3.愛、そして独りあること
<OSHOの講話より>
質問:OSHO、今までこれほどまでに愛を感じ、これほどまでに自分が独りだと感じたことはありません。OSHO、ありがとうございます。
これは非常に深く理解すべきこと、非常に重要なことだ。愛は常に単独性をもたらす。単独性は常に愛をもたらす。ふたつは決して分けられることはない。人は、反対だと考える。
「愛している時に、どうやって独りになることなど出来る?」
人は、孤独と単独性というふたつの言葉を区別しない。だから、誤解が生まれる。
愛している時は、孤独ではない。それは正しい。だが愛している時、あなたは独りになる他はない・・・それは、さらに真実だ。
孤独は否定的な状態だ。孤独とは、あなたが相手を探し求めていることを意味する。孤独とは、あなたが暗くよどんで失望していることを意味する。孤独とは、恐怖を意味する。
孤独とは、あなたが独りとり残されていることを意味する。孤独とは、誰ひとりあなたを必要としていないことを意味する。それは傷つく。孤独は傷のようなものだ。
単独性は、花のようなものだ。辞書では、孤独と単独性は同じ意味になっている。それは間違いだ。ふたつは全く異なった現象だ。孤独は傷であり、癌に変性することもあり得る。
孤独が原因で死ぬ人は、他のどの病気で死ぬ人よりも多い。世界は孤独な人間であふれている。そして孤独ゆえに、その傷、虚しさ、空虚さ、否定感をなんとか埋めようとして、人はあらゆる愚かなことを続けている。
孤独な人間は過食する。ただ、その満足感を求めて。孤独な人間は、太りはじめる。孤独な人間はソーマからLSDまで、あらゆるドラッグやアルコールを摂取する。自分を忘れたいからだ。
孤独はあまりに醜悪で、死のように恐ろしい。だから、人はそこから逃れようとする。孤独な人は、4,5,6時間もテレビの前の椅子に座って釘づけになっている。アメリカ人は、テレビの前で目を凝らして6時間も座る。他に何が出来る?どこへ行く?誰と話しをする?
コミュニケーションはやんでしまった。人々は語り合っていない。互いに向かって言葉を浴びせているだけだ。だが、互いに語りかけてはいない。人は、相手に手を差し伸べることを忘れてしまった。人々は平行線だ。互いに近づいてはいるが、決して出会うことはない。
夫や妻、友人達、いわゆる恋人達でさえ、決して出会うことのない平行線だ。互いに近づき、明日に出会うことを希望しているが、それは希望にすぎない。それは幻想にすぎない。人々を何とかつなぎ止めているにすぎない。
線路を見ればよく分かる。線路は平行だ。遥か遠くで2本の線路は交わっているように見える。だが決して交わりはしない。そこへ実際に行ってみれば、線路は交わっていない。そこに近づくと、交点は再び遥か彼方に移動してしまう。あなたと見かけの交点の間の距離は同じだ。
世界は非常に孤独だ。だから人々は、ほんのしばらくでも孤独を忘れるためにドラッグ、セックス、その他どのような娯楽にでも溺れようとする。傷は膿を出している。私達は、傷をあらゆる方法で隠そうとする・・・。
偉大な財産、大きな宮殿、大金・・・新しい小道具で・・・だが傷はなくならない。小道具は傷を覆いはしない。世界一大きな邸宅を持ったとしても、小さな小屋に住んでいた頃と同じだけ、孤独だ。そこに何の変化もない。財産が、内面の孤独を変えることはない。
そこで、人々は互いにかかわりを持とうとする。だが、ともに孤独な者に関係性は不可能だ。関係性は、必要からは生まれない。関係性は、あふれるエネルギーからのみ生まれる。決して必要からではない。
ひとりが飢えていて、相手も飢えているなら、互いに相手を搾取しようとするだろう。そのような関係性は、愛でも慈愛でもなく、搾取以外の何ものでもない。それは友愛ではない。それはある種の敵意・・・非常に苦いが、砂糖に覆われている。そして早晩、その砂糖ははげ落ちる。
ハネムーンが終る頃には、砂糖がなくなって全てが苦くなる。その時は、すでに罠にはまっている。最初は別々に孤独だったふたりが、今度はともに孤独だ・・・これは、前よりももっと痛む。
互いに孤独な夫婦が、部屋に座っているのを見るがいい。表面では一緒にいるが、奥深くでは孤独だ。夫は自分の孤独の中で迷い、妻も自分の孤独の中で迷っている。
世界中でもっとも悲しいことは、ふたりの恋人、カップルが互いに孤独であるのを見ることだ。世界中で、もっとも悲しい光景だ!
単独性は、それとは全く違う。単独性は花だ。ハートに蓮華が開花する。単独性は肯定的だ。単独性は健全だ。それは、自分自身になることへの喜びだ。自分自身のスペースを持つことへの喜びだ。
そうだ、愛の中にある時、あなたは独りだと感じる。単独性は美しい。単独性は至福だ。だが愛する者達だけが、それを感じることが出来る。というのは愛だけが、独りになる勇気を与え、愛だけが、独りになる為の状況を与えることが出来るからだ。
愛だけが、深い満足感を与えることが出来る。だから、もはや相手を必要としない・・・独りになることが出来る。愛はあなたを統合し、あなたは独りでも歓喜することが出来る。愛は、コントラストになる。愛と単独性は同じエネルギーの両極だ。そして、それを理解するのはよいことだ。
恋人達は互いに独りになるスペースを、与え合えないことがよくあるからだ。互いに独りになるスペースを与え合えなければ、愛は破壊される。独りになることによって、愛は新鮮なエネルギーと、豊潤さを得ることが出来るからだ。独りである時、エネルギーは、満ちあふれるまで蓄積される。
その流れ出るエネルギーが、愛になる。その時、友人、恋人、誰であれ愛する人のところに行って、それを分かち合える。あなたは、充分に分かち合うだけのエネルギーを持っている。実際、あまるほどのエネルギーだ・・・分かち与えるより他に、道はない。
しかも、あなたが相手に強制しているのではない。実際はあなたの方が、相手に強制させられているのだ。雲が水を持ち切れない時、雨を降らす他はない。そして、雨を降らすことを許し、水を吸い、客として雨を受け取り、歓待してくれた地上に、雲は感謝するに違いない。
花が開く時、花は香りを放出する他はない。花は、香りをあらゆる方向に運んでくれた風に、感謝するだろう。
独りでいる時は、エネルギーを蓄積することが出来る。エネルギーは生命だ。エネルギーは喜びだ。エネルギーは愛だ。エネルギーはダンスだ。エネルギーは祝祭だ。エネルギーがあれば、何でも可能だ。それは、歌、ダンス、愛になる。そしてエネルギーは、あり余っている時に初めてオーガズムになる。
多くの人々が愛を交わすが、オーガズムについては何も知らない。なぜなら、彼らはすでに疲れきっているからだ。愛を交わす時、彼らは虚しい。愛を交わす時、彼らには分かち合うエネルギーがない。愛を交わす時に、満ちあふれることが出来ない。
彼らのオーガズムは、良くて性器の周辺に起こるだけだ。そのようなオーガズムは、非常に些細な、ありきたりの出来事だ。何の霊的な意義もない。くしゃみのようなものだ。もちろん、くしゃみをした後に少しは気分も良くなるだろう。また、背中の痒いところを掻けば、良い気持ちには違いない。慰めになる。
オーガズムは慰めではない。オーガズムは祝祭だ。そしてオーガズムは、相手を通して自分自身と、全体と出会うことだ。オーガズムは常に神聖だ。あなたは相手という扉を通して、神聖なる世界に入って行く。オーガズムは常に霊的だ。決して性的ではない。
オーガズムを性的だと見なす人々は、全く理解していない。彼らはセックスに関して、オーガズム的体験に関して、何も知らない。オーガズムは常に三昧、歓喜だ。だが、人々は分かっていない。なぜなら、あふれるエネルギーからではなく、必要から出会うからだ。
だから愛している時は、独りになりたいという強い願望が生まれる。覚えておくがいい・・・愛においてのみ、独りになりたいという強い願望が生まれる。
真の恋人達は、相手に、独りになる自由を与える。彼らはすぐにエネルギーに満ちあふれ、また出会って互いにエネルギーの雨を降らせる。独りになっていると、エネルギーを分かち合いたいという、強い願望が生まれる。このリズムを見るがいい。
愛している時は、独りになりたい。独りでいる時は、やがて愛したいと思うようになる。恋人達は近づいては離れ、近づいては離れる。そこには、ある種のリズムがある。
離れるのは、愛に反しているわけではない。離れるのは、みずからの単独性を、その美しさと喜びと共に取り戻すためだ。
だが、自分が喜びにあふれれば、常にそれを分かち与えたいという、内的な避けがたい衝動が起こるものだ。誰ひとり、喜びを抑えることは出来ない・・・そして抑えられるような喜びに、大した価値はない。
喜びは、あなたよりも大きい。だから、あなたの方でそれを抑えることは出来ない。それは洪水だ! 抑えることは出来ない。それを分かち合う人々を探す他はない。
仏陀にとっては、あなた方の恋愛に起こることが、より高いレベルで起こっている。仏陀が光明を得た時、彼は、あまりにエネルギーと喜びに満ちあふれていた。だから、それを分かち与えなければならなかった。42年間、仏陀はみずからの喜びを、分かち与えながら村々を旅した。
これこそ私が、あなた方と共に行なっていることだ。私は教師ではない。私に何も教えることはない。何ひとつ伝えることもなければ、何の情報もない・・・。私はただ、みずからの存在を分かち合うために、ここにいる。
私は、あまりに満ちあふれている。雲は水を含んで、重くてしかたがない。そして、あなたに私を受け容れる用意があるなら、私が、あなたに感謝するだろう。分かち与えるのは、あり余っているからだ。
光明、仏性、キリストの意識は、あなたと神の橋渡しをする。そうすれば無限のエネルギー源が、あなたのものになる。無尽蔵の源泉が、あなたのものだ。
あなたは、休みなく与えることが出来る。与えれば、さらに多くがあなたのもとにやって来る。単独性が、その究極の頂点に到達した時・・・。
師とは、世界中でもっとも孤高とした存在だ。ゆえに師は、世界でもっとも愛ある者だ。仏陀やキリストほど、偉大な愛する人を見つけることは出来ない。だがその愛の質は、あまりに違っている。
今や、それは友愛と慈愛と共感だ。人物は消滅した。情熱は、ほとんど姿を消している。慈愛ははかりしれない、巨大だ、途方もない、無限だ。情熱が無限になる時、それは慈愛だ。
あなたの体験は、素晴らしい。そして、あなたはその美を理解した。だから、私に感謝の気持ちを感じたのだ。あなたは言う。「今まで、これほどまでに愛を感じ、これほどまでに自分が独りだ、と感じたことはありません」
ふたつは同じコインの両面だ。そして、あなたは言う。「OSHO、ありがとうございます」
あなたは理解した。あなたが愛と単独性をつなげることが出来て、私は嬉しい。ふたつを楽しむがいい。ふたつの内、どちらかを選んではならない。どちらかを選べば、ふたつとも死滅してしまうだろう。両者がいっしょに起こるにまかせなさい。
独りになりたい時は、それに入ってゆくがいい。愛が起こった時は、それに入ってゆくがいい。独りであることは、内側に入ることであり、愛は外側に出ることだ。
単独性は息を吸うことであり、愛は息を吐くことだ。どちらかでも止めれば死んでしまう。息を溜めておくことは出来ない。息を吐いたままでいることも出来ない。
呼吸は、トータルなプロセスだ。そしてトータルなプロセスの中では、吸気は、呼気と同じくらいに大切だ。愛は呼気だ。単独性は吸気だ。そして、そのようにして魂は生きてゆく。そのようにして、人は魂を獲得する。
ふたつを受け容れるがいい。決して選んではならない! 選択せずに、ふたつを受け容れるがいい。そして呼吸が誘うところならば、どこにでも従って行くがいい。単独性は内面であり、愛は外面だ。
カール・グスタフ・ユングは、ふたつの用語を世に広めた。ユングは、人間を基本的にふたつに分類した。内向的人間と外向的人間だ。これは誤った分類法だ。人間を、このように分類出来るものではない。人間は、このように仕切られるものではない。
私は内向的でしかない人間に、一度も会ったことがない・・・そのような人間は、すぐに死んでしまうだろう。息を吸うことしか出来ないからだ。私は外向的でしかない人間に、一度も会ったことがない・・・そのような人間も、すぐに死んでしまうだろう。人間は、その両方だ。
内向的よりも外向的な側面の方が強いことは、あり得る。そして、その逆もしかりだ。それによって、不均衡が生まれる。人は同時に、その両方でなければならない。バランスが、取れていなければならない。
私のサニヤシンは、外向的な内向的人間、内向的な外向的人間の、両方でなければならない。これは理解すべき、もっとも重要なことのひとつだ。
過去に僧侶達は、ただ内向的でなければならなかった。彼らは、別世界の人間と呼ばれた。世間を放棄して僧院へ、山奥へ、砂漠へ赴く人々だ。彼らは内向的な人間になることが、神とつながる唯一の道だ、と結論づけた。あたかも神が内面だけに存在し、外面には存在しないかのように考えていた。
そして他方、世俗的な人々は外向的だ。外向的な人々は、内向的な側面、瞑想、祈りとは、全くかかわりがないと思っている。興味は金、権力、名声、人々、群衆・・・世間にある。決して、内側を見ることはない。これは、非常に分裂症的な状況だ。
私は、自分のサニヤシン達に分裂症的にではなく、全体になってもらいたい。世間にあり、しかも世間に属さない。外面と内面の間を、出来るかぎりスムーズに、簡単に移動するがいい。家から庭に出るように・・・。
家の中が冷えすぎているから、外に出る。外は、まぶしいくらいに明るい。すぐに暖かくなる。すぐに汗が出始める。そして、涼しさと日影を求めて家に入る。ちょうど、家の中と外を移動するように、内と外を移動するがいい・・・両者は共に、あなたのものだ。
古いサニヤシン、古い僧侶達は、内面だけを重視した。彼らは、外面を否定した。私のメッセージは、何も否定してはならない・・・全てがあなたに属している、ということだ。
私はあなたに、全宇宙を与えよう。内面と外面の両方だ。私はあなたに、内向的になってもらいたくはない。なぜなら、外向的なものに敵対して内向的になった人々は病気に、病的、休眠、沈滞、閉鎖、隔絶状態になり、根を失ってしまったからだ。
彼らは、窓のない存在を生き始めた。彼らは、不必要な惨めさの中で生き始めた。彼らは、決して単独性とは何かを知ることはない。単独性は、愛なしには知り得ないからだ・・・彼らが知っているのは、孤独だけだ。そして孤独は、非健康的だ。孤独は病気だ。
そして外面のみに生き、内面について全く考慮しない人々は、もう一方の対極だ。彼らは、愛について少しは知っているが、その愛は、欲望以外の何ものでもない・・・なぜなら、独りであることが同時に起こらないかぎり、愛は起こらないからだ。
彼らの愛は、欲望につけられた美しい名前だ。彼らには相手が必要であり、相手を搾取し、相手を所有する。相手を所有する時、あなたもまた相手に所有されるのだ。人々は奴隷に、物になってしまう。もはや人間ではない。
内面を知らずに、外面のみで生きる人は貧しい、非常に貧しい・・・内なる宝に気づいていない。そして内面のみに生きる人もまた貧しい。決して存在の美しさに気づかないからだ。星たち、砂浜、太陽、樹々、鳥たち・・・。
内面と外面は、ふたつのものではない。内面は外面の内面であり、外面は内面の外面だ。サニヤシンは、その両方であるべきだ。私はカール・グスタフ・ユングが分類出来ない、彼が内向的とも外向的とも呼べない、新人類を創造したい。
ユングはそのような人間に対して、新しい用語を作らなければならないだろう。なぜなら、新人類は全体であり、その両方だからだ。彼は魂であるのと同じだけ、肉体だ。彼は唯心論者であると同時に、唯物論者だ。彼はあの世界に属するのと同じだけ、この世界にも属している。マインドには、分裂も選択もない。
何か素晴らしいことが、あなたに起こった・・・その方向に、もっと進んでゆくがいい。道を逸れてはならない。道を逸れるのは簡単なことだ。古い習慣、古い概念が、私達を常に、古いパターンに引き戻し続ける。
マインドは言うだろう。「これは単独性ではない。孤独だ」 マインドは、それを孤独と呼んで、破壊しようとする。気をつけなさい。マインドに気をつけるがいい!・・・マインドよりも手ごわい敵はない。
私は「マインド」と言って、過去を指している。過去に死ぬがいい。そして、新しいことを学びなさい。あなたは、非常に価値あることに出会った。全く新しくて新鮮なことに・・・。愛は、単独性をもたらす。単独性は、愛をもたらす。それもまた起こる。
そして、あなたは言う。「今まで、これほどまでに愛を感じ、これほどまでに自分が独りだ、と感じたことはありません」
私は、全てのサニヤシンがあなたのように、単独性と愛を感じることを望んでいる。そして両者の間に、いかなる衝突も作り出さないことだ。このふたつによって、交響曲を奏でるがいい。そうすれば、非常に貴重な豊さを手に入れるだろう。
OSHO: The Fish in the Sea is Not Thirsty , #2 より抜粋