96.セックスとは自然なもの
<OSHOの講話より>
質問:愛するOSHO、私は夫を愛していますが、セックスは嫌いです。それで問題が起こるのです。セックスって動物的じゃないでしょうか?
その通り。でも人間は動物だよ、他のどんな動物にも負けないくらいに。でも人間は動物だからといって、動物でおしまいだという訳じゃない。動物以上にもなれるし、以下にもなれる。それが人間の栄光だ・・・自由と危険、苦悩とエクスタシー。
人間は動物よりずっと低くなれるし、また神よりずっと高くなれる。人間には無限の潜在性がある。犬は犬、ずっと犬のままだ。犬として生まれ、犬として死ぬ。人間はブッダのようにもなれるし、アドルフ・ヒットラーのようにもなれる。人間にはどちらの道も開いている・・・転落も出来る訳だ。
大体人間くらい危険で、人間くらいおかしな動物がいるだろうか。ちょっとこんな場面を考えてごらん・・・5万の猿達がスタジアムに座って子供達を殺している・・・火の中に投げ入れて・・・一体あなたはどう思うだろう。何千もの子供達が火の中に投げ入れられる・・・自分達の子供が・・・こういう猿達をどう思うだろう。気でも違ったと思わないだろうか。
でもこれは人類に起こったことだ。それはカルタゴで起こった。5万の人々が子供達を焼いたのだ。神への捧げものとして、一度に3百人もの子供達を焼いている・・・自分達の子供をだ!でもカルタゴのことは置いておこう、ずっと昔のことだ。
一体アドルフ・ヒットラーは今世紀に何をしたのか?もちろん、今世紀の文明はずっと進んでいる。だからアドルフ・ヒットラーはカルタゴよりもずっと大きなことをやれた。何百万ものユダヤ人を殺したのだ。一度に何千人もがガス室に入れられた。そして何百もの人々が外から半透明のガラス越しにそれを見ていた。
こういう人々のことをどう思うだろう。一体どういう人間達か。人々にガスが浴びせられ、焼かれ、消え去る・・・それを他の人々が見ている。一体動物達にこんなことが出来るだろうか。
この3千年間に、人々は5千回の戦争をやって来た・・・殺戮につぐ殺戮だ。ところがあなたはセックスのことを動物的だと言う。動物はかつて一度も、人間ほど「動物的」なことをやったことがない。ところがあなたは人間のことを動物じゃないと思う。
人間は動物だ。人間は動物じゃないという考えは、あなたの成長にとってひとつの障害だ。自分は動物じゃないと思い込んでいれば、あなたの成長は止まる。だからこのことをよく認識するように・・・「私は動物だ。そして必要なのはそれをよく見つめ、それを超えてゆくことだ」・・(略)・・
動物達は素晴らしい。何がどうあろうとも彼らは無垢だ。ところが人間はとてもずるくて、とても計算高く、とても醜い。人間は動物よりも低くなれる。なぜなら人間は人間よりも、神よりも高く昇れるからだ。
人間には無限の潜在性がある。最低にもなれるし最高にもなれる。自分の存在の内に、初めの一段から最後の一段まで梯子(はしご)の全てが入っている。
だから私の言いたい第一点は、セックスのことをただ動物的だと呼んではいけないということだ。セックスは動物的であり得るが、必ずしもそうである必要はない。それはもっと高くなり得る。それは愛にもなり得るし、祈りにもなり得る。それは自分次第だ。
セックスそのものは何か固定的なものではない。ただの可能性だ。自分の好きな通りのものになる。それこそがタントラの教えるところだ。
セックスはサマーディともなり得る。それこそがタントラのヴィジョンだ。セックスはサマーディともなり得る。セックスを通じて究極のエクスタシーがあなたの中に入って来る。セックスはあなたと究極との間の架け橋ともなり得る。
あなたは言う。「私は夫を愛していますが、セックスは嫌いです。それで問題が起こるのです」どうして夫を愛しながらセックスを嫌うことが出来るだろう。あなたは言葉で遊んでいるに違いない。どうして夫を愛しながらセックスを嫌うことが出来るだろう。
ちょっと考えてごらん。ある人を愛したら、手を握りたくなるだろう。ある人を愛したら、ときには抱き締めたくなるだろう。ある人を愛したら、声を聞きたくなるばかりではなく、顔も見たくなるだろう。
恋人の声を聞くだけでは、その恋人は遠いところにいる・・・音だけでは充分ではない。相手を見ればもっと満足する。そして相手に触れれば、もっと満足する。相手を味わえば、さらにもっと満足する。セックスとは何か?それは深いエネルギー同士の出会いだ。
あなたのマインドの中には、何かタブーが、抑制があるに違いない。セックスとは何か?それは2人の人間が最大レベルで出会うことだ。たんに手を握ることではなく、たんに抱き合うことではなく、互いのエネルギーの領域まで貫くことだ。
どうしてセックスを嫌うのか?あなたのマインドは「マハトマ達」によって条件付けられているに違いない・・・そういったいわゆる「宗教的な」人々が、人類全体を毒し、成長のまさに源泉を毒して来た。
どうして嫌うのか?自分の夫を愛するなら、自分の存在全体を分かち合いたいと思うはずだ。嫌う必要はない。セックスを嫌うということは一体どういうことか?
それはたんに、相手に経済的な面倒を見てもらいたい、家の面倒を見てもらいたい、車や毛皮のコートを手に入れてもらいたいということだ。それは相手を利用することであって、それを愛と呼ぶのかね。そして自分の方は何も分かち合いたくない。
人を愛したら、あなたは全てを分かち合う。人を愛したら、もはや秘密はなくなる。人を愛したら、自分のハートはすっかりオープンになる・・・自分は相手のものだ。人を愛したら、もし相手が欲するならば地獄までも一緒に行く。
こういうことはよくある。私たちは言葉が巧みだ。愛していないとは言いたくないので、愛してはいるがセックスは嫌だというふうに装う。セックスというのは愛の全てではない、それは本当だ。愛とはセックス以上のものだ、それは本当だ。
しかし、セックスはその基礎となる。確かにある日セックスは消え失せる。しかし、それは嫌うことによって消え去るものではない。嫌うというのはそれを抑圧することだ。そして抑圧したものはやがて必ず現れて来る。どうか、僧とか尼にはならないように。・・(略)・・
セックスというのは自然なものだ。人はそれを超えて行けるが、それは抑圧によってではない。抑圧したら、いずれそのうちきっと表に出て来る。必ず倒錯が起こる・・・何か代用が必要になる。
そんな代用は全く役に立たない。決して役に立たない。自然な問題がそのように押さえつけられ、忘れられてしまい、それが別のところから代用物として現れてくる・・・すると、いくらそれを相手に戦ってもどうしようもない。・・(略)・・
でも代用ではどうしようもない。倒錯や強迫観念が起こるばかりだ。いつか自然を超えたいなら、自然でいることだ。自然だということが、第一の条件だ。別に自然より以上のものがないということではない。より高い自然がある・・・それこそがタントラのメッセージだ。
でもしっかり地に足をつけることだ・・・もし本当に空高く昇っていきたいなら。この木々が見えるだろう。地に根を張っている。根を張れば張るほど、高くまでいく。もっと高くなりたければ、もっと地中深く入らないといけない。もし木が星々にまで達しようとするなら、まさに地獄まで達しないといけない・・・それしか道はない。
もし魂になりたいなら、自分の肉体に根を張ることだ。もし本当に愛する人になりたければ、自分のセックスの中に根を張ることだ。確かにエネルギーが愛へと転換されればされるほど、セックスは必要はなくなって来る。しかしそれを嫌うことはない。
嫌うことは物事に対する正しい姿勢ではない。嫌うというのは恐れていることに他ならない。嫌うというのは、自分の中に大きな恐怖があるということだ。嫌うというのは、奥深くでまだ惹かれているということだ。
もしセックスを嫌ったら、あなたのエネルギーはどこかよそへと動いてゆく。エネルギーとは動くものだ。人がセックスを抑圧すると、より野心的になる。もっと野心的になりたければ、セックスを抑圧することだ。そうして初めて野心にエネルギーが入る。さもないとエネルギーはない。
政治家はセックスを抑圧する必要がある。そうして初めてニューデリーに駆け込むことが出来る・・・セックスエネルギーが必要だ。セックスを抑圧すると、必ず世界全体に対する怒りが生じて来る。そうすれば大革命家にもなれる。革命家というのは、みな性的に抑圧されている。
世界がもっとよくなって、セックスが単純で自然なものとして受け容れられ、タブーも抑圧もなくなったら、政治は消え失せ、革命家もいなくなるだろう・・・その必要がなくなる。
セックスを抑圧する人間は、ひどく金に執着するようになる。自分のセックスエネルギーをどこかに持って行かないといけない。恋人に触れるように百ルピー札を握り締めている人々を見たことがないだろうか。その目に同じような愛欲がうかがえないだろうか。しかしそれは醜い。
深い愛を持って女性を抱き締めるのは美しい。しかし愛欲を持って百ルピー札を握り締めるのは醜い・・・それは代用品だ。動物はだませない・・・
ある男が息子を動物園に連れて行った。猿を見せたかったのだ。息子はすごく楽しみにしていた・・・まだ猿を見たことがなかったのだ。ところが行ってみると猿はいないのだ。そこで飼育係に聞いてみた。「一体どうしたんだい、猿はどこかね?」
飼育係は言った。「今は恋のシーズンでね、小屋の中に入っちゃったよ」男はとてもがっかりした。何ヶ月も前から子供を連れて来ようと思っていたのだ。そしてはるばるやって来たのに恋の季節だという。それで男は言った。「ナッツを投げたら出て来ないかねぇ」飼育係は言った。「あんただったら出て来るかい?」
でも、人間だったら出て来るかもしれない。ナッツを投げたら人はきっと出て来るだろう。飼育係は間違っている。猿が出て来ないというのは当たっている。金を差し出しても猿は出て来ない。
猿はきっとこう言うだろう。「金なんかいらない、もう恋のシーズンだ!金なんかいらない」そしてもし「インドの大統領にしてあげよう」と言っても、猿は言うだろう。「大統領なんてどうでもいい。もう恋のシーズンだ!」
ところが人間は、もし大統領になれるというなら、恋人も殺しかねない。もしそれが懸っていたら、そうもしかねない。それは代用物だ。動物はだませない。・・(略)・・
代用物では駄目だ。人は代用物と共に生きている。セックスは自然だが、金は不自然だ。セックスは自然だが、力や権勢や声望は不自然だ。もし何かを嫌いたかったら、金を嫌い、力を嫌い、権勢を嫌うのだ。どうして愛を嫌うのか。
セックスというのは、世界で一番美しい現象のひとつだ。もちろん一番低い・・・それは本当だ。しかし高いものは低いものから生じる。蓮は泥から現れる。泥を嫌ってはいけない。さもなければ、どうやって泥から蓮を生じさせるというのか。
確かに蓮は泥から遥かに隔たっている。だからそこに関係があるとは思いもよらない。蓮を目にすれば、それが汚い泥から現れるなんて想像も出来ない。しかしそれは現れる。それは汚い泥の表現だ。
魂は肉体から現れる。愛はセックスから現れる。セックスは肉体のものであり、愛は精神のものだ。セックスは泥のようであり、愛は蓮のようだ。しかし泥がなかったら蓮は生まれない。だから泥を嫌ってはいけない。
タントラ全体のメッセージは単純だ。それはとても科学的で、とても自然だ。そのメッセージはこうだ・・・もし真に世界を超えたかったら、深く世界の中に入ってゆくのだ、どこまでも気づき、覚醒して。
OSHO:Tantric Transformation、#2 より抜粋 (OSHOタイムス日本語版No.76より)