OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

51.笑うブッダ

<OSHOの講話より> 

笑いは宗教のまさに真髄だ。深刻さは決して宗教的ではない。宗教的ではあり得ない。深刻さはエゴのもの、まさにその病気の一部だ。笑いとは、エゴのない状態だ。 

そう、あなたが笑うのと、宗教的な人が笑うのとは違いがある。あなたはいつも他人のことを笑い・・・宗教的な人は自分自身を、あるいは人間の存在の馬鹿らしさ全体を笑うというのが、その違いだ。 

宗教は生の祝祭以外の何ものでもあり得ない。そして、深刻な人は不具者になる。彼は障害を生み出す。彼は踊ることが出来ない。歌うことが出来ない。祝うことが出来ない。 

祝祭という、まさにその次元が彼の生から消え失せる。彼は砂漠のようになる。そして、あなたが砂漠であるとしても、自分は宗教的だと考え続け、装い続けることは出来る。だが、あなたは宗教的ではない。 

あなたは宗徒かもしれないが、宗教的ではない。あなたはキリスト教徒、ヒンドゥ教徒、仏教徒ジャイナ教徒、回教徒ではあり得る。だが宗教的ではあり得ない。 

あなたは何かを信仰するが、何も知らない。あなたは理論を信仰する。あまりにも理論に悩まされている人は、深刻になる。 

悩まされず、自分の存在に理論の重荷を持たない人は、笑い出す。存在の戯れ全体は実に美しいので、それに応えるには笑うしかない。笑いは唯一、真の祈り、感謝で在り得る。

日本には(注:中国の間違い、OSHOはあまり気にしないので・・笑)笑うブッダと呼ばれる偉大な神秘家、布袋がいる。彼は日本でもっとも愛されている神秘家の一人だ。 

彼は決して一言も話さなかった。彼は光明を得るなり笑い出した。そして誰かが「なぜ笑っているのですか?」と尋ねると、いつもさらに笑ったものだ。そして彼は村から村へと笑いながら移動した。 

群衆が集まり、彼は笑う。そしてゆっくりと・・・彼の笑いはとても移りやすいものだった・・・群衆の中の誰かが笑い出し、また誰か別の人が笑い出し、そうして群衆全体が笑っていた。彼らが笑っていたのは・・・なぜ彼らは笑っていたのだろう? 

誰もが分かっていた。「馬鹿馬鹿しい、この男は変だ」と。「それにしても、なぜ我々は笑っているのだろう?」だが、誰もが笑っていた。そして誰もが気にしていた。「人々がどう思うだろう?笑う理由など何もないのに・・・」 

しかし、彼らは布袋が来るのをいつも待っていた。何故なら彼らは生涯、それほど全面的に、それほど強烈に笑ったことは、かつて一度もなかったからだ。 

その笑いの後では、全ての感覚がより冴えているのが分かるほどだった。彼らの目はよりよく見えるようになり、彼らの存在全体が、まるで大変な重荷が消え失せたかのように軽くなっていた。 
人々が布袋に「また戻って来てください」と頼むと、彼は笑いながら別の村へ移って行く。その全生涯、光明を得た後のほぼ45年間、彼はただひとつのことしかしなかった。そして、それが笑うことだった。それが彼のメッセージであり、彼の福音、彼の聖典だった。 

そして注目に値するのは、日本では布袋ほどに大変な敬意をもって記憶されている人は他に誰もいないということだ。どの家でも布袋の置物を見かける。が、彼は笑うこと以外、何もしなかった。 

しかし、その笑いは大変な深みから来ていたので、それを聞いたどの人の中にも残り、その人の存在を触発し、シンクロニシティ共時性)を創り出した。 

布袋はユニークだ。世界中で、それほど多くの人々を全く何の理由もなく笑わせた人は、他に誰もいない。 

その上、誰もがその笑いによって滋養を与えられ、誰もがその笑いによって洗い清められた・・・かつて感じたことのないような安らぎを感じた。未知の深みからの何かが、人々のハートの鈴を鳴らし始めた。 

この布袋は途方もなく意義深い。布袋のような人が地上を歩いたことは滅多にない。それは残念なことだ・・・もっと多くの人々が布袋のようであるべきだ。もっと多くの寺院が、笑いや、踊りや、歌で満たされるべきだ。 

深刻さがなくなっても、失われるものは何もない・・・実際、人はより健康的で、全体的になる。 

だが、もし笑いがなくなれば、何もかもが失われる。突然あなたは、自分の存在のお祭り気分を失う。あなたは色あせ、単調になり、ある意味では死んでしまう。そうなったら、あなたのエネルギーはもはや流れてはいない。 

しかし、布袋を理解するのは難しい。彼を理解する為には、あなたは祝祭の次元にいなければならない。 

もしあまりにも理論、概念、観念、イデオロギー、神学、哲学の重荷を負っていたら、この布袋とは何なのか、彼の意義深さとは何なのかを理解出来ない・・・というのも、彼はあなたを見て笑うだろうからだ。 

彼は笑うだろう。彼には、人がこれほど愚かで、馬鹿げていることが信じられないからだ・・・それは、まるで人が食べ物を料理することを忘れて、料理の本によって生きようとしているかのようだ。 

人はただ、食べ物について本で勉強し続ける。それらをどのように料理すればよいか、どのように料理してはいけないのか、そしてあれこれと議論する・・・が、いつも空腹だ。いつも死にそうになっている。 

そして、人は本によっては生きられないということを完全に忘れている。それが起こっていることだ。 

宗教とは、生きられるものでなければならないということを、人々は完全に忘れている。それは消化されなければならない何かだ。あなたの血の中を廻り、あなたの骨、あなたのまさに骨髄とならなければならない何かだ。 

それについて、ただ考えることは出来ない。考えることは、あなたの存在のもっとも表面的な部分だ。あなたはそれを吸収しなければならない!  

しかし一筋の光、真理が生まれる時はいつでも、突然、学者達が寄り集まる・・・知識人達、教授達、哲学者達、理論家達が・・・ 

そして彼らはその真理に飛び乗り、それを押し潰す。彼らはそれをこね回し、死んだ理論や聖典にしてしまう。生き生きしていたものが、ただの紙切れになる。本物の薔薇は消え去る。 

ある時、私はキリスト教徒である友人の家に滞在していた。私は彼の「聖書」をのぞき始めた。そこには一輪の薔薇があった。彼は、それを聖書の間に挟んでおいたに違いない。何年も経ち・・・枯れて死に絶え、聖書のページに埋もれて押し潰されていた。 

私は笑い出した。彼は浴室から慌てて出て来た。彼は言った。「どうしたんです?あなたは何を笑っているんですか?何が起こったんですか?」 

私は言った。「この薔薇に起こったのと同じことが、真理にも起こった。あなたの聖書のページに埋もれて、薔薇は死んでいる。今やそれは、かつては生きていた何かの思い出に過ぎない。ただの記念だ。 

香りは全てなくなった。瑞々しさは全て消え去った。造花やペーパーフラワーと同じように死んでいる。それには歴史はあるが、未来はない。それには過去はあるが、可能性はない。そして、同じことが真理にも起こった。聖書のページに埋もれて、真理は死んでいる。」 

真理が生まれる時、それは言葉の上のものではない。それは沈黙だ。非常に深遠だ。真理は言葉を通しては表現され得ない。 

それから遅かれ早かれ、それを言葉にしてしまう人々、それを系統立てる人々がやって来る。そして、彼らのまさにその系統化の中で、真理は殺される。 

布袋は、普通の宗教的な人とは全面的に違った「生」を生きた。彼の「生」全体は、絶え間ない笑い以外の何ものでもなかった。 

布袋はときには眠りについている時でさえ、笑い出したことがあったと言われている。彼は大きな腹をしていて、その腹をゆするのだった。 

人々は彼に尋ねた。「なぜ笑っているのですか?しかも眠りの中でさえ!」笑いは、彼にとってあまりにも自然なことだったので、どんなことでも全て、彼が笑うきっかけになった。そうなれば寝ても覚めても、「生」全体は喜劇だ。 

あなたは「生」を悲劇にしてしまっている。あなたは、自分の「生」を悲壮な混乱にしてしまっている。たとえ笑うとしても、あなたは笑わない。たとえあなたが笑うふりをしていても、その笑いはただ強いられ、操られ、うまくあしらわれたものに過ぎない。 

それはハートからは、腹の底からは来ていない。あなたのセンターから来ている何かではない。それはただ、表面に塗られた何かだ。あなたは、笑いとは何の関わりもない理由の為に笑う。 

私は聞いたことがある・・・ある小さなオフィスでボスが、何度も話したことのある古臭い逸話を話していた。そして誰もが笑っていた・・・笑わなければならない!彼らはみな、うんざりしていた。だが、ボスはボスだ。 

だからボスが冗談を言う時には、笑わなければならない。それは職務の一部だ。ただひとり、女性タイピストだけが笑っていなかった。彼女はしかめつらしく、まっすぐ座ったままだった。 

ボスが言った。「どうしたんだね?何故君は笑わないのかね?」彼女は言った。「私は今月で辞めるんですもの」・・・ 

さあ、もう笑う必要はない。人々にはそれぞれの訳がある。笑いでさえもが事務的だ。笑いでさえもが経済的、政治的だ。笑いでさえもが、ただの笑いではない。 

純粋性が全て失われている。あなたは純粋に、単純に、子供のように笑うことすら出来ない。そしてもし純粋に笑えないのなら、あなたは自分の純潔、自分の純粋さ、自分の無垢を失っている。 

小さな子供を見てごらん・・・心からの笑いを。それはまさに中心から来る。子供が生まれると、その子が学ぶ最初の社会的行為は・・・彼はそれを自ら携えて来るので「学ぶ」と言うのは正しくないかもしれないが・・・微笑むことだ。 

最初の社会的行為。微笑むことによって、彼は社会の一部になる。それはとても自然で、自発的なことに見える。その他のことは後から来る・・・子供が微笑む時、それは彼が、世界に在ることの最初のきらめきだ。 

母親は子供が笑っているのを見ると、たまらなく幸せになる・・・何故なら、その微笑みは健康を示し、その微笑みは知性を示し、その微笑みは子供が馬鹿ではないことを、知恵遅れでないことを示しているからだ。 

その微笑みは、子供が生きていくことを、幸せになることを示している。母親はとてもわくわくする。 

微笑むことは、最初の社会的行為だ。そして、それは基本的な社会的行為のままで残るべきだ。人は、その「生」全体を笑い続けるべきだ。もし、あらゆる類の状況を笑うことが出来るなら、あなたはどんな状況にも出会うことが出来るようになる・・・ 

そしてその出会いが、あなたに成熟をもたらす。私は泣くなと言っているのではない。実際のところ、もし笑うことが出来なければ、あなたは泣くことも出来ない。それらは連れ立っている。それらは、真実で、真正であるというひとつの現象の一部だ。 

涙が枯れている何百万もの人々がいる。彼らの目は輝きを、深みを失っている。彼らの目は水分を失っている。何故なら、彼らは涙を流せないからだ。泣けないからだ。涙は自然に流れることが出来ない。 

笑いが片輪だったら、涙もまた片輪だ。よく笑う人だけが、よく泣くことが出来る。そしてよく泣き、よく笑うことが出来るなら、あなたは生き生きしている。 

死んだ人は笑うことも泣くことも出来ない。死んだ人は深刻にならなれる。見てごらん。行って死体を見てごらん・・・死んだ人は、あなたよりもっと上手に深刻になることが出来る。生きている人だけが笑い、涙を流し、泣くことが出来る。 

これらは、あなたの内なる存在のムードだ。これらは風土だ・・・豊かにしている。しかし、やがて誰もが忘れる。初めは自然だったことが不自然になる。 

あなたには自分を突いて笑わせてくれる、くすぐって笑わせてくれる誰かが必要だ・・・その時にしかあなたは笑わない。 

世界中にこれほどたくさんのジョークが存在するのはその為だ。

 

あなたはユダヤ人が、世界中で最高のジョークを持っているということに気づいてはいないかもしれない。そしてその理由は、彼らが他のどの民族よりも深い惨めさの内に生きて来たからだ。 

彼らはジョークを作らなければならなかった。さもなければ、彼らはずっと前に死んでいたことだろう。彼らは実に多くの惨めさを経験して来ている。何世紀にもわたって実に酷く虐待されて来ている。彼らは押し潰され、迫害されて来ている・・・ 

彼らは、馬鹿げているという感覚を作らなければならなかった。それは救いの手段だった。それ故に、彼らはもっとも素晴らしいジョークを持っている。もっとも可笑しく、もっとも意味の深いジョークを。 

私が、あなたに示そうとしているのはこういうことだ。私達は、自分達を笑わせようと強いる何かの理由がある時にだけ笑う。ジョークが語られ、あなたは笑う・・・何故ならジョークは、あなたの中に何らかの興奮を生み出すからだ。 

ジョークのメカニズム全体は、話がひとつの方向に進み、それが突然、向きを変えるということだ。その転回は、あなたには想像も出来ないほどにあまりにも突然で、あまりにも思い切ったものだ。興奮は大きくなり、あなたは落ちを期待している。 

そして不意に、何であれあなたが期待していたものは決してそこにない・・・まったく違った何か、とても不合理で、馬鹿げた何か、あなたの期待を決して満たすことのないものがある。 

ジョークは決して論理的ではない。もしジョークが論理的なら、それは笑いのセンス全てを、笑いの質を失う。なぜならその時には、あなたは予測することが出来るからだ。 

そうだとしたら、それはひとつの三段論法、単純な算数だから、あなたはそのジョークが語られている時に落ちが分かっている。しかしそれでは、そのジョークにはいかなる笑いもない。 

ジョークは不意の変化を遂げる。それはあなたが想像したり、推論したりするのがほとんど不可能なほど、あまりにも不意だ。それはジャンプを、跳躍を、量子的跳躍を遂げる・・・ 

そして、ジョークがそれほどの笑いを放つのはその為だ。それは、あなたをくすぐる為の巧妙な心理学的方法だ。 

私はあなた方がみな、宗教的な人々であることを心配しているのでジョークを語らなければならない。あなたは深刻になりがちだ。私は、あなたをくすぐらなければならない。 

それによってあなたが、時には自分の宗教性を忘れ、自分の哲学、理論、学説の全てを忘れ、地上に落ちるように。さもなければあなたは深刻に、もっともっと深刻になりがちだ。そして、深刻さは癌の腫瘍だ。 

あなたは、布袋から多くのことを学ぶことが出来る。笑いは強さをもたらす。今では医学でさえ、笑いは自然が人間に備え付けた、もっとも効き目のある薬のひとつだと言う。 

もし病気の時に笑うことが出来るなら、あなたはより早く健康を取り戻す。もし笑えなかったら、たとえ健康であっても、遅かれ早かれあなたは健康を失い、病気になる。 

笑いは、あなたの内なる源泉からあなたの外面に、あるエネルギーをもたらす。エネルギーは影のように、笑いに伴って流れ始める。あなたは、それを見守ったことがあるだろうか? 

本当に笑う時、そのわずかな瞬間、あなたは深い瞑想的な状態にある。思考が止む。笑いながら考えることは不可能だ。それらは全く正反対だ。あなたは笑うことが出来るか、考えることが出来るかのどちらかだ。 

本当に笑えば、思考は止む。もしまだ考えているのなら、その笑いはまさに中途半端だ。それはただ中途半端で、ぐずついたものだ。それは片輪の笑いになる。 

あなたが本当に笑うと、マインドは消え失せる。そして如何にして無心に入るかというのが、禅の方法論の全てだ。笑いは、そこに入るもっとも素晴らしい扉のひとつだ。 

私の知る限りでは、踊りと笑いが最高の、もっとも自然な、もっとも簡単に近づき易い扉だ。 

あなたが本当に踊れば、思考は止む。あなたはどこまでも踊り続ける。あなたはぐるぐる回り、そして渦巻きになる・・・全ての境界、全ての仕切りは失われる。 

あなたは、どこで自分の身体が終わり、どこで存在が始まるのかさえ分からない。あなたは存在に溶け込み、存在はあなたに溶け込む。そこでは境界が重複している。 

そしてもし、あなたが本当に踊っているのなら・・・あなたがそれを操っているのではなく、それがあなたを操るのを許しているのなら、それがあなたを乗っ取るのを許しているのなら・・・もし、あなたが踊りに乗っ取られるなら、思考は止む。 

同じことが笑いでも起こる。もしあなたが笑いに乗っ取られるなら、思考は止む。そしてもし、あなたが無心のわずかな瞬間を知れば、それらの一瞥が、あなたにさらに多くの報酬が与えられることを約束する。 

あなたはただ、より一層そのような状態に、その質の状態に、無心の状態にならなければならないだけだ。もっともっと、考えることを落とさなければならない。笑いは、思考のない状態への素晴らしい序奏となり得る。 

この布袋には、自分を禅マスターと称したり、自分の周りに弟子達を集めたりするような欲望はなかったと言われている。 

その代わりに、彼は自分の周りに集まり、戯れる子供達に与えるキャンディーや果物、ドーナツの詰まった袋を背中に担いで通りを歩いた。 

さてこれらの子供達というのは、時には本当に子供達だったが、時にはこれらの子供達というのは若者だったり、時にはこれらの子供達というのは老人だったりもした・・・ 

だから「子供達」という言葉に惑わされてはいけない。老いた人々、布袋自身よりもさらに老いた人々、彼らもまた、彼にとっては子供だった。 

実際、布袋と近づきになるには、あなたは子供でなければ、無垢でなければならなかった。そして彼はちょっとしたもの、玩具やキャンディーやお菓子を配ったものだ。 

彼は象徴的な言い方で、何かを言っている。つまり、ひとりの宗教的な男が、あなたに次のようなメッセージを送っているのだ、と。 

生に多くの注意を払ってはいけない・・・それは、お菓子以外の何ものでもない。味わいなさい。しかし、それに取り憑かれてはいけない。何の栄養もない。それには何の真実もない。あなたは、それで生きることは出来ない。 

あなたはイエスが、人はパンのみにて生きるにあらず、と言うのを聞いている。人はお菓子だけで生きられるかね?パンには、少なくとも何かの栄養がある。お菓子には何もない。味はいいが、長い目で見ると有害だとも言える。 

子供にも老人にも・・・彼はあらゆる人を、常に子供として扱っていた・・・彼は、その彼らに玩具を与えたものだった。 

実に暗示的だ。世界は、ただの玩具みたいなものだと言うのに、これよりよい方法は見つからない。 

そして、あなたがこれが生だと考えている生は、少しも真実ではない・・・それは虚偽、夢、はかないものだ。それに執着してはいけない。 

もしあなたが瞑想的な人であれば、あなたは与える。あなたは分かち合う・・・貯め込まない。あなたはケチではない。あなたは所有しない。 

どうしてこの世界で所有することが出来る?あなたはここにいなかったが、世界はここにあった。あなたはいつか、ここにはいなくなるだろうが、世界はここにあることになる。

どうして所有出来る?どうして「私が所有者だ」などと主張出来る?どうして何かを所有することなど出来る? 

そして、もしあなたが瞑想的であれば、あなたの生全体は分かち合いになる。あなたは、与えられるものなら何でも与える・・・あなたの愛、あなたの理解、あなたの慈悲・・・

与えることの出来るものなら何でも与える・・あなたのエネルギー、肉体、マインド、魂・・何でもだ。そして、あなたはそれを楽しむ。 

何かを分かち合うこと以上に、大きな楽しみはない。あなたは誰かに、何かを与えたことがあるかね?人々が贈り物をすることを、これほど楽しむのはその為だ。それは全くの喜びだ。 

あなたが誰かに何かを贈る時・・・おそらくはつまらないもの、それほど価値のあるものではないかもしれない・・・だがまさにその行為、贈るというまさにその意思表示が、あなたに途方もない満足をもたらす。 

ちょっと、その人の生全体が、贈り物であるような人を考えてごらん!そのあらゆる瞬間が分かち合いである人を。彼は天国に住んでいる。それより他に天国はない。 

それが布袋の説教の全てだった。分かち合いなさい!与えなさい!他に何が言える?他に何が教えられる? 

禅では、真理は言葉では表現出来ないが、身振りや行動では表現出来ると信じられている。真理に関して、何かは出来る。それを言うことは出来ないが、それを示すことは出来る。 

執着せずにいなさい。だが、ここにいなさい・・・何故なら、他にいるところはないからだ。これが唯一の世界だ・・・別の世界はない。 

だから、寺院や僧院、ヒマラヤの洞窟に坐っているあなた方の僧侶たちは、ただの逃避者だ。 

放棄しなさい!だが、逃げる必要はない。放棄して、それでもなお、ここにいなさい。世間の中にいなさい。しかし、世間のものになってはいけない。 

群衆の中に留まり、しかも、独りのままでいなさい。千とひとつのことをやりなさい。必要なことは何でもやりなさい。しかし、決してやり手になってはいけない。エゴを集めてはいけない・・・それが全てだ。 

世俗的であることに、何も間違いはない。世俗的でありなさい。それでいてなお、超俗的なままでいなさい・・・それこそ、まさにアートだ。 

正反対のものの間を生きることの、正反対のものの間で、自分自身のバランスを取ることのアートだ。 

それは、カミソリの刃のように非常に狭い道だ・・・しかし、これが唯一の道だ。もし、このバランスを取り損なえば、あなたは真理を見逃す。 

この世間で、「今ここ」に留まりなさい。そして、自分の道を進み続け、自分の存在の深い笑いと共に続けなさい。 

神のところへ、踊って行きなさい!神のところへ、歌って行きなさい! 

OSHO,「生・愛・笑い」(めるくまーる社)より抜粋 
(A Sudden Clash of Thunder)