OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

101.男性も女性も多婚性

<OSHOの講話より> 

質問:愛するOSHO、私が1人の男性を愛しているときは何時も、その何年かは他の男性に惹かれることはありません。でも相手の男性にとっては、それは同じではないのです。幸せで私に満足しているにもかかわらず、そして私との関係性を続けようとしているのに、彼には何ヶ月かおきに短い情事があるのです。 

私は男性と女性の本性が違うことを理解しています。私はまた、あらゆる愛には峰も谷もあることを理解しています。それでもしばらくの間は、私の中に悲しさが来ては去ることが続きます。 

私は彼には長い綱を与えています。私の友達は、私があまり彼のところにいてやるので、それが相手に私がいて当然と思わせて、私に対する敬意を失わせているのだと言います。

OSHO、そうなのでしょうか?私にははっきり分かりません。私は彼には何も期待していません。あなたの方が私をよくご存知です。どうかコメントしていただけませんか? 


ニーラム、あなたの質問にはいろいろなことがある。 
第一に、あなたは人間の本性について誤解しているということだ。世界中の多くの人がそう思っているのだが、あなたは男性は多婚性であり、女性は単婚性だと・・・ 

女性は1人の男性と一緒に住みたい、1人の男性を愛し、1人の男性に自分を全面的に捧げたいと思っているが、男性はその本性が違っている・・・彼は少なくともたまには他の女性も愛したいと思っている・・・と、考えている。 

真実は、男女両方が多婚性だ。何千年もの間、女性は男性によって、自分は単婚性だと考えられるように条件付けられて来た。男性は非常にずる賢い。男性は様々なやり方で女性を搾取して来た。 

そのひとつが、男性は生まれつき多婚性だと女性に言って来たことだ。あらゆる心理学者、あらゆる社会学者が、男性が多婚性だという事実については同意している。そして彼らのうち誰一人女性について同じことを言う者はいない。 

私自身の理解は、両方が多婚性だというものだ。女性が多婚性であるように振る舞わないとすれば、それは躾(しつけ)のためで本来の性質ではない。 

女性はあまりにも長い間、完全な条件付けを受けたために、その条件付けは女性の血そのもの、骨そのもの、髄そのものに入ってしまっている。 

どうして私はそう言うのか?・・・なぜなら全存在の中で、動物はすべて多婚性だからだ。もし全存在が多婚性であるのに、人間の女性だけが例外的な本性を持っているとしたら、まさに驚くべきことということになる。 

存在の中では例外というものはない。だが女性が財政的に男性に依存しなければならなかった為に、男性は様々なやり方で女性を剪定(せんてい)した。男性は女性の翼を切り、女性の自由を切り取り、女性が自らを頼む心を切り取ってしまった。 

男性は、君は自分のことを心配する必要はない、私が面倒を見ると言って、大いなる愛を見せかけながら、女性の責任を自分の双肩に引き受けた。だが愛の名において、男性は女性の自由を取り上げたのだ。 

何世紀もの間、男性は女性が教育を受けることを、何かの技術、何かの技で資格を得ることを許さなかった・・・女性は経済的に男性に依存しなければならない、と。 

男性は女性の移動の自由まで取り上げた・・・女性は男性が動くように自由には動けない。女性は家に縛り付けられている。家はほとんど女性にとっての牢獄だ。 

また特に、過去においては女性は絶えず妊娠していた。なぜなら10人の子供のうち9人は死んだものだからだ。2,3人の子供を得るために女性は、子供の産める間は絶えず妊娠していなければならなかった。 

妊娠した女性は経済的にもっと依存することになる。男性が女性の面倒を見ることになる。男性には知識があり、女性は何も知らない。女性は無知のままに放っておかれた。 

それは知識が権力だからだ・・・だからこそ、女性は知識を奪われていたのだ。そしてこの世は男性の世界であるために、女性を隷属させておくことに関する限り、男性達はみんな同意した。 

だが全ては非常に巧みに為されて来た。女性は本来単婚性なのだと言われてきた。今ではたった1人の心理学者、たった1人の女性の社会学者でさえ、これに反駁しない。男性が多婚性なのに、どうして女性が単婚性であるはずがあるのかね? 

男達は自分の多情に対して道を作った。男達は売春というものを作った。これは過去においては認められたことであり、妻は誰も、夫がときたま売春婦を訪れるということに反対する者はいなかった。そのことは男性にとってはごく自然なことだと考えられていた。 

私はあなた方に、両方が多婚性だと言う。全存在は多婚性だ。それはそのはずだ。単婚は退屈だ。いかに美しい女性であろうと、いかに美しい男性であろうと、あなた達は飽きる・・・ 

同じ地理、同じ地形、同じ顔をどれほど眺めていなければならないのか?だから何年も経つと、夫がほんの一瞬も妻の方を注意を込めて見ないというようなことが起こる。 

私自身のアプローチは自然で素朴だ。私は新しい人間の世界に結婚を望まない。結婚とはあまりにも醜く腐敗した現象だ。あまりにも破壊的で、あまりにも非人間的だ。 

一方では、それは1人の女性を奴隷にし、そしてもう一方では、売春という最も醜いものを生み出す。売春婦とは、結婚を救うために必要とされるものだ。そうしなければ、男達は他の人の妻と浮気をし始めるからだ。 

売春は男性が他人の妻に巻き込まれないための社会的な仕掛けだ・・・美しい女性が手に入るのだから。 

インドでは、ゴータマ・ブッダの時代には、町の中の最も美しい女性は結婚することを許されなかった。その女性は売春婦にならなければならなかった。そういう女性はナガバドゥ、町中の妻、と呼ばれた。 

彼女があまりにも美しいために、1人の男性と結婚することは嫉妬を、葛藤を、問題を引き起こすことになるからだった。男達の間に起こるそういう葛藤は、すべて避けた方がいい。そしてその女性を誰の手にも入る売春婦にした方がいい、という訳だ。 

インドには、あらゆる寺院にデバダシスがいる。今でも南インドにはデバダシスが存在している。昔は、あらゆる家族はその家の最も美しい少女を寺院に、神に捧げるようにと求められていた。神の名において、寺院の中のそういう美しい少女達は売春婦になった。 

まず彼女達は、司祭達によって使われた・・・つまり金持ちの信者達だ。そしてその少女達は非常にたくさんいたので、あらゆる値段で手に入れることが出来た。最も貧しい者でさえ、彼女達を買うことが出来た。もちろん、それほど美しい女性ではないだろうが、どんな女性でもいないよりはましだ。 

現在でさえ、ほんの数日前、ボンベイで売春婦全員のある調査がなされた。彼女達の30%は南インドから、その両親によって神に捧げられた寺院からやって来ている。 

両親にとってはそれには動機がある。娘を神に捧げる方が、嫁に出すよりは簡単だった。インドでは非常に大変なことだ・・・非常に金がかかり、どんな親でも出来るということではない。 

娘を1人嫁に出すために親は自分達の土地を、自分達の家を売らなければならない。親は乞食になってしまう。だから、それは非常に簡単で、楽で、便利で、しかも道徳的な・・・立派な、尊敬される・・ことであった。社会はそれに名誉を与えた。 

親達は娘を捧げた。彼らは未だにそういう少女達を寺院に捧げる。するとその寺院はそういう少女達を大きな都市に売る。なぜなら今では、金持ちの信者はそういう寺院にはやって来ないからだ。そういう少女達をボンベイカルカッタニューデリー手配師に売った方がいい。 

政治家達がその少女達を必要とし、聖職者達が彼女達を必要とし、金持ち達が必要としているからだ。自分の家を遠く離れて都会に住んで働いている者達・・・家族は田舎に住んでいるのだが・・・が彼女達を必要とする。 

ボンベイの売春婦の30%が、彼女達が神に捧げられた寺からやって来ている。過去の寺院とはみんな、売春をデバダシスの名の下に隠すための、聖なる見せかけ以外の何物でもなかった。その言葉の意味は、神の召使いということだ。 

男達は自分のためには手筈を整えたが、女性には禁じた・・・第一に、もし自分の女性が他の誰かを恋したら、男のエゴが傷つく。それは自分が拒否されたということ、自分が充分に男性ではないということ、何かが自分には欠けているということになる。 

そしてそれ以上に、もうひとつの問題がある。私有財産だ。男は自分の女を完全に防御しなければならない。それは彼が自分の財産を自分自身の血筋の者に嗣(つ)がせたい為だ。 

そしてもし、女性が自由に恋愛出来るとなれば、自分の息子が本当に自分の息子かどうか確信を持つことは非常に難しくなる・・・ほとんど不可能だろう。 

誰か他の者の息子かも知れないのに、その人間が自分の財産を嗣ぐことになるのだ。私有財産を守る為には、女性は単婚性だと条件付けられなければならない。だがそれは真実ではない。本来ではない。 

男性であろうと女性であろうと、誰だって、少なくとも時には・・・週末くらいは・・・変化が必要だ。5日間は男女共に単婚制で、週末の2日間だけは2人共多婚性になればいい。 

それに財産について何を心配するというのだろう?・・・自分が死んだ時に誰がそれを所有するか・・・自分の血筋の者か、あるいは他の血筋の者かを心配しようというのかね?要らぬ心配のようだ・・・誰かがそれを嗣ぐことになるだけだ。 

そしてもし、自分が他の女性に興味を持つのだとしたら、あなたの女性もまた人間だということ、同じハートを持ち、同じ意識を持っているということを・・・彼女もまた時には新しい男性に出会いたいのだということを・・・あなたは理解すべきだ。 

私がそのために全生涯を捧げて来た新しい世界には、結婚はあるべきではない・・・いるのは恋人達だけであるべきだ。 

その人達が一緒にいるのを喜んでいる間、2人は一緒にいればいい。そして2人で長くいすぎたと感じ始めたら、少し変えてみるといい。 

悲しみというような問題、怒りというような問題はない・・・ただ人間の本性に対する深い受容があるだけだ。 

そして自分が、男性あるいは女性を愛したことがあれば、相手にも出来るだけの自由を与えることを愛するだろう。 

もし愛が自由を与えることが出来なければ、それは愛ではない。

 

ニーラム、あなたは「しばらくの間は、私の中に悲しさが来ては去ることが続きます。私は彼には長い綱を与えています」と言う。 

さあ、そういう考え方そのものが間違っている。あなたの男性は犬で、あなたがそれに長い綱をつけているとでも言うのかね?あなたには自由を与えることなど出来ない。 

自由とは、誰もの生まれながらの権利だ。自分が長い綱を与えているという・・・その考えそのものが、まだ自分の手にその綱を握っている。自分がその自由の与え手だ。 

自由を与えることなど、あなたには出来ない。人に出来るのはただ、他人の自由を受け入れることだけだ。 

犬がこの木、あの木と小便を引っかけるのを見ながら、その綱の端を自分の片手に持っているような訳にはいかない。あなたはそれを自由だと思うだろうか?そうではない、そういう考えそのものが間違っている。 

相手には、相手の自由がある。あなたには、あなたの自由がある。彼が綱の端を手に握っている必要もなければ、あなたにもまたその必要はない。そうでなければ、両方が鎖につながれる。 

相手の綱はあなたにとっては鎖となり、あなたの綱は相手にとって鎖となる。そしてあなたは、自分が「充分」な綱を与えていると思う・・・自分はきわめて寛大だ、と。 

自由とは、他の人間に与えなければならないようなものではない。自由とは、相手の財産として認められなければならないものだ。 

自分が愛している人の自由が、自分を傷つけるなどということはない。それが人を傷つけるのは、その人が自分の自由を行使していないからにすぎない。 

人を傷つけるのは、相手の自由ではない。あなたが傷つくのは、何世紀にもわたる条件付けによって、自分が不能になっているからだ。 

つまり男性は、あなた方の自由をすべて取り上げてしまった。それこそが真の問題だ。あなたの自由が、あなたに返されなければならないのだ。そうすれば傷つくことはない。 

それどころか、あなたはそれを楽しむことになる。自由とは、きわめて喜びに満ちた経験だ。 

自分の恋人が自由を楽しんでおり、自分も自由を楽しんでいる。自由の中であなた方は出会い、自由の中であなた方は別れる。もしかしたら、生は2人をまた一緒にするかも知れない。そして最もありそうなことは・・・ 

愛情関係について調べたあらゆる調査は、ある現象を指し示しているのだが、それは今までどんな社会によっても受け入れられたことはない。そして私がこれを言っている現在ですら、私は世界中で非難されている。 

あなたの男性が他の女性に関心を示したということは、もうあなたを愛していないということではない、ということだ。ちょっとした好みの変化を意味しているだけだ。 

たまにはサルジャノ(イタリア人サニヤシンの名前)のピザのある所に行きたくなる。それは、あなたが今までの食べ物を止めたということではない。ただ時にはそれもいいということだ。 

実際、サルジャノのピザを訪れた後では、あなた達はもっと喜ばしげにキャンティーンに行く。その経験を忘れるには2,3日かかる・・・そうしたらまたある日スパゲティだ。そういうことには大した意味はない。人はスパゲティだけ食べて生きる訳にはいかない。 

心理学者達はひとつの点で同意している。互いに愛し合っている夫婦は、時には少しは浮気をすべきだというのだ。その浮気が2人の関係を新しくし、新鮮にすることになる。再び自分の妻の美しさを見直すようになる。 

もう一度妻と一緒に暮らしたいと空想し、夢を見始めるかもしれない。自分は以前は彼女を誤解していた。今度は誤解しない、と。そして同じことがあなたの夫についても言える。 

私の考えるコミューンの中では、人々は自分の伴侶に対してまったく自由にこう言うだろう。「2日ばかり休みが欲しいの。そしてあなたも自由。家にいて腹を立てていることはないのよ」 

あなたが瞑想したいというなら話は別だが、そうでもなければ、あなたは隣の奥さんに随分長いこと興味を持って来たのだから・・・向こう側の庭の芝生はより緑だ・・・あなたはそれを長いこと食べたいと思っていた。今や奥さんがあなたにチャンスをくれている!

あなたは言うはずだ。「そいつは凄いね!行っておいでよ。そして楽しんでおいで。それに僕もお隣さんに行ってみるつもりだ・・・あっちの芝生の方が緑が濃いようだ」と。 

だが2日もすれば、牧草はやっぱり牧草だということ。自分の家の芝生の方が遥かにいい、ということが分かる。だが本物の経験が必要なのだ。そして2日後、あなた達はまた出会う。それは新しいハネムーンの始まりになるだろう。 

なぜ毎月をハネムーンにしない?どうして人生たった一度のハネムーンで満足している?それは不思議であると同時に、まったく不自然だ。 

それに恋愛とは、奥さんが他の誰かに恋するのをあなたが邪魔しなければならないような、悪いものでも邪悪なものでもない。それは単なる楽しみだ。大して心配するようなことではない。 

もし彼女が誰かとテニスをしたいと言うなら、させてあげたらいい!私は愛を交わすということに、テニスをする以上の意味があるとは思わない。実際、テニスの方が遥かに清潔だ。 

ニーラム、あなたは「私は彼に何も期待していません。あなたの方が私のことをよくご存知です」と言っている。 

確かに私の方があなたをよく知っている!私は誰のことでも本人よりよく知っている。あなたが期待しないということの中でさえ、口には出さぬ期待が隠されている・・・そしてそれはより微妙で、より拘束力がある。 

ただ、人は単純な事実を受け入れなければならないだけだ。それは、あなたのパートナーは見知らぬ他人だということだ。あなた達が一緒にいるのはほんの偶然に過ぎない・・・そして傍観者からなら、よそ者からなら、あなたは何一つ期待しないはずだ。 

私が生涯で出会った最も賢い女性の1人は、自分は見知らぬ他人としか愛を交わさない、と私に告白した。 「どうしてだろう?セックスの相手に見知らぬ他人を見つけるなんて、随分難しいだろうに」と私は言った。 

彼女はこう言った。「そんなことないわ。汽車の中だって、飛行機の中だって・・・私は相手の人の名前も訊かないもの。そして自分についても何も言わないし。お互い他人のまま。 

私達は愛し合って、翌日市場で会ったとしても、私も相手を認めないし、彼の方だって・・・そんな必要はないもの。ただ2人の完全な自由から、どんな束縛もなく、どんな関わりもなしに、その瞬間を楽しんだだけ」 

彼女は結婚している。フィリピンの大金持ちと結婚しているのだが、フィリピンにはめったに帰らない。見知らぬ人間を求めて、彼女は世界中を旅し続けている。 

彼女は言う。「たまに私はフィリピンに帰るの。その頃には、夫も見知らぬ他人になっているわ。そして私は彼を恋する。でも自分が関係という罠にはまっていくなと感じたら、私はまた飛び出すの。また旅に出るのよ」 

私には、彼女の洞察の中に非常に深いものがあるのが分かる。出来る限り愛しなさい。決して次の瞬間を考えないことだ。そしてもし、あなたの恋人がどこかに行ってしまったのなら、あなたも自由なのだ。 

それに、自分を騙してはいけない。1人の人を愛している間、自分は他のどんな男性にも惹かれることはない、と言える女性がいるだろうか?あるいはそれは非常に抑圧された欲望であるかも知れないし、それが表面化することを決して許さないかも知れない。 

だが、そんなことがないということはあり得ない。周りには素晴らしい人がたくさんいるからだ。あなたはたくさんの見知らぬ他人の中から、たった1人の他人を選んだ。 

自由を、愛そのものよりも高い価値として保持しなさい。もしそれが可能だったら・・・それは可能だ。それが自然なのだから・・・あなたの「生」は、不幸ではなくなる。 

それは絶えざる興奮、新しい人間の絶えざる探検になるだろう。私達はみな、見知らぬ他人だ。誰ひとり夫でもなければ、誰ひとり妻でもない。 

どこかの馬鹿な登記係が判を押したくらいで、人を夫や妻にすることは出来ない。いったんその馬鹿者が判を押してしまったら、別れたいと思えば、他の馬鹿者、もっと大掛かりな馬鹿者の所に行って、別れる為に数ヶ月も数年も待たなければならないとは、不思議な話だ! 

そんなことは個人的な問題だ。どんな登記係にも、どんな裁判官にも何の関係もない。なぜあなた方は、自分の自由を他人の手に委ね続けるのか? 

ニーラム、あなたは「私の友達は、私があまり相手の所にいてやるので、それが相手に私がいて当然と思わせて、私に対する敬意を失わせているのだ、と言います」と言っている。 

あなたの友達は理解していない。そして、その人達はあなたの友達でもない。なぜならその人達の忠告は、敵がする忠告だからだ。人は絶対に、自分を「そこにいさせる」べきなのだ。 

あなたの友達は、男性があなたを愛したいと望んだ時には、ある時は頭痛がすると言い、別の日には疲れ過ぎたと言い、また別の日にはそんな気になれないと言って・・・相手の男性をまとわりつかせなさい、と教えている。 

あまり長いロープを渡さないで、ほんの短い綱をつけ、相手の首の周りに美しい鈴を付けて、そこに「注意、個人の私有物です」と書いておきなさい、と言っているのだ。 

「そこにいる」という言葉で、あなたは何を意味しているのか?あなたは自分が愛する人の「そこにいる」べきだ。 

そして、たまに彼が相手を変えたいと思うなら、それを楽しみなさい。喜んで行かせてあげたらいい。それはあなたに自尊心と尊厳をもたらすことになる。 

結婚生活に破れたある離婚女性が、地方紙に次のような広告を載せた。「決して私を殴らない男性、決して浮気をしない男性、そして信じられないくらい私を愛してくれる男性を求む」 

1週間後、玄関のベルが鳴った。彼女が出て行って扉を開けると、そこには誰の姿も見えない。扉を閉めて戻ろうとすると、またベルが鳴る。もう一度扉を開けてみるが、そこには誰の姿も見えない。が、ふと下を見下ろすと、戸口の上り段に、両腕と両足のない男が1人立っていた。 

「あんたの広告を見て来たんだけど」と、その男。彼女がなす術を知らずに絶句しているので、男は言葉を続けた。「ご覧の通り、俺にはあんたを殴れない。それに俺が浮気するのも無理だろうな」 

その女性は言った。「ええ、それは分かるわ。でも、あの広告には『信じられないくらい愛してくれる男性』ともあったはずよ」 

男はにっこり笑ってこう言った。「だからちゃんとベルを鳴らして聞かせたろ」 

OSHO:The Golden Future より 
(OSHOタイムス日本語版、31号、1991年8月1日発行)