OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

40.嘘偽りなく在ること

<OSHOの講話より> 

質問:なぜ私は、あるがままの自分を受け容れるのが恐いのでしょう? 

誰もが同じ状況にある。誰もがあるがままの自分を受け容れることを恐れている。これが人類の全ての過去が、あらゆる子供、あらゆる人間を躾(しつけ)、条件づけて来た方法だ。 

その戦略は単純だが、きわめて危険だ。その戦略とは、あなたを非難し、あなたが常に自分以外の誰かになろうとするようにあなたに理想を与えることだ。 

キリスト教徒はイエスになろうとしており、仏教徒仏陀になろうとしている。そしてこれがあなた方を自分から引き離すあまりにも賢い手段である為に、そうしている人々自身がそのことに気づかない。 

エスが十字架の上で言ったこと、人類に対する彼の最後の言葉は、様々な意味でこの上もなく意味が深い・・・この文脈では特にそうだ。 

彼は、「父よ、この人達をお許しください。彼らは自分が何をしているのか知らないのです」と神に祈った。 

これはあらゆる父親とあらゆる母親、あらゆる教師とあらゆる聖職者、そしてあらゆる道徳家・・・文化、社会、文明を管理する人々、あらゆる個人を特定の鋳型にはめ込もうとする全ての人々・・・に当てはまる。 

恐らく、彼らもまた自分が何をしているのかを知らないのだ。多分彼らは、何もかもあなた達に良かれと思ってしているのだと思っているだろう。 

私はその人達の善意は疑わないが、その人達が無知であるということ、無意識な人々だということを、あなた方にどうしても気づいて欲しい。 

幼い子供は無意識な社会の手の内に生まれる。するとその無意識な社会は、もっとも肝心なひとつのこと・・・その子はその子自身の可能性を持っているということを、彼はイエスやクリシュナや仏陀になるべきなのではなく、彼自身にならなくてはならないのだという、ひとつのことを忘れて、その社会の理想に合わせてその子を鋳型にはめ込み始める。

自分自身になる為に成長するのでなければ、その子は生涯まったく惨めなままに留まるだろう。彼の人生はまさに地獄であり呪いとなって、しかも本人には何がいけないのかが分からないだろう。彼は最初の最初から間違った方向に向けられてしまったのだ。 

その子をその間違った方向に向けた人々こそ、その子から見れば自分を愛してくれていると思っている人々、自分の恩人だと思っている人達だ。実際は、その人達こそが彼の最大の敵だ。 

両親や教師や聖職者や社会の指導者達こそ、今もなおこの地上に生まれたあらゆる個人の最大の敵だ。意識することなく、彼らはあなたをあなた自身から引き離す。 

そしてあなたを引き離す為に、あなたはひとつのことを、つまりあなたはあるがままでは全く価値がない、生きる価値もない、何の役にも立たない存在だということを、完全に条件づけられなければならない。 

もちろん他人によって与えられた規則と決まりに従うなら、あなたは尊敬と敬意を受けることは出来る。あなたが何とか偽善者になれれば、社会の立派な市民になることだろう。

だがもしあなたが頑固に誠実で、正直で、真摯で、自分自身であろうとするなら、あなたはあらゆる人に非難されることになる。そして、あらゆる人から非難を受けるには、途方もない勇気が必要だ。 

自らに拠って立ち「私は自分以外の誰にもなるつもりはない。それが良かろうが悪かろうが、みんなに受け容れられまいが、褒められようが褒められまいが。ひとつだけ確かなことは、私は他の誰でもない自分自身にしかなれないということだ」と自分に宣言するには、鋼鉄の背骨を持った人間であることが必要だ。 

これには、人生に対する途方もなく革命的なアプローチが必要だ。もし個人が不幸というこの悪循環から外に出ようとするなら、誰にとってもこれこそが必要な、基本的な反逆だ。 

あなたは私に、「なぜ私はあるがままの自分を受け容れるのが恐いのでしょうか?」と尋ねている。 

それはあなたが誰によっても、あるがままのあなたとして受け容れられたことがないからだ。彼らは、あなたが自分を受け容れたらみんなに拒否されるという恐怖と懸念を生み出したのだ。 

これは、これまで存在したあらゆる社会とあらゆる文化の絶対条件なのだが、あなたが自分自身を受け容れて全員に拒否されるか、または自分を拒否して全社会と文化の尊敬と名誉を受けるか、そのどちらかだということだ。 

この選択は、本当に非常に難しい。当然、大衆は尊敬の方を選択することになるが、尊敬と共にあらゆる不安と苦悶と無意味さと人生の砂漠がやって来る。 

そこでは何ひとつ成長せず、何ひとつみずみずしいものはなく、かつてどんな花も咲いたことがなく、そこであなたが歩いて、歩いて、歩いても、決してどんなオアシスにも辿り着くことはない。 

レフ・トルストイのことを思い出した。彼は、様々な精神分析学派がほとんど1世紀もの間、解釈して来たある夢を見続けた。その夢は非常に不思議な夢だった・・・もっとも、私にとってはそうではないが。私に言わせれば、それには精神分析など必要ない。単純な常識でたくさんだ。 

その夢は何年もの間、毎夜繰り返された。それは不思議な悪夢で、その夢に何も危険などないにもかかわらず、トルストイは毎夜汗をかいて目を覚ました。 

だがあなた方に、その夢の無意味さが理解出来たら・・・それこそが問題だった、それが悪夢になったのだ。その夢はほとんど、あらゆる人の人生を代表している。 

どの精神分析学派も、これがどういう夢なのか明確には出来なかった・・・似たような夢が存在しないからだ。それは前例のない夢だった。 

その夢は毎夜同じだった。広大な砂漠、見渡す限り砂漠に次ぐ砂漠・・・そしてふたつのブーツが・・・これをトルストイは自分の物だと認めたのだが・・・歩き続ける。だが彼の姿はどこにもない・・・ただブーツだけが砂の中で足音を立て続ける。 

そしてそれが続く、その砂漠に終わりがないからだ。そのブーツは決してどこにも至らない。後方を見れば何マイルもそのブーツの跡が見えるし、前方にはそのブーツが歩き続けていくのが見える。 

普通なら、人はこれが悪夢だとは思わないだろう。だが少し仔細に考えてみたら・・・毎日、毎晩、どこにも至らないまったくの不毛な同じ夢を見るのだ。どこに向かっているというのでもなさそうだ・・・しかもブーツを履いている人間はいない、ブーツは空っぽだ。 

彼は当時のロシアにおける有名な心理学者には全て診てもらった。それが何を意味するのか、明確に出来た者は1人もいなかった。これに少しでも似ていると言えるような夢を説明している本がないからだ。これは完全にユニークだ。 

だが私にとっては、精神分析など問題にならない。それは、あらゆる人間の生を表している単純な夢だ。 

あなたが砂漠の中を歩いているのは、自分の存在の中に内在している目的地に向かって、あなたが歩いていないからだ。あなたはどこにも至ることはない。遠くへ進めば進むほど、それだけあなたは自分から離れることになる。 

そして、あなたが意味を求めれば求めるほど・・・全くの空虚以外、何も見つからない。それがその意味だ。その人がいないということ、ブーツだけが歩いているということの。

あなたは、あなたがしていることの中にいない。あなたは、あなたの在り方の中にいない。あなたは、あなたが装っているものの中にいない。それは完全な空虚、純粋な偽善だ。 

だが、それをそうしたのは単純な方法だ。誰にでも、そのままのお前では全く存在する価値もない、と言えばいいのだ。 

そのままでは、お前は単なる見苦しい事故に過ぎない。在りのままの自分を、お前は恥じるべきだ。なにしろ、そのままのお前には、名誉にも尊敬にも値するところなど何もないのだから、と。 

当然、あらゆる子供は尊敬されると思われることをし始める。彼はますます偽物になり、ますます作り物になり、ますますその真摯な実在、彼自身の存在から離れていく・・・そして恐怖が湧き起こる。 

自分自身を知りたいという憧れを感じたらいつでも、ただちに大いなる恐怖が次にやって来る。その恐怖とは、もし自分自身を発見したら、自分に対する尊敬を失くしてしまうだろうという恐れだ・・・自分自身の目から見ても。 

あらゆる個人にとって、社会はあまりにも重い。社会があなたをあまりにも重く条件づけようとしてあらゆる努力をする為に、あなたは自分がその条件づけだと思い込み始め、自分自身の存在に逆らって社会の一部になってしまう。 

人はキリスト教徒になり、イスラム教徒になり、ヒンドゥ教徒になり、自分がどんな宗教も持たず、どんな政治も持たず、国籍も、人種も持たないただの人間として生まれて来たことをすっかり忘れる。 

あなたは、まさに純粋な成長の可能性として生まれて来たのだ。私に言わせるなら、サニヤスとは、結果が何であれ、その危険がどれほどのものであれ、あなたをあなた自身に連れ戻すということだ。あなたは自分に戻らなければならない。 

あなたはそこに、イエスを発見することはないかもしれない。そんな必要はない。イエスは1人でたくさんだ。あなたはゴータマ・ブッダを見つけることはないかもしれない。それで全く申し分ない。存在の中にゴータマ・ブッダがたくさんいたところで退屈なだけだ。 

存在は同じ人を繰り返すことを望まない。それはあまりにも創造的である為に、あらゆる個人の中に常に何か新しいもの、新しい潜在能力、新しい可能性、新しい高み、新しい位相、新しい絶頂をもたらすのだ。 

サニヤスとは、全社会と全文化と全文明に対する反逆だ。その理由は単純で、それらが個人に対立するからだ。 

私は絶対的に、個人に味方する。私はあらゆる社会とあらゆる宗教とあらゆる文化を、人類の全歴史を、たったひとりの個人の為に犠牲にすることが出来る。個人こそがもっとも価値のある現象だ。個人は存在の一部だからだ。 

あなたは恐怖を捨てることが必要になるだろう。それはあなたに押し付けられたもので、自然なものではない。 

あらゆる幼い子供を見てごらん。彼は完全に自分を受け容れている。そこには非難もなく、他の誰かになりたいという欲望もない。だが成長するにつれて、誰もが心をそらされてしまう。 

あなたは自分に戻る勇気を持たなくてはならない。全社会があなたの邪魔をするだろう。あなたは非難されるだろう。 

だが一生惨めなまま偽物になり、偽りになって他の誰かの人生を生きるくらいなら、全世界から非難された方がはるかにましだ。 

あなたは至福の人生を送ることが出来る。そしてそこにはふたつの道はない、ひとつの道しかない。それは自分が誰であれ、ただ自分自身でなければならないということだ。 

そこから、自分自身を深く受け容れることと、自分自身への尊敬から、あなたは成長し始める。 

あなたは自分自身の・・・キリスト教徒でもない、仏教徒でもない、イスラム教徒でもない・・・全くあなた自身の、存在に対する新しい貢献という自分の花をもたらすことだろう。

 

だが、ハイウエーを走る全群衆から離れて、独りで道を行くには途方もない勇気が必要だ。群衆の中にいれば人は心地よく、温かく感じる。独りで進むのは、当然恐ろしい。 

マインドは、全人類が間違うことなどあり得ないと疑い、自分が独りで進んで行くことに疑問を抱き続ける。それならむしろ群衆の一部になった方がいい、そうすれば間違った時に自分には責任がなくなる、と。 

誰もが責任を持っている。だが群衆を離れた途端に、あなたは自分の手に責任を受け取る。何かがまずくいったら、自分に責任がある。 

だが、ひとつ非常に基本的なことを覚えておきなさい。それは責任とはコインの片側であり、反対側が自由だということだ。その両方を持つことも出来るし、あるいはその両方を捨てることも出来る。 

責任を持ちたくなかったら、自由を持つことは出来ない。また自由なしには成長は存在しない。 

だからあなたは、自分で責任を受け容れなければならない。成長する為には、あなたは絶対の自由の中で生きなくてはならない。自分が如何なる存在であろうとも。 

あなたは薔薇の木になるかも知れず、マリーゴールドの花になるのかも知れず、名もないただの野の花になるのかも知れない。 

だが、ひとつだけは確かだ。自分が何であると分かったにせよ、あなたはこの上もなく幸せになるということだ。あなたは完全な至福に満たされるだろう。 

尊敬は受けないかもしれない。それどころかみんなに非難されるかもしれない。だが深い内面では、自由な個人だけが感じることが出来る、陶酔的な喜びを感じることだろう。 

そして、自由な個人だけが意識のより高い層に成長することが出来、ヒマラヤの絶頂の高みにまで達することが出来るのだ。 

社会はあらゆる人を知恵遅れに押しとどめ、あらゆる人を愚か者にしてしまった。社会は白痴を必要としている。社会はまわりに知性ある人々がいることを望んでいない。 

社会が知性を恐れるのは、知性が隷属に対して、迷信に対して、あらゆる種類の搾取に対して、あらゆる種類の愚劣さに対して、民族、国家、階級、肌の色に関するあらゆる差別に対して、常に反逆するからだ。知性は絶えず反逆する。白痴だけが常に従順だ・・・ 

・・・人々は絶えず自分を他人と比較する。彼らは比較ゆえに幸福になり、不幸になる。

私はある非常に有名なヒンドゥ教の聖者と会見していた。彼は、私と彼の間に交わされる言葉を聞く為にそこに集まった何人かの人達に、 

「幸せの秘訣は、常に不幸せな人を見ることだ。体の不自由な人を見れば、あなたは自分が不具ではないことに幸せを感じる。目が見えない人を見れば、自分が盲人でないことを幸せに思う。貧しい人を見れば、自分が貧しくないことを幸せだと感じる」と言った。 

私はその白痴を遮らざるを得なかった。私は言った。 

「あなたは単純な事実を理解していない。人がいったん比較を始めたら、不幸な人との比較だけに留めることは出来ない。彼は自分より金持ちな人間も、自分よりも美しい人間も、自分より強い人間も、自分より尊敬されている人間も見ることになる。そうなれば彼は不幸になる。 

あなたは幸福の秘訣を与えていない。あなたは完全に、不幸になる為の秘訣を与えている」と。 

だが、これが時代を通じて教えられて来た・・・言葉こそ違え、その秘訣のエッセンスは同じだ・・・ほとんどあらゆる宗教的聖典の中でこう言われている。 

あんなに不幸な人達がいるのだから満足しなさい。自分がそれほど不幸ではないことを、神に感謝しなさいと。 

だが、これは一方だけに留まることは出来ない。いったん比較ということを覚えたら、自分より劣った人とだけ自分を比較することは出来ない。不可避的に、自分より優れた人とも比較せざるを得ない・・・すると、この上もない不幸がやって来る。 

比較とは、実際にはするべき正しいことではない。あなたはあなた自身だ。そして、あなたが自分と比較出来るような人は誰もいない。あなたは比較不可能な存在だ。その相手の人もそうだ。決して比較してはいけない。 

比較は、自分を通俗的なものに繋ぎ止める原因のひとつだ。なぜなら比較は競争を生み、比較は野心を生み出すからだ。それはひとりでにはやって来ない、あらゆる仲間を引き連れて来る。 

だからいったん競争を始めたら、それに終わりはない。競争が終わる前に、あなたの方が終わってしまう。いったん野心的になったら、あなたは自分の人生でもっとも愚かな道を選んだことになる。 

ある時、ヘンリー・フォードが尋ねられた・・・どうやら彼は、今世紀におけるもっとも賢い人間のひとりらしい。彼の小さなステートメントにはそれほどの意味がある。 

彼は、「歴史は駄法螺(だぼら)だ」と言った最初の人間だったが、それはまさに真実だ。 

彼は、「あなたの成功に満ちた人生を通じて、何を学ばれましたか?」と尋ねられた。彼は考えられる限りもっとも成功した人間のひとりだった。貧困から身を起こし、世界最大の金持ちになった・・・だから彼の言葉こそ、記憶されるべきだ。 

ヘンリー・フォードは言った。「私の成功した人生すべてを通じて、私はひとつのことしか学ばなかった。私は階段を登ることを、梯子を登ることを学んだ。すると、梯子の最後の段に到達すると、私はひどく愚かしい途方に暮れた感じになった。 

なぜなら、もうその先に行くべき所がなかったからだ。私は、自分の後ろで同じ梯子の一番上をめがけて懸命に奮闘している人達に、なぜ自分が愚かしい気分を感じているのかを言うことは出来ない。何の為に私は奮闘して来たというのか?・・・ 

もし私が彼らに『どこにいるにせよ、そこで止まりなさい。時間を浪費することはない・・・なにしろ何もないのだから。一番上に辿り着いたら行き詰ってしまう。 

降りる訳にはいかない、それではまるで後戻りに見える。前に進むことも出来ない。前方には何もないのだから』と彼らに言ったとしても、誰も私の言うことなど聞かないだろう」 

各国の大統領、首相といった人達は、まさに行き詰っている。今となっては、起こり得ることはひとつしかないことを、彼らは知っている。それは墜落することだ。 

もう登るべき階段はない。今、自分がいるところから落ちる以外、行くべき所はない。だから彼らは自分の椅子にしがみつくのだ。だが、これは正しい生き方ではない。 

最初は人々と共に苦闘しながら、あなたは階段を上がり続ける。そして、最後にはそこで行き詰まり、そこにしがみついて、誰もあなたをそこから引きずり降ろせないように頑張る。 

これでは気違い病院ではないかね?人間はこの惑星を気違い病院にしてしまった。 

正気でいたければ、まずどんなやましさも持たずに、どんな非難もせずに、自分自身でいなさい。謙虚さを持って、そして素直に自分自身を受け容れるのだ。 

これは存在からの、あなたへの贈り物だ。感謝して、それから、あるがままの自分の成長を助けてくれるものを求め始めなさい・・・ 

他の誰かのカーボンコピーになるのではなく、ただ本来の自分でいられるように。 

自分の本来の顔であること以上に、大きな喜びはない。 

OSHO:Satyam,Shivam,Sundram より抜粋