OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

27.観照・・・瞑想の真髄

<OSHOの講話より> 

瞑想は冒険だ。それは、人間の精神が引き受けることの出来る、もっとも偉大なる冒険だ。 
瞑想とは何もせずに、ただ在ること・・・行為も、思考も、感情もない。ただ在るだけで、それがまったくの喜びとなる。 

あなたは何もしていないのに、この喜びはどこからやって来るのだろう?それは、どこからともなくやって来る。あるいは、あらゆるところからやって来る。それには原因がない。というのも、実在は「喜び」と呼ばれる材料によって造られているからだ。 

あなたが何もしていない時・・・肉体的にも、精神的にも、どのレベルにおいても・・・すべての行為がやみ、あなたがただ単に在り、存在そのものである時、それが瞑想だ。 

それを為すことは出来ない。それを修練することはできない。あなたは、それを理解しなければならないだけだ。 

「ただ在る」ための時間が見つけられる時はいつでも、すべての行為を落としなさい。考えることも行為であり、集中することも行為であり、黙考することもまた行為だ。 

たとえほんの一瞬でさえ何もせず、ただ自分の中心に完全にくつろいでいられるなら・・・それが瞑想だ。ひとたびそのコツを会得すれば、あなたは好きなだけその状態にいられるし、ついには1日24時間その状態に留まることも出来る。 

ひとたび、あなたの本性が乱されない方法に気づけば、徐々に自己の本性が妨害されず、しかも注意深く在り続けながら、物事をすることが出来るようになる。それが瞑想の第2の部分だ。 

最初は、いかにして「ただ在る」かを学ぶ。それから単純な行為を学ぶ。自分自身の中心に定まったまま、床を掃除したり、シャワーを浴びたりする。そうしているうちに、もっと複雑なことも出来るようになる。 

たとえば、私はあなた方に向かって話している。だが、私の瞑想は乱されない。私は話し続けられる。だが、私のまさに中心にはさざ波ひとつ立っていない。そこはまったくの静寂だ。完全に静まり返っている。 

だから瞑想は行為に対立しない。それは、あなたが生から逃避しなければならない類のものではない。それは、ただ生の新しい道を教えるにすぎない。あなたは台風の目になる。

あなたの生は続く。それどころか、それは以前より強烈に継続する。より一層の喜びと、より一層の明晰さと、より一層のビジョンと創造性をともなって・・・。 

それでいて、あなたはただ「丘の上のものみ」として、超然と、自分の周りで起こっているすべてを見ている。あなたは行為者ではない、「見守る者」だ。見守る者、観照者になることこそが、瞑想における秘密のすべてだ。 

行為がそれ自体のレベルにおいて継続することには、何の問題もない。木を切り、井戸から水を汲み出すというように、あらゆることをしてもよい。だが、ひとつだけ許されないことがある。 

それは「自分の中心に定まっている」という質が失われてはならないということだ。この気づき、この注意深さは、絶対に曇らされず、揺るぎないままであるべきだ。 

・・・そこには、ただひとつのステップしかない。そして、そのステップとは方向の、次元のものだ。私たちは、外側に焦点を合わせることが出来る。あるいは、外側に目を閉じて、内側の意識全体に中心を定める・・・そして、あなたは知る。 

あなたは知る者、あなたは「気づき」だ。あなたがそれを失ったことは決してない。ただ無数の物事の中で、気づきをもつれさせてしまっているに過ぎない。あらゆるところから気づきを取り戻し、自分自身の内側で休ませなさい。そうすれば、あなたは我が家に辿り着いている。 

瞑想の本質的な核心、その真髄は、いかに観照するかを学ぶことにある。 
カラスが鳴く・・・あなたは聴いている。ここにはふたつのもの、主体と客体がある。 

だが、そこに両者を見ている観照者が見えないだろうか?カラス、聴く者、なおかつその両者を見守る誰かがいる。これは非常に単純な現象だ。 

あなたは木を見ている。あなたがいて、木はそこにある。だが、もうひとつ発見出来ないだろうか?あなたが木を見ているということを、そしてまた、木を見ているあなたを見ている観照者が、あなたの中にいるということを・・・。 

見守ること、観照することが瞑想だ。何を見守るかは問題ではない。あなたは木を見守ることが出来る。あなたは河を見守ることが出来る。あなたは雲を見守ることが出来る。あなたは、子供たちが遊ぶのを見守ることが出来る。 

見守ることが瞑想なのだ。何を見守るかは要点ではない。対象は問題ではない。観察の質、気づき、油断なく醒めているという質・・・それが瞑想だ。 

いいかね。瞑想とは、醒めて気づくことだ。気づきながらすることは何であれ瞑想だ。行為が問題なのではなく、行為に持ち込む質が問題なのだ。 

油断なく醒めて歩けば、歩くことが瞑想となる。油断なく醒めて坐れば、坐ることが瞑想となる。気づきを持って聴けば、鳥のさえずりを聴くことが瞑想となる。油断なく醒め、注意深ければ、心の内なる騒音を聴くことが瞑想となる。 

そのポイントのすべては「眠りの中で動くべきではない」ということだ。そうなれば、何をしようと瞑想となる。 

「気づき」の第一歩は、肉体に注意深くあることだ。次第に、それぞれの仕草、それぞれの動作に油断なく醒めてくる。そしてあなたが気づくにつれて、奇跡が起こり始める。 

あなたが以前にしていた多くのことが、単純に消え失せる。体はより一層くつろぎ、より一層調和してくる。深い平和が体の中に広がり始める。妙なる音楽が、体の中で脈打つようになる。 

そうなったら、あなたの思考に気づき始めなさい。同じことが思考についても為されなければならない。それらは肉体より微妙で、もちろんより危険でもある。 

自分の思考に気づくようになれば、自分の内部で起きていることに驚くだろう。いつでもいいから、起きていることを書きとめてみれば、あなたは非常な驚きに見舞われるだろう。それが、自分の内側で起きていることだとは信じられない。 

そして10分後にそれを読んでごらん。内側に狂ったマインド(思考、想念)を見るだろう。私たちが気づいていない為、この狂気全体が潮流のように底を流れ続けるのだ。 

それは、あなたが何をしていようと影響を及ぼす。それは、何もしていなくても影響を及ぼす。それは、あらゆることに影響を及ぼす。 

そして、その総計があなたの人生だ。だから、この狂人が変容されなければならない。そして「気づき」の奇跡とは、ただ気づくこと以外には何も必要としない、というところにある。 

まさに「見守る」という現象が、それを変える。徐々に狂人は消え、ゆっくりと思考が一定のパターンの中に落ち着き始める。もはやそこにカオス(混沌)はない。それは、秩序あるものになる。そうなれば、再び、より深い平安に包まれる。 

そして体とマインドがくつろいでいる時、あなたはそれらが協調し合っていることを知る。そこには橋がある。いまや体とマインドは別方向に走っていない。それらは別々な馬に乗ってはいない。そうして初めて、そこには調和がある。 

そしてこの調和は、計り知れないほど第3ステップへの働きかけを助ける。それは、あなたのフィーリング(感覚)、エモーション(感情)、ムード(気分)に気づくようになることだ。それはもっとも微妙な層であり、もっとも困難だ。 

だが思考に気づけるようになれば、あと一歩だ。もう少し強烈な「気づき」がいる。そうなれば、自分の気分、感情、感覚を反映し始める。ひとたびこれら3つ全てに気づけば、これらはすべてひとつの現象の中に連結される。 

そして、これら3つが全体としてひとつである時・・・完璧に共に機能し、共にハミングしていれば、あなたはこの3つ全ての音楽を感じることが出来る。それはオーケストラとなる。その時、「第四のもの」が起こる。 

あなたが為すことは出来ない。それはひとりでに起こる。それは全体からの贈り物であり、これら3つを済ませた者に対する恩恵だ。 

そして「第四のもの」とは、人を覚醒させる究極の「気づき」だ。人は「気づき」に対して気づくようになる。それが「第四のもの」だ。それは人をブッダ・・・覚者・・・にする。その覚醒の中でのみ、人は至福の何たるかを知ることになる。 

肉体は快感を知り、マインドは幸福を知り、ハートは喜びを知り、「第四のもの」は至福を知る。至福がサニヤス・・・探究者たること・・・の目的地であり、「気づき」がそこへ至る道だ。 

注意深く、見守ることを忘れない。見守って・・・見守って・・・見守っていることが大切なのだ。 

次第に「見守る者」がより固定し、定着し、不動になり、そして変容が起こる。見守っていたものごとが消え失せる。 

その時初めて「見守る者」自身が、見られるものとなる。観察者自身が観察されるものとなる。あなたは、我が家に辿り着いたのだ。 

OSHO,「新瞑想法入門」(瞑想社刊)より抜粋 
    Meditation:The First and Last Freedom