69.セックスから超意識へ
<OSHOの講話より> 第1話 愛の起源、セックス (1968年8月28日)
愛・・ 愛とは何だろう?
愛を感じるのはたやすいが、定義するのは全く難しい。魚に、海とはどんなものか問うとしたら、魚はこう言うだろう。「これが海さ、まわり中が海だ。それだけのことじゃないか」だが、もしあなたが頑張って「頼むから海を定義してくれよ」と言ったら、その時には問題は非常にやっかいになる。
生の上でこの上なく微妙な美しいものごとは、生き抜くことは出来るし、知ることは出来る。が、定義したり描写したりするのは難しい。人間の惨めさは、この4、5千年というもの、真摯に生き抜くべきだった愛、内側から実現すべきだった愛を、ただ語るだけで過ごして来たところにある。
大恋愛物語があり、無数の愛の唄が歌われ、教会や寺院では献身の聖歌がたえず詠じられている。これらは全て、愛の名のもとになされているのではなかったか?ところが、人の生の中には、愛の為のスペースはない。人類の言語を深く探ったら、「愛」ほどに真実からかけ離れた言葉は見つからないだろう。あらゆる宗教が愛を語り続ける。しかし、どこにでも見られるような愛や不運な遺産にも似て、人間を閉じ込めて来た愛は、生の中の愛への扉を全て閉ざすことに成功しただけだった。
ところが大衆は、宗教指導者たちを愛の創始者として崇拝する。彼らこそ、愛を偽りのものにし、愛の流れをさえぎって来たのだ。これに関しては、西洋と東洋、インドとアメリカとの間に何ひとつ基本的な違いはない。
愛の流れは、まだ人間の表面に現れていない。そして私達は、それを人間自身のせいにする。愛が進展しない、生の中に愛の流れがない、それは人間が害されているからだと言う。私達はそれをマインドのせいにする。マインドが毒を持っているからだと言う。マインドは毒ではない。マインドの質を低下させた者達が、愛を毒して来た。彼らは、愛の成長を許さなかった。
この世界の中に毒あるものは何ひとつない。神の創造物の中で、何ひとつ悪いものはない。全てが神酒だ。器に満ちた神酒を毒に変えてしまったのは、人間だけだ。その主な犯人達は、いわゆる教師、いわゆる聖人聖徒、そして政治家達だ。細部にわたってこのことをよく考えてみるがいい。もし、この弊害がただちに理解され、即座に正されないとしたら・・現在あるいは未来において・・人間の生の中に愛の可能性は全くない。皮肉なことに、私達はその理由づけを、愛がまだ人間の地平線上に昇っていないことに責任を問われるべき張本人達から、盲目的に受け容れて来た。
もし誤った原則が何世紀にもわたって繰り返し語られたら、私達は最初の原則の背後にある基本的な誤りを見落とす。そうなったらカオス(混沌)が生じる。なぜなら人間は本質的に、それら不自然な規律がこうなるべきだと述べているようなものには、なることが出来ないからだ。私達はごく単純に、人間が悪いのだということを受け容れる。
・・(略)・・人間は同じような間違いの責任を負わされている。人間をよく見てごらん。あまりにも病んでいる。5、6千年から1万年にわたって蓄積された病にかかっている。間違っているのは人間であり、文化ではない、繰り返しそう言われ、人間は取るに足りないが、文化は称えられている。私達の偉大な文化、私達の偉大な宗教、すべては偉大だ!その成果を見るがいい!
「人間は間違っている。人間は自分を変えなければならない」と彼らは言う。しかし、1万年経っても人を愛で満たすことが出来ない文化や宗教、偽りの価値に基づいているその文化や宗教、物事はそれらの為に、あるべきようになっていないのではないかと疑う者はひとりもいない。そして、もしこの1万年の間に愛が進化しなかったとしたら、断言してもいい、この文化とこの宗教を土台にしては、未来にも愛に満ちた人間は見ることすら出来なくなる。
過ぎ去った1万年の間に実現出来なかったことは、次の1万年でも成し遂げられない。今日の人間は、明日も同じままだ。作法や文明、技術といった外側の包み紙は、その時その時によって変わるだろう。だが人間は変わらず、永遠に同じままだ。
私達には、自分達の文化と宗教を再検討する準備が整っていない。にもかかわらず、私達は声を張り上げて文化と宗教を褒めたたえ、その聖者と管理人達の足に口づけする。私達は後を振り返って、自分達の考え方や方向が誤ってはいなかったか、間違っていなかったかと反省することに同意さえしない。
私は、土台に欠陥がある、価値が偽りだと言いたい。その証拠は現在の人間だ。他にどのような証拠があり得よう。木を植えて、その果実に毒があり苦ければ、それは何を証明しているか?それは種に毒があり、苦かったに違いないということを証明している。だがもちろん、ある特定の種から苦い果実が実るものかどうか、前もって言うのは難しい。あなたはその種を注意して見回し、指先で押したり割ってみたりするだろう。が、果実が甘くなるかどうか確かなことは言えない。それには時間のテストを待たねばならない。
種をまく。芽が出る。何年かが過ぎゆく。1本の木が現われ、その枝を空に広げる。果実が実る。そこで初めて、あなたはまかれた種が苦かったかどうか知ることになる。現代の人間は1万年前にまかれ、それ以降ずっと育てられて来た文化と宗教という種から実った果実だ。そしてその果実は苦く、矛盾と苦しみに満ちている。ところが、これらの種を褒めたたえ、そこから愛が開花するのを期待しているのは、まさに私達なのだ・・そうであってはならない。
私は繰り返して言おう。なぜなら、愛が生まれる為の可能性は、全て宗教によって殺されて来たからだ。その可能性は毒されて来た。人間よりも、鳥や動物や植物の中に、宗教や文化を持たない者達の中に、はるかに多くの愛を見ることが出来る。愛は、現代の進歩的で教養がある文化的人間の中よりは、未開人達、文化に遅れて森に住む人々の中に明白にある。
憶えておきなさい・・太古の人々には発達した文化文明、あるいは宗教などなかった。人間は、祈る為に教会や寺院に通い、ますます文明化され、教養を高められ、宗教的になっていると公言している。にもかかわらず、なぜこんなに愛が不毛になってゆくのだろう?それには理由がある。私はそれを論じたい。もしそれが理解されたら、尽きることのない愛の流れが涌き出ることも可能だ。
ところが、それは石の中に埋もれている。それは表に出て来ることが出来ないでいる。周りを全て壁に囲まれて、ガンジス河はほとばしり出ることが出来ない、自由に流れることが出来ない。愛は人間の内側にある。それは外から持ち込まれるものではない。それは市場に行って買う日用品ではない。それは生の香りとしてそこにある。全ての人間の内側にそれはある。愛を探し求めること、愛を得ようとすることは外向きの行為ではない。それは、どこかへ行って引き出して来るような明快な行為ではない。
・・(略)・・ 愛は人間の内側に閉じ込められている。それは解き放たれるのを必要としているだけだ。問題は、愛をどのように創り出すかではなく、どのようにして明るみに出すかということだ。私達は自分を、何でおおい隠してしまったのだろう?愛が表面に現れるのを邪魔しているのは何だろう?
開業医に健康とは何かを聞いてごらん。とても不思議なことだが、この世界の医者の誰ひとりとして、健康とは何なのか言える者がいない!医学全体が健康に関わっているというのに、誰ひとり健康とは何なのか言える者がいない?医者に聞けば彼は、その病気が何なのか、あるいはその兆候が何なのかということしか言えない、と答えるだろう。彼はそれぞれの病気についての専門用語を知っているかもしれない。そして、その治療法を指示することも出来るだろう。
だが健康・・?健康については彼は何も知らない。彼は、病気がひとつもない時の状態が健康だとしか言えない。これは健康が、人間の内側に隠されているからだ。健康は、人間の定義づけを超えている。病気は外側からやって来る。だから、それはハッキリと定義出来る。健康は内側からやって来る。だからこそ、ハッキリと定義することは出来ない。健康は定義を無視する。私達は、病気の不在が健康だとしか言えない。
真実はこうだ。健康は創り出される必要はない。それは病気によって隠されるか、あるいは病気が消え去るか治療された時に自ずと現れるか、そのどちらかだ。健康は私達の内側にある。健康は私達の天性だ。人間に愛を創りなさいと求めるのは、基本的に間違っている。問題は、どのようにして愛を創り出すかではない。なぜそれは現れることが出来ないのか?その理由をどう調べ、どう見い出すかということだ。
何が妨げとなっているのだろう?何が難しいのか?それを妨げ、せき止めているものはどこにあるのか?もし妨げるものがなければ、愛は自ずと現れる。それを説得したり、導いたりする必要はない。もし偽りの文化と堕落した有害な伝統が邪魔をしていなければ、全ての人間は愛に満ち溢れる。何ものも愛を抑えることは出来ない。愛は避けられない。愛は、私達の天性だ。
ガンジス河はヒマラヤから流れ出る。それは水だ。それはただ流れる。それは聖職者に海へ至る道を尋ねたりしない。あなたは、川が十字路で立ち止まって、警察官に海はどこかと尋ねているのを見たことがあるだろうか?海がどんなに遠かろうと、どこに隠されていようと、川は間違いなく道筋を見つける。それは避けがたいことだ。川は内なる衝動を持っている。川はガイドブックを持たない。が確実に、その目的地に行き着く。海に至るその生涯において、川は山並みを割き、平原を横切り、国を横断する。飽くことのない欲望、力、エネルギーが、彼女のハートの中心に在る。
だが人間によって、川の行く手に障害が投げ込まれたとしたらどうだろう?人間によってダムが造られたとしたらどうだろう?川は、自然の障害を打ち負かして通り抜けることは出来る。最終的には、川にとってそれは全く障害ではない。しかしもし人工の障害が作られたら、もし川を横切ってダムが設計されたら、川が海に行き着かないこともあり得る。人間、万物の至高の知性は、もしそうしようと決心したら、川が海に至るのを止めることが出来る。
自然には基本的な統一、調和がある。自然の障害物、自然の中に見られる明らかに相反するもの同士は、エネルギーを起こす為の挑戦としてある。それらは、内側に潜んでいるものを喚起する呼び子の役目を果たす。自然の中に不調和は存在しない・・(略)・・
もし種が木へと成長しなかったら、私達は土地が適していなかったのだろう、充分な水を得られなかったのだろう、あるいは充分な日光を受けなかったのだろうと推測する。私達は種を責めたりしない。
だが、人間の生において花が咲かなかったら、私達は人間自身にその責任があると言う。誰ひとりとして、悪質な肥料や水不足、日光の不足について考えない。そのことに関して何かをしようとはしない。人間は、自分が悪いのだと責められる。そして人間という木は、発芽しないままの状態に留まり、友情なく抑えつけられ、花の開く段階にまで行き着くことが出来ずにいる。
自然は律動的な調和だ。ところが、人間が自然に押し付けた人工的なもの、自然に反して工作したもの、生の流れの中に人間が投げ込んだ機械発明は、多くの場所に障害を生み出し、その流れを止めてしまった。そして川が犯人にされる。「人間が悪い。種に毒がある」と彼らは言う。私は、基本的な障害は人間によって作られた、人間自身によって生み出されたのだという事実に、あなたの注意を促したい。
さもなければ、愛の川は自由に流れ、神の海に行き着いていたに違いない。愛は、生まれながらにして人間の内部にある。もし障害が自覚を伴って取り除かれたら、愛は流れることが出来る。そうなれば、愛は神に触れるほどに、至上の存在に触れるほどまでに高まることが出来る。
これら人工的な障害とは何だろう?まず第1に、最も明らかな障害は、セックスへの反対、情熱に対する非難だ。この障害が、人間の中の愛の誕生の可能性を破壊して来た。単純な事実は、セックスが愛の出発点だということだ。セックスは愛に至る旅の始まりだ。その起源、愛と言うガンジス河の源、ガンゴトリは、セックス、情熱だ。が、誰もがその敵であるかのように振る舞う。
あらゆる文明や宗教、あらゆるグル(導師)、見者はこのガンゴトリ、この本源を攻撃して来た。そして川は抑えられたままになっている。犯人を追う叫び声はいつもこうだった。「セックスは罪だ。セックスは非宗教的だ。セックスには毒がある」私達は、旅をして愛の内なる海に行き着くのは、最終的にはセックスエネルギー自体であることを理解しない。愛は、セックスエネルギーの変容したものだ。愛の開花は、セックスという種からやって来る。
・・(略)・・セックスエネルギーだけが、愛へ開花することが出来る。ところが、人類の偉大な思想家を含めて、誰もがそれに反対している。この反対がある為に種の発芽は許されず、愛の宮殿はその根底から破壊される。セックスに対する敵意は、愛の可能性を打ち砕いて来た。その為に石炭はダイヤモンドになることが出来ない。
基本的な誤解がある為に、セックスを認め、それを発展させる過程を通過する必要性を誰ひとり感じない。その敵である私達、それに反対しそれと絶えず争っている私達に、いかにしてセックスを変容させることが出来ようか?人間は、自分のエネルギーと闘うことを強いられて来た。人間は自分のセックスエネルギーと闘うように、セックスの衝動に反対するようにと教えられて来た。「マインドこそ毒だ、だからそれと闘うことだ」人間はそう言われて来た。
マインドは人間の中に存在し、セックスもまた人間の中に存在する。しかもなお人間は、内側の葛藤から自由になることを期待されている。調和ある存在となることを望まれている。彼は闘わねばならず、その上に仲直りもやらねばならない。それが指導者達の教えだ。一方で人間を狂気にかりたて、もう一方では治療する為の収容所を開く。彼らは病気の元になる細菌を広め、そうしながらその病気を治す為の病院を作る。
もうひとつ考慮すべき重要な事柄は、人間をセックスから切り離すことは出来ないということだ。セックスは人間の原初の地点だ。彼はそこから生まれた。神が創造の出発点としてセックスというエネルギーを創った。そして偉大な人間達は、神自身それを罪と見なさなかったものを罪深いと言う!もし神がセックスを罪と見なすのなら、その時にはこの世界において、この宇宙において、神ほどの罪人は他にいない。
あなたは、花が開いているその状態は情熱の表現だということ、それは性的な行為だということを理解したことはないだろうか?目にも鮮やかな美しさに満ちた孔雀のダンス、詩人はそれを歌い、聖人もまた喜びに満ち溢れる。だが彼らは、そのダンスもまた情熱の公然たる表現であり、本来、性的な行為だということに気づいているだろうか?誰を喜ばすために孔雀は踊るのだろう?
孔雀はその愛する者、その連れ合いを呼んでいる。パピハが鳴いている、カッコウが鳴いている。少年は青年になり、少女は女へと成長する。この全ては何だろう?何という遊び、何というリーラだろう?これらは全て愛、性的なエネルギーの現れだ。この愛の現れは変容されたセックスの表現だ。それはエネルギーで溢れ、セックスを肯定している・・人の全生涯を通じて、愛のあらゆる行為、愛のあらゆる態度とその衝動は、原初的なセックスエネルギーの開花としてある。
宗教と文化は、セックスに反対するという毒を人間のマインドに注ぎ込む。それは葛藤を、戦争を生み出す。それらは人間を、自身の原初エネルギーとの闘いに従事させる。その為人間は弱くなり、鈍感で粗野、愛がなく虚無に満ちた存在になった。敵意ではなく、セックスとの友情が創り出されるべきだ。セックスは、より純粋な高みへと引き上げられるべきだ。
結婚したばかりのカップルを祝福しながら、聖者が新婦に言った。「あなたが10人の子供達の母親となるように。そして最後には、あなたの夫があなたの11人目の子供となるように」もし情熱が変容されたら、妻は母親になれる。もし性欲を超えることが出来たら、セックスは愛になり得る。セックスエネルギーだけが、愛の力へと開花することが出来る。
だが私達は人間を、セックスに対する敵対心でいっぱいにしてしまった。その結果、愛は花開かなかった。その後に来るもの、来るべき形態は、セックスを受け容れることで初めて可能になる。愛の流れは、強い抵抗の為に流れ進んでゆくことが出来ない。一方においてセックスが内側でかき立てられたまま、人間の意識は性的な状態で泥まみれになっている。人間の意識はますます性的になってゆく。私達の歌、詩、絵画、そして寺院にある像は全て、セックスを巡って創られている。なぜなら、私達のマインドもまたセックスの軸の周りを思い巡っているからだ。
この世界のどんな動物といえども人間ほど性的ではない。人間はどこにいても性的だ。目覚めていようと眠っていようと、その振る舞い、その作法がまた性的だ。瞬間ごとに人間は、セックスにつきまとわれている。このセックスに対する敵意のゆえに、この反対と抑圧のゆえに、人間は内側から腐敗しつつある。人間はその生の根源そのものであるものから、自分を自由に出来ないでいる。そしてこの絶え間ない内側での葛藤の為に、人間の存在全体がひどい神経症にかかってしまった。
人間は病んでいる。人類に明らかに見られる、この歪められた性的状態は、いわゆる指導者や聖者のせいだ。その責任は彼らにある。人間が、そういった教師や道徳家や宗教的な指導者から、そして彼らの偽りの教えから自分を自由にしない限り、人間の内部に愛が現れる可能性は全くない。
・・(略)・・この男に起こったことが、人類全体に起こってしまった。非難ゆえにセックスは強迫観念となり、病に、倒錯になった。それは毒されて来た。幼い時から、子供達はセックスは罪だと教えられる。少女は成長し少年は成長する。青年期が来て彼らは結婚する。そして、セックスは罪であるという固定した信念のもとに、情熱への旅が始まる。
インドでもまた、女の子はあなたの夫は神だと教えられる。どうして彼女に、自分を罪へと押しやる人を神として尊敬出来ようか?男の子はこう教えられる。「この人がお前の妻だ。お前の相手で、お前の連れ合いだ」経典には、女は地獄へ至る門、罪という井戸だと言う。そして今や、男の子は、生涯の伴侶として生きた悪魔を手に入れたのだと感じる。男の子は考える。「これが僕の妻だというのか・・地獄行きの、罪志向の伴侶だというのか?」彼の生にどうやって調和が起こり得よう?
伝統的な教えが、世界中の結婚生活を破壊して来た。結婚生活が偏見に満ち、毒に満ちていたら、愛の可能性はない。もし夫と妻が互いを自由に、本質的に、自然に愛せないとしたら、一体誰が誰を愛せるというのだろう?だが、このかき乱された状態は調整出来る。この泥だらけになった愛を浄化するのは可能なことだ。
この愛は、あらゆる障害を破壊し、あらゆる固定観念を解き、夫と妻を純粋で神的な喜びの中に飲み込むような、高遠な高みに引き上げることが出来る。この崇高な愛は可能だ。しかし、もしそれが蕾の内に摘み取られたり、抑えられたり毒を与えられたりしたら、そこから何が育って来るだろう?どのようにして、それは至上の愛というバラに花開いてゆけるだろう?
遊行者が村で野宿していた。ひとりの男がやって来ると、彼に自分は神を実現したいのだと話した。行者は聞いた。「あなたは誰かを愛したことがありますか?」「いいえ、私はそんな世俗的なことで罪を犯したりはしません」と男は答えた。「私はそのように低く身を落としたことはありません。私は神を実現させたいのです」行者はもう一度聞いた。「あなたは、愛の痛みを全く感じたことはないのですか?」求道者はハッキリしていた。「私は真実を言っています」と彼は答えた。
その可哀そうな男は正直に話した。宗教の領域では、愛したことがあるというのは失格だ。彼は、もし愛したことがあるなどと言ったら、行者はその場で愛から脱しなさいと求めるに違いないと確信していた。行者の導きを求める前に、執着を捨て、世俗的な全ての感情を置いて来いと要求されるに違いなかった。だから、もし誰かを愛したことがあるにせよ、彼は否定して答えなければならないと感じた。
愛したことが全くないという人間を、見つけることが出来るものだろうか?僧は3度目に聞いた。「何か言ってごらん。注意して考えてごらん。誰か彼かに対するちょっとした愛すらないのだろうか?あなたはひとりの人さえ愛したことがないのか?」大望を抱くその男は答えた。「失礼とは思いますが、なぜあなたは同じ質問をくどくど繰り返すのですか?私は愛には棒で触れたことすらありません。私は自己実現に達したいのです。私は神である状態を欲しているのです」
これに対して行者は答えた。「ならば私は勘弁して貰おう。他の人のところへ行くがいい。私の体験はこう教えている。あなたがもし誰か、誰でもいい、誰かを愛したことがあれば、もし愛の一瞥を得たことがありさえすれば、私はそれを広げることが出来る、それが成長するのを助けることが出来る。多分、神に届くように・・だが、もし愛したことが全くないなら、あなたは内側に何も持っていないということだ。あなたは1本の木に育ってゆく種を持っていない。行って誰か他の人を訪ねるがいい。友よ、愛が不在であれば、私は神に向かうどのような戸口も見出すことはない」
同じように、もし夫と妻の間に愛がないとしたら・・もしあなたが妻を愛さぬ夫にも、子供は愛することが出来ると考えるとしたら、あなたはひどい考え違いをしている。妻は、夫を愛するのと同じだけ息子を愛することが出来る。なぜなら、子供は夫の反映だからだ。だがもし夫への愛がなければ、どうして子供への愛があり得よう?もし息子が愛を与えられないとしたら、もし愛されずに育てられたとしたら、どうして彼に父親と母親を愛することを期待出来るだろうか?
家族は生のひとつの単位だ。世界それ自体がひとつの大きな家族だ。だが、家族生活はセックスに対する非難によって毒されて来た。そして、私達はどこにも愛が見つからないと言って悲しむ!そういう事情のもとで、どこかで愛を見い出すことなど、どう期待出来るだろう?誰もがみな、私は愛していますと言う。母親、妻、息子、姉妹、友達・・あらゆる者が私達は愛していますと言う。
だが生を全体にわたって観察すれば、生の中にはひとかけらの愛も存在しない。もしそんなに多くの人々が愛に満ちているのなら、愛が降り注いでいていいはずだ。庭園があってしかるべきだ。花に満ち溢れ、より多くの花、さらに多くの花のある庭園があっていいはずだ。あらゆる家に愛の灯火が輝いていたら、この世界には一体どれほどの光があることになるだろう!だが、その代りに私達が見い出すのは、一面に広がっている憎悪の空気だ。このような哀れな状態では、愛の光の一筋をも見い出せない。
愛があらゆるところにあると信じるのは、そう気取っているだけのことだ。この幻想の中に沈んでいる限り、真実への探求は始まることすら不可能だ。ここでは誰も愛さない。無条件に自然にセックスが受け容れられない限り、愛はあり得ない。それまでは誰も、誰かを愛すことは出来ない。
私が言いたいのはこういうことだ。セックスは神性だということ。セックスという原初的なエネルギーの中に神の反映がある。それは明らかだ。それは新しい生命を創り出すエネルギーだ。そしてそれは、あらゆるものの中でも最も偉大で最も神秘的な力だ。セックスに対する敵意を終わりにすることだ。もしあなたが、その生において愛が降り注ぐのを望むなら、セックスとの争いを放棄しなさい。セックスを喜びを持って受け容れるがいい。その神聖さを認めることだ。感謝を持って受け取り、さらに深く受け容れなさい。
あなたはセックスが、そのような神聖さを啓示出来ることに驚くだろう。それはあなたの受け容れる度合いに応じて、その神聖さを明らかにする。そしてあなたのアプローチが、罪の意識に満ちていて見当違いであればあるほど、あなたの前に現れるセックスは醜く罪深くなる。夫が妻に近づく時には、寺院に行こうとしているかのような神聖な感じを抱くべきだ。妻が夫の元へ行く時には、神に近づいているという尊敬の心に満ちているべきだ。セックスの時、愛する者達は交合を通り抜ける。その段階は、神の寺院に、創造的な無形状態の内に現れる神の寺院に非常に近い。
私の推測では、人間はサマーディの最初の輝く一瞥を、交合の間に得た。人は交合の時にのみ、そのような深遠な愛を感じることが可能であり、そのような光輝に満ちた至福を体験することが可能だということに気づいた。そして健康なマインドの状態でこの真理に瞑想した者達、セックスの現象、交合に瞑想した者達は、その絶頂の瞬間には、マインドが思考のない「空」の状態になるという結論に達した。思考の全てが、その瞬間押し流される。このマインドの何もない状態、この空、真空、思考のこの凍結によって、神聖な喜びが降り注がれる。
人間はこの点まで神秘を解明し、さらに掘り下げていった。もし意識の思考のさざ波を、何か他の方法によって慎めることが出来るとしたら、と人間は推論した。そうなれば純粋な至福を得られる!ここからヨーガのシステムが発達した。ここから瞑想と祈りが生まれた。この新しいアプローチは、交合しなくとも意識を慎めることが出来、思考を蒸発させることが出来ることを証明した。人間は、性行為の時に得られる驚くほど大きな喜びを、それなしでも得られるのだということを発見した。
その過程の性質から、性行為は一時的なものでしかあり得ない。なぜなら、それにはエネルギーの流れの完結ということが含まれるからだ。純粋な喜び、完全な愛、祝福に輝く慰め、ヨーガ行者が常にその中にいるその状態に、カップルはしばらくの間だけ達することが出来る。だが基本的には、両者の間に違いはない。ヴィシュヤナンダとブラフマナンダ、感覚に入り込む者と、神の中に入り込む者とは兄弟だと言った人は、偶然見た真実を述べたのだ。両方とも同じ母胎から生まれる。違いは、大地と大空の間の距離だけだ。
この段階で、私は最初の原則をあなたに与えたい。もしあなたが、愛についての基本的な真実を知りたいなら、まず第一に必要なことは、セックスの神聖さを受け容れることだ。セックスの神性を、神の存在を受け容れるのと同じように、ハートを開いて受け容れることだ。開かれたハートとマインドでセックスを充分に受け容れれば、それだけあなたは自由になる。が、抑圧すればするほど、あなたは農夫が衣服の奴隷になったようにそれに縛られる。あなたは受け容れる分だけ解放される。
生を全面的に受け容れたら、生の中で自然なこと全て、生の中で神によって与えられている全てを受け容れたら、それはあなたを神性の最も高い領域、未知の高み、崇高な高みへと連れてゆく。私はこの受容を有神論と呼ぶ。そして、神によって与えられたものへのこの信頼は、解放へと向かう扉だ。私は生の中の自然なもの、神の計画の中の自然なものを、人間に受け容れさせないような教えを無神論と見なす。
「これに反対しろ、あれを抑圧しろ。自然は罪深く邪悪だ、欲望に満ちている。これを捨て、あれを捨てろ」私の理解する限り、これら全てが無神論を構成する。放棄を説く者達は無神論者だ。生を、その純粋で自然な形のまま受け容れなさい。そして、その豊かさの中で栄えることだ。満ち溢れること自体が、あなたを一歩一歩、上へ引き上げてくれる。まさにこのセックスの受容そのものが、あなたが想像も出来なかった、雲ひとつない高みへとあなたを引き上げてくれる。もしセックスが石炭だとしたら、それがダイヤモンドとして姿を現す日が来るのは確実だ。これが第一の原則だ。
私があなたに言いたい二番目の基本的なことは、今日までに文明、文化、そして宗教によって、私達の内側で強められて来た「あるもの」についてだ。つまりエゴ、「私は在る」という意識がそれだ。セックスエネルギーの本性は、愛に向かって流れようとする。ところが、「私」という障害が壁のように囲っているので、愛は流れることが出来ない。この「私」は悪人にも善人にも、聖人だけでなく罪人の中にも強固にある。
悪人は、いろいろなやり方でこの「私」を主張する。だが、善人もまたこの「私」を鳴り物入りで宣伝する。彼らは天国へ行きたい。救われたい。彼らは世を捨てた。寺院を建てた。彼らは罪を犯さない。彼らはこれをやりたい、あれをやりたいと望む。しかし、その「私」という指標は常にそこにある。
エゴが強ければ強いほど、その人が誰かと一体になることは難しくなる。間にエゴが入り込んで来る。「私」が自己主張する。それは壁だ。それは「あなたはあなたで、私は私だ」と宣言する。その為、最も親密な体験でさえ人を互いに近づけることはない。身体は近くにあるだろう。だが人は遠く離れている。この「私」が内側にある限り、この「他者」という感覚は避けられない。
いつかサルトルは素晴らしいことを言った。「他者は地獄だ」 が、彼はなぜ他者が地獄なのか、すなわち、なぜ他者は他者なのかそれ以上説明しなかった。私は私だから他者は他者だ。そして私が「私」である間は、周りを取り巻く世界は他者だ。異なり、分かたれ、分離されている・・ひとつになることはない。
この分かたれているという感じがある限り、愛を知ることは出来ない。愛はひとつになるという体験だ。壁が取り壊されること、ふたつのエネルギーの融合、それが愛の体験だ。愛はふたりの人間の間の壁が消え去る時の、ふたつの生命が出会う時の、ふたつの生命がひとつになる時の、エクスタシーだ。ふたりの人間の間にそのような調和が存在する時、私はそれを愛と呼ぶ。そして、それがひとりの人間と多数との間に存在する時、私はそれを神との交合(コミュニオン)と呼ぶ。
もしあなたが、障害すべてが溶解し、スピリチュアルなレベルでの浸透が起こるようにと、「私」と共にその交合(コミュニオン)の中に沈むことが出来たら、その時それは愛だ。もし「私」と他者全ての間にその合一が起こり、「全て」なるものの内に「私」が自分の存在証明を失ったら、その時には、その達成、その融合は「神」とのものだ。「全知の神」との「宇宙意識」との「至上者」との、それはあなたの呼びたいようにするがいいが、それとの融合だ。このゆえに私は、その愛が最初の一歩で、「神」が最後の一歩、最高に素晴らしい終着点だと言う。
「私」を消すことはどうしたら可能だろう?自分を消さない限り、どうして他者と一体になることが出来ようか?他者は私の「私」への反応として作り出される。私が大きな声で「私」と叫べば叫ぶほど、他者の存在はそれだけ強力になる。他者は「私」のエコーだ。ではこの「私」とは何だろう?あなたは落ち着いて考えたことがあるだろうか?それはあなたの足の中にあるのか?あるいは手の中、頭の中、あるいはハートの中にあるのだろうか?それとも、それはただのエゴなのか?あなたの「私」、あなたのエゴはどんなもので、どこにあるのだろう?
何かそれらしいものはある。だがどこか特に定まった場所に、それが見つかるという訳ではない。しばらく静かに坐ってその「私」を探してごらん。あなたは驚くだろうが、厳しい探究にもかかわらず、あなたはどこにもあなたの「私」を見い出さない。あなたは奥深く内側を探せば、「私」などないのだということを理解する。エゴのようなものはない。自己の真実がそこにある時、そこに「私」はない。
・・(略)・・あなたはその「私」をどこにも見い出さない。それは多くのエネルギーの現われ、ただそれだけだ。それぞれの手足について考えてごらん。ひとつずつ、あなた自身の部分について考えてみるがいい。そして、ひとつずつ何もかも除いていってみることだ。最終的には何もない状態が残る。愛は、その無から生まれる。その無が「神」だ・・
・・(略)・・愛は、「空」からのみ生まれ出ることが出来る。虚空のみが、他の虚空と溶け合うことが出来る。ゼロのみが、別のゼロと全体的にひとつになることが出来る。ふたつの個人ではなく、ふたつの真空だけが出会える。なぜなら、もはやそこには障害がないからだ。他の全ては壁を持っている。真空は何も持たない。
だから憶えておくべきふたつ目のことは、愛は、個体性が消えた時、「私」と「他人」がもうそこにない時に生まれる。その時、そこに残るものは何であれ、それが全てだ。それは無限・・だが「私」はいない。その達成と共に、あらゆる障害は粉々に崩れ、長い間用意して待っていたガンジス河の激しい流出が起こる。
私達は井戸を掘る。水はすでにそこに、内側にある。別のところから運んで来る必要はない。私達はただ土と石を掘り起こし、それらを取り除くだけだ。私達がやることは正確にはどういうことだろう?私達は「空」を創り出す。そうすれば内側に隠されている水は、その中へと流れてゆける空間、それ自身が姿を現わすことの出来る空間を見い出すことが出来る。内側にあるものは、場を欲しがっている。それは空間を求める。それは空・・得ていないものを激しく求める。そうすれば、それは出て来ることが出来る。外へ飛び出すことが出来る。もし井戸が砂と石でいっぱいだったら、砂と石を取り除いた瞬間に水は湧き上がる。
同じように、人間は愛に満ちている。だが、愛は表へ現われて来る為の空間を必要とする。あなたのハートと魂が「私」と言っている限り、あなたは砂と石のつまった井戸だ。そして、愛はあなたの中で溢れることはない。
私は聞いたことがある・・
かつて太古からの雄大な1本の木があり、その枝を空へ向けて広げていた。それが花を咲かせる時には、ありとあらゆる形、色、大きさの蝶がその周りで舞った。花も盛りを過ぎて実がなると、遥か遠くの国から鳥が来てその中で歌った。手を広げて伸ばしたような枝は、その影に来て坐る全てのものを祝福した。
小さな男の子が、いつもその木の下に来て遊んでいた。その大きな木は、その小さな男の子に対して愛情を覚えるようになった。もし、大きいものが自分の大きいことに気づいていなかったら、大きいものと小さいものとの間に愛が可能だ。その木は自分が大きいということを知らなかった。人間だけがその種の知識を持っている。大きいものは、まず第一の関心として常にエゴを持っている。だが愛にとっては、誰ひとりとして大きくもなく、小さくもない。愛は、近くに来る者は誰をも抱擁する。
そういう訳で木は、いつも近くに来て遊んでいたこの小さな男の子をますます愛するようになった。その木の枝は高かった。それで木は腰をかがめ、その子が花を摘めるように実をもげるように、頭を低くたれた。愛はいつも頭を下げる用意がある。エゴには頭を下げる用意が全くない。もしあなたがエゴに近づいたら、その枝はさらに上へと伸びる。あなたの手がそこに届くことが出来ないように、それは身を堅くする。いたずらなその子が来ると、その木は枝を下げた。その子がいくつかの花を摘むと、木はとても喜んだ。その存在全体が愛の喜びで満たされた。何かを与えることが出来る時、愛はいつも幸せだ。エゴは何かを得ることが出来る時、いつも幸せだ。
男の子は成長した。時たま彼は木の叉の上で眠り、その実を食べ、その花の冠をつけてジャングルの王のように振る舞った。愛の花がそこにある時、人は王のようになる。だがエゴの棘がそこにあると、人は貧弱で惨めになる。男の子が花の冠をつけて踊りまわるのを見て、木は喜びに満たされた。木は愛の中でゆらめき、そよ風の中で歌った。男の子はさらに成長した。彼は枝の上に乗る為に木に登るようになった。木は少年が枝の上に休んでいる時、何とも幸せに感じた。愛は、誰かに安らぎを与える時幸せだ。エゴは不安を与える時だけ幸せだ。
時が経つと共に、義務の重荷が少年に生じて来た。野心が育っていった。彼には合格しなければならない試験があった。彼には雑談する友達、一緒にぶらつく友達がいた。だからもうあまり来なくなった。だが、木は彼が来るのを待ち望んでいた。木はその魂から「来てください、来てください、私はあなたを待っています」と呼んだ。愛は、昼となく夜となく待つ。木は待った。少年が来ないと木は悲しく感じた。愛は、分かち合えないと悲しい。与えることが出来ないと、愛は悲しむ。分かち合えると、愛は感謝に満ちる。全面的に明け渡せる時、愛は最も幸せだ。
成長するにつれて、その少年はますます木のところへは来なくなった。人間が大きくなり、野心が育ってゆくと、愛の為の時間はあまり見い出さなくなる。少年は今では世間的なことに心を奪われていた。ある日、少年が側を通りかかると、木は彼に言った。「私はあなたを待っているのに、あなたは来ませんね。私は毎日あなたを待っているのですよ」少年は言った。「お前は何を待っている?どうして私がお前のところへ来なくてはならない?お前はいくらかでも金を持っているか?私は金が欲しいのだ」
エゴは常に動機づけられている。もし役に立つ目的が何かあると、その時にだけエゴは現れる。だが愛は動機を持たない。愛は、それ自体が報酬だ。驚いた木は言った。「あなたは私が何かあげる時にだけ来るのですか?」出し惜しむのは愛ではない。エゴは貯える。だが愛は無条件に与える。「私達には、そのような病気はありません。それで私達は喜びに満ちています」と木は言った。
「私達には花が咲きます。たくさんの果実が実ります。気持ちのいい木陰を与えます。私達はそよ風の中で踊り、歌を唄います。私達がお金を持っていなくても、無邪気な鳥は枝の上を跳ねまわり、さえずります。私達がお金に巻き込まれる日には、あなた方弱い人間達のように、どうやって平和を得るか、どうやって愛を見い出すかを学ぶ為に、寺院に行かねばならなくなるでしょう。いいえ、私達にはお金の必要は何もありません」少年は言った。「それならお前のところへ来る必要はない。私は金のあるところへ行く。私には金が必要だ」エゴは力を必要とするから、金を求める。
木はしばらくの間考えて言った。「どこへも行かないでください。愛する者よ。私の果実を摘み、それを売りなさい。そうすれば、あなたはお金を得ることが出来るでしょう」少年はたちどころに明るくなった。彼は木に登り、果実を全部取った。まだ熟していないものまでが振り落とされた。何本もの小枝や枝が折れ、幾枚もの葉が地に落ちたにもかかわらず、木は幸せに感じた。壊れてしまうことすらもまた、愛を幸せにする。だがエゴは、得た後でも幸せではない。エゴは常により多くを望む。木は、少年が感謝する為に一度たりとも後を振り向かなかったことに気がつかなかった。木は、少年が果実を取ってそれを売ることに応じた時、すでにその感謝を得ていた。
少年は長い間、戻って来なかった。今彼は金を持っており、その金を元にさらに多くの金を作るのに忙しかった。彼は木のことをすっかり忘れていた。何年かが過ぎた。木は悲しかった。少年が戻って来るのが恋しかった。木は、息子を亡くしても胸は乳がいっぱい張っている母親のようだ。彼女の存在全体が息子を激しく求める。その子によって重荷が軽くなるようにと、彼女は狂ったように息子を探す。それがこの木の内側の叫びだった。その存在全体が苦しんでいた。
何年も経った後、今や成人となって少年は木のところへやって来た。木は言った。「いらっしゃい、愛する人。ここへ来て私を抱いてください」男は言った。「その感傷はやめよう。それは子供の頃のことだ。私はもう子供ではない」エゴは愛を狂気と見なす。子供じみた空想と見なす。だが木は彼を招いた。「いらっしゃい。私の枝の上にお乗りなさい。さあ踊りましょう、一緒に遊びましょう」男は言った。「その役立たずな話は一切止めてくれ!私は家を建てる必要がある。お前は私に家をくれることが出来るとでも言うのか?」
木はびっくりした。「家ですって?私は家なしでいます」人間だけが家の中に住む。人間以外誰も家に住まない。あなたは、4つの壁に囲まれて閉じ込められた人間の状態に気づいているだろうか?建物が大きければ大きいほど、その人間は小さくなる。「私達は家の中には留まりません。でも、私の枝を切り取って持って行ってもいいのですよ。そうすれば、あなたは家を建てることが出来るでしょう」少しも時間を無駄にすることなく、男は斧を持って来て木の枝を全部切り取った。今や木はむき出しの幹だけになった。
だが、たとえ枝が愛する者の為に切り取られたとしても、愛はそんなことは気にかけない。愛とは与えることだ。愛には常に与える用意がある。男は木に感謝することを思いつきもしなかった。彼は自分の家を建てた。そして日々が年月となり時は流れていった。幹は待ちに待った。木は彼を呼びたかった。だが、木には力を与えてくれる枝も葉もなかった。風が吹き通っていった。が、木は風に伝言を託すことさえ出来なかった。それでもなお、木の魂はひとつの祈りだけを鳴り響かせていた。「来てください、来てください、私の愛する人よ。来てください」
しかし、何も起こらなかった。
時が過ぎ、今やその男は年を取った。ある時彼は通りかかり、やって来て木の傍に立った。木は訊ねた。「あなたの為に、他に何かしてあげれることはないでしょうか?あなたは随分長い間いらっしゃいませんでした」老人は言った。「私の為に何が出来るかだって?私はもっと金を稼ぐ為に遠い国に行きたい。私には旅をする為のボートが必要だ」木は嬉しそうに言った。「でもそれは問題ではありません。愛する人よ、私の幹を切り、それでボートをお作りなさい。もし、あなたがお金を稼ぎに遠くの国へ行くのを助けることが出来るのでしたら、私はとても幸せです。でも、いつも憶えていてください。私はずっとあなたの帰りを待っています」
男はノコギリを持って来て幹を切り倒し、ボートを作って出帆して行った。今や木は、小さな切り株だ。そして、それは愛する人が帰って来るのを待った。待って、待って、待った。男は決して戻って来ないだろう。エゴは何かを得られるところへしか行かない。そして今では木は何も持っていない。全く何ひとつ差し出すものを持っていない。エゴは何も得るものがないところへは行かない。エゴは絶えず要求する状態にある永遠の乞食であり、愛は慈悲だ。愛は王、皇帝だ!愛より偉大な王がいるだろうか?
私はある夜、その切り株の近くで休んでいた。それは私に囁いた。「私のあの友達はまだ帰って来ません。あの人が溺れたり、あるいは道に迷ったりしたら・・そうした時のことを考えると心配でなりません。あの人は遠い国々のどこかで迷ってしまったに違いありません。あの人はもう生きてさえいないかもしれません。あの人についての知らせをどうして望めましょう!私の生涯も終わりに近づきました。せめてあの人についての噂でも聞ければ満足します。その時には、私は幸せに死ぬことが出来ます。でも、私が呼んでもあの人は来ないでしょう。私にはあげる物はもう何も残ってはいませんし、あの人は得る為の言葉しか理解しないのですから」
エゴは得る為の言葉しか理解しない。与える言葉は愛だ。
これ以上は、私は何も言うことが出来ない。それに、これ以上は何も言うことがない。もし生があの木のようになることが出来たら・・誰もがその木蔭で憩えるように枝を遠くまで大きく広げたら・・そうなったら、私達は愛とは何かを理解するだろう。愛には経典もなく、地図もなく、辞書もない。愛にはひと揃いになった原則もない。
私は、愛について自分が何を言えようかと不思議に思う!愛は説明するのがとても難しい。愛はただそこにある。もしあなたが近づいて私の目の中を見入ったら、多分あなたはそれを
その目の中に見るだろう。私が抱擁しようとして腕を伸ばす時、あなたはそれを感じることが出来るだろうか?
愛・・ 愛とは何だろう?
もし愛を私の目の中に、私の腕の中に、私の沈黙の中に感じられなかったら、その時には、私の言葉から愛を理解することは決して出来ない。私の話を聞いてくださってありがとう。
最後に、私達全員の中に坐している「至高なるもの」に、私は敬意を表そう。
受け容れられることを願って・・
OSHO,「セックスから超意識へ」(第1話)(めるくまーる社)より抜粋