OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

154.成長の問題、それは健康なもの

<OSHOとのダルシャン(面談)より>      (1976年7月30日) 

OSHO・・・(ドイツ人の探求者に向かって)君は? 

マイケル・・・話したい気もしますし、黙っていたい気もします。 

OSHO・・・ふうむ、話してごらん! 

マイケル・・・私はしばらくエンライトメント・インテンシヴ(集中内観法的なもの)などのセラピーと、いくつかの瞑想法、特にダイナミックをやって来ました。それを通じて、生まれて初めて自分が前よりも多くの生命力を得たように感じました。私はタントラヨーガもやって来ました。今自分が、自分の中の生命力をちょっぴり感じ取れるような地点に来ているような気がします。と同時に、この先どのように進んで行ったらいいのか分からないところもあります。 

OSHO・・・よく分かる。さらに多くのことがあなたに起ころうと待ちかまえている。この問題は最初に、何かが可能だ、自分は自分の生命を無駄にしなくていいのだという一瞥、ひとつの感覚を得始めた時に起こって来る。それがどんなに小さいものであれ、あなたが生まれて初めて宇宙的なエネルギーと接触するに至った時、この問題が起こって来るのだ。 

どうするべきか、如何にしてさらに成長してゆくべきか、如何にしてエネルギーや努力を無駄にしないようにするか、どうやってそのエネルギーをひとつの方向に向けるか・・・。人はその問題が起こって来たことを喜ぶべきだ。世の中には2種類の問題があるからだ。 

ひとつのタイプの問題は病的なものだ。ある人は不安を抱えていて眠れない。ある人はあまりにも緊張していて分裂症に悩んでいる。またある人はある考えに取り憑かれていて、それを払いのけることが出来ない。こういうのを病的な問題と言う。けれども問題というのが全て病的な訳ではない。 

中には成長の問題というのもある。それはとても健康なものだ。これは成長の問題であり、あなたは自分が病的な問題でなく成長の問題を持っているということを本当に喜ぶべきだ。というのも、たとえもし病的な問題が解決したところで、あなたは前よりも居心地がよくなるにすぎない。それだけのことで、何ひとつ得られる訳でない。 

前よりもよく眠れる。前よりも緊張がない。世事において自分の商売、自分の仕事、自分の職業において前よりも上手く事が運ぶようになる。だが何も解決する訳ではない。病的な問題が解けると、あなたは前よりも正常に機能するようになる。それが全てだ。しかし、そんなものはゴールではない。 

ただ正常になることなど無意味なのだ。何か「彼方なるもの」があなたに起こらない限り、そこにひとつの突破がない限り、あなたにここにいることの意識が見て取れない限り、あなたがこの宇宙における自分の位置を知覚出来ない限り・・・なぜ自分はいるのか、自分は誰なのか、自分はどんな機能をする為に存在しているのか、自分の天命は何なのか・・・そのパースペクティブ(観点)を持たない限り、あなたはただ単に植物のように生き延びているにすぎない。 

何人かの人達は上手く生き延びている。何人かの人達はあまり上手くやっていけない。何人かの人達は心地よく、何人かの人達は肩身の狭い思いをしながら生き延びる。だが結局はみな同じことだ。夜、ビューティフルな夢を見たとしても、悪夢を見たとしても、朝それが全て夢だと分かってしまえば大した違いはない。 

これは成長の問題だ。そして今度こそ、あなたは何かの道に関わり合いにならなくてはなるまい。今までのところは、あちらこちらに跳ね飛ばして来ている。Good。初めの内はそれもVery Goodだ。人は手探りをしなければならない。しかし、もうそれは続けないこと。 

今度はひとつの道を選びなさい。少なくとも3年の間、その道で起こり得ることはことごとく起こるほどトータルにひとつの道に関わりなさい。もし3年経ってもその道で何も起こらなかったら、先へ進みなさい。何か他の道を選ぶがいい。 

とにかく、この瞬間には深い関わり合いが必要だろう。さもなければ、あなたはしおれてしまうに違いない。これ以上いろいろとやらない方がいい。最初の内はそれもいい。人はショッピングに行って、こっちの店を覗いたり、あっちの店を覗いたり、こっちのショーウィンドーに魅き付けられたり、あっちのショーウィンドーに魅き付けられたり、いろいろなものを見て回る。しかし、そうやって最後には心を決める。最後には選ぶのだ。 

今あなたが選べば、たちまちにしてたくさんのことが起こり始めるだろう。そして、私はこれを選べあれを選べと言っているのではない。とにかく選ぶのだ。それは一種の賭けなのだ。人は深い無知の中で選ぶのであり、他の選び方などありはしないのだ。もしかしたら、それは正しいかもしれない。もしかしたら正しくないかもしれない。それは「おそらく」でしかない。それが賭けだ。しかし、それでも人は選ばなければならない。 

どれかの道を選んで、それにトータルに身を捧げなさい。エネルギーを消耗するべきではないからだ。私が見る限り、あなたはたくさんのことをして来ている。南にも少し行ったし、北にも少し、東にも、西にも行った。そうやって、あなたはいっぺんにあらゆる方角に進んで来た。最初の内はそれもいい。感じをつかまなければならないからだ。・・・しかし、もう選びなさい。 

もし成長したいと思ったら、成長というのはひとつの道の上でしかあり得ない。しかも、あらゆる道は真実だ。私が選べと言う時、それは他のものが間違っているという意味ではない。全ての道は真実だ。実際には、あらゆる道が究極のところ神へと繋がっている。なぜならば、究極的には「彼」しかいないのだから・・・。 

道を踏み外すことですら、ある日その人を神へと導いてゆく。というのも、道を踏み外してどこへ行ける?神のいないところなどどこにもありはしない。だからして、罪人でさえ聖人の道の上にいる。そうでないことなどあり得ないのだ。 

彼は遅らせるかもしれない。だから私に言わせれば、罪人は罪人ではない。私は罪人を「遅れた聖人」と呼ぶ。遅らせ、先に延ばし、あちこち道草を食ってはいる。が、いつまでそんなことをやっていられるものだろう?ある日、人は心を決める。 

だから、はっきりしなさい。もし自分が私に対して一定の愛を持っていると感じたら、私の方は用意が出来ている。私と一緒に来るがいい。しかし、もしどこか他にもっと深い関わり合いや、もっと深い関わり合いの可能性があると感じたら、その時はそこへ行きなさい。だが、とにかく関わり合いになることだ。そしてもう、さすらうことはきっぱりと止めなさい。 

人間はさすらい人になる必要もある。しかしある日、人はさすらうのを止めて特定の道に従うものだ。方向性が現われて、ものごとが線上に落ち着き始める。そうして、あなたの努力は全てひとつの方向に注がれ、あなたに完成をもたらしてくれる。 

あなたはあらゆる方角を十分長い間、手探りして来た。そしてあなたの問題は、もしここで選択せず、関わり合いにならないと、これが習慣になりかねないということだ。このあちこちに跳ねを飛ばす癖・・・そんなことをしていたら、世の中には千とひとつの道があってきりがない。それでは一種の自己欺瞞になってしまう。 

いつでもあるグルについてはまた別のグルのところへ行き、ある流派に属してはまた別な流派に鞍替えする。かと思うとまた別な流派、ひとつのテクニックからまたべつなテクニックへ・・・段々とその人は中毒になってしまう。どこにいて誰にもついていないのに、ただむやみに道やテクニックを変え続けてゆく。そして段々とこれは一種の習慣になってしまう恐れがある。どこにも長いこと留まれなくなる。そうなったら成長など不可能だ。

からして、これは成長の問題のひとつなのだ。それ自体はいい。が、あなたは何か手を打たなければなるまい。感じ、ここにいて瞑想し、いくつかグループをやりなさい。そしてもし、自分のハートと私のハートとの間に一定の相性を感じたら、その時には関わり合いになってごらん。サニヤシンになるのだ。そのことを考えてみたいか、それとも準備OKかね? 

マイケル・・・考えてみたいと思います。 

OSHO・・・考えるがいい。あなたが解決すべき問題は、関わり合いになってサニヤシンになるか否かだ。よく考えなさい。90パーセントは私がやってあげる。10パーセントはあなたが考える。ん?Good! 

「生命の歓喜・DANCE YOUR WAY TO GOD」(めるくまーる社)より