OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

9.愛は、あなたの生の踊りだ!

<OSHOの講話より> 

生はひとつの機会だ。  
愛の薔薇が花開く土壌だ。 

愛は本質的に価値あるものだ・・・ 
愛はどんな目的も持っていない。  
どんな意味も持っていない。 

はかりしれない意義深さはもっている、 
大いなる歓びは持っている、 
それ自体のエクスタシーは持っている・・・ 

しかし、それらは意味ではない。  
愛は、目的、目標が問題となるビジネスではない。 

愛の中には、ある種の狂気が常にある。 
そして、その狂気とは何だろう? 

その狂気は、なぜ愛するのかを証明できないがゆえにある。 
あなたは自分の愛に、どんな道理にかなった答えも与えられない。 

ある仕事をするのは金が必要だからだ、と言うことは出来る。 
あなたが金を必要とするのは家が必要だからだ。 あなたには家が必要だ。 
家なしでどうやって生活できる? 

あなたの日常生活では、全てのことに何らかの目的がある。 
だが愛には、どんな理由も与えられない。 

あなたは 「私には分からない。私に分かるのは、愛するということは、 
自分自身の中でもっとも美しいスペースを体験することだ、 
ということだけだ」 としか言えない。 

しかし、それは目的ではない。 
そのスペースは脳のものではない。 
そのスペースは商品には変えられない。 

そのスペースもまた、真珠のように輝く露を宿した薔薇のつぼみだ。 
そして、早朝のそよ風の中、陽の中で、そのバラのつぼみは踊っている。 

愛は、あなたの生の踊りだ。 
それゆえに、愛が何であるかを知らない人々は、 
生の踊りそのものを逃している。  
薔薇が成長する機会を逃している。 

だからこそ世俗的なマインドには、 打算的なマインドには、 
コンピューター・マインドには、 数学者、経済学者、政治家には、 
愛は一種の狂気だと映る。 

しかし愛を知る人々にとっては、愛が唯一の正気だ。 
愛なしでも、人は金持ちで、健康で、有名かもしれない。 
しかし、彼は正気ではありえない。 

なぜなら、彼は本質的な価値を何も知らないからだ。 
正気とは、あなたのハートの中で開花している薔薇の芳香に他ならない。 

恋人たちは、精神医学の治療を必要としない。 
実際のところ、愛は生におけるもっとも偉大な治癒力だ。 

それを逃して来た人々は、空虚で満たされないままにとどまっている。 
通常の狂気には、どんな秩序もない。 

だが、愛と呼ばれる狂気には、その中にある秩序がある。 
そして、その秩序とは何だろう? 

それは、あなたを楽しくする。 
あなたの生をひとつの歌にする。 
あなたに偉大な優美さをもたらす。 

あなたは人々を観察したことがあるだろうか? 
誰かが恋に落ちる時、彼はそれを宣言する必要がない。 

あなたは、彼の目の中に、新たな深みが生じているのを見ることが出来る。 
彼の顔に新たな優美さを、新たな美しさを見ることが出来る。 
彼の歩みに微妙な踊りを見ることが出来る。 

同じ人間ではあるが、それでいて同じではない。 
愛が彼の生に入って来たのだ。 
彼の存在に春が訪れた。 
彼の魂の中の花が開花している。 
愛は瞬時に変容をもたらす。 

愛することの出来ない人は、知性的でもありえない。 
優美でもありえない。 美しくもありえない。 
彼の生はたんなる悲劇にすぎないだろう。 

宗教の教師達はみな、あなたに言い続けている。 

「あなたの生は虚しい。 
なぜなら、それはシャボン玉にすぎないからだ。 
今日、それはそこにあり、明日には消えてしまう。 
この世での、肉体でのあなたの生には何の価値もない。 

なぜなら、それは束の間だからだ。 
唯一の使い道は、それを放棄できるということだ。 
そして、神の目から見れば、 
それを放棄することによって、あなたは徳を積むことができる」 

奇妙なイデオロギーだ。 
しかしそれは、一度として異議を申し立てられることもなく、 
何世紀にもわたって人間のマインドを支配し続けて来た。 

特に東洋においては、世界は幻だ。 なぜそれは幻なのか? 
なぜなら、それは変化し続けているからだ。 
変化するものは何の役にも立たない。 何の価値もない。 

唯一不変のもの、常に同じままであり続けるものだけが重要だ。 
だが、常に同じままであり続けるものなど、 
世界の中には何ひとつ見い出すことが出来ない。 

このアプローチ全体が、世界は幻だ、なぜなら世界は不変ではないからだ、 
と強調することに基づいている。 

「不変なるものを探求し、不変でないものを放棄しなさい」と。 
多かれ少なかれ、これが世界の全ての宗教の姿勢だ。 

変化そのものを除けば、全てのものが変化する。 
変化そのものが神になることをあなたが望まない限り・・・ 

なぜなら、それが世界において唯一、不変のものだからだ。 
不変の神を暗示するものさえ、他には何ひとつ見い出せない。 

生を愛しなさい。 
なぜなら、生とは変化し続けるものだからだ。 
それは瞬間ごとの流転だ。 

このホールに入って来た時、あなたは別人だった。 
このホールを出て行く時、あなたは同じ人間ではないだろう。 
あなたはただ、同じに見えるだけだ。 
この2時間の間に、あなたの中で多くのことが変化している。 

それはちょうど、2時間の間にたくさんの水がガンジス河を流れ続け、 
何マイルも下っていったのに似ている・・・ 
それまで通りに見えはするが、それは2時間前にそこにあった水と同じ水ではない。 

ヘラクレイトスは、生とは流転だ、川だと言う。 
「そして、覚えておきなさい、あなたは同じ川に二度、足を踏み入れることはできない・・・ 
なぜなら、それは同じではないからだ」と。 

幸福をもっともよく知っている人々は、変化する生と和合している人達だ。 
陽に輝き、小さな虹を作るシャボン玉さえも愛することが出来る人達だ。 
この人達こそ、幸福をもっともよく知っている人々だ。 

あなた方の聖者達は惨めさしか知らない・・・ 
ちょっと顔を見てごらん。彼らからは生が失せてしまったかのようだ・・・ 
彼らは死んだ化石だ。 

彼らには何の変化もない。 
彼らは儀式的な生を生きる。 
そして、彼らは変化する全てのものを非難する。 

なぜ、歓びはとがめられるのか? 
なぜなら、それは変化し続けるからだ。 
なぜ、愛はとがめられるのか? 
なぜなら、それは変化し続けるからだ。 

なぜこれらの宗教は、愛の代わりに結婚を創り出したのだろう? 

それは、結婚には少なくとも幻の不変性を与えることが出来るからだ・・・ 
法律によって、因習によって、社会によって、 
尊敬を失うという恐怖によって、 
自分の子供達に何が起こるかという恐怖によって。 

そうやって彼らは、何とか結婚を不変な何かに仕立て上げた。 
古い宗教の全てが離婚に反対するのはそのためだ。 
なぜなら、離婚は再び、結婚が不変ではない何かであることを暴露するからだ・・・ 
それは変わりうる、と。 

何千年もの間、小さな子供達が結婚させられて来た。 
まだ生まれてさえいない、母親の子宮にいる子供達が結婚させられたという例さえ、 
記録されている。 

ふたつの家族が決めることになる。 
もし、一方の子供が男の子で、もう一方の子供が女の子だったら、 
その結婚は決まりだ、と。 

インドでは今日でさえも、7歳や8歳の子供達が結婚させられている。 
それが法律に反しているにもかかわらず。 
だが、それは慣習には反していない。 

なぜ、まだ結婚が何を意味するのか、何が起きているのかも分からない子供達を、 
そんなに急いで結婚させるのか? 

その理由は、彼らが年頃になって、愛が彼らのハートの中に生じる前に、 
結婚が起こっていなければならないからだ。 

だから、愛が彼らのハートの中に生じる頃には、彼らはすでに妻がいる・・・ 
その妻にはすでに夫がいる。 
幼児婚が世界中に広められたのは、愛を破壊する為だ。 

結婚が、他の何よりも世界に惨めさを創り出すのは、偶然ではない。 
なぜなら、それは幸福の唯一の可能性、愛のハプニングを破壊するからだ。 

そのハートは決して踊らない。 
人々は愛を知ることなしに生き、そして死ぬ・・・ 

シャボン玉を見ること、蝶を見ること、風に踊る薔薇のつぼみを見ること・・・ 
それが涙を流させ、歌を歌わせるものだ。 
その涙は喜びの涙だ。 

その生はあまりにも生き生きとしているので、不変ではありえない・・・ 
死んだものしか不変ではありえない。 

あなた方の神は踊ることが出来るだろうか? 
あなた方の神は愛することが出来るだろうか? 
あなた方の神は歌うことが出来るだろうか? 
あなた方の神は蝶を追いかけることが出来るだろうか? 
あなた方の神は野の花を集め、涙と歌をともなって楽しむことが出来るだろうか? 

そうであれば、そのような神は、生を本当に象徴する。 
そのような神は、生そのものに他ならない。 

OSHO,「生・愛・笑い」(めるくまーる社)より抜粋