OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

153.論理を明け渡した時、愛が機能し始める

<OSHOとのダルシャン(面談)より>      (1976年7月30日) 

※通訳を通じて、ある訪問者が、自分は友達を必要としているのでOSHOのところへ来たのだと言った。 

OSHO・・・Good・・しかし私のところへ来るのは危険だよ。それは今まで自分が持っていたパーソナリティから離れてしまうことを意味するからだ。私に近づく唯一の方法は、ある特定の死に方をすることだ。そうして初めて人は生まれ変わる。だから、もしあなたが本当に私に近づきたいと思ったら、物理的な近さでは用をなすまい。 

そして、精神的な近さというのは深い明け渡しを意味する。マインドを明け渡し、知性を明け渡し、論理を明け渡し、アリストテレスを明け渡す。論理を明け渡した時、愛が機能し始める。そのふたつは決して一緒には働かない。それは必ずどちらかを選ばなければならない。論理か愛か・・・。 

論理というのは、愛にとってはとても有毒だ。なぜならば、愛にはひとつのトータリティ(全体性)、単純さ、信頼に満ちたハート、ほとんど盲目に近いハートが必要だからだ。そうなればものごとはごくシンプルで、多くが起こり得る。さもないと一方では私の方に近づいて、一方では遠ざかって行くというようなことになる。そしてそれが論理的なマインドの身の上なのだ。一方の手で何かを創造し、もう一方の手では破壊する。 

それが理解の根本にならなければならない。もし私と一緒にいたいと思ったら、それは半身では済まないものだ。だからもし本当に近づきたいと思ったら、まず最初はサニヤシンになることだ。それが、あなた側からのひとつのサインになる。「はい、私は用意が出来ています」・・・たとえ私があなたを殺しても、あなたにはその用意があるのだ。さもないと、多くのエネルギーが抵抗することに費やされてしまう。何か言いたいことはあるかね? 

ユリ・・・(頭を指して)ここでは理解出来ます。私の問題は・・・(彼は通訳の方を向く。英語では上手く通じないようだ) 

通訳・・・彼の問題は自分に確信がない、自分の考えに自信がないというところにあります。 

OSHO・・・それは誰でも問題だ。それは現代の人間の問題なのだ。現代的なマインドというのはそういう傾向にある。我々は方向性という根や感覚を失くしてしまっているからだ。我々はちょうど交差点のところに立っていて、どっちへ行ったらいいのか、一体何で行くのか、そもそも自分達がどうしてここにいるのか、進むのに何の意味があるのか、そしてもし行ったとしても何か利益があるのかどうか、皆目見当がつかない。 

それはあなたの問題ではない。それはあなたが生まれついた問題、それはあなたが生まれついた世界なのだ。だからして、そこから脱け出すことは出来る。それはあなたの問題ではないからだ。それは周りの雰囲気にすぎない。あなたを優柔不断にさせているのは、周りを取り巻くヌー圏、想念圏なのだ。しかし、そこから脱け出すことは出来る。そこに問題は何もない。 

それには勇気が必要だ。考えることではない。なぜならば、考えることによってでは絶対にそこから脱け出すことなど出来ないだろうからだ。思考というのは、同じ問題を繰り返し繰り返しこねくり回す。奥深いところでは、思考がその問題全体の原因なのだ。そして、それを癒すことが出来るのは、愛だけだ。 

つまりもし考えたり、何をすべきか何をさせるべきか、そしてどうしたら自分はそこから抜け出せるか決めてばかりいたら、それは自分の靴ひもを引っ張って空に昇ろうとするようなものなのだ。誰か問題に巻き込まれておらず、あなたを引っ張り上げることの出来る人の助けが必要だろう。私を見てごらん。私は問題など抱えていない。私は絶対の決定力を持っている。あなたについてさえ、あなたがそこから抜け出せるということが決められるのだ。 

だから、それを考えないこと。そんなことは役に立たないからだ。それが東洋の基本的なアプローチなのだ。もし眠りこけていたら、誰か起こしてくれる人が必要だ。でなければ、それは無理な話だ。下手をすると、あなたは自分が目覚めているという夢さえ見かねない。 

つまり目覚めというのは、ひとつの連鎖反応なのだ。私があなたを起こす。そうすると、あなたも他の人達を起こすことが出来るようになる。私があなたを引っ張り上げる。そうすれば、あなたもそれがあまりにも単純なことであるのに気づいて、他の人達を引っ張り上げることが出来るようになる。それは本当に単純なことだ。が、あなたは私の手を取らなければならないだろう。しかし、もしあなたが自分でそれを決められると思うなら、2,3日考えて決めるがいい。 

ユリ・・・(手を、受け容れますというような格好でOSHOの方に振ってみせて)いいえ。 

OSHO・・・Good!それなら目を閉じなさい。手を出してごらん。(OSHOはユリが伸ばした手を取ってそれを握る。アームチェアから乗り出して、目を閉じている)目を閉じて・・・。 

(私達の最初のロシア人サニヤシンに)これがあなたの新しい名前になる。古い名前は忘れなさい。そして今のこの瞬間から、自分をスワミ・アナンド・プレムと心得るがいい。アナンドは至福を意味し、プレムは愛を意味する。ただ愛のみが至福であり、至福に満ちた人間だけに愛することが出来る。至福と愛とは同じエネルギーの2面なのだ。一方から見るとそれは愛であり、もう一方から見るとそれは至福になる。 

両方からそれに接近するがいい。愛し、そして至福に満ちていなさい。どちらが最初に来るかは考えなくていい。それらは一緒にやって来る。それはちょうどめんどりと卵のようなものだ。どっちが先という訳でもない。卵というのは、めんどりがさらなるめんどりを創ろうとする方法以外の何ものでもなく、逆もまた然り・・・めんどりというのは、さらなる卵を創ろうとする卵の方法以外の何ものでもない。 

至福は愛を生み、愛は至福を生む。ちょうど「悪循環」という論理用語があるように、これは「善循環」だと言えよう。ひとつの善がまた別の善を生む。そうすると、あなたは前よりももっと最初の善に対して開かれている。そして、これからは私が働き始めよう。 
Good、アナンド・プレム。 

「生命の歓喜・DANCE YOUR WAY TO GOD」(めるくまーる社)より