20.セラピストの役割
<OSHOの講話より>
質問:セラピストという役割を果すことは、私自身の精神的な成長にとって危険なのでしょうか?人々を助け、しかも同時に、私自身のエゴを溶かし去ることは可能でしょうか?
私はハッキリとしている部分と、明晰さとは無関係でいたがっているもう一方の部分との間の、微妙な戦いが内側で続いているのを感じます。
あなたのガイダンスのもと、私は自分の見る能力を使う時、他者を支配せずにいることを学びました。でも依然として私は、私自身を支配しているのでしょうか?
サガプリヤ、セラピストの役割は非常に微妙で、複雑なものだ。
まずセラピスト自身が、助けようとしている相手と同じ問題で苦しんでいる。
セラピストは、技術を使っている者にすぎない。
彼は、自分がマスターだと自分自身をごまかし、その振りをすることも出来る。
これは、セラピストとしての最大の危険だ。
だがほんの少しの理解で、ものごとは変わってくる。
まず、「他の人々を助ける」という見地から考えないことだ。
それがあなたに、救世主である、マスターであるという考えを与える。
すると、エゴが裏口から再び入り込んで来る。 あなたが重要になる。
あなたは、グループの中心だ。 誰もがあなたを尊敬している。
「助ける」という考えを落としなさい。
「助ける」の代わりに、「分かち合う」という言葉を使いなさい。
あなたは何であれ、あなたの持っている洞察を分かち合う。
参加者は、あなたより劣っている誰かではない。
セラピストもセラピーを受ける者も、両者とも同じ舟に乗っている。
セラピストは、ほんの少し知識があるにすぎない。
あなたの知識は借物だ、という事実に覚めていなさい。
あなたが知っていることは何であれ、
それがまだあなたの体験ではないことを、一瞬たりとも忘れてはいけない。
そしてこれが、あなたのグループに参加している人々を助けることになる。
人間は、非常に微妙なメカニズムだ。
それは、両方に働きかける。
セラピストは、マスターになり始める。
そして助けるよりもむしろ、参加者の何かを破壊している。
なぜなら参加者も、技巧のみを学ぶことになるからだ。
愛に溢れること、分かち合われる友情、信頼の雰囲気はなくなる。
そのかわり、「あなたはより多くを知っている。 私は少ししか知らない。
いくつかセラピー・グループに参加することで、私もあなたと同じくらい多くを知るだろう」
参加者自身が、徐々にセラピストになり始める。
ほとんどの国で、何の学位も要求されていないからだ。
ごく少数の国が、受け容れることの出来ないあらゆる種類のセラピーを禁止し始めた・・・
治療学、精神分析、精神療法の分野の、大学の資格を得た者のみが、
セラピー・グループで、人々を助けることが出来る。
これは、世界中のほとんどあらゆる国で起こることになるだろう。
セラピーが、ビジネスになってしまったからだ。
そして資格のない者が、それを牛耳っている。
彼らはテクニックは知っている。 テクニックなら学ぶことが出来るからだ。
いくつかグループに参加することで、彼らはあらゆるテクニックを知る。
その上に、自分自身ででっちあげも作ることが出来る。
だが、統括する術はない・・・
だが、覚えておきなさい・・・
あなたが、「助ける者」を演じる時、「助けられる者」は、決してあなたを許しはしない。
あなたは、彼のプライドを傷つけた。 あなたは、彼のエゴを傷つけた。
あなたは、そんなつもりではなかった。
あなたはただ、自分自身のエゴを膨らませたかっただけだ。
だがこれは、あなたが他人のエゴを傷つける時にしか起こり得ない。
あなたは、他者を傷つけることなしには、自分のエゴをふくらませることは出来ないのだ。
あなたのより大きなエゴには、より大きなスペースが必要になる。
そして他者は、あなたとともに在るために、
自分のスペースを、自分の人格を、縮めなければならない。
まさに最初から、真摯な愛情深い人が・・・
そして私は、愛に勝る治療はないことを、絶対的に必要なポイントとする。
技巧は助けることが出来る。 だが真の奇跡は、愛を通して起こる。
セラピーに加わっている人々を愛しなさい。 そして、彼らの中の一員でいなさい。
より高いとか、より神聖だという気取りなしに。
まさに最初から、明確にしなさい。
「これは、私が学んだテクニックだ。 私の体験は、ほんの少しだ。
私は、あなたにテクニックを与える。 そして、私の体験を分かち合う。
だが、あなたは私の弟子ではない。 あなたはただ、まさかの時の友だ。
私には、いくらかの理解はある。 そんなに多くではないが。
私はそれを、あなたと分かち合うことが出来る」
おそらく多くの者が、様々な分野、様々な方向からの、彼ら独自の理解を持っている。
彼らもまた、自らの体験を分かち合い、グループを豊かにすることが出来る。
言葉を換えて言えば、私が言っていることは、セラピーのまったく新しい概念だ。
セラピストはたんに、コーディネーターに過ぎない。
ただグループを、より静けさに満ち、穏やかにしようと試みる。
彼は、何も間違った方向に行かないよう、目を見張る。
マスターというより、むしろ保護者だ。
そしてあなたもまた、明確にしておかなければならない。
「私もまた、自分の体験を分かち合おうとする中で、学んでいる。
あなたの話に耳を傾ける時、それはあなただけの問題ではない。 私の問題でもある。
そして私が何か言う時、私はそれを言っているだけではなく、聞いてもいる」と。
あなたが特別な誰かではないことを、強く明確にしなさい。
これは、グループの始めになされなければならない。
そして、グループがより深く探求していく中でも、それを続けなければならない。
あなたはただ、数歩だけ先を行っている年長者であるにとどまる。
さもなければ、あなたは人々を助けることは出来ない。
彼らはテクニックを学ぶだろう。 そして、自らセラピストになっていくだろう。
それに、愚か者は充分にいる。 地球上には50億の馬鹿者が・・・
彼らは、彼ら自身の追従者を見い出すだろう。
人々が自分を尊敬し始めると、
「人々が私を尊敬しているのなら、私には、何か偉大なものがあるに違いない」
と考え始めるのは、人間の弱さだ。
人々は悩んでいる。 彼らは、人間の脆さゆえに苦しんでいる。
だが、あなたも人間だ。 そして間違いを犯すことは、まったく人間的なことだ。
どんな非難もなしに、大いなる愛を持って、彼らが自分自身を開くのを助けるがいい・・・
それは、あなたが自分自身を開いてのみ可能だ。
私は、奇妙な事実に出くわしたことがある。
見知らぬ者同士は、自分が知っている相手には、決して言えないようなことを語り合う。
列車の中で、あなたは誰かに会う。 あなたは、相手の名前を知らない。
その人がどこへ行くのか、どこから来ているのか知らない。
すると、人々は分かち合い始める。
私は、国中を20年間休むことなく旅し、
人々が、自分たちの秘密を見知らぬ相手に打ち明ける、奇妙な現象を見てきた。
なぜなら見知らぬ人間は、それを食い物にはしないからだ。
次の駅が来ると、見知らぬ相手はいなくなる。
おそらく、2度と会うことはあるまい。
それに彼は、あなたの評判や何かを落とすような関係にはない。
それどころか、あなたがあなたの秘密を、あなたの弱さを、あなたの脆さを分かち合うことで、
相手はより自信を持ち、あなたに対してより多くの愛情を、信頼を寄せるようになる。
あなたの信頼が、あなたに対する彼らの信頼を呼び起こす。
あなたがあまりに無垢で、あまりに開いているのを見、彼らは開き始める。
それは連鎖反応だ。
だが、あなたがマスターになってしまったら・・・
このコミューンから、幾人かの愚かなセラピストがマスターになった。
彼らは、彼ら自身の実存について何ひとつ知らない。
彼らは、存在の神秘について何ひとつ知らない。
彼らが知っているすべては、ある特定のマインド・ゲームだけだ。
もし、あなたが行き着いた人のガイダンスのもとに、究極的にいるのなら、
そのマインド・ゲームも、助けになり得る。
セラピー・グループは、確かにほんの少し混乱をなくし、ほんの少し明晰さを創ることが出来る。
だが、セラピー・グループは最後ではない。 それは、ほんの始まりにすぎない。
それは瞑想のための準備だ。 瞑想が、光明を得ることへの準備であるように。
あなたが、ものごとの単純な算術を理解すれば、それを難しいと思うこともないだろう。
そして、あなたはもっとグループを楽しむ。
グループはあなたと共に、より深く行くことが出来るからだ。
あなたは、グループの教師であるだけでなく、学ぶ者でもある。
カリール・ジブランの「預言者」、アル・ムスタファは、素晴らしい言葉を残している。
誰かが、「学ぶことについて何かおっしゃってください」と尋ねた時、彼は言った。
「あなたが尋ねたから、私は話そう。だが、覚えておくように。
私は話している。そして、私もまた、あなた方と共に聞いているのだ」
私はここ、ポディウムの上にいる。 そして私は、あなた方の中に坐ってもいる。
私は、まったく特別ではない。 それが、人々を近くに引き寄せる。
特別だと自慢することは、隔たりを生む。 エゴの充足は、愛の雰囲気を破壊する。
そして、私はもう一度繰り返す。 愛よりも偉大なセラピーは存在しない。
あなたのグループの参加者になった人々を、愛しなさい。
あるべき姿としてではなく、あるがままの彼らを愛すのだ。
彼らは生涯にわたって、
あらゆる類の宗教、政治、神学、哲学の指導者に、苦しめられて来た。
指導者たちは、人々が従えば愛する、
人々が、自分たちの考えに沿ったイメージになれば、愛する、
そういった者たちだ。
彼らは、あなたを完璧に殺し、粉々にし、
自分たちの考えに従って、あなたを組み立てた時にのみ、あなたを愛する。
すべての宗教が、人類に対してそうして来た。 無傷でいた者はいない。
そしてこの人々は、自分たちが助けていると思っている。
意識的に彼らは、あなた方に、理想、イデオロギー、規律、戒律を与えていた。
あなた方を助けたいという、確固たる態度を持って。
さもなければ、あなた方が道に迷うだろうと。
彼らは、あなた方の自由を信頼することが出来ない。
あなたの尊厳に、敬意を払うことが出来ない。
彼らは、あなた方をあまりにも貶めて来た。
そして、誰ひとり反論さえしない。
私は、私の友人のひとり、優れた医者の言葉を思い出す。
彼がまだ生きているかどうか、私は知らない。
ここ6年間、彼のことを何も聞いていないからだ。
彼は、私がボンベイへ、それからプーナへと移る前に住んでいた都市で、
もっとも著名な医師だった。 彼は私に言った。
「私の全生涯の体験は、医者の役目は、患者を治すことではないということなんだ。
患者は、自分自身で治す。 医者は、ただ愛に満ちた雰囲気、約束を与える。
医者は、ただ自信、生き返ること、長く生きることへの熱望を与える。
薬は、みな二次的な助けだ」
だが、もし人が生きる意欲を失ったら、
彼の全生涯の体験では、どんな薬も、何も助けにならないことになる。
セラピストの状況も同じだ。
セラピストは、人々の心理的な問題を治す人ではない。
彼らは、愛に満ちた雰囲気を創れるだけだ。
その中で、彼らは自分たちの抑圧された無意識な空想、抑圧、妄想、欲望を、
笑われるという恐怖なしに、みなが慈愛と愛情を感じてくれる、
という確信を持って開くことが出来る。
グループ全体が、治癒的な状況として機能すべきだ。
セラピストは、単にコーディネーターにすぎない。
セラピストは、心理的に病み、かき乱された人々を集め、
ただ、何も間違った方に行かないように見ている。
そして、もしある考えで、ある洞察で、ある観察で、彼らを助けられるなら、
あなたが体験を得ていない限り、
「これは私の体験ではなく、私の知識にすぎない」ことを、
常に明確にしなさい。
もしあなたが真摯で、真実で、正直で、真正なら、
決してマスター、救世主になる罠に落ちない。
落ちるのは非常にたやすい。 あなたがマスターに、救世主になると・・・
あなたは、そうではないのだが・・・こうした人々を助けてさえいない。
あなたはただ、こうした人々を、彼らの弱さを、彼らのトラブルを、食い物にしている。
世界中の精神分析のムーブメント全体は、
起こっている事柄の中で、もっとも搾取的な試みだ。 誰も救われない。
みな途方もなく搾取されている。 誰も救われていない。
なぜなら、精神分析医、精神治療家は・・・心理学は、多くの派に分かれて来た。
だが彼らはみな、同じ仕事をする。 彼らは、あなたを患者に貶(おとし)める。
そして、彼らは医者だ。
そして問題は、彼ら自身が同じ病で苦しんでいることだ。
精神分析医ひとりひとりが救いを求めて、年に2回は、他の精神分析医のもとへ行く。
これは偉大なる陰謀だ。
あらゆる狂気に耳を貸していると、
あなたがマインドとその問題を超えていないかぎり、あなた自身も気が狂っていく。
あなたは、あなたの患者が苦しんでいるのと同じ問題で、苦しみ始める。
彼らを治すよりむしろ、彼らがあなたを病気にしている。
だが、責任はあなたにある。
愛を、開かれた感覚を、誠実さを持ち込みなさい・・・
彼らがハートの扉を開き始める前の・・・
彼らはあまりに堅く閉ざしているので、誰も自分の問題が分かっていない・・・
精神療法家の最初の役目は、自らのハートを開き、
自分も同じ人間であることを、彼らに知らせることだ。
同じ弱さに、同じ性欲に、同じ権力への欲望に、同じ金銭への欲望に悩んでいる。
苦悩と不安に悩んでいる、死の恐怖に悩んでいる。
あなたのハートを、余すところなく開きなさい。
それが、他者があなたを信頼する助けとなる・・・
あなたが、何かに成りすましているのではないと。
救世主、預言者、メッセンジャー、ティータンカラ、アバタラは、完全に姿を消した。
今日では、彼らの誰も受け入れられないだろう。
今度もし、彼らのうちの誰かが再び現れても、
人々は、石を投げて殺すことさえしないだろう。
人々は、彼らを笑い者にするだろう。
彼らはただ、こう言うだろう。
「あなたは馬鹿だ。自分が人類全体を救えるという考え自体が、狂気の沙汰だ。
まず、あなた自身を救うことだ。 そうすれば、私たちはあなたの光を見るだろう。
そしてあなたの壮大さを、光輝を見るだろう」
信頼はひとりでにやって来る。 それは要求されるものではない。
それはちょうど、山からの新鮮なそよ風、大海からの高波のようにやって来る。
その為に、あなたがしなければならないことは、
ただ正しい時に、正しい場で、開いていなければならない。
あなた以外の誰も、あなたを救うことは出来ない。
私は、あなた方に言う、 「あなた自身の救世主になりなさい」
だが、助けは条件つきで可能だ。 それが、愛と共にやって来ることだ。
「あなたは私を信頼し、あなたのハートを開いてくれた」
という、感謝と共にやって来ることだ。
セラピストの役割は、サガプリア、確かに非常に複雑だ・・・
しかも、愚か者たちがそれをやっている!
状況は、まるで肉屋が、外科手術をしているようなものだ。
彼らは切り方は知っている。 だがそれで、彼らが脳外科医になれる訳ではない。
彼らは水牛、牛、あらゆる類の動物を殺せる。 だが彼らの役割は、死に貢献するものだ。
セラピストは、生に貢献する。
セラピストは、自分自身を生きることで、ハートの静けさに向かうことで、
生への肯定的な価値を、創らなければならない。
あなた自身の中に、深く在れば在るほど、
あなたは他者のハートの中に、より深く行き着くことが出来る。
それはまったく同じことだ・・・
あなたのハートも他者のハートも、それほど違うものではないからだ。
もしあなたが、あなたの実存を理解すれば、誰もの実存を理解する。
そしてその時、あなたは自分もまた愚かだったこと、幾度も堕落したこと、
自分自身に反して、他者に反して、罪を犯して来たことを理解する。
もし、他の人がまだそうしているとしても、非難する必要はない。
彼らは、気づかされなければならない。 そして、彼ら自身に任されるべきだ。
彼らを、特定の枠の中にはめようとしてはならない。
そうなったら、それがセラピストで在る喜びだ。
なぜなら、あなたは人間の内面を知るに至ったからだ。
生のもっとも秘められ、隠された場所のひとつを。
そして他者を知ることで、さらにあなたは、あなた自身を知る。
これは悪循環だ・・・他に言葉がない。 さもなければ、私は「悪」という言葉は使わない。
私が言葉を作るのを許して欲しい・・・これは「徳循環」だ。
あなたは、あなたの患者に、参加者に開く。
すると彼らは、彼ら自身をあなたに開く。
それは、あなたがさらに開くのを助ける。
そしてそれは、彼らがさらに開くのを助ける。
すぐに、セラピストはいなくなる。 患者はいなくなる。
ただ愛に満ちたグループが、互いを助けている。
セラピストが、グループの中に消え去らない限り、
彼は、成功したセラピストではない。
それが、私の基準だ。
サガプリア、あなたは言っている。
「あなたのガイダンスのもと、私は私の見る能力を使う時、他者を支配しないことを学びました。
でも、依然として私は、私自身を支配しているのでしょうか?」
それらはふたつのことではない。 支配は支配だ。
あなたが他者を支配しようと、あなた自身を支配しようと・・・
もしあなたが、あなた自身を支配しているのなら、
その時は、ある微妙なやり方で、あなたは他者をも支配することになる。
そうならざるを得ない。
あなたが落とさなければならない最初の支配は、他者に向けてのものではない・・・
彼らがあなたの支配を受け容れるかどうか、それは確かではないからだ。
あなたが落とさなければならない最初の支配は、あなた自身へのものだ。
なぜ、あなた自身囚人になり、大変な努力をして自分自身の周りに牢獄を築き、
自分が行くところどこにでも、それを持ち運んで行くのかね?
まず自由の、広大な空に翼を広げる鳥の歓喜を、学びなさい。
あなたの自由そのものが、他者のための変容の力となる。
支配は、あまりにも醜い。
それは何の羞恥心もない政治家に、任せておきなさい・・・
彼らは、ただ虚ろに感じる自分の内側を満たすために、
さらに多くの権力を手にしようとしている。
外から見れば、内側は空っぽだ。 内側から見れば、全世界は空っぽだ。
唯一、あなたの内側だけが溢れている。 だが、溢れているものは不可視だ。
あなたの実存の香り、愛、至福、法悦、沈黙、慈愛・・・
何ひとつ、目で見ることは出来ない。
それ故に、あなたが外側から見ても、すべてが空っぽに思えるのだ。
すると、強い衝動が起こる。 いかにして、それを満たすか?
金銭で、権力で、地位で、大統領に、首相になることで・・・?
何かをして、それを満たすのだ!
人は内側の空っぽ、内側の空虚と共に、生きることが出来ない。
だがこうした人々は、内側に入ったことがない。
彼らは、外側から覗いただけだ。 これが問題だ。
外側からは、あなたは物質を見ることが出来るだけだ。
愛は物ではない。 至福は物ではない。 光明を得ることは物ではない。
理解は物ではない。 知恵は物ではない。
それはみな、人間の存在における偉大さだ。
生は主観的だ、客観物ではない。 だが外側からは、物が見えるだけだ。
それは、どんなゴミでも自分の虚ろな内側を満たそうとする、途方もない緊急性を与える。
借り物の知識で、それをいっぱいにしている人々がいる。
自ら好んで自分を痛めつける、それをいっぱいにしている人々がいる・・・
彼らは聖人になる。
首相になるために、大統領になる為に、乞食でいる人々がいる。
あらゆるところで、空虚な人々が、他者を支配せずにはいられないという必要にかられている。
それが彼らに、自分たちは空っぽではない、という感覚を与える。
サニヤシンは、自分の主観の中に、内側から分け入ることから始める。
そして、途方もない宝、尽きることのない宝に気づくようになる。
そうしてのみ、あなたは、あなた自身を支配することをやめる。
そんな必要はまったくない。
その瞬間から、あなたの努力のすべては、個人として在ることを、
自由を、至福、充足、平和の途方もない、尽きることのない源泉を、
みなに気づかせることになる。
私にとって、セラピーが瞑想のための土壌を整えるのであれば、
セラピーは正しく起こっている・・・
患者のための土壌、そして、セラピストのための土壌、両方を。
セラピーは、あるポイントで瞑想へと向かわなければならない。
瞑想は、あるポイントで光明を得ることへと向かう。
こんなにも途方もない潜在性を持ちながら、ただ乞食のままでいるとは・・・
私は、他の人のことを考えると、ときおりとても悲しく感じる。
彼らは乞食ではない。 だが乞食のようにふるまっている。
そして、物乞いを落とす用意がない。
物乞いこそ、自分たちが得たすべてなのだと恐れているからだ。
物乞いを落とさない限り、彼らは、自由が皇帝だということを、
自分の帝国が内側にあることを、決して知ることはないだろう。
サガプリア、あなたは、人々を支配するのをやめているにしても、
自分自身を支配し始めているのではないか、と疑っている。
これでは何も変わっていない。 あなたは、メッセージ全体を誤解した。
間違いを犯すこと、誤解することは人間的なことだ。
だが、彼女は知性的な女性だ。
セラピーの新しい考えを、上手く扱うことが出来る。
彼女は、セラピーの先駆者になることが出来る。
だが、あらゆるところに、あまりにも多くの愚か者がいる。
あなたが何か愚かなことを始めれば、追従者がついて来るのを目にすることになる。
サガプリア、あなた自身を、可能な限り深く理解しようとしてごらん。
セラピーは二の次だ。 あなたが瞑想と沈黙を通して、自分の実存を精錬しない限り・・・
私は、ワークをやめなさいとは言っていない。
私は、その質を変容しなさい、と言っているのだ。
それを、真のワークにしなさい。
あなたのハートを開きなさい。 彼らに、あなたの弱さを語るのだ。
彼らに、あなたの問題を話すのだ。 彼らの助言を求めなさい。
彼らは、あなたを助けられるだろうか?
ひとたび参加者が、セラピストはエゴイストではないことを理解すれば、
彼らは絶対的な謙虚さと、開いたハートと共にやって来る。
そうすれば、あなたは彼らを助けることが出来る。
だが常に、いつでも覚えておきなさい・・・
セラピーそれ自体では、不完全だ。
完璧なセラピーでさえ、最初のステップにすぎない。
第2のステップがなければ、それは無意味だ。
だから、患者が瞑想に向けて動き始めた時点で、彼らに任せなさい。
あなたの患者が、瞑想への探究を始めた時、初めてあなたのセラピーは完了する。
彼らのハートの中に、瞑想への大いなる憧れを創り出しなさい。
そして瞑想もまた、ただのステップ、第2のステップにすぎないことを、彼らに伝えなさい。
光明を得ることへとあなたを導かない限り、それ自体もまた充分ではない。
これが、努力全体の頂点だ。
そして、私はあなたを信頼している、あなたにその能力があることを。
セラピーの限界は、瞑想が始まる地点、
そして瞑想の限界は、光明が始まる地点だ、ということをポイントにしなさい。
もちろん光明を得ることは、何かへのステップではない。
あなたはただ、宇宙の意識の中へ消え去る。
あなたは、蓮の葉から大海へとすべり落ちるしずくになる。
だがそれは、もっとも偉大な体験だ。
それは、最終的に生を意味あるものに、意義あるものにする。
あなたのエゴが、あなたから切り離していた宇宙、その一部に、
あなたがなることを許す。
そして、それは非常にたやすい。
この沈黙と同じほどたやすい。
誰も、何千もの人が、ここに坐っているとは考えられない。
あなたはただ、正しい方向に動かなければならない。 正しい方向の感覚・・・
そして、すべてが意識のより高い状態への、踏み石になり得る。
私は、あらゆることを使って来た。 が、方向は同じだ。
私は、多くの種類の瞑想を用いてきた。 外見は違って見える。
112の瞑想法がある。 それらはひとつひとつ、非常に違って見える。
あなたは考えるだろう、
どうやってこの異なった手法が、みな瞑想へと導いていけるのかと。
だが、それは導く。 さながら、花輪を貫いて通っている糸が、見えないように。
あなたは、花しか見ない。 これら100と12の花は、糸で繋がれている。
その糸は、目撃すること、目を見張っていること、観照、覚醒だ。
患者が、自分の問題を理解するように、出来るだけ助けなさい。
だが、そうした問題を解決したとしても、
同じ人間のままだということを、彼らに明確にしなさい。
明日、あなたはまた、同じ問題を作り始める。
おそらく違うやり方で、違う色合いをつけて。
そう、あなたのセラピーは、
瞑想へのオープニング以外の、何ものでもあるべきではない。
そのとき、あなたのセラピーは途方もない価値を持つ。
さもなければ、それは単なるマインド・ゲームだ。
OSHO、The Great Pilgrimage:From Here to Here (1987) より抜粋