OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

29.愛と覚醒の統合

<OSHOの講話より> 

質問:愛と覚醒が共に成長出来れば、マスターに対する弟子の愛が、最後の障害にならない可能性はありますか? 


プレム・シュンニョ、その可能性はある。だが、愛と覚醒を一緒に成長させるということは、存在の中でもっとも難しいことのひとつだ。 

人々はひとつを成長させることすら難しいと思う。だから通常は、人々は愛の道か、覚醒の道のどちらかを選ぶ。 

だがその可能性を否定出来ないのは、覚醒と愛の間に本質的な対立関係は存在しないからだ。実際、私のここでの努力は、まさにシュンニョが尋ねていることに向けられている。

私はあなた方に、あなたの愛とあなたの覚醒の両方において成長して欲しい・・・ゾルバであることとブッダであることの両方で。 

ゾルバは愛だ。ブッダは覚醒だ。ひとつで成長する方が易しいが、両方で成長する方が遥かに豊潤だ。 

そしてもし両方を成長させることが出来たら、マスターは最後の障害にはならない。それは愛と覚醒において、あなたがマスターとひとつになるからだ。 

覚醒の道では、マスターは障害だ。ブッダが 「もしあなたが道で私に会ったら、即座に私の頭を切り落としなさい」(脚注)と言ったのは、その為だ。 

それが覚醒の道の答えだ。というのも、ブッダの教えの中には、愛の場所はないからだ。

スーフィーイスラム神秘主義)のような愛のスクールが存在した。スーフィーならこれに同意しないだろう。スーフィーは「道でマスターに出会ったら、彼とひとつになりなさい」と言うだろう。 

だが、もしあなたが私のアプローチを理解したら・・・それは少し複雑だ。私は、あなたの愛とあなたの覚醒が、共に手を取って進んで行くように努力しているからだ。 

両方が共に成長すべきだと私が強調する理由は、愛の中で成長した人々は、意識の究極の高みに到達することがなかったからだ。 

彼らは途方もなく存在を楽しんだが、エヴェレストのようにはならなかった、覚醒の柱にはならなかった。愛が彼らをより酩酊させ、覚醒を少なくした。 

そして覚醒の道にだけ従う人々は、砂漠のようにドライになった。何ひとつ、草も育たない。彼らの途上にはオアシスはなく、ますます乾いていく砂漠しかない。しかし、彼らは覚醒の最高の高みに到達した。 

愛と覚醒の間に統合を生み出そうとする努力は、世界への私の貢献だ。なぜなら私は、あなたにゴータマ・ブッダと同じほどに覚醒し、かつドライではなくなって欲しいからだ。

私はあなたに、ミーラ(インドの女性神秘家)のようにもなって欲しい・・・今日もなお比べるもののない歌を唄った彼女のように豊潤に。彼女は春の園のようだ。 

そして私は、そこに何の矛盾も見出さない。どうして人々はひとつだけを選んで来たのか? 

彼らがひとつだけを選んだのは、ひとつを扱う方が単純だからだ。両方を扱うのは少し難しいが、それだけの価値はある。 

もしあなたがエヴェレストの頂上でバラを育てることが出来たら、あなたは新しいサニヤシン、新しい真理の探究者であるという私の夢を実現したのだ。 

そして愛と覚醒の両方が意味するものは、生を放棄する必要がないということだ。 

愛が生を放棄することを妨げるだろうし、また覚醒は、あなたが世間の中にいてなおかつ世間の一部ではなく在ることを助けるだろう。 

私が見るところ、その両者は相互補完することが出来、私達はその足が大地にあって、かつその頭が星々に届く「ゾルバ・ザ・ブッダ」を生み出すことが出来る。 

両方を持てるというのに、なぜ必要もないのに貧しくし、ひとつしか持たないのか? 

私はあなた達に、世界がかつて知った中でもっとも豊かなサニヤシンであって欲しい。 

世界は二種類の人々・・・愛の人と瞑想の人・・・を知ったが、世界は一度もその両方を一緒に試みたことはなかった。 

この統合は新しい人間をもたらすだろう。この種の探究者にとっては、マスターはまったく障害ではない。 

OSHO:The Razor’s Edge#23 より抜粋 

ゾルバ・・・・カザンザキス著の小説「ギリシャゾルバ」邦訳「その男ゾルバ」の主人公。映画にもなっています。 

*禅語の「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、生死岸頭に於いて大自在を得、六道四生の中に向かって、遊戯三昧ならん」に由来。