OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

149.禁欲はセックスに対立しない

<OSHOとのダルシャン(面談)より>         (1976年7月28日) 

シャム・・・私は大いにグループを楽しみました。自分がどんどんソフトになりつつあるのを感じます。私の性的なエネルギーは、プーナに来てから干上がっていっているように思います。 

OSHO・・・そのままにしておきなさい。それを許すのだ。エネルギーが上にあがって行く時にはたくさんの変化が起こる。そして、人はそうした変化を妨げるべきではない。ただただそれを許しなさい。それがどこへ向かって行こうと、何が起ころうと、そのエネルギーと一緒になっていればいい。 

何もそれに対立するようなものを強要しないこと。それが全てだ。それを受け容れなさい。それを信頼しなさい。私には、それがビューティフルになってゆくのが分かる。あなたは心配する必要なんかない。 


アナンド・バクタ・・・私はデヴァ・ムラドゥーラという彼女と一緒にインドに来ました。ところが今、私はプーナを離れるところなのに彼女はここに残ります。私達は物理的にはあまり会っていません。今は別々に暮らしています。この間の夜、私達は一夜を共にしました。セックスはせずに、ただ一緒に横たわっていました。私達の間を流れたエネルギーは、以前よりもずっと深いものでした。 

OSHO・・・ふむ、時としてそういうことがある。特に現代人にとっては、自分が愛している女性と一緒に横になってセックスをしない、ということはほとんど不可能になってしまっている。深い愛において、深い尊敬において、祈りにおいて、ふたりの人間が共に横たわる時に起こるその融合に比べれば、セックスなど無に等しいということなど完全に忘れ去られてしまった。 

肉体のエネルギーは、性的な関わりを持たない場合には、より高いところへ昇ってゆく。それは最後の最後、サマーディまで行きつくことも出来る。しかし、人々は完全に忘れ去ってしまっている。彼らはセックスが最後だと思っている。セックスはほんの始まりにすぎない。それを覚えておきなさい。 

ひとりの女性を愛する時には、まず深い愛の中で一緒に横たわるというのをスタートにするといい。そうすれば、あなた方はより高次なオーガズムに達することだろう・・・。もっと微妙な、もっと深いオーガズム・・・。 

本当の禁欲というのは、そのようにしてだんだんと起こって来るものだ。我々がインドで言うところの「ブラーフマチャリア」、本当の禁欲というのは、セックスに対立するものではない。それはセックスよりも高いもの、セックスよりも深いものなのだ。それはセックス以上のものなのだ。セックスが与えられるようなものは、それも与えてくれる。が、それはそれ以上のものも与えてくれる。 

だとしたら、それほどの高レベルで自分のエネルギーを使う使い方を知っているというのに、誰がそれよりも低いスペースなどに構うだろう?誰もそんなことはしない。だとしたら、それはセックスに対立したものではない。 

私はセックスを捨てろと言っているのではない。私が言っているのは、時にはセックスなど問題にならないような、純粋な愛のスペースに自分をゆだねなさいということなのだ。さもなければ、あなたは地上に引きずり降ろされてしまって、決して空に舞い上がることなど出来ない。 

あなたに起こったのはそういうことなのだ。それはいい経験だった。それを心に留めて、彼女に感謝するがいい。そこから問題を作らないこと。もし愛していれば、彼女はあなたのところへやって来るだろう。あなたも彼女のところへ出かけてゆくだろう。もしお互いに愛し合っていれば、我々は何度でも何度でもお互いのところへやって来るものだ。 

もし愛し合っていなければ、それはどうしようもない。そうしたら、さよならを言うがいい。それを永久的な、強制的な関係にする必要はない。それ自体がひとりでにそうならない限り、愛を「結婚」に転化する必要はない。もしひとりでにそうなるとしたら、それはOKだ。 

だから気にしないで行きなさい。そして、この箱を持って行きなさい・・・。(OSHOは小さな木の箱をバクタに手渡した。プーナを発つサニヤシン達に授けるものだ)そして、私が必要になったら、この箱を持って横になり、どうなるか見てごらん。それをハートの近くに置いておくと、あなたのエネルギーはもっともっと高い領域へと昇ってゆくに違いない。Good! 


OSHO・・・あなたはどうした?(同じグループの中にいたフランス人のサニヤシン、ミーラに向かって) 

通訳・・・彼女は英語が全然しゃべれないので大変だけれども、感じたり理解したりすることは出来ると言っています。彼女はアシュラムに来て以来、自分を表現するのがずっと自由になったと感じているそうです。 

OSHO・・・Very good。実際のところ、言葉などというのはあまり必要ないのだ。それはいつも必ずコミュニケーションの媒介をする訳ではない。それは多かれ少なかれコミュニケーションを妨げると言った方がいい。もし感じることが出来るのだったら、それは素晴らしい。言葉のことなど心配しなくていい。フィーリングでいきなさい。 

フィーリングというのは世界共通語だ。そして、特に私を理解するにはフィーリングに限る。言葉など必要ない。私は裏口から入り込むことが出来るのだ! 

「生命の歓喜・DANCE YOUR WAY TO GOD」(めるくまーる刊)より