OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

49.愛は全ての人を非凡な存在にする

<OSHOの講話より> 

質問:バクティのいくつかのセクトでは、より高い側面の愛についての瞑想を教えています・・・まず普通の人を愛し、それからグル(マスター)を愛し、そして神を愛しなさい・・・という教えです。この方法について何か語って頂けませんか? 


愛は方法ではない。これが他の全てのテクニックと、バクティの道、献身の道との違いだ。献身の道に方法はない。ヨガには方法がある。バクティにはない。 

愛は方法ではない。これを方法と名づけるのは間違っている。愛は自然に発生するものだ。愛はすでにあなたのハートの中に存在している。それは溢れ出ようとしている。 

たったひとつ必要なのは、ハートの中にある愛をそのまま認めることだ。あなたはあらゆるたぐいの邪魔や妨害を創り出している。あなたはそれをそのまま認められない。 

それはすでに存在している。あなたがほんのちょっとリラックスすればいい。そうすれば、愛はやって来る。それは溢れ、花開く。 

愛がひとりの平凡な人に向けて花咲く時、その平凡な人は非凡な存在となる。愛は全ての人を非凡な存在にしてしまう。これはひとつの錬金術だ。 

ひとりの平凡な女性は、あなたが愛すると、突然変容してしまう。彼女はもはや平凡ではなくなる。彼女は、この世に存在するもっとも非凡な女性だ。 

これは他の人達が言うように、あなたが恋で盲目になったからではない。実際、あなたは全ての平凡さの中に隠されている「非凡」を見ている。 

愛はたったひとつの目、たったひとつの見る力だ。たったひとつの確かさだ。あなたはひとりの平凡な女性の中に、女性の全てを、その過去、現在、未来を、あらゆる女性を合わせたものを見てしまっている。 

あなたがひとりの女性を愛している時、あなたは彼女の中に『女性なる魂』を見て取るだろう。突然、彼女は非凡になってしまう。愛は全ての人を非凡なものにしてしまう。 

あなたが自分の愛の中へと深く入っていくと、恐怖が湧き起こる。震えがあなたをつかんでしまう・・・それは、愛に深く入って行けば困難があるからだ。 

深く入れば自分を失ってしまう。それで愛の深みを避け始める。愛の深みはちょうど死のようなものだからだ。あなたは自分と愛する人との間に壁を創ってしまう。 

なぜなら、女性は底なしの穴のような存在だからだ。それに、彼女はあなたを吸い尽してしまうだろうから。あなたは女性から逃げてしまう。彼女に吸い尽くされてしまうかもしれない。それで恐怖がある。 

女性は子宮だ。底なしの穴だ。女性はあなたに生命を与えられる。それなら死はどうだろう?実際、生命を与えられるものだけが、死をも与えられる。だから恐怖が在る。 

女性は危険だ。とても神秘的だ。あなたは女性なしでは生きていけない。けれども、女性と一緒にも生きていけない。あなたは、女性からそれほど離れることは出来ない。 

何故なら離れれば離れるほど、突然あなたは平凡になってしまうからだ。しかし、そんなに近寄ることも出来ない。近づけば近づくほど、あなたが消えてしまうから。 

あらゆる恋愛には、こういった衝突がある。それで妥協が必要となる・・・そんなに遠くに離れることは出来ないし、近寄ることも出来ない。どこか中途で、自分のバランスを保ちながらたたずんでしまう。 

しかしそうなると、愛は深く進むことが出来ない。愛の深みに到達出来るのは、恐怖を全て落とし、後先なしにジャンプする時だけだ。 

ここには危険がある。危険が在るのは確かだ・・・愛はあなたのエゴを殺すのだから。愛はエゴにとっては毒物だ。愛はあなたにとっては「生」だ。けれども、エゴにとっては「死」だ。 

人にはジャンプが必要だ。もし相手に対する親しみが増し、相手にどんどん近づいて行き、女性の実存に溶けていくならば、彼女はただ非凡な存在となるだけではない。彼女は「神性なるもの」となるだろう。 

彼女は永遠への扉となるのだから。ひとりの女性に近づけば近づくほど、あなたは感じるだろう・・・彼女が、超越的なものの扉であることを。 

そして同じことが、女性が男性へと向かう時にも起こる。女性は女性で問題を抱えている。その問題とは、女性が男性に近づけば近づくほど、男性が逃げ始めるということだ。

女性が近づくほど男性は怖れる。近づけば近づくほど、男性は逃げ始める。彼女から離れる千とひとつの言い訳を探して・・・だから女性は待たなければならない。だが、待つとまた問題が生じてくる。 

女性がイニシアチブを取らなくなると、それは一見無関心のようだ。無関心は愛を殺しもする。無関心ほど、愛にとって危険なものはない。憎しみでもこれよりましだ。 

何故なら、少なくとも憎んでいる人とは、ある種の関係を持つことが出来るからだ。愛は憎しみの中でも生き延びることが出来る。しかし無関心の中ではだめだ。 

女性はいつも難しい状況にある。女性が自分で進んで何かをすると、男性は逃げ始めてしまう。進んで何かをする女性に耐えられる男性はいない。これは底なしの穴が、自分から近づいて来るようなものだ。手遅れにならないうちに、あなたは逃げ出す。 

それでドン・ファン達が生み出されたのだ。ひとりの女性から、またもうひとりの女性へと彼らは移動して行く。彼らは、行きあたりばったりの恋愛沙汰に生きている。 

もしひとりの女性のところに長くいることになれば、底無しの穴が、彼らを吸い尽してしまうからだ。彼らは、女性を愛する者のように思われている。彼らは絶え間なく、毎日新しい女性へと動いている。 

しかし、彼らは深い恐怖の中にある。何故なら、もしひとりの女性と長い間いれば、親密さが育まれるものだから・・・ドン・ファン達が女性ともっと近づいたら、何が起こるか誰も分からないだろう。それで彼らは、ほんの一時を女性と過ごす。そして手遅れにならないうちに、逃げ出してしまう。 

バイロンは、その短い生涯に何百人もの女性を愛した。彼は典型的なドン・ファンだった。彼は、決して愛を知ることがなかった。ひとりの女性からもうひとりの女性へ、そしてまた別の女性へと動いている時、あなたはどうやって愛を知ることが出来るかね? 

愛は熟すことが必要だ。落ち着くための時間が必要だ。愛には、親密さが必要だ。深い信頼、誠実さが必要だ。 

女性はいつも困っている・・・「何をしたらいいのかしら?」女性が率先してことを始めると、男性は逃げ出す。ところが女性が無関心なままだと、やはり男性は逃げ出す。彼女は興味がない、という理由で。 

それで彼女は中途の立場を選んでしまう。ほんの少し率先的で、ほんの少し無関心で・・・ふたつを混ぜ合わせてしまう。これはいい状態ではない。何故なら、こういった妥協は、あなたが成長するのを許さないからだ。 

妥協は、あなたが成長するのを決して許さない。妥協は計算高さ、ずる賢さだ。妥協は仕事上のものだ。愛のものではない。 

愛し合うふたりが本当にお互いを怖れず、エゴを落とすことをためらわない時、彼らはお互いの中へと飛び込むだろう。そして深く飛び込めば、ふたりは相手と一緒になってしまう。 

彼らは実際、ひとつになってしまう。このふたりの間の統合が起こる時、愛は祈りへと変容する。この統合が起こる時、突然、宗教的な質が愛を訪れる。 

初め、愛にはセックスの質がある。愛が浅いと、愛はセックスへと落ちてしまう。実際、これは愛ではない。 

愛がだんだん深くなるにつれて、愛はスピリチュアルな質、神性さを持つようになるだろう。愛はこの世界と彼岸、セックスとサマーディの掛け橋だ。 

それで、私は「セックスから超意識への旅」と名づけてきた。愛はまさに掛け橋だ。あなたが橋の上を進まなかったら、セックスがあなたの生、生全体になってしまう。それは平凡で醜い。 

セックスは美しくなり得る。しかし、それは愛と共にある時だけだ。愛の一部としてのセックスだ。セックスそれ自体だけでは醜い。それはこんなふうだ・・・ 

あなたの瞳は美しい。しかし、それを肉体から取り出したら、醜いものになってしまう。もっとも美しい瞳でさえも、肉体から切り離されれば醜くなる。 

こんなことがヴァン・ゴッホに起こった。彼は誰にも愛されなかった。彼の肉体はちっぽけで醜いものだったからだ。ある時、ひとりの娼婦がちょっと彼を喜ばそうとして、彼の耳を褒め讃えた・・・彼の肉体には、他に何も褒め讃えるものが見つからなかったので・・・本当に何もなかった。彼の肉体はたいへん醜かった。 

娼婦はこう言った。「あなたはとても美しい耳をお持ちね」 ゴッホは家に帰った。今まで、誰も彼の肉体について褒めてくれたことはなかった。誰も、自分の肉体を認めてくれなかった。これが初めてだった。 

ゴッホは興奮してわくわくした。それで自分の耳を切り落とした。そして娼婦のところへ戻って、耳をプレゼントした・・・今や、耳はまったく醜かった。 

セックスは、愛の一部だ。より大きな全体の一部だ。愛は、セックスに美しさを与えてくれる。さもなければ、セックスはもっとも醜い行いのひとつだろう。それで、人々は暗闇でセックスへと向かっていく。自分達でさえも、この夜の営みを見たいとは思っていない。 

動物達はみな昼間セックスを行う。人間だけが違う。夜、厄介なことをする動物はいない。夜は安らぎの為にある。動物たちは全て、昼間愛し合う。人間だけが夜愛し合う。愛の営みは少々醜いものだ、という恐れがある。 

女性は、決して目を開けて愛を交わさない。女性は、男性よりも美的感覚を持っているからだ。女性はポルノには興味がない。興味があるのは男性だけだ。 

それで、こんなにもたくさんの女性のヌード写真がある。男性だけが肉体を見ることに関心がある。女性にはない。女性にはもっと美的感覚がある。肉体は動物的だから。もし肉体が神性なものにならなければ、その中に見るものは何もない。 

愛は、セックスに新しい魂を与えてくれる。愛がある時、セックスはその形を変える。それは美しいものになる。もはやセックスではなくなる。それは何か、セックスを超えたものを持つようになるだろう。掛け橋となるだろう。 

セックスを満足させてくれるということで、あなたは人を愛することは出来る。これは愛ではない。取引だ・・・。 

愛しているという理由で、あなたは人とセックスをすることが出来る。そしてセックスは影のように愛の一部となって、愛の後を追っていくようになる。 

そうなると、セックスは美しい。もはや動物の世界のものではなくなる。何か「超えたもの」がその中に入ってしまっている。 

あなたがひとりの人を深く愛し続けていくと、だんだんセックスは消えていく。親密さが満ち溢れて来る。そうなると、セックスは必要なくなる。愛だけで充分だ。 

こういった瞬間がやって来ると、祈りがあなたを訪れるかもしれない。愛し合うふたりが、深い愛に在る時、ふたりは愛だけで満ち足りてしまう。そしてセックスは落ちてしまう。 

これはセックスを押さえてしまったからではない。ただ消えてしまった。セックスという言葉こそが、「分割」という意味の語源から来ている。愛は統合する。セックスは分割する。セックスは、隔たりの根本の原因となっている。 

男であれ、女であれ、ある人とセックスをしている時、セックスによってあなた達は統合されていると思うだろう。ほんの一瞬、それはあなたに統合の幻想を与えてくれる。 

しかしその後で突然、途方もない隔たりがやって来る。それでセックスの後にはいつも、欲求不満、憂鬱さが始まる。自分が、あまりにも愛する者からかけ離れていると感じる。セックスは隔てる。 

そして愛がより深く深く進むにつれて、より統合されるにつれて、セックスは必要なくなる。あなた達の内側のエネルギーが、セックスなしで出会えるようになる。あなた達は「ひとつの全体」に生きる。 

セックスが消えた愛し合うふたりを見ることがあるだろう。セックスが消えた時、ふたりにやって来た輝きを見ることがあるだろう。 

ひとつの魂の中の、ふたつの肉体として彼らは在る。魂が彼らを包み込んでいる。それは、ふたりの肉体のあらゆるところから輝きを放っている。

 

しかし、こういったことは滅多に起こらない。人々はセックスと共に終わる。一緒に住んでいると、たいていお互いに親近感が湧くものだ。たいていの場合は。けれども、愛は単なる親近感ではない。 

愛はふたつの魂の統合だ。ふたつのエネルギーが出会って、ひとつの全体となる。これが起こる時、そのとき初めて「祈り」が可能になる。 

「ひとつ」となったふたりは、あまりにも満ち足りて欠けたものがないので・・・感謝が湧き上がる。ふたりは祈りと共に、ハミングを歌い始める。 

愛はこの存在全体の中で、もっとも偉大なものだ。実際あらゆるものが、他のあらゆるものと共に、愛の中に在る。あなたが何か内側の頂点に達する時はいつでも、全てのものが他の全てのものを愛している、ということに気づくだろう。 

あなたが愛のようなものを見つけられない時でも、あなたは憎しみは感じられる。憎しみは、愛が誤った方向へ向かったものに他ならない。 

あなたは無関心を感じる。無関心は、愛がまだ溢れ出すまでの、勇気に欠けている状態に過ぎない。 

閉ざされた人を感じる時があるだろう。彼は、あまりにもたくさんの恐怖と不安を感じているに過ぎない。だから彼は、最初のステップを踏めずにいる。けれども、すべてが「愛」だ。 

動物が、別の動物へと飛びかかって食い尽す時でも・・・ライオンは鹿に飛びかかって、鹿を食べてしまうが・・・それは愛だ。これは暴力のように見えるだろう。あなたは知らないから。 

しかし、これは愛だ。その動物、ライオンは、鹿を自分の中へ吸収してしまう。もちろんとても荒々しい。とても粗野で原始的だ。動物的だ。それでも、それは愛だ。 

愛し合うものは、お互いを食い尽くしてしまう。お互いを吸収してしまう。動物は、とても粗野な方法でこれを行っている。それだけのことだ。 

存在全体が、愛の中に在る。木々は大地を愛している。大地は木々を愛している。そうでなかったら、どうやって彼らが一緒に存在出来るだろう?何によって、彼らは一緒にいられるのだろう?  
そこには共通の環があるはずだ。この環は、根が大地にあるということだけではない。もし大地が木を深く愛していなければ、根もその木を助けることは出来ない。目には見えない、深い愛が存在している。 

全存在が、全宇宙が、愛の周りを回っている。愛はリタンバラだ。それで昨日、私はこう言ったのだ。真実と愛を足すと、リタンバラとなる。真実だけではあまりにも乾いてしまっている。 

もしこのことが理解出来れば・・・今はただ、頭で理解出来るだけだろう。が、記憶の中に留めておきなさい。いつの日か、これがあなたの実存での経験となるだろう。敵対している者たちは、お互いを愛している。そうでなかったら、どうしてそんなに厄介をかけ合うのかね?  

「神はいない」と言っている者さえも、神を愛している。彼は絶えず「神はいない」と言っている。彼は取り憑かれている。神に魅せられてしまっている。さもなければ、どうしてそんなに神の邪魔をするのかね。 

無神論者は生涯ずっと、神がいないことを証かそうとしている。彼はそれほどまでにも神の愛の中にある。それほどまでも神を恐れている。時が来れば、彼の実存には途方もない変容が起こるだろう。それで恐れている。 

彼は証かし続ける。「神はいない」・・・こうやって努力している時、無神論者は、神が自分を呼んでいるという深い怖れを表してしまっている。そしてもし神がいれば、彼は今のままではいられなくなる。 

これはちょうど目を閉じたり半分閉じたりして、通りを歩いている僧侶のようなものだ。僧侶は女性を見ないようにしている。彼は自分にこう言い聞かせ続ける。「女性なんて存在しない。すべてがマーヤ、幻想だ。ただ夢のようなものだ・・・」 

それなら何故、ただ夢のようだと言い続けるのだろう?何故、この愛すべきものが存在しないなどと証そうとするのだろうか?何故なら、そうしなければ僧院は消えてしまうだろう。僧侶という階級も、消えてしまうだろう。僧侶たちの人生の、全てのパターンが粉々になってしまう。 

全てが愛だ。愛が全てだ・・・もっとも粗野なものから、もっとも超えたものまで。岩から神に至るまで・・・愛だ。たくさんの層、たくさんの段階、程度がある。しかし、愛だ。 

あなたがひとりの女性を愛することが出来れば、あなたは、マスターを愛することも出来るだろう。マスターを愛することが出来れば、神を愛することも可能となる。 

女性を愛すると、その肉体を愛することになる。肉体は美しい。肉体には何も問題はない。それはまさに、ひとつの奇跡だ。ともかく、あなたが愛することが出来れば、愛は成長する。 

インドの偉大な帰依者、ラーマヌジャが、たまたまある街を通りかかった時のことだった。ひとりの男がやって来た。その男は、きっとごく普通の意味での宗教に魅せられたタイプだったのだろう。苦行者タイプ、愛することなしに生きようとしている男だったのだ。 

今まで、愛なしに成功した者はいないし、これからもいないだろう。何故なら愛は、生と存在の、根本のエネルギーだからだ。愛に背を向けて成功出来る者はいない。 

その男はラーマヌジャに尋ねた。「私はあなた様に帰依したいのですが、どうやったら神を見つけることが出来るのでしょう?弟子として受け入れて頂けますか?」 

・・・ラーマヌジャはその男を見つめた。ある男が愛に背を向けている時は、あなたにも分かるだろう。彼は死んだ岩のようだった。まったく乾いてしまっている。ハートがない。 

ラーマヌジャはこう言った。「まず、いくつか教えてくれるかね。おまえは今までに誰かを愛したことがあるかね?」これはその男にはショックだった。ラーマヌジャのような人が、愛について語るなんて。そんな当たり前の、世俗的なことを語るなんて。 

彼はこう言った。「あなたは何をおっしゃるんですか?私は宗教的な人間です。私は誰のことも一度も愛したことはありません」 

ラーマヌジャはなおもこう言った。「目を閉じてちょっと思い浮かべてごらん。おまえは愛を悪く言うけれども、もしかしたら愛したことがあるかもしれない。実際に愛したことはなくても、空想の中で愛したかもしれない」 

男はこう答えた。「愛は絶対によくありません。愛はマーヤ、幻想の全てのパターンだからです。わたしはこの世から抜け出したいのです。愛は人々が、この世から抜け出せない理由じゃないですか。一度も愛したことはありません。空想の中でも!」 

それでもラーマヌジャはこう尋ねた。「ちょっと自分の内側を見てごらん。ときどき夢の中に、愛しているものが現れたかもしれないからね」 

男は言った。「それで私はあまり眠らないのです。けれども私は、愛を教わる為にここへやって来たのではありません。私はここに、祈りを教わる為にやって来たのです」 

ラーマヌジャは悲し気にこう答えた。「私はおまえを助けることは出来ない。愛を知らない男が、どうやって祈りを知ることが出来るかね?」 

何故なら、祈りはもっとも洗練された愛、本質的な愛だからだ。まるで肉体が消えて、愛のスピリットだけが残っているかのように・・・ランプはすでにないのに、炎だけがともされている・・・花は大地に消えてしまっても、その芳しさがあたりに漂っている・・・それが祈りだ。 

セックスは、愛の肉体だ。愛は、そのスピリットだ。そして愛が祈りの肉体となると、祈りはそのスピリットとなる。 

あなたはひとつの中心の周りに、円をいくつか描くことが出来るだろう。まず始めの円はセックスだ。ふたつめが愛、そして三つめが・・・これが中心となるが・・・祈りだ。 

セックスを通して、あなたは相手の肉体を見つける。そして相手の肉体を見つけることによって、あなたは自分自身の肉体を見つけるのだ。誰かとセクシュアルな関係に入ったことがない人には、自分自身の身体の感覚がない。 

何故なら、誰があなたにこの感覚を与えてくれるのだろう?誰もあなたを、愛に満ちた手で触れてくれたことがない、誰も可愛がってくれたことがない。誰もあなたを抱き締めてくれない。 

そうだとしたら、どうやってあなたは自分の肉体を感じられるだろう?あなたは幽霊のようにいるだけだ。あなたの肉体がいつ終わり、次の肉体がいつ始まるのか、あなたには分からない。 

愛に満ちた抱擁の中で初めて、肉体は形を得る。あなたの愛する人が、肉体の形をあなたに与えてくれる。彼女があなたを形造るのだ。彼女があなたの周りを囲んで、あなたの肉体がどんなものなのかを示してくれる。 

愛する人がいなければ、あなたは自分がどんなタイプの肉体なのか分からない。あなたの肉体の砂漠の中には、どこにオアシスがあるのか、どこに花は咲いているのか、そしてあなたの肉体の中で、どこが一番生き生きしていて、どこが死んでしまっているのか、あなたには分からない。 
あなたは自分の肉体を知らないままだ。誰があなたと、あなたの肉体を近づけてくれるのだろう?実際、あなたが恋に落ち、誰かがあなたの肉体を愛してくれる時に初めて、あなたは自分の肉体に気づくだろう。自分が肉体を持っていることに気づくのだ。 

愛する者達は、お互いに助け合って自分の肉体を知る。セックスは、あなたが相手の肉体を理解するのを手助けしてくれる。そして相手を通して、あなたは自分自身の肉体を感じ、その形をはっきり捕らえる。セックスによって、あなたは具現化され、肉体に根ざすようになる。 

そして愛によって、あなたはあなた自身を感じる。魂、スピリット、アートマという、ふたつめの円だ。 

その後で、祈りがあなたを助けてくれる。無我、ブラーフマ、神を感じるようになる。これは三つめの段階だ。セックスから愛へ、愛から祈りへ、というように。 

そして愛には、いろいろな次元がある。エネルギー全体が愛ならば、それはいろいろな次元へと進むものだからだ。 

あなたがひとりの女性、男性を愛する・・・あなたは、あなたの肉体を味わう。 

あなたは、マスターを愛する。そうすると今度は、あなたはあなたの自我、実存を味わうようになる。 

この経験を通して突然、あなたは「全体」と恋に落ちる。そしてあなたは、全ての存在の内側に在る、核へと行き当たるのだ。 

キリストは正しかった。「神は愛なり」・・・何故なら、愛はエネルギーだからだ。星や雲を動かすエネルギーだ。種子を芽吹かせ、鳥たちに歌わせるエネルギーだ。 

そして、あなたをここに存在させるエネルギーだ。愛はもっとも不思議な現象だ。リタンバラだ。 

Yoga:The Alpha and the Omega Vol.3   
(OSHOタイムス日本語版、39号、1992年5月1日発行より)