OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

95.高いビルから飛び降りたくなるのはなぜ?

<OSHOの講話より> 

質問:私は若い頃、ビルディングの高いところにある開いた窓のそばで、ある「吸引力」をよく感じたものです。今一緒に働いている人々の多くもそうです。その感覚は「もうちょっとでも近づけば、きっとジャンプしてしまうだろう」というものです。私の経験では、それは自殺的なものではありません。それは何なのですか?それについてもっと語っていただけますか? 

いいだろう、デヴァバクタ。それについてさらに多くを語ることはできる。というのも、あなたが私に近づいて来る時、その同じ恐怖があなたの内部にあるのを私は感じたからだ。 

あなたはある距離を保っている。あなたは恐れている。その恐れは自殺的なものではない・・・あるいは、全く違う意味で、霊的な意味で自殺的なものだ。 

あなたは普通の死を恐れているのではない。あなたが恐れているのは、禅の人達が「大死」と呼ぶものだ。 

あなたは消滅することを恐れている。あなたは溶解することを恐れている。あなたは自分自身を把握できなくなることを恐れている。そして、誰もがさまざまな仕方でそれを恐れている。 

私達がつねに抑制(コントロール)のもとに生きているのはその為だ。抑制は社会が押しつけるものばかりではない。たとえ社会が全ての抑制を取り除いたとしても、人々は抑制のもとに生き続ける。彼らは独自の抑制、独自の規律を創り出す。 

もし社会が、あらゆる人を完全に自由にしようと決めたとしても、人々は自由にはならない。人々は自由を受け容れない。彼らは独自の束縛を創り出す。彼らは独自の拘束を創り出す。彼らは独自の枷(かせ)を創り出す。彼らは自らの看守になる。 

自由は驚愕させる。なぜなら自由とは、あなたがそこにいないということに他ならないからだ。それは「あなた」が自由になるのではなく、あなたが「あなた自身」から自由になるということだ。 
あなたが束縛だ・・・束縛が消えると、あなたは消滅する。 

高いビルディングの窓辺に近づいたり、山の淵に近づいたりすると、ときとしてその恐怖がやって来ることがある。 

その感覚があなたを乗っ取ることはありうる。その物理的状況があなたの精神の内側で引き金になることはありうる。それがあなたに、消滅することは可能だという観念を与えることはありうる。 

そして、憶えておきなさい。そこには恐怖と魅力の両方がある・・・つねにそうだ。何かに魅了される時、必ずあなたはそれを恐れてもいる。男が女に惹かれても、女を恐れるのはその為だ。 

依然女性を恐れているあなた方のいわゆる聖者達は、まだ女性との愛の内にあると私が言うのはその為だ。たしかに彼らはそうだ・・・彼らは執着している。恐怖と愛は連れ合ってゆくものだからだ。 

彼らはヒマラヤの洞窟に移ったかもしれない。洞窟の中に坐り、女性には全く興味がないと思っているかもしれない。が、彼らは怯えている。 

美しい女性が訪ねて山にやって来るという噂がたてば、何かが彼らの内部で動き出す。それは恐怖だ!だが、恐怖は魅力を示している。恐怖はあなたがまだ巻き込まれていることを示している。 

少しでも女性に反対することを述べている経典は、女性に心を奪われている人々によって書かれたものだ。彼らは放棄はしたかもしれないが、変わっていない。彼らは同じ人達だ。 

ある日は女性に向かって突進していたかと思うと、別の日には女性から急いで逃げ始める。が、それは違う形で演じられる全く同じゲームだ。 

女性が彼らの魅力、彼らの恐怖であることに変わりはない。そしてあなたが男に惹かれる場合も同じだ。女性が男性に惹かれる時にも恐怖がある。全ての愛が恐怖を生む、即座に恐怖をもたらす。 

だから、これら二つのものは連れ合ってゆく。あなたが開いた窓に引きつけられるのは、あなたの生になってしまったこの獄舎から自由になることへの大きな魅力があるからだ。

だが、これはあなたが知っている唯一の生だ。そうなったら恐怖が来る・・・誰が知る?別の生があるのかどうか? 

たんに今あるあなたが消えるだけで、あなたが別の地平、別の存在に現れることはないかもしれない。そうなったら、どうするね? 

女や男と愛を交わす時、その同じ恐怖があなたをつかまえる。オーガズムがとても不可能なのは、とても難しいのはその為だ。 

そして、オーガズムを得ることが難しいことに気づいているのは女性だけだと思ってはならない・・・女性同様、男性にとってもその難しさは全く同じだ。 

男性の場合、単純な事実が彼の偽装を助ける。射精が彼を助ける・・・彼は目に見える何かが起こるのを見ることができるので、オーガズムを達成したつもりになる。 

女性には目に見える射精がない。だから彼女は首をかしげ、自分がオーガズムを得たかどうか思案する。 

射精はオーガズムではない。オーガズムとは、あなたが相手の存在を窓として使い、知られざるものの中に跳躍することを言う。相手があなたの窓を使って知られざるものの中に跳躍することを言う・・・その時オーガズムがある。 

あなたが消える時、オーガズムは起こる。オーガズムは広大無辺な広がりの状態だ。それは境界のない状態だ。あなたは大空とひとつになる。あなたはもうちっぽけではない。あなたはもう限界の中にはいない。あなたはもういない! 

あなたがいる限り、そこには限界、境界、定義があるからだ。全ての定義が壊され、あなたがただそこに在る時、定義を絶し、表現を絶する神の荘厳さの何かがあなたに起こっている・・・しばらくの間、あなたは溶けた、あなたは知った、あなたは味わった。 

同じことがマスターのもとに来る弟子に起こる・・・恐怖だ。ゆえにいつの時代にも、信頼について実に多くのことが語られて来た。信頼とは何か?信頼とはたんにジャンプする勇気のことを言う。 

それはきわどい。それはギャンブルだ。なぜなら、何の保証もありえないからだ。私と共に在ることにどんな保証があるかね?私に明け渡すことにどんな保証があるかね? 

私は何もあなた方に保証しない!私は何が起こるかを言えない。それは言われえないからだ。あなたは闇の中を進んでゆかねばならない。あなたは大いなる信頼の中を進んでゆかねばならない・・・その時初めてあなたは進むことができる。 

あなたは神の客観的証明が何か欲しい。人々が神の証明を求めるのはその為だ。あなたはサマーディやブッダフッドの客観的証明が何か欲しい。 

あなたは触れたり、見たり、手でつかんだり、感じ取ったり、判断したりできる何か実体あるものが欲しい。そうすれば信頼は易しくなる・・・が、その時には信頼の必要はない。 

あなたは太陽を信頼しない。あなたは月を信頼しない・・・それらはただそこにある。誰も太陽や月の証明を求めたりしない。それらはたんにそこにある。それらは事実だ。信頼は必要ない。 

それゆえ科学は信頼を必要としない。科学は事実を探求するからだ。宗教においては信頼が必要だ。なぜなら信頼することで、あなたは究極なるものに呼応できるようになり、真実があなたの手に入るようになるからだ。信頼は扉、真実への窓だ。が、勇気がいる。 

デヴァバクタ、その恐怖、あなたが引き寄せられもしたその窓の魅力は、ひとつのことを表していた。つまり、あなたはまさにその幼年時代から探求して来たということだ。おそらく、その探求は何生にもわたってずっと続けられて来たのだろう・・・それがあなたに関する私の感覚だ。 

あなたはずっと手探りし、探求して来た。絶え間なく探求し続けて来た。それゆえの恐怖とまさにその魅力だ。探求がそこにあるがゆえの魅力。そして誰にも分からないがゆえの恐怖・・・ 

もし窓に近づきすぎたら、不意の狂気の瞬間に、あなたは感動のあまり、その思いに心を奪われるあまり、ジャンプしてしまうかもしれない。そうなったらどうする?だからあまり近くへ行かない方がいい、と。 

そしてそれは、あなたが私のもとへ来た時、私があなたの内側に見守っていたものだ。ドイツにいてさえ、あなたはオレンジとマーラを身に着けてはいなかった・・・それもまたその恐怖の一部だ。 

あなたは私に巻き込まれすぎたくない。あなたは無難な距離を保っておきたい。あなたはここに来ると、ほんの少し親密さを許しはするが、離れてゆくと私を避け始める。 

そして私は、あなたに接触しようとして来たが、あなたは開いていなかった。私があなたに接触できるのは、あなたが私と深く関わり続けている時だけだ。私はあなたに手を貸したかった。が、あなたは通路を絶っていた。 

だから、もし誰かが私を騙そうとしていたら、彼は本当は自分を騙している。 

私は私の人々に接触しようとし続けている。が、私が接触できるのは・・・何があっても、喜びの中でも惨めさの中でも、エクスタシーの中でも苦悶の中でも、生の中でも死の中でも・・・真に私と共にある人々だけだ。私が接触できるのはそういう人々だけだ。 

だから、今度はもう少し注意深くなりなさい。多くのことが可能だ。私もひとつの窓だ。恐れる必要はない・・・ 

恐怖は自然だ、それでも恐れる必要はない。どんなに怖くても、私に近づいて来るがいい。一種の自殺が起こる。自我が自殺する。それがサニヤスの何たるかだ。 

魅力がそこにあるがゆえに、あなたはサニヤシンになった。そして恐怖がそこにある。だからあなたはいまだに避けようとしている。あなたはためらいながら私に向かって一歩を踏み出し、そして一歩私から遠ざかる。 

このためらいが、この機会をだいなしにすることはありうる。高いビルディングの窓からジャンプしても、どうなるものでもない。が、あなたが渇望し続けて来た窓を、今手に入れることができる。 
あなたはジャンプすることができる。あなたは死んで生まれ変わることができる。 


2番目の質問:私はあなたが何を言っているのか分かりません、OSHO。ですが独りで坐っていたり、講話を聴いていたりすると、何かが私に起こり、目に涙があふれ始めます。ああ、私のマスター、これはいったい何なのでしょう? 

あなたは私を聴き始めたのだね、シヴァナンダ。それが私を聴く道だ・・・涙を通して。それが私を聴く道だ・・・愛を通して、ハートを通して。 

私と共に脈打ちなさい。私の言葉をあなたの涙の中に溺れさせなさい。あなたは途方に暮れはしない。 

なぜなら、私が何を言うかは重要ではないからだ。あなたに届くこれらの言葉を取り巻いてゆく、ある別のエネルギーの方がはるかに大切だ。 

言葉に過剰な注意を向けてはならない。あなたのハートが開いていれば、そのエネルギーはハートの中に解き放たれる。 

私の言葉はたんなる容器にすぎない。それらは容れ物だ。中身は全く違う。中身は正反対だ。容れ物は言葉だが、中身は言葉のない沈黙だ。それは私の愛だ。 

言葉はただのカプセルにすぎない。カプセルは薬ではない。薬はその中にある。カプセルのことは忘れなさい、私を飲みなさい・・・ 

そして一番よい飲み方は、涙と共にあることだ。その時あなたは加わっているからだ。その時あなたはごく間近に来ているからだ。 

その涙は、あなたのハートが私と共に鼓動し始めることの、あなたが私とまさに調子を合わせて呼吸し始める瞬間があることの徴(しるし)だ・・・ 

その時には、そういう涙が不意にこみあげて来る。その涙は象徴的だ。それは花のようだ。祝いなさい! 

OSHO:「一休道歌」(上巻)第8話より抜粋。(めるくまーる社)