OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

20.セラピストの役割

<OSHOの講話より> 

質問:セラピストという役割を果すことは、私自身の精神的な成長にとって危険なのでしょうか?人々を助け、しかも同時に、私自身のエゴを溶かし去ることは可能でしょうか?

私はハッキリとしている部分と、明晰さとは無関係でいたがっているもう一方の部分との間の、微妙な戦いが内側で続いているのを感じます。 

あなたのガイダンスのもと、私は自分の見る能力を使う時、他者を支配せずにいることを学びました。でも依然として私は、私自身を支配しているのでしょうか? 


サガプリヤ、セラピストの役割は非常に微妙で、複雑なものだ。 

まずセラピスト自身が、助けようとしている相手と同じ問題で苦しんでいる。 
セラピストは、技術を使っている者にすぎない。 

彼は、自分がマスターだと自分自身をごまかし、その振りをすることも出来る。 
これは、セラピストとしての最大の危険だ。 
だがほんの少しの理解で、ものごとは変わってくる。 

まず、「他の人々を助ける」という見地から考えないことだ。 
それがあなたに、救世主である、マスターであるという考えを与える。 

すると、エゴが裏口から再び入り込んで来る。 あなたが重要になる。 
あなたは、グループの中心だ。 誰もがあなたを尊敬している。 

「助ける」という考えを落としなさい。 
「助ける」の代わりに、「分かち合う」という言葉を使いなさい。 
あなたは何であれ、あなたの持っている洞察を分かち合う。 

参加者は、あなたより劣っている誰かではない。 
セラピストもセラピーを受ける者も、両者とも同じ舟に乗っている。 

セラピストは、ほんの少し知識があるにすぎない。 
あなたの知識は借物だ、という事実に覚めていなさい。 
あなたが知っていることは何であれ、 
それがまだあなたの体験ではないことを、一瞬たりとも忘れてはいけない。 

そしてこれが、あなたのグループに参加している人々を助けることになる。 

人間は、非常に微妙なメカニズムだ。 
それは、両方に働きかける。 
セラピストは、マスターになり始める。 
そして助けるよりもむしろ、参加者の何かを破壊している。 

なぜなら参加者も、技巧のみを学ぶことになるからだ。 
愛に溢れること、分かち合われる友情、信頼の雰囲気はなくなる。 

そのかわり、「あなたはより多くを知っている。 私は少ししか知らない。 
いくつかセラピー・グループに参加することで、私もあなたと同じくらい多くを知るだろう」 

参加者自身が、徐々にセラピストになり始める。 
ほとんどの国で、何の学位も要求されていないからだ。 

ごく少数の国が、受け容れることの出来ないあらゆる種類のセラピーを禁止し始めた・・・ 
治療学、精神分析、精神療法の分野の、大学の資格を得た者のみが、 
セラピー・グループで、人々を助けることが出来る。 

これは、世界中のほとんどあらゆる国で起こることになるだろう。 
セラピーが、ビジネスになってしまったからだ。 
そして資格のない者が、それを牛耳っている。 

彼らはテクニックは知っている。 テクニックなら学ぶことが出来るからだ。 
いくつかグループに参加することで、彼らはあらゆるテクニックを知る。 
その上に、自分自身ででっちあげも作ることが出来る。 
だが、統括する術はない・・・ 

だが、覚えておきなさい・・・ 
あなたが、「助ける者」を演じる時、「助けられる者」は、決してあなたを許しはしない。 
あなたは、彼のプライドを傷つけた。 あなたは、彼のエゴを傷つけた。 

あなたは、そんなつもりではなかった。 
あなたはただ、自分自身のエゴを膨らませたかっただけだ。 
だがこれは、あなたが他人のエゴを傷つける時にしか起こり得ない。 

あなたは、他者を傷つけることなしには、自分のエゴをふくらませることは出来ないのだ。 
あなたのより大きなエゴには、より大きなスペースが必要になる。 

そして他者は、あなたとともに在るために、 
自分のスペースを、自分の人格を、縮めなければならない。 

まさに最初から、真摯な愛情深い人が・・・ 
そして私は、愛に勝る治療はないことを、絶対的に必要なポイントとする。 

技巧は助けることが出来る。 だが真の奇跡は、愛を通して起こる。 
セラピーに加わっている人々を愛しなさい。 そして、彼らの中の一員でいなさい。 
より高いとか、より神聖だという気取りなしに。 

まさに最初から、明確にしなさい。 

「これは、私が学んだテクニックだ。 私の体験は、ほんの少しだ。 
私は、あなたにテクニックを与える。 そして、私の体験を分かち合う。 
だが、あなたは私の弟子ではない。 あなたはただ、まさかの時の友だ。 
私には、いくらかの理解はある。 そんなに多くではないが。 
私はそれを、あなたと分かち合うことが出来る」 

おそらく多くの者が、様々な分野、様々な方向からの、彼ら独自の理解を持っている。 
彼らもまた、自らの体験を分かち合い、グループを豊かにすることが出来る。 

言葉を換えて言えば、私が言っていることは、セラピーのまったく新しい概念だ。 

セラピストはたんに、コーディネーターに過ぎない。 
ただグループを、より静けさに満ち、穏やかにしようと試みる。 
彼は、何も間違った方向に行かないよう、目を見張る。 
マスターというより、むしろ保護者だ。 

そしてあなたもまた、明確にしておかなければならない。 

「私もまた、自分の体験を分かち合おうとする中で、学んでいる。 
あなたの話に耳を傾ける時、それはあなただけの問題ではない。 私の問題でもある。 
そして私が何か言う時、私はそれを言っているだけではなく、聞いてもいる」と。 

あなたが特別な誰かではないことを、強く明確にしなさい。 
これは、グループの始めになされなければならない。 
そして、グループがより深く探求していく中でも、それを続けなければならない。 

あなたはただ、数歩だけ先を行っている年長者であるにとどまる。 
さもなければ、あなたは人々を助けることは出来ない。 

彼らはテクニックを学ぶだろう。 そして、自らセラピストになっていくだろう。 
それに、愚か者は充分にいる。 地球上には50億の馬鹿者が・・・ 
彼らは、彼ら自身の追従者を見い出すだろう。 

人々が自分を尊敬し始めると、 
「人々が私を尊敬しているのなら、私には、何か偉大なものがあるに違いない」 
と考え始めるのは、人間の弱さだ。 

人々は悩んでいる。 彼らは、人間の脆さゆえに苦しんでいる。 
だが、あなたも人間だ。 そして間違いを犯すことは、まったく人間的なことだ。 

どんな非難もなしに、大いなる愛を持って、彼らが自分自身を開くのを助けるがいい・・・ 
それは、あなたが自分自身を開いてのみ可能だ。 

私は、奇妙な事実に出くわしたことがある。 
見知らぬ者同士は、自分が知っている相手には、決して言えないようなことを語り合う。

列車の中で、あなたは誰かに会う。 あなたは、相手の名前を知らない。 
その人がどこへ行くのか、どこから来ているのか知らない。 
すると、人々は分かち合い始める。 

私は、国中を20年間休むことなく旅し、 
人々が、自分たちの秘密を見知らぬ相手に打ち明ける、奇妙な現象を見てきた。 
なぜなら見知らぬ人間は、それを食い物にはしないからだ。 

次の駅が来ると、見知らぬ相手はいなくなる。 
おそらく、2度と会うことはあるまい。 
それに彼は、あなたの評判や何かを落とすような関係にはない。 

それどころか、あなたがあなたの秘密を、あなたの弱さを、あなたの脆さを分かち合うことで、 
相手はより自信を持ち、あなたに対してより多くの愛情を、信頼を寄せるようになる。 

あなたの信頼が、あなたに対する彼らの信頼を呼び起こす。 
あなたがあまりに無垢で、あまりに開いているのを見、彼らは開き始める。 
それは連鎖反応だ。 

だが、あなたがマスターになってしまったら・・・ 

このコミューンから、幾人かの愚かなセラピストがマスターになった。 
彼らは、彼ら自身の実存について何ひとつ知らない。 
彼らは、存在の神秘について何ひとつ知らない。 

彼らが知っているすべては、ある特定のマインド・ゲームだけだ。 
もし、あなたが行き着いた人のガイダンスのもとに、究極的にいるのなら、 
そのマインド・ゲームも、助けになり得る。 

セラピー・グループは、確かにほんの少し混乱をなくし、ほんの少し明晰さを創ることが出来る。 

だが、セラピー・グループは最後ではない。 それは、ほんの始まりにすぎない。 
それは瞑想のための準備だ。 瞑想が、光明を得ることへの準備であるように。 

あなたが、ものごとの単純な算術を理解すれば、それを難しいと思うこともないだろう。

そして、あなたはもっとグループを楽しむ。 
グループはあなたと共に、より深く行くことが出来るからだ。 
あなたは、グループの教師であるだけでなく、学ぶ者でもある。 

カリール・ジブランの「預言者」、アル・ムスタファは、素晴らしい言葉を残している。
誰かが、「学ぶことについて何かおっしゃってください」と尋ねた時、彼は言った。 

「あなたが尋ねたから、私は話そう。だが、覚えておくように。 
私は話している。そして、私もまた、あなた方と共に聞いているのだ」 

私はここ、ポディウムの上にいる。 そして私は、あなた方の中に坐ってもいる。 
私は、まったく特別ではない。 それが、人々を近くに引き寄せる。 

特別だと自慢することは、隔たりを生む。 エゴの充足は、愛の雰囲気を破壊する。 
そして、私はもう一度繰り返す。 愛よりも偉大なセラピーは存在しない。 

あなたのグループの参加者になった人々を、愛しなさい。 
あるべき姿としてではなく、あるがままの彼らを愛すのだ。 

彼らは生涯にわたって、 
あらゆる類の宗教、政治、神学、哲学の指導者に、苦しめられて来た。 

指導者たちは、人々が従えば愛する、 
人々が、自分たちの考えに沿ったイメージになれば、愛する、 
そういった者たちだ。 

彼らは、あなたを完璧に殺し、粉々にし、 
自分たちの考えに従って、あなたを組み立てた時にのみ、あなたを愛する。 

すべての宗教が、人類に対してそうして来た。 無傷でいた者はいない。 
そしてこの人々は、自分たちが助けていると思っている。 

意識的に彼らは、あなた方に、理想、イデオロギー、規律、戒律を与えていた。 
あなた方を助けたいという、確固たる態度を持って。 
さもなければ、あなた方が道に迷うだろうと。 

彼らは、あなた方の自由を信頼することが出来ない。 
あなたの尊厳に、敬意を払うことが出来ない。 
彼らは、あなた方をあまりにも貶めて来た。 

そして、誰ひとり反論さえしない。 


私は、私の友人のひとり、優れた医者の言葉を思い出す。 
彼がまだ生きているかどうか、私は知らない。 
ここ6年間、彼のことを何も聞いていないからだ。 

彼は、私がボンベイへ、それからプーナへと移る前に住んでいた都市で、 
もっとも著名な医師だった。 彼は私に言った。 

「私の全生涯の体験は、医者の役目は、患者を治すことではないということなんだ。 
患者は、自分自身で治す。 医者は、ただ愛に満ちた雰囲気、約束を与える。 
医者は、ただ自信、生き返ること、長く生きることへの熱望を与える。 
薬は、みな二次的な助けだ」 

だが、もし人が生きる意欲を失ったら、 
彼の全生涯の体験では、どんな薬も、何も助けにならないことになる。 

セラピストの状況も同じだ。 
セラピストは、人々の心理的な問題を治す人ではない。 

彼らは、愛に満ちた雰囲気を創れるだけだ。 
その中で、彼らは自分たちの抑圧された無意識な空想、抑圧、妄想、欲望を、 
笑われるという恐怖なしに、みなが慈愛と愛情を感じてくれる、 
という確信を持って開くことが出来る。 

グループ全体が、治癒的な状況として機能すべきだ。 

セラピストは、単にコーディネーターにすぎない。 
セラピストは、心理的に病み、かき乱された人々を集め、 
ただ、何も間違った方に行かないように見ている。 

そして、もしある考えで、ある洞察で、ある観察で、彼らを助けられるなら、 
あなたが体験を得ていない限り、 
「これは私の体験ではなく、私の知識にすぎない」ことを、 
常に明確にしなさい。 

もしあなたが真摯で、真実で、正直で、真正なら、 
決してマスター、救世主になる罠に落ちない。 

落ちるのは非常にたやすい。 あなたがマスターに、救世主になると・・・ 
あなたは、そうではないのだが・・・こうした人々を助けてさえいない。 
あなたはただ、こうした人々を、彼らの弱さを、彼らのトラブルを、食い物にしている。

世界中の精神分析のムーブメント全体は、 
起こっている事柄の中で、もっとも搾取的な試みだ。 誰も救われない。  
みな途方もなく搾取されている。 誰も救われていない。 

なぜなら、精神分析医、精神治療家は・・・心理学は、多くの派に分かれて来た。 
だが彼らはみな、同じ仕事をする。 彼らは、あなたを患者に貶(おとし)める。 
そして、彼らは医者だ。 

そして問題は、彼ら自身が同じ病で苦しんでいることだ。 
精神分析医ひとりひとりが救いを求めて、年に2回は、他の精神分析医のもとへ行く。 
これは偉大なる陰謀だ。 

あらゆる狂気に耳を貸していると、 
あなたがマインドとその問題を超えていないかぎり、あなた自身も気が狂っていく。 
あなたは、あなたの患者が苦しんでいるのと同じ問題で、苦しみ始める。 

彼らを治すよりむしろ、彼らがあなたを病気にしている。 
だが、責任はあなたにある。 

愛を、開かれた感覚を、誠実さを持ち込みなさい・・・ 
彼らがハートの扉を開き始める前の・・・ 
彼らはあまりに堅く閉ざしているので、誰も自分の問題が分かっていない・・・ 

精神療法家の最初の役目は、自らのハートを開き、 
自分も同じ人間であることを、彼らに知らせることだ。 

同じ弱さに、同じ性欲に、同じ権力への欲望に、同じ金銭への欲望に悩んでいる。 
苦悩と不安に悩んでいる、死の恐怖に悩んでいる。 

あなたのハートを、余すところなく開きなさい。 
それが、他者があなたを信頼する助けとなる・・・ 
あなたが、何かに成りすましているのではないと。 

救世主、預言者、メッセンジャー、ティータンカラ、アバタラは、完全に姿を消した。 
今日では、彼らの誰も受け入れられないだろう。 

今度もし、彼らのうちの誰かが再び現れても、 
人々は、石を投げて殺すことさえしないだろう。 
人々は、彼らを笑い者にするだろう。  
彼らはただ、こう言うだろう。 

「あなたは馬鹿だ。自分が人類全体を救えるという考え自体が、狂気の沙汰だ。 
まず、あなた自身を救うことだ。 そうすれば、私たちはあなたの光を見るだろう。 
そしてあなたの壮大さを、光輝を見るだろう」 

信頼はひとりでにやって来る。 それは要求されるものではない。 
それはちょうど、山からの新鮮なそよ風、大海からの高波のようにやって来る。 

その為に、あなたがしなければならないことは、 
ただ正しい時に、正しい場で、開いていなければならない。 

あなた以外の誰も、あなたを救うことは出来ない。 
私は、あなた方に言う、 「あなた自身の救世主になりなさい」 

だが、助けは条件つきで可能だ。 それが、愛と共にやって来ることだ。 

「あなたは私を信頼し、あなたのハートを開いてくれた」 
という、感謝と共にやって来ることだ。 

セラピストの役割は、サガプリア、確かに非常に複雑だ・・・ 
しかも、愚か者たちがそれをやっている! 

状況は、まるで肉屋が、外科手術をしているようなものだ。 
彼らは切り方は知っている。 だがそれで、彼らが脳外科医になれる訳ではない。 
彼らは水牛、牛、あらゆる類の動物を殺せる。 だが彼らの役割は、死に貢献するものだ。 

セラピストは、生に貢献する。 
セラピストは、自分自身を生きることで、ハートの静けさに向かうことで、 
生への肯定的な価値を、創らなければならない。 

あなた自身の中に、深く在れば在るほど、 
あなたは他者のハートの中に、より深く行き着くことが出来る。 
それはまったく同じことだ・・・ 
あなたのハートも他者のハートも、それほど違うものではないからだ。 

もしあなたが、あなたの実存を理解すれば、誰もの実存を理解する。 
そしてその時、あなたは自分もまた愚かだったこと、幾度も堕落したこと、 
自分自身に反して、他者に反して、罪を犯して来たことを理解する。 

もし、他の人がまだそうしているとしても、非難する必要はない。 
彼らは、気づかされなければならない。 そして、彼ら自身に任されるべきだ。 
彼らを、特定の枠の中にはめようとしてはならない。 

そうなったら、それがセラピストで在る喜びだ。 
なぜなら、あなたは人間の内面を知るに至ったからだ。 
生のもっとも秘められ、隠された場所のひとつを。 

そして他者を知ることで、さらにあなたは、あなた自身を知る。 
これは悪循環だ・・・他に言葉がない。 さもなければ、私は「悪」という言葉は使わない。 
私が言葉を作るのを許して欲しい・・・これは「徳循環」だ。 

あなたは、あなたの患者に、参加者に開く。 
すると彼らは、彼ら自身をあなたに開く。 
それは、あなたがさらに開くのを助ける。 
そしてそれは、彼らがさらに開くのを助ける。 

すぐに、セラピストはいなくなる。 患者はいなくなる。 
ただ愛に満ちたグループが、互いを助けている。 

セラピストが、グループの中に消え去らない限り、 
彼は、成功したセラピストではない。 

それが、私の基準だ。 

サガプリア、あなたは言っている。 

「あなたのガイダンスのもと、私は私の見る能力を使う時、他者を支配しないことを学びました。 
でも、依然として私は、私自身を支配しているのでしょうか?」 

それらはふたつのことではない。 支配は支配だ。 
あなたが他者を支配しようと、あなた自身を支配しようと・・・ 

もしあなたが、あなた自身を支配しているのなら、 
その時は、ある微妙なやり方で、あなたは他者をも支配することになる。 
そうならざるを得ない。 

あなたが落とさなければならない最初の支配は、他者に向けてのものではない・・・ 
彼らがあなたの支配を受け容れるかどうか、それは確かではないからだ。 
あなたが落とさなければならない最初の支配は、あなた自身へのものだ。 

なぜ、あなた自身囚人になり、大変な努力をして自分自身の周りに牢獄を築き、 
自分が行くところどこにでも、それを持ち運んで行くのかね? 

まず自由の、広大な空に翼を広げる鳥の歓喜を、学びなさい。 
あなたの自由そのものが、他者のための変容の力となる。 

支配は、あまりにも醜い。 
それは何の羞恥心もない政治家に、任せておきなさい・・・ 
彼らは、ただ虚ろに感じる自分の内側を満たすために、 
さらに多くの権力を手にしようとしている。 

外から見れば、内側は空っぽだ。 内側から見れば、全世界は空っぽだ。 
唯一、あなたの内側だけが溢れている。 だが、溢れているものは不可視だ。 
あなたの実存の香り、愛、至福、法悦、沈黙、慈愛・・・ 
何ひとつ、目で見ることは出来ない。 

それ故に、あなたが外側から見ても、すべてが空っぽに思えるのだ。 
すると、強い衝動が起こる。 いかにして、それを満たすか? 
金銭で、権力で、地位で、大統領に、首相になることで・・・? 
何かをして、それを満たすのだ!  

人は内側の空っぽ、内側の空虚と共に、生きることが出来ない。 
だがこうした人々は、内側に入ったことがない。 
彼らは、外側から覗いただけだ。 これが問題だ。 

外側からは、あなたは物質を見ることが出来るだけだ。 
愛は物ではない。 至福は物ではない。 光明を得ることは物ではない。 
理解は物ではない。 知恵は物ではない。 

それはみな、人間の存在における偉大さだ。 
生は主観的だ、客観物ではない。 だが外側からは、物が見えるだけだ。 

それは、どんなゴミでも自分の虚ろな内側を満たそうとする、途方もない緊急性を与える。 
借り物の知識で、それをいっぱいにしている人々がいる。 
自ら好んで自分を痛めつける、それをいっぱいにしている人々がいる・・・ 
彼らは聖人になる。 

首相になるために、大統領になる為に、乞食でいる人々がいる。 
あらゆるところで、空虚な人々が、他者を支配せずにはいられないという必要にかられている。 
それが彼らに、自分たちは空っぽではない、という感覚を与える。 

サニヤシンは、自分の主観の中に、内側から分け入ることから始める。 
そして、途方もない宝、尽きることのない宝に気づくようになる。 
そうしてのみ、あなたは、あなた自身を支配することをやめる。 
そんな必要はまったくない。 

その瞬間から、あなたの努力のすべては、個人として在ることを、 
自由を、至福、充足、平和の途方もない、尽きることのない源泉を、 
みなに気づかせることになる。 

私にとって、セラピーが瞑想のための土壌を整えるのであれば、 
セラピーは正しく起こっている・・・ 
患者のための土壌、そして、セラピストのための土壌、両方を。 

セラピーは、あるポイントで瞑想へと向かわなければならない。 
瞑想は、あるポイントで光明を得ることへと向かう。 
こんなにも途方もない潜在性を持ちながら、ただ乞食のままでいるとは・・・ 

私は、他の人のことを考えると、ときおりとても悲しく感じる。 
彼らは乞食ではない。 だが乞食のようにふるまっている。 
そして、物乞いを落とす用意がない。 
物乞いこそ、自分たちが得たすべてなのだと恐れているからだ。 

物乞いを落とさない限り、彼らは、自由が皇帝だということを、 
自分の帝国が内側にあることを、決して知ることはないだろう。 

サガプリア、あなたは、人々を支配するのをやめているにしても、 
自分自身を支配し始めているのではないか、と疑っている。 
これでは何も変わっていない。 あなたは、メッセージ全体を誤解した。 

間違いを犯すこと、誤解することは人間的なことだ。 
だが、彼女は知性的な女性だ。 
セラピーの新しい考えを、上手く扱うことが出来る。 
彼女は、セラピーの先駆者になることが出来る。 

だが、あらゆるところに、あまりにも多くの愚か者がいる。 
あなたが何か愚かなことを始めれば、追従者がついて来るのを目にすることになる。 

サガプリア、あなた自身を、可能な限り深く理解しようとしてごらん。 
セラピーは二の次だ。 あなたが瞑想と沈黙を通して、自分の実存を精錬しない限り・・・ 

私は、ワークをやめなさいとは言っていない。 
私は、その質を変容しなさい、と言っているのだ。 
それを、真のワークにしなさい。 

あなたのハートを開きなさい。 彼らに、あなたの弱さを語るのだ。 
彼らに、あなたの問題を話すのだ。 彼らの助言を求めなさい。 

彼らは、あなたを助けられるだろうか? 
ひとたび参加者が、セラピストはエゴイストではないことを理解すれば、 
彼らは絶対的な謙虚さと、開いたハートと共にやって来る。 
そうすれば、あなたは彼らを助けることが出来る。 

だが常に、いつでも覚えておきなさい・・・ 

セラピーそれ自体では、不完全だ。 
完璧なセラピーでさえ、最初のステップにすぎない。 
第2のステップがなければ、それは無意味だ。 

だから、患者が瞑想に向けて動き始めた時点で、彼らに任せなさい。 
あなたの患者が、瞑想への探究を始めた時、初めてあなたのセラピーは完了する。 
彼らのハートの中に、瞑想への大いなる憧れを創り出しなさい。 

そして瞑想もまた、ただのステップ、第2のステップにすぎないことを、彼らに伝えなさい。 
光明を得ることへとあなたを導かない限り、それ自体もまた充分ではない。 
これが、努力全体の頂点だ。 

そして、私はあなたを信頼している、あなたにその能力があることを。 

セラピーの限界は、瞑想が始まる地点、 
そして瞑想の限界は、光明が始まる地点だ、ということをポイントにしなさい。 

もちろん光明を得ることは、何かへのステップではない。 
あなたはただ、宇宙の意識の中へ消え去る。 
あなたは、蓮の葉から大海へとすべり落ちるしずくになる。 
だがそれは、もっとも偉大な体験だ。 

それは、最終的に生を意味あるものに、意義あるものにする。 
あなたのエゴが、あなたから切り離していた宇宙、その一部に、 
あなたがなることを許す。 

そして、それは非常にたやすい。 
この沈黙と同じほどたやすい。 
誰も、何千もの人が、ここに坐っているとは考えられない。 

あなたはただ、正しい方向に動かなければならない。 正しい方向の感覚・・・ 
そして、すべてが意識のより高い状態への、踏み石になり得る。 

私は、あらゆることを使って来た。 が、方向は同じだ。 
私は、多くの種類の瞑想を用いてきた。 外見は違って見える。 
112の瞑想法がある。 それらはひとつひとつ、非常に違って見える。 

あなたは考えるだろう、 
どうやってこの異なった手法が、みな瞑想へと導いていけるのかと。 
だが、それは導く。 さながら、花輪を貫いて通っている糸が、見えないように。 

あなたは、花しか見ない。 これら100と12の花は、糸で繋がれている。 
その糸は、目撃すること、目を見張っていること、観照、覚醒だ。 

患者が、自分の問題を理解するように、出来るだけ助けなさい。 
だが、そうした問題を解決したとしても、 
同じ人間のままだということを、彼らに明確にしなさい。 

明日、あなたはまた、同じ問題を作り始める。 
おそらく違うやり方で、違う色合いをつけて。 

そう、あなたのセラピーは、 
瞑想へのオープニング以外の、何ものでもあるべきではない。 

そのとき、あなたのセラピーは途方もない価値を持つ。 

さもなければ、それは単なるマインド・ゲームだ。 

OSHO、The Great Pilgrimage:From Here to Here (1987) より抜粋