。エクスタシーは自然なものだ。それは偉大な賢者達にだけ起こるものではない。それは誰もが世界に持ち込んで来るものであり、誰もがそれと共に生まれて来る。 

それは生の最も奥深い核だ。それは生きているということの一部だ。生はエクスタシーだ。子供はみなそれを世界に持ち込んで来るが、そこで社会が子供に飛びかかり、エクスタシーの可能性を破壊し始め、子供を惨めにし、子供を条件付けするようになる。 

社会は神経症的であり、エクスタティックな人々がここにあることを許せない。彼らは社会にとって危険だ。その仕組みを理解しようとしてみなさい。そうすれば物事はもっと簡単になるだろう。 

エクスタシーに満ちた人をコントロールすることは出来ない。それは出来ない相談だ。コントロール出来るのは、惨めな人間だけだ。エクスタシーに満ちた人は、いつも自由を失わない。エクスタシーとは自由であることだ。彼を奴隷の境遇におとしめることは出来ない。 

彼はそう簡単には叩き潰されないし、彼を牢獄に住むように強いることは出来ない。彼は星々のもとで踊りたがるだろうし、風と共に歩きたがるだろうし、太陽や月と話をしたがるだろう。 

彼は広大なもの、限りなきもの、巨大なもの、測り知れないものを必要とする。彼を暗い独房の中で暮らすよう誘うことは出来ない。彼を奴隷にすることは出来ない。彼は自分の人生を生きて、自分のしたいことをする。 

これは社会にとっては実に厄介なことだ。多くのエクスタティックな人々がいたら、社会は自分達は崩壊してしまう、その屋台骨は持ち持ち堪(こた)えられないと感じる。 

エクスタティックな人々は反逆者だ。いいかな、私はエクスタシーに満ちた人を「革命家」ではなく「反逆者」と呼ぶ。革命家とは社会を変革しようとする人だが、彼はそれを別の社会で置き換えようとする。 

反逆者は個人で生きようとし、世界に固定した社会構造があることを望まない。反逆者は、この社会を別の社会と置き換えることを望んでいない。なぜなら、社会というものが全て同じであることは明らかだからだ。 

資本主義者と共産主義者全体主義者と社会主義者は、みな従兄弟の関係にある。彼らの間に大差はない。社会は社会だ。教会というものはみな同じだ・・・ヒンドゥ教であろうと、キリスト教であろうと、イスラム教であろうと。 

構造がいったん権力を握ってしまうと、それは人々がエクスタシーに満ちることを許さない。なぜなら、エクスタシーは構造に反しているからだ。 

よく聴いて、この言葉に瞑想してみるといい・・・エクスタシーは構造に反している。エクスタシーは反逆的であって、それは革命的ではない。 

革命家は政治的な人間だ。反逆者は宗教的な人間だ。革命家は別の構造を、自らが欲したものを、自らのユートピアを望むが、構造というものはみな同じだ。 

彼は権力の座に就きたい。彼は圧政者にはなりたいが、虐げられる人にはなりたくない。彼は搾取者にはなりたいが、搾取される側には回りたくない。支配はしたいけれど支配されたくはない。 
反逆者は支配したくはないし、支配されたくもない人だ。反逆者とは、世界にいかなる支配体制も望まない人だ。反逆者はアナーキーだ。反逆者とは人間が作った構造ではなく、自然を信頼し、自然なものが損なわれなければ、あらゆるものが美しくなると信じている人だ。そして、それは本当だ! 

これほど広大な宇宙がいかなる政府もなしに動いている。動物達、小鳥達、樹々、あらゆるものがいかなる政府もなしに動いている。なぜ人間には政府が必要なのか?何かが間違っているに違いない。なぜ人間は、支配者なしでは生きられないほど神経症的なのか? 

今やそれは悪循環になっている。人間は支配者なしでも生きられるが、彼は一度もその機会を与えられたことがない・・・支配者は、あなた方にいかなる機会も与えようとはしない。 

ひとたび支配者なしでも生きられることを知ったなら、誰が彼らの存在を望むだろう?誰が彼らを支持するだろう?たった今、あなた方は自らの敵を支持している。あなた方は自らの敵に投票している。 

2人の敵が大統領選挙に立候補して、あなた方はそれを選ぶ。どちらも同じだ。それはまるで監獄を選ぶ自由、入りたい監獄を選ぶ自由を与えられているようなものだ。しかもあなた方は、嬉しそうに投票する・・・ 

僕はAかBの監獄に入りたいんだ、私は共和党の監獄を信じる、僕は民主党の監獄を信じると。だが、どちらも監獄だ。そしていったん監獄を支持してしまうと、監獄は独自のやり方で働きかける。そうなったら監獄は、あなたが自由を味わうことを許さない。 

だから子供は、ごく幼い頃から自由を味わうことを許されない。なぜなら、いったん自由というものを知ってしまったら、彼は譲歩しようとはしないし、妥協しようとはしないし、暗い独房の中で暮らそうなどという気はさらさら起こさなくなるからだ。 

たとえ死を選ばなければならないとしても、彼は誰かが自分を奴隷の境遇におとしめることを許さない。彼は自己を主張するだろう。もちろん彼は、他の人々に対して権力を振るうことに興味を持つことはない。そういったものは神経症的な傾向だ。 

人々に対して権力を振るうことに興味を持ち過ぎていることは、あなたは深いところでは無力であり、権力を持たない限り、他の人々に圧倒されてしまうのではないかと恐れていることを示している。 

マキャヴェリは「攻撃こそ最大の防御なり」と言っている。自分を守るには先制攻撃を仕掛けるのが一番いい。 

東洋であれ西洋であれ、世界中のいわゆる政治家達は、深いところではごく弱い人々であり、劣等感にさいなまれており、政治的な権力を持たない限り誰かに搾取されてしまうのではないか、搾取されるくらいなら搾取する方がマシだと考えている。 

搾取される者も搾取する者も、どちらも同じ船に乗っており、どちらもその船を助け、その船を守っている。 

子供がいったん自由の味を知ってしまうと、彼は二度と社会の、教会の、団体の、政党の一員にはならない。彼はひとりの個人に留まり、自由なままでいて、自分の周りに自由の躍動感をかもし出す。彼の存在そのものが自由への扉になる・・・ 

いつであれ子供が幸せを感じていると、何をやっている時であれ、必ず誰かがやって来て彼を止めてしまう・・・「そんなことをしてはいけない!」と。だんだんと子供は「僕が幸せを感じることは間違っているんだ」と理解するようになる。 

そしてもちろん彼は、他人がしろと命じたことをやっても少しも幸せを感じない。それは彼の中から自然に湧き起こって来た欲求ではないからだ。それで彼は、惨めと感じることが正しいのであり、幸せと感じることは間違っているのだと知るようになる。そういった深い連想が生まれて来る。 
学校の教室の外でふいに一羽の小鳥が歌い始めたら、もちろん子供は一心にその小鳥の声に耳をそばだてる・・・醜いチョークを持って黒板の側に立っている算数の教師ではなくて。だが教師の方が小鳥よりも力を、政治的な力を持っている。 

確かに小鳥には力はないけれど、美しさがある。小鳥は「よく聞け!これに集中しろ!」と頭を叩くことなしに子供を惹きつける。単純に、自発的に、自然に、子供の意識は窓の外へと流れ出してゆく。それは小鳥のもとへと至る。 

彼のハートはそこにあるが、目は黒板の方を見なければならない。見たいようなものなど何もないが、その振りをしなければならない。 

幸せであることは間違っている。幸せになるたびに、何かが間違っているのではないかと、子供は恐れるようになる。 

子供が自分の肉体と遊んでいたら、それは間違ったこととされる。子供が自分の性器と遊んでいたら、それは間違ったこととされる。それは子供の生にとっては、最もエクスタティックな瞬間のひとつだ。 

彼は自分の肉体を楽しむ。それはわくわくするような体験だ。だが、全てのわくわくする感じは切り捨てられなければならないし、全ての歓びは打ち壊されなければならない。それは神経症的だが、社会は神経症的だ。 

両親達にも彼らの両親から同じことがなされた。彼らは子供達に同じことをやっている。このようにして、ひとつの世代が次の世代を駄目にしてゆく。このようにして私達は、神経症をひとつの世代から次の世代へと伝えてゆく。 

地球全体が精神病院になっている。誰もエクスタシーというものを知らないように見える。それは失われている。障壁に次ぐ障壁が作り出されて来た。 

ここでは日常的に観察されることだが、瞑想を始めた人々はエネルギーが湧き上がって来るのを感じ、そこで幸せを感じるようになると、彼らは直ちに私のところにやって来てこう言う。 

「とても奇妙なことが起こっているんです。私は幸せを感じると共に、何の理由もないのに罪悪感も感じています」 

罪悪感?彼らもまた戸惑う。なぜ罪悪感を感じなければならないのか?何も理由はないことは彼らも分かっている・・・何ひとつ悪いことはしていない。どこからこの罪悪感は起こって来るのか? 

それは深く根ざした条件付けから起こって来る・・・歓びは間違っているという。悲しくなるのはいいが、幸せになることは許されない。 

私はかつてある町に住んでいた。警察署長は私の友人だった。私達は大学の学生の頃からの友人同士だった。彼は私のところにやって来てはこう言った。「僕はひどく惨めな思いをしてるんだ。それから抜け出すのを手伝ってくれないか」 

私はこう言ったものだ。「口では抜け出したいと言っているが、君は本当に抜け出したがっているようには見えないね。そもそも何でここの警察署で働くことに決めたんだい?君はひどく惨めそうだし、しかも他人まで惨めにしたがっているようだね」 

ある時、私は3人の弟子達に町中を歩き回って、町のあちこちでダンスを踊って楽しそうにしなさいと言った。彼らは言った。「何の為にですか?」私は言った。「とにかく行ってやってみなさい」 

もちろん1時間もしない内に、彼らは警察に捕まった。私は警察署長に電話をかけてこう言った。「なぜ私の弟子達を捕まえたんだい?」彼は言った。「頭がおかしいと思ったんだよ」 

私は彼に訊ねた。「彼らは何か間違ったことをしでかしたのかい?誰かを傷つけたとか?」彼は言った。「いいや、何もしていないさ。彼らは何ひとつ間違ったことはしていないよ」 

「じゃあ、なぜ彼らを捕まえたんだい?」彼は言った。「でも、彼らは路上でダンスを踊っていたんだよ!それに笑っていた」 

「しかし、誰にも何ひとつ悪いことをしていないのなら、なぜ彼らの邪魔をしなければならないんだい?なぜそこで君が割って入るのか?彼らは誰かを襲った訳ではないし、誰かの私有地に入り込んだ訳でもない。ただ踊っていただけだ。罪もない連中だ。ただ笑っていただけなんだから」 
彼は言った。「君の言う通りだが、それは危険なことだ」「なぜそれが危険なことなんだい?幸せにしていることが危険なのかい?エクスタティックにしていることが危険だとでも?」 

彼は私が言おうとしていることを理解して、直ちに彼らを釈放した。彼は私のいるところに駆けて来て、こう言った。「君が言うことが正しいのかもしれない。僕は自分が幸せになることを許せないんだ・・・だから他の誰かが幸せになることも許せない」 

これがあなた方の政治家であり、これがあなた方の警察署長であり、これがあなた方の知事だ。あなた方の裁判官、あなた方の指導者、あなた方のいわゆる聖者、あなた方の僧侶、あなた方の法王・・・彼らはそういった人達だ。 

彼らはみなあなた方の惨めさに多大の投資をしている。彼らはあなた方の惨めさに依存している。もしあなたが惨めなら、彼らは幸せだ。 

惨めな人だけが寺院に祈りに行く。幸せな人が寺院に行くだろうか? 何の為に? 幸せな人は幸せのあまり至るところに神を感じる! 幸せとはそうしたものだ。彼は天地万物とエクスタシーに満ちた愛の中にあり、見るところ全てに神を見出す。 

至るところが彼の寺院だ。どこであれひれ伏せば、彼は直ちにそこに神の御足を見出す。彼の畏敬、彼の崇敬は、ヒンドゥー教寺院やキリスト教会に行かねばならないほど狭いものではない。それは滑稽なことだ。それは意味もないことだ。 

神を見ることが出来ない惨めな人々だけが・・・咲いている花の中に神を見ることが出来ない、歌っている小鳥の中に神を見ることが出来ない、美しい七色の虹の中に神を見ることが出来ない、浮かび漂う雲の中に神を見ることが出来ない、流れる川や大海原の中に神を見ることが出来ない、子供のあどけない瞳の中に神を見ることが出来ない・・・ 

そういった惨めな人達だけが教会へ行き、モスクへ行き、寺院へ行き、僧侶のもとへ行き、「神はどこにいるのですか? 私達にお示しください」とたずねる。

 

惨めな人達だけが宗教と関わりを持つ。だから「いつの日か世界が幸せになったら、宗教というものは消え失せてしまうだろう」と言ったバートランド・ラッセルはほとんど正しい。 

私はほとんど正しい、99%正しいと言いたい。100%正しいと言えないのは、バートランド・ラッセルが気づいていない、別のタイプの宗教を知っているからだ。 

確かにこれらの宗教は消えてしまうだろう。彼の言っていることは、これらの宗教については正しい。ヒンドゥ教、キリスト教イスラム教、ジャイナ教、仏教、これらのものは消え失せてしまうだろう。消え失せてしまうことは確かだ。 

世界が幸せになったら、それらのものは消え失せてしまわざるを得ない。なぜなら、誰がそんなものをかまうのか?だが彼は99%は正しいが、1%間違っている。その1%こそ残りの99%よりも、もっと重要だ。 

なぜなら別のタイプの宗教、本当の宗教・・・エクスタシーに満ちた宗教、名前のない宗教、聖書やコーランヴェーダといった法典や聖典を持たない宗教、形容詞がつかない宗教、踊りの、愛の、崇敬の、祝福の宗教、純粋な宗教は、人々が幸せになった世界に生まれて来るからだ。 

実のところ、今存在しているこれらの宗教は宗教ではない。それらは鎮静剤、精神安定剤にすぎない。もちろん「宗教は人民のアヘンだ」と言ったマルクスも、99%ではあるが正しい。彼の言葉は正しい。 

これらの宗教は、あなたが惨めさを耐え忍ぶのを助けてくれる。彼らはあなたを助け、あなたを慰め、「今日は惨めかもしれないが、明日には幸せになる」という希望を与えてくれる。 

だが、そのような明日は決してやって来ない。彼らは言う。「この生では惨めかもしれないが、次の生には・・・善良であれば、道徳的であれば、社会の規則に従い、奴隷になり、服従していれば、次の生には幸せになるだろう」 

だが、誰も次の生のことなど知らない。そこから戻って来て何かを教えてくれた者などひとりもいない。あるいは来世というものを信じない人達なら「彼岸に、天国に行った時に、あなたは報われるでしょう」と言う。だが、その為には聖職者や政治家に服従しなければならない。 

聖職者と政治家は共謀し合っている。彼らは同じコインの裏表だ。彼らは互いに助け合っている。彼らはみなあなた方が惨めでいることを望んでいる・・・そうすれば聖職者は会衆を維持することが出来るし、あなた方を搾取することが出来る。 

政治家は、あなた方が国家の名のもとに、祖国の名のもとに、あれやこれやの名のもとに戦争に行くよう強いることが出来る・・・そんなものは大義名分に過ぎないが、政治家はあなたを戦場に送り込むことが出来る。 

惨めな人達でなかったら、戦争に召集することは出来ない。深く惨めな人達でなければ闘うことは出来ない。そうでなければ殺し殺されることはあり得ない。彼らは生きているより、死んだ方がましだと思えるほど惨めな境遇に置かれている・・・。 

惨めな時には、死ぬより他に自由はないと思えるものだ。それに惨めな人間は、他人を殺すことが出来るほどの激しい怒りに満ちている・・・たとえ自分が殺されるかもしれない危険を冒さねばならないとしても。 

政治家は、あなた方が惨めであるが故に存在している。だからベトナムが、バングラデシュが、アラブ諸国が続くことが出来る。戦争は続く。いつもどこかで戦争が続いている。

こういった自分が置かれた状況を理解しなければならない・・・なぜそれが存在するのか、それからどのように抜け出したらよいのかを。 

それから抜け出さない限り、その仕組み、条件付けの全て・・・自分が生きているこの催眠術・・・を理解しない限り、それを捕まえて、観察し、落とさない限り、あなたは決してエクスタシーに満ちるようにはなれないし、生まれた時から持っていた歌を、唄わないで終わってしまうだろう。 

それを実現しない限り、あなたは自分のダンスを踊らないで終わってしまうだろう。それを実現しない限り、あなたは一度も生きないままに終わってしまうだろう。あなたの人生は、ただの希望に過ぎない。それは現実のものになってはいない。それは現実のものになり得る。 

この社会、文明、文化、教育と呼ばれる神経症、この神経症には微妙な構造がある。それにはこのような構造がある・・・ 

それは現実がだんだんといつしか曇ってしまい、見えなくなり、現実ではないものにしがみつかざるを得なくなるような、象徴的な考えをあなたに与える。 

たとえば、社会はあなたに野心的になるようにと教え、あなたが野心的になるのを助ける。野心とは希望の中に生きること、明日を夢見て生きることだ。野心とは、明日の為に今日を犠牲にしなければならないということだ。 

今日しか存在していない。あなたは今に、「今」という時間の中にあることしか出来ない。生きたかったら、この今を生きるしかない。 

社会はあなたを野心的にする。幼い子供の頃から、学校に行くと野心を叩き込まれて、あなたは汚されてしまう。金持ちになれ、権力を持て、有力者になれ、と。 

あなたは既に幸せになる能力を持っている、と教えてくれる者は誰もいない。誰もが口をそろえて言う・・・あなたは一定の条件を満たして初めて幸せになることが出来る。充分な金、大きな家、大きな車、あれやこれやを持って初めてあなたは幸せになれる、と。 

幸せは、そういったものとは一切関係ない。幸せは達成するものではない。それはあなたの本性だ。動物達は金などなくても幸せだ。彼らはロックフェラーではない。 

人間だけが不幸せなのは、彼が現実ではなく野心の中に生きているからだ。野心はトリックだ。それはあなたのマインドを逸(そ)らす為のトリックだ。象徴的な生が、本当の生の代わりに置き換えられて来た。 

それを生活の中に見てみるといい。母親が、子供が求めているだけ愛することが出来ないのは、彼女が頭の中で引っかかっているからだ。 

彼女の人生では、何ものもかなえられなかった。彼女の愛情生活は、実に惨めなものだった。彼女は花開くことが出来なかった。 

彼女は野心を持って生きて来た。彼女は夫を操ろうとし、彼を所有しようとした。彼女は嫉妬深かった。愛情豊かな女性ではなかった。愛情豊かな女性ではなかったのに、どうして急に子供に愛情深くなれるだろう? 

子供は最初から愛情をもらうことが出来ない・・・また子供は、お金の方が愛よりも大事なのだということを覚える。愛がなくてもお金さえあれば心配することはない、という訳だ。彼は人生の中で欲深くなってゆく。彼は狂ったように金を追い求める。愛のことには目もくれない。 

彼は言う。「最初にこれを済ませなきゃ。まず銀行にたっぷりと預金をするんだ。目標金額に達しなければならない。そうして初めて愛する余裕が出て来る」 

しかし、愛に金はいらない。あなたは今のままで愛することが出来る。愛には金が必要だと考えて金を追い求めていたら、いつの日かその金を得るかもしれないが、あなたはそこで急に自分が空っぽなのを感じる。 

なぜなら、全ての年月は金を貯め込むことに費やされてしまったからだ。しかも単に無駄に費やされただけではない!あなたは愛のない年月を過ごしたのであり、愛のない生き方を習い覚えてしまった。 

いくら金があっても、あなたは愛し方を知らない。あなたは感情の言葉を、愛の言葉を、エクスタシーのそのまさに言葉を忘れてしまっている。 

確かに、美しい女性を金で買うことは出来るが、それは愛ではない。世界で一番美しい女性を金で買うことも出来るが、それは愛ではない。彼女は愛ゆえにあなたの許にやって来たのではない。彼女は銀行預金ゆえにあなたの許にやって来た。 

金は象徴だ。権力、政治権力は象徴だ。世間の評判は象徴だ。こういったものは現実ではない。こういったものは人間の投影したものだ。 これらのものは客観的なものではなく、客観性を欠いている。実際にはそこにないものだ。惨めなマインドによって投影された夢に過ぎない。 

エクスタティックになりたかったら、象徴的なものから抜け出さなければならない。象徴的なものから自由になることは、社会から解き放たれることだ。象徴的なものから自由になることが、サニヤシンになることだ。 

象徴的なものから自由になる時、あなたは現実に在るものへの勇気ある一歩を踏み出す。現実のものだけが現実に存在している。象徴的なものは現実に存在してはいない。 

エクスタシーとは何か?それは達成されるべきものだろうか?違う。それは稼ぎ取らねばならないものだろうか?違う。 

エクスタシーとは「在る」ことであり、そして「成る」ことは惨めさだ。何かに成ろうとしたら、あなたは惨めになる。成ることこそ惨めさの根本原因だ。 

エクスタシーに満ちていたかったら、それはまさに「今」に、「今ここ」に、このまさに瞬間に見出される。私を見なさい。このまさに瞬間、誰も道をふさいではいないし、あなたは幸せでいることが出来る。 

幸せは誰の目にも明らかで、実に易しいものだ。それはあなたの本性だ。あなたの中にすでにそれがある。ただそれが花咲く、花開く機会を与えるだけでいい。 

エクスタシーは頭のものではない。いいかな、エクスタシーはハートのものだ。エクスタシーは思考と共にあるのではない。それは感情(フィーリング)と共にある。 

あなたは感情を奪われて来た。あなたは感情から切り離されて来た。あなたは何が感情なのかを知らない。 

たとえ「私はこう感じる」と言っても、あなたは自分は感じていると考えているだけだ。たとえ「私は幸せを感じている」と言っても、観察し、分析したなら、自分は幸せに感じていると考えているに過ぎないことが分かるだろう。 

感情ですら、思考の中を経過しなければならない。それは思考の検閲の中を通ってゆかねばならない。思考がそれを承認して初めて、それは許される。思考がそれを承認しなかったら、それは無意識の中に、あなたの存在の地下室に投げ込まれて、忘れられてしまう。

もっとハートの人になって、あまり頭の人ではないようにしなさい。頭は一部に過ぎないが、ハートはあなたの全存在だ。ハートはあなたの全体的な存在だ。 

だからいつであれ、何かに全一(トータル)になっている時、あなたは感情から関わっている。いつであれ何かに部分的に関わっている時、あなたは頭から関わっている。 

いつであれ何かに全面的に入り込んでいる時、あなたはエクスタティックだ。何かに部分的に入り込んでいる時、あなたは惨めでいるしかない。なぜなら、部分が全体から分離して働いているからだ。そこには区分けがあって、分裂が、緊張が、不安がある。 

私はよく川に泳ぎに行ったものだが、それはとても楽しかった。いつも川から帰って来ると、隣人のひとりが私を見ていて、私がとても歓びに溢れているのを観察していた。 

ある日、彼は訊ねた。「どこに秘密があるんだい?君はいつも川に行って何時間も泳ぎ、川の中にいるね。私も行っていいかい?なぜって、君はとても幸せそうに見えるんだよ」

私は言った。「来ない方がいいですよ。あなたはそれを逃してしまうし、川はとても悲しい思いをするでしょう。駄目です、来てはいけません。なぜなら、あなたのそのまさに動機が障害になるからです。 

たとえ泳いだとしても、あなたはいつその幸せが起こるのかと見守っているでしょう。それは決して起こりません。なぜなら、それはあなたがいない時に初めて起こるからです」

泳ぐことは瞑想になり得るし、走ることは瞑想になり得る。どんなことでも瞑想になり得る・・・もしあなたがいないなら。 

エクスタシーはハートから来るものであり、全一さから来るものだ。 

OSHO:ECSTASY,The Forgotten Language,#9 より抜粋