OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

11.死んだら、みんなどこに行くの?

<OSHOとのダルシャン(面談)より>

*ガルジャンが、3歳半の娘カルーナを伴って前に進み出る。(カルーナはまだサニヤシンではない) 

うむ!とOSHO。子供が来るといつもそうだが、OSHOの目が輝いている。OSHOはガルジャンに、誰がカルーナという名前を付けたのかと尋ねる。ガルジャンがその名を付けていた。 

OSHOはいい名前だから変えないようにしよう、と言う。彼はその名を、マ・デヴァ・カルーナと書いて、子供を自分の方に呼ぶ。彼女が進み出る。 

金髪が不規則にカールしたそばかすだらけの顔の、ちっぽけな小さな子は、本人には少し大きすぎる青と白の水玉の服を着ている。彼女はほとんどOSHOの方を見もせずにマラをかけてもらい、母親の膝に戻る。 

OSHO・・・私に何か言うことがあるかね? 

ガルジャン・・・何ヶ月か前から、この子はあなたに質問できる機会を待っていました。あなたに訊いてくれと言うのです。この子は「死んだらみんなどこに行くのか?」教えてもらいたがっています。 

OSHO・・・それは非常にいい、カルーナ!うむ。 

*カルーナは、今は死ぬことなど全く気にしていない。彼女はあやされて連れ出されるのを拒んで、自分のすそを見おろす。OSHOは再びガルジャンの方を向いて言う・・・ 

OSHO・・・子供はみんな死に興味を持つ。それは自然な好奇心のひとつだ。 
しかし、それに答えるより・・・つまり、答えはすべて偽りになってしまうからだが・・・ 

ガルジャン・・・私は、一度もこの子に答えたことがありません。 

OSHO・・・そう、決して答えてはいけない。ただ自分は知らない、死んだら分かるだろうと言いなさい。そして、自分が答えを知らないことについては、すべてごくさりげない、暗黙の了解にしておいたらいい。 

自分が知らないことを子供が訊いたら、自分の無知を認めなさい。無知を認めることが子供によくないかも知れない、と思うことはない。そんなことは決してない。親は常に自分が知らないと認めれば、それが害になる、子供の前で自分の面子が立たないと考える。 

だが、実際はちょうどその逆だ。遅かれ早かれ子供には、あなたが本当は知らないのに答えたことが、それもまるで自分がさも知っているかのように答えたことが分かる。そしてそれが分かった時、子供はあなたが騙していたと感じる。 

するとその時、すべての尊敬が消え失せる。遅かれ早かれ子供は自分の両親も、他のみんなと同じように無知だということ、他のみんなと同じように無力だということ、他のみんなと同じく暗中模索しているのだということ・・・だが、知っている「ふり」をしたのだと気づかざるを得ない。 

だから、「ふり」をするのは非常に破壊的だ。だから自分が分からないことがあったら「私には分からない。私はそれを探し求めているところだ」と答えなさい。 

そして死とはひとつのこと以外、何も言うことが出来ないものだ。それは、私達が家に帰るのだということ。私達がやって来たのと同じところに行くということだ。 

私達は、そのどちらも知らない。私達はある未知の源からやって来て、その未知の源へと戻って行く。死こそ、その円の完成だ。だがその両端、始まりと終わりは神秘の中に隠れている。 

それはちょうど、小鳥がひとつの窓から部屋に入って来るようなものだ。しばらくの間、そこで羽ばたいて、もうひとつの窓から外に出て行く。私達は、その鳥が部屋の中にいる時のことしか知らない。私達は、それがどこから来るのか知らない。私達は、それがどこへ行ったのか知らない。 

私達が知っているのは、小鳥が部屋の中にいたその短い時間、その間のことだけだ。私達は小鳥がひとつの窓から入って来るところを、そしてもうひとつの窓から出て行くところを見た。どこから来たのか、あるいはどこへ行くのかは知らない。 

そして、これこそ全人生の状況だ。私達は、子供が生まれて来るのを見る。小鳥が入って来た・・・どこからかは、誰も知らない。それからある日、ひとりの人間が死ぬ。小鳥は飛び去った。そして人生とは、誕生と死の間のことに過ぎない・・・小さな一節だ。 

子供が、その神秘に気づくようにしてやりなさい。答えを与えるよりは、むしろその子に、まわり中にある神秘的なものに気づかせた方がいい。子供がより多くの畏敬の念を、より多くの驚きを感じ始められるように。 

無味乾燥な答えを与えるよりは、むしろ探求を生み出した方がいい。子供がもっと好奇心を持つように手伝いなさい。子供がもっと探究するように、援助してやりなさい。答えを与えるより、むしろ子供がもっと質問するように仕向けなさい。 

子供のハートが探究するようになったら、それで充分だ。それが、両親が子供にしてやれるすべてだ。そうなったら、子供はその子自身のやり方で、その子自身の答えを探し求めるようになる。決して答えを与えてはならない。 

それは、いくつもの時代を通じて私達が行って来た、最も危険なことのひとつ、最大の災厄のひとつだった。 

解答を与える時、私達は非常に傲慢であるということ、まったく謙虚さをなくすということだ。私達は、生が未知のままであるということ・・・Xのようなものだということを忘れている。 

私達はそれを生きてはいるが、未知のままだ。私達はその中にいて、しかも未知にとどまる。その不可知性こそが、根本的なものであるらしい。 

私達はたくさんのことを知るが、その不可知性は同じままだ・・・触れられることがない。 

人間は知識において大いなる進歩をとげた。毎日たくさんのことが知られている。何千という研究論文が人類の知識に付け加えられ続け、何千冊という本が加わり続けている。 

しかし、それでも根本的なものは同じだ。根本的なものの前には、私達は謙虚であり、無力だ。 

だから彼女が、もっともっと、その神秘を感じるように仕向けてやりなさい。ん? 

OSHO:「ニューチャイルド」(和尚エンタープライズジャパン株)より抜粋