145.選択ではなくバランスが必要
<OSHOとのダルシャン(面談)より> (1976年7月28日)
サッチャミトラ・・・私は今の時点ではOSHO、どちらの方向に行ったらいいのかよく分かりません。もっと人の中へ出て行くべきなのか、あるいはもっと自分の中へ入って行くべきなのか、どちらが自分の成長にいいのかよく分からないのです。
OSHO・・・ちょっとひとつやって見てごらん。両手をこういう風に上げなさい。(OSHOは彼の手を取り、手のひらを外側に向けて両手を上げさせる)目を閉じて、何が起こってもそれを許しなさい。(他の人と一緒に坐っているラダに)手を彼の頭に乗せて、出来る限りの愛を注いでごらん。(サッチャミトラに)そして、もし体のエネルギーに何かが起きたら、それを許すのだ。
※サッチャミトラは激しく呼吸を始める。彼の体は小刻みに震えている。1,2分の後、彼はむせび泣きを始め、いっそう激しく震え出す。ラダは後ろに立って、そっと彼の頭に手を乗せている。顔はうつむいて、目は閉じている・・・
OSHO・・・内側に落ちて行きなさい・・・それを許してごらん・・・たとえもし死にそうな感じがしても、そのまま死ぬがいい・・・。Good、戻っておいで。エネルギーは本当にGoodだ。
君は両方をやった方がいい。選ぶのはよくないだろう。このふたつはどちらかひとつを選ぶ筋合いのものではない。外に出て行って人々に出会い交わるべきか、あるいは中に入るべきか・・・。両方ともに必要だ。もしひとつにだけ向かって行ったりしたら、君は片寄ってしまうだろう。だからときには表に出て人と交わり、自分のことなど忘れてしまうがいい。ただしその場合には、本当に外へ出ること。
そして外に出て行くのはいいことだというそれを、瞑想の一部にするといい。バランスが必要だ。選択は必要ない。選択というのは全て間違っている。なぜならば、それらはその中からどれかひとつを選ぶようなものではないからだ。それらはお互いに補足し合っているのだ。それらは一緒になって全体を成し、一緒になって君を神聖に、健康にしてくれる。一緒になって、それらは君を癒してくれるだろう。
※OSHOはさらに、僧侶のような人達は全体的で、健康であることが出来なかったと続けた。彼らは半分の生しか生きていなかった、と。生や他の人達を拒絶していたからだ・・・
OSHO・・・たとえ静かになったとしても、彼らの静寂など実に貧弱なものだ。それは乞食の静寂でしかない。それは空っぽだ。それは単に消極的なものでしかない。それは成熟ではない。それは祝福ではない。それは溢れるようなエクスタシーではない。彼らは踊れない・・・彼らは歌えない・・・。そして神への道を踊って行けない限り、決してそこまで辿り着くことなど出来るものではない。だからして私は君にこう言いたい。神のところまで踊って行きなさい、と。
そしてダンスは、バランスによってやって来るものだ。一本足では踊れない。二本の足が必要だ。そしてまた、人は内側か外側かを選んだり、内向的になったり外向的になったりしていては踊れない。ダンスには絶えざる行き来が必要だろう。それはひとつの運動なのだ。君は他の人達にも触れなければならない。そして、それは役に立つ。それは瞑想に対立するものではない。
誰か人に向かって行って世間に迷い込んでしまうと、突然ひとりになる必要が出て来る。それは一種の食欲だ。そうして君は我が家に戻ってひとりで坐る。すると、今度は楽しむことが出来る。もうそれは孤独(loneliness)ではない。それは独り(aloneness)なのだ。もし外に出て行かないで坐っているだけだったら、それは「孤独」だろう。「独り」ではない。
そして、そこには何の食欲もあるまい。君はそれに退屈してしまうに違いない。それはまるで、満腹なのにまだテーブルに坐って無理に食べようとしているようなものだ。それは吐き気を催させることだろう。何時間か食べない時間というのが必要だ・・・6時間か、7時間か、8時間の断食・・・すると突然、またお腹がすいて来る。
それと同じように世間に入って行くと、君は「独り」への空腹を感ずるようになる。それは瞑想への食欲を湧かせてくれる。独りになると、人間関係への食欲が湧いて来る。それは二枚の翼のようなものだ。片方の翼だけで飛べる鳥はいない。そして片一方の足だけで踊れるダンサーもいない。だからして、バランスというのが私のメッセージ、最高善(summum bonum)だ。
常に心に止めておきなさい。決して自分のバランスを乱すことになるようなものを選ばないこと。あらゆる手を尽くして、自分の人生により多くのバランスをもたらすことだ。それが何であれバランスをもたらすものはいい、健康だ。そしてそれが何であれ君を片寄らせるものは、不健康で危険なものだ。
だから、ときには出て行って思い切り楽しみなさい。いやいやながら行かないこと。私がこう言っているからといって行くのでは仕方がない。深い歓喜に包まれて行きなさい。外側でも、神は無数の形で君を待っているのだから・・・。それを見つけ出しなさい。そこでも神を探し求めなさい。
そして外側に疲れ、人間関係に疲れ、人々に疲れたら、我が家に戻って来て目を閉じなさい。ひとり坐って瞑想するがいい。中に入って行くのだ。そこにもまた、神は君自身の自己という形で君を待っている。神はあらゆるところにいる。だから選ぶものなどないのだ。人は無選択に醒めていなければならない。
とにかくバランスを取ろうとしてごらん。それには少し時間がかかるだろう。一方を選ぶのは実に簡単だ。そうすれば何も問題はないのだから・・・。それは単純な算術だ。一方を選べば、君は世の中から脱け出し、あらゆる人間関係を忘れ、あらゆる自分の扉や窓を閉ざして、自分をシャットアウトしてしまうことになる。単純だ。何のコントラストもない。何の挑戦もない。だんだんと君は縮んで、死んでしまうに違いない。
あるいは人間関係や世間を選んで、決して家に帰らないことも出来る。・・・いつも人と一緒にいる。もし誰もいなかったら空想でもいい。が、とにかく人と一緒にいる。もし誰もいなかったら、ラジオやテレビをつける。とにかく絶対にひとりにはならない・・・。世の中には、眠りこけている時にしかひとりにならない連中がいる。それだってひとりになっているかどうか怪しいものだ。彼らは人の夢を見ているかもしれない。
これらは両方とも間違った姿勢だ。私は世間に賛成でもなければ反対でもない。私は僧院に賛成でもなければ反対でもない。だからこそ、私はこの僧院(アシュラム)を深く世間の中に創ったのだ。我々はヒマラヤを選ぶことだって出来た。しかし、それではアンバランスになってしまっただろう。
この鉄道の騒音、飛行機や車の音は栄養になる。それがコントラストを与えてくれる。それがはっきりとした形や鮮明さを与えてくれる。それが抑揚を与えてくれるのだ。だから、バランスを取ろうとしてごらん。そして、2,3週間したら私に教えなさい。ん?Good。
「生命の歓喜・DANCE YOUR WAY TO GOD」(めるくまーる社刊)より